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第四十一話~ともに歩む未来~

大津を発した東軍は、京を経由して大坂城に戻った。大坂城本丸にて家康以下東軍の諸将は秀吉に拝謁し、彼女から東軍諸将は忠義者として称えられた。東西両軍の賞罰を一任された家康は、処刑された石田三成らの遺体を丁重に葬るように指示するとともに、鷹村聖一・本多忠勝・井伊直政らに命じて東軍諸将の論功行賞のための調査を行わせた。

「直政、毛利殿はどうしてる?」

「大坂屋敷に引きこもっております。今頃は殿に対して大津までの出陣をどう言い訳するか頭を悩ませている事でしょう」

直政はせせら笑った。彼女からすれば、輝元は家康と義姉弟の契りを結んでおきながらそれを裏切って西軍の総大将として家康に戦いを挑んできたのだ。許せるはずがない。

「大江広元以来の毛利家も、ここに絶えるか」

「吉川殿らの苦労も泡と消えましたな」

この時点で家康をはじめ徳川家首脳は、東軍に内通していた吉川広家も虚言を弄したとして輝元と同罪とし、毛利家一門をまとめて改易しようかと考えていた。しかし、吉川広家の必死の嘆願と親交のあった黒田長政の取り成しの甲斐もあり、安芸国広島百十二万石から史実通り長門国・周防国三十六万石に移された。後に降伏してくる上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石、常陸国の佐竹義宣は出羽国久保田二十万石にそれぞれ大幅に減封となった。

その他三成の近江国佐和山や自刃した長束正家の近江国水口、大谷吉継の越前国敦賀など統治者の死によって無主となった所領や、長宗我部盛親や越前・加賀国南部などの西軍に与した諸大名で改易処分を受けた者の所領がそれぞれ戦功のあった東軍諸将に分配された。西軍に内通し、家康率いる東軍本隊と秀忠隊の連絡を密かに遮断していた信濃国松本城主石川康長も徳川義利隊の前に降伏したものの、改易に処された。

加藤清正が肥後国北半国から南半国を治めていた小西行長分を加増されて肥後一国、山内一豊が遠江国掛川から土佐一国、池田輝政が三河国吉田から播磨国姫路に移されるなど概ね史実通りに加増移封される中、史実と異なる道をたどる三人がいた。甲斐国府中城主・浅野幸長と尾張国清州城主・福島正則、そして日向国佐土原城主・島津豊久である

幸長は史実通り東軍の主力として活躍したものの、福島正則は史実とは異なり、西軍として活動した。その為、正則は戦後処断も検討されたものの、秀吉たっての助命嘆願もあり、また積極的に敵対行為を行わなかったこともあり、さらに東軍諸将からも助命嘆願もあって死罪を取りやめて信濃国高井野に二万石が与えられた。この為、史実ならば彼に与えられるはずだった安芸・備後両国五十万石余りの所領が宙に浮いたのである。

そこで、代わって幸長がこれも史実通り四十三万石で広島城主となり、彼が戦後与えられていたはずであった紀伊国和歌山は、家康の娘である徳川頼将に与えられた。

史実で名高い『島津の退き口』で戦死した島津豊久は、佐土原から美作国鶴山城に移された。これは彼が本家の命に(意図的ではなかったとはいえ)背いてしまい、島津家に居辛いであろうことを家康が配慮して加増のうえで移封したのである。ちなみに彼は鶴山の地名を『津山』に改め、また幾度かの転封を繰り返しながらも続く豊久を祖とするこの家は『津山島津家』と呼ばれる。

家康の一門の中で最大の加増となったのは、義娘の結城秀康である。関東諸侯を率いて宇都宮に在陣し、上杉景勝及び向背定まらない佐竹義宣の監視と牽制を担った功績により、下総国結城十一万石から越前国北ノ庄六十七万石へ移された。彼女の子孫は後に松平の姓を下賜され、『越前松平家』と称される。長姉の秀忠とともに出陣し、関ヶ原では毛利勢の監視を果たし、松本城を攻略した次男の義利は尾張国清州五十五万石。母とともに関ヶ原に布陣した次女の頼将は、先述の通り紀伊国和歌山に五十万石。江戸城留守居だった三女の頼房は常陸国水戸二十五万石にそれぞれ封じられた。

