第二十話~小山評定(中)~
徳川家康とその家臣たちは、運命の日の朝を迎えた。
家康は評定の為、従軍中の諸大名を招集。呼ばれた大名たちの表情は一様に硬い。規模の大小はさておいて、彼らも独自の情報網は持っており、上方の変事は把握している。大坂に置いている家族が敵方に捕らわれているとあっては心穏やかではいられないだろう。
彼らの動揺にさらに拍車をかけたのは、上方から送りつけられた家康に対する『弾劾状』である。彼ら大名の中には、いかにして上方に戻るか算段を立てている者もいた。
彼らも祖先より受け継いできた家と仕える家臣たちを守り、生き残るのに必死なのである。
諸大名を集めての評定は、家康の参謀である鷹村聖一による状況説明から始まった。
上方で石田三成が挙兵した事。
総大将は毛利輝元、副将は宇喜多秀家であり、二人は秀吉の命令を奉じているという事。
家康討伐の弾劾状の末尾に記されている秀吉の署名は間違いなく本物であること―――
また諸大名の妻子が人質に取られていることは間違いないという事は伝えたが、一部の大名の妻子は脱出に成功したことは伝えなかった。仮に無事を伝えてそれが誤報だった場合、こちら側が諸大名を味方に付けようとして偽りの情報を与えたと思われない為である。
状況説明が一通り終わった後、それまで沈黙していた家康が口を開いた。
「上方の状況につきましては、ただいま鷹村佐渡が明らかにした通りです。殿下の御下命が下った以上、この家康は逆賊となりました」
逆賊―――その二文字が重く、諸大名の肩にのしかかった。不安げな諸大名の視線を、しかししっかりと受け止めて彼女は言葉を紡ぐ。
「殿下を戴く者達はこの家康を乱の根本と断じ、各々方に私を討つよう方々に書状を出しております。しかし彼らが家康を討ったとて、天下は治まらず、再び天下が乱れると確信しております」
家康程の大勢力を倒すとなると、倒した方の損害も大きくなるのは明白である。豊臣家の力が衰えれば、よからぬ考えを持つ者が豊臣家を倒そうと乱を起こすことも十分考えられた。
「それは我が理想に反する事・・・亡き信長公や太閤殿下がお望みになっていたはずの泰平の世とは反する事です」
再びこの世を戦国乱世に突入させてなるものか―――
「たとえ殿下御自身が御出馬なさろうとも、家康は御政道を正す為、弓矢を以て御諫言を仕る覚悟です」
誰かの唾を呑む音が聞こえた。沈黙が場を支配した。家康はたった今、秀吉に、豊臣政権に反旗を翻すと明言したのである。
この場にいる自分たちはどうなる、家臣たちはどうなる―――表情を強張らせて頭の中で計算を繰り広げる諸大名を安心させるように、家康は表情を和らげた。
「―――とは申せ、各々方にそれを強いるは本意ならざる事」
「大坂方に大切な御家族が捕らわれ、その安否も定かならざる今この状況。各々方の心中の苦痛如何ばかりに候や。直ちに取って返し、上方にお味方されたい方は構いませぬ。どうぞ、陣を払ってお戻りなさいませ。それが人の子、人の親としての情。家康は少しも恨みには思いませぬ。無論、上方に戻る道すがらの安全は私の名において保証いたしましょう」
自分とて最愛の夫や子供たちが人質として捕らわれたならと考えれば―――弓を折り、鎧を解いて降伏し、彼らの命乞いをするかもしれない。この言葉には家康の本心も含まれていた。
そして最後。家康は帯びていた太刀を外し、床にそっと置いた。
「また上方が申される通り、家康を乱の根本と考えておられる方は・・・」
最後の一押しとなるか。それとも戦う前に敗北を喫するか。最大の賭けであった。
「今ここで家康の首を刎ねて頂いても結構です」
「左衛門大夫の心中明らかならず」
それは諸大名を集めての評定が行われる前夜の事。密かに家康のもとを訪れた黒田長政が苦渋の表情で報告してきた。かねてより家康に心を寄せていた長政に、『賤ヶ岳七本槍』の筆頭格である福島正則を説き伏せるよう密命を下していたのである。
勇猛果敢な正則に豊臣諸大名の心を家康に繋ぎとめ、場合によっては秀吉と干戈を交える事になった時に、彼らを引っ張る牽引車の役目を期待して幼馴染の長政に正則を説得させるよう仕向けていたのだが―――
「三成憎しの感情を焚き付けてもうわの空。情に訴えてもまるで効果なしの様子・・・」
「さては三成に何か吹き込まれましたか・・・」
佐和山城に潜入させている長谷川守知こと女忍びの初芽からも、三成と正則が何かしらのやり取りをしているという報告が上がってきている。
