第二十二話~関東仕置~
松平忠吉率いる豊臣恩顧の諸大名を中核とした東軍主力が東海道を西に向かい、結城秀康率いる関東諸侯を中心とした対上杉守備隊を宇都宮に残した家康・秀忠親子は、江戸城に戻った。
会津の上杉に対しては秀康を置くことで江戸の守りは成った。問題は常陸国五十四万石の佐竹右京大夫義宣である。
「佐竹は三成とは昵懇の仲と聞きます。我々が江戸を離れて三成と決戦に及ぶにあたり、隙をついて江戸城に攻め込むとも限りません」
関東の大部分を治める徳川家にとって、目の上の瘤は北の上杉と東の佐竹の二大勢力である。両家とも武勇の家柄であり、徳川家には及ばないものの勢力も大きい。家康と秀忠が留守の間に江戸城を攻められれば、留守居の頼房では守りきる事は出来ず、前後を攻められれば秀康も持ちこたえられず、関東の徳川領は佐竹と上杉に蹂躙されるだろう。
「ならば佐竹と一戦を!」
「当主の右京大夫殿は西軍よりですが、父君や一門、重臣たちの多くが西軍に与する事に反対しており、佐竹殿も我らに付くか三成に付くか決めかねているそうです。いたずらに刺激して、態々西軍に奔らせることもないでしょう」
佐竹氏の家督はすでに義宣のものであり、当主としては西軍に味方して家康らの留守を突いて徳川領に侵攻するという方針を掲げていたが、当主義宣の父・佐竹義重が反対派の急先鋒として異を唱えているという。
「・・・いえ、ここは強気の一手で行きましょう。佐竹に使者を遣わし、我らに味方して上杉と戦うか、それとも三成に同心して我らと戦うか決断を迫りましょう」
常陸国五十四万石は手強い相手ではあるが、それでも徳川二百五十六万石とは大きな差がある。しかも相手は家康派と三成派とで割れているのだ。
「―――ふざけやがって!家康め、佐竹を舐めてんのか!」
徳川家からの使者の口上を受け取った佐竹家当主・佐竹右京大夫義宣は、使者が退出するまで堪えていた怒りを爆発させた。
栗色の髪を肩まで伸ばした、年若い女性である。勝気な印象の瞳を怒りに燃え上がらせ、今からでも退出させた使者を斬り殺しに行きかねないほどの怒りを爆発させていた。
「着座せよ、義宣。これは内府殿の挑発ぞ」
荒れ狂う義宣に冷ややかな声をかけたのは、隣に座っていた壮年の男性。先代当主で義宣の父である佐竹次郎義重である。
「これが落ち着いてられるか!あの使者を手討ちにして、首を送り返してやる!」
「ならば内府殿と干戈を交えるというのか?」
怒りに震える娘と淡々と言葉を紡ぐ父。言葉の応酬に、大広間は緊迫した空気が漂っていた。
「上杉と連動して動けば、江戸城を落として家康の首を挙げるなんて楽勝だろうが!」
「だからお前は短慮だというのだ。上杉が南下するとでも思っているのか」
「なんだと・・・?」
義重に促され、上座に座っていた佐竹一門・東家の佐竹山城守義久が懐から書状を取り出して読み上げた。
「宇都宮の結城少将殿より上杉家の動きについて書状がござりました。内府殿らが小山を離れた後、上杉勢は軍勢を山形と岩出山に向けつつあるとの事」
山形は最上家の、岩出山は伊達家とそれぞれ東軍大名の本拠地である。この動きを見るに、すでに上杉家は徳川家との決戦は避けていると踏んでもよい。また決戦をするつもりであっても、その優先順位はかなり下がっていると判断できる動きである。
しかし、それよりも問題視すべき事柄があった。
「・・・なぜ、それを俺に知らせなかった」
「北城(先代)様の御指示でござる。殿が御知りになれば、上杉に翻意させようとするであろうから、と。それがしも同意見でござった」
「佐竹の当主は俺だぞ!」
「その当主が御家を滅亡させようとするならば、わしは止めねばならん。家臣は諫言をせねばならん」
「滅亡だと・・・?」
佐竹氏は平安時代より続く源氏の名門であったが、平家方に与していたことから鎌倉幕府からの冷遇を受けた。室町時代になってからも常陸国の守護職を務めるなど活躍したが、不仲であった京の足利将軍家と鎌倉の鎌倉公方家の争いに度々巻き込まれ、佐竹氏も内部争いが起こり、それに伴って常陸国内でも争いが収まらずに佐竹氏の戦国大名化が遅れた一因にもなった。
そんな佐竹氏を常陸一国の大勢力に育て上げたのが父の義重である。隠居したとはいえその発言力はいまだに大きく、義宣も表立っては反論をできないのである。
「三成は内府殿を倒す為に大きな構想を描いているようだが、そのすべてがうまくいくとはわしは思わん」
石田三成が官僚として優秀であり、豊臣家への忠義が篤い男である事は、義重も認めるところではある。しかし軍事指揮官として、広い視野で物事を捉え、戦略を練る事については家康の右に出る者はこの日ノ本にはいないとも義重は考えていた。
結局家康からの通告に対して佐竹家は明確な答えを出さず、沈黙を保ったまま終戦を迎える事になる。
「ちくしょう・・・ちくしょう・・・」
評定後、義宣はひとり自室にこもり、悔し涙を流していた。父の義重は何も言わなかったが、父は察していたのであろう。
―――娘が三成に懸想していると。
(クソッたれ・・・全部父上の予想通りだよ!)
一目惚れだった。三成は決して容姿が優れている男というわけではない。言動も万人受けするものではなく、ともすれば彼を憎む人間もいる。
彼女が惹かれたのは、三成の豊臣家に対する忠義心。自分が泥をかぶってでも豊臣家を守るという気高き志・・・そのためには誰もが恐れる徳川家康にも立ち向かわんとするその危うさ。
(アイツを、守ってやりたいと思ったんだ・・・)
―――後々の話になるが、佐竹義宣は後世『秋田美人』の元になったともいわれる美女であったにも拘らず、生涯未婚で通した。
その理由は定かではないが、一説によれば彼女は三成を恋い慕っており、彼に対する操立てをしていたのではないかとも言われている。
しかしそれを裏付ける資料等は現在に至るまで発見されておらず、あくまで俗説のひとつに過ぎない。
上杉謙信と同じく、後に佐竹家に仕える渋江政光ら女性家臣を専ら相手として男性には興味を示さなかったためというのが有力である。