そして松平忠吉。本来彼には尾張国が与えられ、その死後に尾張徳川家の祖である義利が亡き兄の旧領に入るはずであったが、兄・忠吉は健在である。忠吉は本来、関ヶ原の戦いで島津隊の決死の退却戦により負傷し、その傷が元で二十七歳の若さで亡くなった。

家康は初陣ながら宇喜多秀家の大軍と激戦を繰り広げた忠吉の武勇を買い、豊後国府内城主に封じた。豊後・日向両国内に合わせて約六十二万石を預かる彼の任務は、島津氏などの九州諸大名の監視である。同時に徳川姓を下賜され、彼の家は『豊州徳川家』として、尾州・紀州に並ぶ『徳川御三家』の筆頭として続くことになる。






東軍に属した大名の論功行賞及び西軍に属した大名の処分を終えた家康の西の丸を、秀吉が密かに訪れた。彼女は家康の功を改めて労うとともに、予てから練っていた構想を家康に披露した。豊臣秀吉が、徳川家康を征夷大将軍に推挙するというのである。

「今後、異人達が次々と我が国にやってくるはず。彼らの中には、我が国を害さんとしてやってくる者もいる。彼らに対処するために、この国は公と武が合わさらなければならない」

「太閤秀吉が宮中の手綱を握り、将軍家康が武門を統率する―――ねぇ、これって最強の布陣だと思うんだ」

今後、武家の所領や官位等は徳川家が握り、豊臣家は摂政を持ちまわる近衛・一条・二条・鷹司・九条の五摂家のひとつとして新たに加わり、朝廷内で主導的な働きをしていくことになる。豊臣家の所領は東軍諸大名に褒美として分配され、摂津・河内・和泉三ヶ国六十五万石になった。秀吉自身は大坂城を出て京都三本木に屋敷を築き、そこを自身の住まいとした。大坂城は城代として側近の大野治長が預かる事となった。

「しかし・・・征夷大将軍は源頼朝公、足利尊氏公が就任した、いわば天下人の座、武門の棟梁たる人物が就いてきた役職。この家康は関東の一大名にして、殿下の一家臣にございます。むしろ、殿下が将軍職に就任あそばせばよろしいのではないでしょうか」

家康の提案に、しかし秀吉は首を振った。

「此度の関ヶ原をはじめとした日ノ本諸国で行われた合戦は、ひとえにボクの家臣たちへの管理能力が欠如していたからだと思う。そのせいで三成をはじめ、多くの者が死に追いやられた。征夷大将軍に相応しい力量が無い者がその座に就いた後の不幸というのは、ボクも内府殿も嫌というほど知っているはず」

日本国が戦国乱世に突入した要因の一つが、足利家の将軍職を巡る争いであった。家臣を統率できず、姦計によって幽閉された自分では足利家の二の舞になると考えていた。

「公家の身分では武家を統率できないのは建武の新政を見れば明らか。ならば、声望高い武門の人間・・・つまり内府殿、貴女が将軍として武士たちを纏めてもらいたいんだ。関ヶ原で東軍の諸大名を率い、手足のように扱ったその器量を見込んで」






豊臣と徳川がともに天下を戴く『豊徳同盟』は、こうして結ばれた。太閤秀吉の推挙により、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に武家政権『江戸幕府』を開く。

徳川家当主は代々将軍職を世襲して武門の棟梁として君臨し、豊臣家は摂家のひとつとして他の五家とともに朝廷を主導した。

また秀吉は子の無い自身の後継ぎとして、先に一族もろとも処刑された甥の秀次の子の中で唯一生き延びていた子供を引き取って自身の養子とした。この養子は『秀頼』と名付けられ、秀吉の後継者として朝廷を主導していく。

史実では並び立たなかった両家は、似て異なる世界にてともに歩む未来を手にした―――


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