聖一が知る史実において、福島正則という男はこれから起こる『決戦』において最も奮闘した武将であった。来る『決戦』に向け、彼をどうしても味方に付けておきたかったのだが、どうやら長政の話ではどうやらすでに三成の調略を受けているようであった。
正則はあてにはならない。ならば、別の人物に牽引車になってもらう必要があった。
不気味な沈黙が続いた。
この場にいる人物たちが、全員金縛りにあったかのようにまったく身動きをしなかった。呼吸をする音さえ聞こえない。誰もが音を立てるのを拒否しているようであった。
聊か押しが強すぎたかもしれない。これは失敗か・・・と聖一が次の手を打とうとしたその時だった。
床几を蹴倒すほどの勢いで、ある人物が立ちあがった。
「内府殿!」
日向国佐土原城主・島津又七郎豊久は、島津宗家の密命を受けて会津征伐に従軍してきた。それは戦を長引かせ、国許の伯父と伯母が日向・肥後に攻め寄せる軍備を整える時間稼ぎをする事であった。
「某、無知無学の若輩にて難しい事は理解いたしかねます」
驚いた様子で自分を見つめる諸大名の間をズイズイと通り抜け、家康の前に立った。置かれていた家康の太刀を拾い上げ、流れるように刀を抜く。
「なので一つだけお尋ねいたす。先程の内府殿の御言葉に露ほどの嘘偽り、有りや無しや?」
家康は自身を見下ろし、刀を喉元に付き付けながら問い掛ける若武者の瞳を見返してよどみなく答えた。
偽りなど一つもない。疚しい所などありはせぬ。
「露ほどの偽りもございませぬ」
喉元に突き付けられた切っ先を握り、グイと自分に向けて引き寄せた。
―――すべては天下泰平の為。この若者一人を納得させる事が出来ぬ自分など、今ここで死んでしまえばいいとさえ思った。
島津は偉大だ。鎌倉の頃より続く南九州の名門。豊久はその誇りを胸に生きてきた。
母・家久、伯父・義久、伯母・義弘は世に隠れ無き名将だ。彼らの子として甥として生まれた事は、生まれながらにして幸運であったと常々考えていた。
この考えは今まで揺らいだことはなかったし、自分が死ぬまで揺らぐ事はないだろう。
伯父や伯母には何か深遠な考えがあり、自分がそれに口を挿む余地はないはずだ。
余計なことは考えず、ただ指示に従っていればよい―――
今まではそうだった。だが―――
(伯父上や伯母上ですら小さい(・・・)。この御仁の考えと思いの前では)
自分の行動で島津氏は不都合を被るかもしれない。だが、それは自分一人で責任を被ればいいだけの話。しかし、この場面で自分の考えを裏切れば、たとえ天下を取っても生涯後悔すると彼は考えた。
「この島津又七郎豊久が身命、内府殿にお預け致しとうございまする!」
刀を突き付けた無礼を詫び、刀を鞘に戻した豊久は諸将に向き直って口を開いた。
「内府殿は太閤殿下に従いて戦国の世を終わらせた功労者である事は誰しも知っております。その内府殿を殿下が何で討とうとなさいましょうや!各々方がたとえ敵となろうとも、この豊久は内府殿とともに戦いましょうぞ!」
豊久は家康を守るように立ち、諸大名を睥睨。言葉こそ発さないが「お前たちはどうなんだ」と視線で語りかけていた。
「・・・黒田長政、承知した」
「藤堂高虎、同心する」
最初に立ちあがったのは、二人の姫大名。豊前国中津城主・黒田甲斐守長政と伊予国今治城主・藤堂和泉守高虎である。二人が名乗り上げると、諸大名は続けて立ち上がった。
「池田輝政、承知」
「浅野幸長、同心仕る」
「加藤嘉明、内府殿に御味方致す」
「山内一豊、内府殿に掛川城を献上致さん」
「田中吉政の岡崎城も同じく―――」
我も我もと次々に諸大名が名乗りを上げていく。一通り終わると、黒田長政が着座している大名に向き直った。
「我らと志を異にされる方は、速やかに上方に御戻りになられよ。内府殿は一切咎めぬ。また我らも背後を襲うとは思わぬ」
長政の言葉がきっかけとなり、家康に同心出来ずにいた大名たちは一人、二人と立ち上がって退出していった。
「・・・御免」
最後まで腕組みをして黙り込んでいた福島正則も立ち上がり、去っていった。
―――泣きそうだった。
これほど多くの諸大名が、自分を支持してくれるとは。
―――泣きそうだった。
小賢しい策略を以て皆の心を縛り付けた自らの汚さにと豊久の純真さに。
しかし、もはや彼らとは一蓮托生。なんの憂いもなく三成と戦う事が出来る―――
泣くのはまだだ。感情を抑え込め。彼らを不安にするな―――
「各々方の御志。家康、ありがたく頂戴いたします」
家康は深々と頭を下げた。
ここに、家康が率いて決戦に臨む『東軍』が結成されたのである。




