第六話~虎穴に入らずんば~
―――暗く、冷たい。
『彼女』が『ここ』に放り込まれてどれくらいの時間が経っただろうか。
小さく風通しも悪い『ここ』を支配するのは『暴力』。『あの二人』は定期的に表れては満足に身動きができない『彼女』を嬲り者にし、心身ともに屈服させようとする。
しかし『彼女』は薬を盛られようと、心を責められようとも屈しなかった。『彼女』が心身ともに屈するとき、それは全てが無に帰する時だと知っているから。
この日も『彼女』を封じる戸の開く音が鳴り、また憂鬱な時間がやってきた。
だが、今日も耐えて見せる。必ず正しき道を継ぐ者が現れると信じて。
伏見城に入った家康は、早速武断派諸将との約束通り秀次事件に連座して罪を被った人々の名誉回復が実行されることになった。
秀次に罪ありとして彼とその一族を糾弾したとして福原直高らを減俸・転封処分とし、秀次の家老として連座し、隠居処分を受けた遠江国浜松城主・堀尾吉晴や大坂・伏見間の騒動の際に自分に与した島津義弘などに所領を加増、美濃国金山城主・森忠政を信濃国海津城主に加増転封するなどの処分を次々に下した。
しかし一方で、自らを包囲する糸が張り巡らされつつあることも気が付きつつあった・・・
伏見城の一室。家康の夫・鷹村聖一が自室として使用している一室で、彼は客人と相対していた。もとは敵の密偵だった娘・初芽である。二人とも、真剣で厳しい表情で向かい合っていた。
「どうしても、考えは変えないんだね」
「はい」
ここまで何度も話し合った。危険だと何度も説いた。しかし、彼女の意思は変わらなかった。
「私のもとの雇い主である大谷刑部は、もう私が死んだものと思っているはずです。彼は私を監視してましたから。捕らわれた時点で監視は私が処刑されたものと報告しているはず。大谷家に潜入するなら発覚するかもしれませんが、石田家ならば私の顔を知っている者はいないはず。徳川様の仮想的である石田殿の内情を調べるのに、使えるのではないでしょうか」
確かに徳川家では発覚してしまったとはいえ、彼女は腕利きの隠密。それまで徳川家では隠密部隊の頭は服部半蔵が務めていたが、彼女は数年前に亡くなってしまった。そういった意味でも、腕利きの隠密は欲しかった。
「徳川の御家に恩もありません。御家の為に、なんて武士様のように高尚なものでもないんです。これは復讐です。家族を殺され、人生をめちゃくちゃにされた女の」
―――聖一はそう語る彼女の目を見る事が出来なかった。幾多もの戦場で殺し合いをしてきた彼が思わずそむけてしまうほど、決意を込めた彼女の瞳が恐ろしかったのだ。
「・・・ならば、どうやって石田家に潜入する?」
「聞くところによりますと、石田様は武に秀でた方を多く募集しておられると聞きます。私は武芸にはそれなりに自信がありますので、男装して石田家中に潜入したいと思います」
彼女の意志は固く、覆す事が出来ないと感じた聖一は、連絡用に自身の配下の伊賀忍を付ける事を条件に許可を出した。一礼して出ていく彼女の背を聖一は成功してほしいような、失敗して無事に帰ってきてほしいような、複雑な気持ちで見送った。
幸か不幸か、初芽は『長谷川源三郎守知』という男性武士に名を変えて石田家に仕える事になった。佐和山城の初芽から次々と情報が入り、聖一はその対策に追われることになる。
「毛利に宇喜多、上杉に前田が敵に回れば少々厄介です。恐らく治部殿の構想では徳川討伐の総大将は加賀大納言様。加賀様が起てば、治部殿憎しの方々もこれに続く事でしょう」
聖一は手に入れた情報をまとめ、家康を始め重臣一同に報告を行っていた。井伊直政が顔を顰めて口を開いた。
「せめて加賀殿の御身柄だけでも奪還したいが」
「本当に大坂城におられるのかも分からないですから・・・大坂城で捕らわれて、他の場所で監禁されているかもしれませんし」
徳川家のみならず、本当に利家が大坂城詰めになったと思っている者はいないだろう。秀吉が幽閉されたと考える以上、利家も幽閉されたと考えるのが妥当であろう。
家臣たちでああだこうだと対策を練っていると、それまで黙って成り行きを見ていた家康が口を開いた。
「なら、探しに行けばいいじゃないですか」
『・・・は?』
一同がポカンと主君に視線を向けると、家康は懐から一通の書状を取り出した。
「奉行衆から私に大坂城入りを要請する書状が先ほど届いたのです。『太閤殿下御病床につき、内府殿に大坂城にて政務を執ってほしい』という内容だけれども・・・」
「十中八九、罠ですね。もしくは殿を監視下に置いておきたいという意図があるのか・・・」
奉行衆において主導的な立場であった三成がいない今こそ、事態打破の好機ではあった。
「罠かどうかはさておいて、奉行衆からのこの書状は大いに使えると思います。かといって、大坂城内の屋敷では殿の御身を守り切れるか分かりませんので、奉行衆には殿に相応しい居館を用意させましょう」
「相応しい居館?」
聖一はその居館の名を告げた。それは城主秀吉の居住する本丸の次に重要な郭――――
「西の丸です」
家康は奉行衆の要請に応じる形で大坂城に向かった。先発した聖一と井伊直政が長束正家と増田長盛に西の丸入りを通達すると、二人は案の定抵抗した。
「政務を預かる我らが殿が、西の丸入りをするのに何の不都合があるのでしょう?そもそも、大坂入りは奉行方の要請ではありませんか」
「し、しかし・・・西の丸は元は大和大納言様の居するところにござる。内府殿には大坂城内に屋敷もござるはず」
「大和大納言様はすでに亡くなり、西の丸の主は不在のはず。豊禅閤様ご一族も亡くなられた今、大老の首座たる者に相応しい場所が必要であろう。城内の屋敷では十全な警備も出来ぬ。各々方は我が殿を暗殺するために登城を促したのか!」
「滅相もない!」
徳川の重臣二人の押しの強さに奉行たちは押されっぱなしのまま、家康が軍勢を率いて西の丸入りするのを認めざるを得なかった。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず。私が西の丸に入る事で奉行衆も私を監視しやすくなったかもしれませんが、私も奉行衆を監視しやすくなりました」
西の丸から見える大坂城の本丸を睨み、家康はつぶやいた。
「もうこれ以上奉行衆の好きにはさせません。家康を潰しに来るならそれもよし。ですが、世の平穏を乱すことは許しません」