第九十三話:どうしようもない彼は、天使から期待の視線を向けられる
それから。
その場を支配していた闇の靄のようなものは。
きっとのっちゃん本人にも予想だにしない行動、一撃によってあっという間に霧散していきました。
勢いのままにやってしまった事に、どこか呆然として立ち尽くすのっちゃんの手には、心なしか闇色が増して大きくなった気がしなくもない黒い輪が握られています。
光すら飲み込んでしまうというブラックホールの色を模しているのでしょうか。
たった一度、のっちゃんが振り下ろしただけでその翼ごと吸い込まれていくのが一瞬見えたのは、きっと気のせいではなかったのでしょう。
「……っ、ん? わ、私は……どうしてっ」
天使にしてこの学校の一番偉い人らしい女性が、思っていたより幼い声を上げ、はっとなって起き上がります。
どうして、どうやってあの黒い靄……災厄の素といってもいいものから逃れる事ができたのか。
きっと誰よりもその『パーフェクト・クライム』と呼ばれる災厄のことを知っているはずの彼女にしてみれば、急に体が軽くなったかのような……ある意味喪失感に近い災厄からの解放に戸惑いを隠せないのは当然の事なのかもしれません。
「鳥海理事長、大丈夫ですかっ?」
「……あ、ええと。あなたは? ここの生徒じゃないわよね?」
「あ、はい。わたしはきっ……いえ、しがない能力者の一人です。今日はその、災厄の気配を感じやってきた次第でっ」
よっし~さん自身は天使さんの事をある程度は知っていたようでしたが。
天使さんの反応を見ていると、それが一方的なものであった……と言うより、思っていた以上に過去に戻ってきてしまったことの弊害があったのでしょう。
『喜望』所属の能力者のひとり。
恐らくよっし~さんはそう言いたかったのでしょうが。
もしかしたら、この時代によっし~さんはまだいないか、能力者の一人として独り立ちする年齢に達していない可能性に気づいて、慌てて誤魔化すようにしてしどろもどろにそんな事を口にします。
「災厄……そうよっ! 『完なるもの』はっ!? ま、まさかあなたに伝染ってしまったと……っ!?」
「え? あっと、それは私じゃなくて……っ」
それにより、改めて天使さんは自身の翼ごと彼女をずっと蝕み続けていただろう、闇そのものが跡形も無くなくなっていることに気づいたようで。
そんな重しめいたものが無くなる理由など、誰かに伝染ってしまった以外には考えられないとばかりによっし~さんを見つめますが。
お互いその背後にいる、まさにいつの間にやら、急に現れた人物に二人して釘付けになっているのがわかります。
「うおっ!? なんだぁっ。急に人が現れたぞっ」
「え、なんでこのタイミングでっ? あ、でもあれはっ……」
当然そこにいるのは張本人であるのに今更気づいてもらったのっちゃん……ではなく。
ちょうどのっちゃんにかぶさるようにしてルプレが言う通りいきなり現れたのは。
ついさっきまで見ていたような気がしなくもない、牛乳瓶の底のような面白メガネをかけた、のっちゃんと同じくらいにも見えなくもない青年でした。
同じく驚いていたマナでしたが、しかしすぐにその青年がいきなり現れた理由に気がついたようです。
手持ち無沙汰に黒い輪を回しているのっちゃんと一緒に背中越しに見たら、向こう側にいたよっし~さんたちが何とはなしに透けて見えたので、マインにもすぐ分かったわけですが。
何故か現れた瞬間から、アイドルスターのような笑顔を浮かべたままの青年に足元には、いつの間にそこに移動したのかシャーさんがいて。
何やら青い頭をかしゃっと開いて、上方向……青年を光で照らしているではありませんか。
いや、青年を照らしているというより、その青年そのものがその光なのでしょう。
恐らく、ホログラムめいたもので出来ているのだと思われます。
マナが察して気を使って口を噤んだのと同じように、のっちゃんとともにマインもシャーさんがこの場を切り抜ける手筈なのだと理解し黙って見守っていると。
意外とカッコいい感じの見た目に反して、結局今までのシャーさんと変わらない調子と口調で語り始めます。
「やぁや、鳥海理事長、お久しぶりでやんすねーっ。前々から伝えていた『パーフェクト・クライム』の対処法が見つかったでやんすよ」
「ノリ君? そう、あなただったのね。滅する方法以外を見つけてくるって聞いた時は正直あまり期待してなかったけれど……」
「十二分に期待してくれていいでやんすよ。これでも試行錯誤をすり切れるほど繰り返した結果でやんすからね」
いきなりの笑顔に違和感があったのは最初だけで。
気軽そうなわりに、どこか退廃的でニヒルな様子すら醸し出し、ドヤ顔を浮かべてみせるシャーさんの、恐らく真実の姿。
どうやら、よっし~さんは覚えがなくとも、シャーさんとは知り合いのようで。
それどころか、こうなることを予想していたかのように、事前に何かしら天使さんともコンタクトを取って伝えてもいたようでした。
翼を失った喪失感に不安と焦りがあった天使さんも、気安い感じのシャーさんの様子に絆されたようで、余裕を取り戻しているのが分かります。
そうなってくると、シャーさんの言う期待していい結果を早速披露しなければ、といった流れになって。
当然のごとく、もはや幻影には見えない自然さで振り向いたのは、のっちゃん……正確にはその手に持つ黒い輪っかの方で。
「いろいろな世界、時代を駆け巡ってゲットした、あらゆるものを吸い込み保存する黒い輪。それは実のところ、ついになる白い輪があるのでやんすよ。当然その効果は真逆でやんすが……例えば取り込んだものをいくつかに分けて取り出す事も可能でやんす」
「つまり、『完なるもの』の受け皿となるものを増やすということ? 目からウロコではあるけれど、そんな簡単な事で」
「簡単、かどうかはご主人次第でやんすね。何せ真の意味で災厄を制するには、『愛』が必要なのでやんすから」
「……っ、そう。前言撤回するわ。確かにそれは私にはできなかった、考えもつかないことのようね」
見た目はどう見たって天使さんであるのに。
自分には無理だと自嘲しながらも期待のこもった目でのっちゃんを見てくるから。
のっちゃんでなくても何だかそのうまく表現できない圧みたいなものに、思わず逃げ出したくなる、だけどのっちゃんに抱えられて離れられないでいるマインがそこにいて……。
(第94話につづく)