第十三話~上杉征伐~
陸奥国若松城。
陸奥国南部・会津地方に築かれた要衝にして、東北と関東の抑えとして機能している堅城である。かつては蒲生氏郷が、その死後は上杉景勝といった名将が城主として着任し、岩出山の伊達政宗・関東の徳川家康の抑えを務めていた。
その上杉家の居城である若松城に上方からの密書が届いた。差出人は佐和山城で蟄居中の石田三成と大坂の奉行・大谷吉継で、内容はほとんど同じもの。
「太閤殿下の命を奉じ、謀反人の家康を討て、か。兼続、これをどう思う?」
五大老のひとり・上杉会津中納言景勝は、重臣の直江山城守兼続に書状を渡した。一読した兼続は「十中八九、偽書状でしょう」と答えた。
「その根拠は?」
「内府殿は太閤殿下の信頼厚き御方。石田殿も元より殿下の信厚き方ですが、大谷殿は違います。彼の御仁はそもそも石田殿の腹心。現在は敦賀五万石の大名ですが、これももともと石田殿のお口添えによるものにございました」
兼続は書状を丁寧に折りたたみながら話を続けた。
「いわば殿下にとって大谷殿はあまり信を置いておらぬ人物。なぜそのような人物が国政に関われるのかが不思議でなりませぬ。それ故、某としてはこの書状は信ずるに足りぬものと考えます」
そしてその書状をもとに仕舞いながら話をまとめた。
「しかし一番の問題は、一度は滅亡の危機に立たされながら、本能寺の変によって救われ、殿下に臣従し、身体で越後・佐渡から会津を勝ち取り、大老までになった我が殿の幸運がいつまで続くかという事ですな」
「待て!私は殿下に体を捧げてなどいない!そもそも殿下は私と同じ女だろう!」
「この幸運が尽きれば、上杉家は滅亡しかねませぬ」
「話を聞け!てゆーか、運だけで生きてきたのか、私!?」
軽く上杉家の存亡を語り合った後、肩で息をしている主君をよそに、兼続は口調を改めてつづけた。
「この書状の内容が真贋どちらにせよ、我らは受けざるを得ません」
「・・・というと?」
「御意。この書状に従えば、反旗を翻したとして我らは内府殿から征伐軍を差し向けられるでしょう。従わねば、主命に逆らったとして好まざる処分を下されかねませぬ」
「従っても従わずとも面白くない結果になるというわけか」
「ならば私は主命に従い、家康と戦う道を選ぼう」
脳裏に思い浮かぶのは、亡き養母の姿。戦に出れば百戦百勝、勇ましく凛々しき養母の姫武者姿は、景勝のあこがれの姿であった。
「私は先代に遠く及ばぬ不肖の者ではあるかもしれぬ。だが、戦わずして降るは上杉家の武名を汚すことに他ならず」
景勝は自分が先代(上杉謙信)に遠く及ばないことはとうに自覚していた。だが、敬愛していた養母以来の誇り高き上杉家の武名を汚される事だけは我慢がならなかった。
「上杉家ひとつで、天下の諸大名を敵として迎え討ち、滅亡するというのは武門の誉れに非ずや。これ以上ない冥土の土産と成らずや」
「御意にございます」
「兼続!戦支度を始めよ。新城を築き、武器を揃えよ。浪人どもを集めるべし!」
「ははっ」
立ち上がった景勝は、不敵な笑みを浮かべて宣言した。
「上杉家は会津の田舎大名なり。茶器集めに腐心する上方武士とは違うという事を思い知らせてやる!」
会津中納言上杉景勝の突然の軍備増強は、諸大名に緊張感をもたらした。家臣の津川城代・藤田能登守信吉ら一部の家臣たちは戦争を回避しようと景勝を諌めたが聞き入れられず、ついに彼らは景勝を見限って出奔。江戸で留守を預かる徳川秀忠のもとへと亡命した。
また越後の堀秀治から上杉家の軍備増強の報告を受けた家康は、ただちに景勝に弁明の為の上洛を命じるものの、景勝はこれを黙殺。家康は遅れて江戸から大坂に送られてきた藤田信吉の報告を受け、景勝の謀反を確信。会津征伐の陣触を発した。
「会津の攻め口は白河口・仙道口・信夫口・越後津川口・米沢口と五つあります。仙道口より佐竹右京大夫殿、信夫口より伊達越前守殿、越後津川口より前田肥前守殿、米沢口より最上山形侍従殿をそれぞれ担当とし、我ら本隊は白河口より攻め込みます」
大坂城西の丸にて、徳川家重臣たちの間で作戦会議が行われた。作戦参謀は例によって参謀鷹村聖一である。
「此度の戦は、先の加賀征伐とは比べ物にならぬ大戦。殿にも御出馬頂きたいと考えております」
「それでは、大坂が空になるじゃないか」
本多忠勝が口を挿むが、家康はそれを制した。
「百も承知です」
家康は皆を近くに呼び、声を潜めた。
「今回の会津征伐で、三成や大谷吉継と決着を付けます」
その一言に、一同の表情に緊張が走る。
「大坂を空にするのは百も承知。私が留守の間に上方にて兵を挙げ、我らを東西より挟み撃ちにするのが三成の魂胆でしょう」
「では―――」
「私はあえてそれに乗ります。この西の丸には佐野綱正を、伏見城には鳥居元忠を置き、最低限の守りだけ残して会津に向かい、三成の挙兵を誘います」
「し、しかしそれでは、三成めが大坂城を占拠した折、また殿下の命と称して殿の討伐命令を下しましょう。そうなれば、我らは賊軍ですぞ!」
直政の懸念は尤もである。事実、徳川家は秀吉の命と称した三成らによって討伐されかかった経緯もあった。
「対策をすでに考えてあります。出陣の前に私は天子様に拝謁し、上杉征伐を報告してまいります」
「天子様に!?」
「勅命を引き出し、上杉家を朝敵にしてほしいとまでは思っておりません。ただ、上杉征伐を天子様の知るところとし、何らかの肯定の御言葉を賜れば少なくとも三成が殿下の名を借りて徳川討伐の命を発しても、名分において対抗する事は出来ましょう」
―――こうして、五大老筆頭徳川家康より上杉征伐の陣触が諸大名へと発せられた。今回の征伐軍は、西は薩摩の島津氏から東は弘前の津軽氏まで参加する大規模なものとなった。
そして六月半ば、無数の葵紋の白旗と『厭離穢土欣求浄土』の旗印、そして金扇の大馬印が大坂の空に翻り、家康は諸大名を率いて大坂城を出陣。
馬上の人となった家康は、そびえたつ大坂城本丸を振り返った。
(待っていてください、殿下。必ずや貴女を救い出し、天下に平穏をもたらして見せます)
「殿?」
轡を取る小者が怪訝そうに声をかけると、「なんでもない」と言って再び前を向いた。
この日の約三ヶ月後、再び天下は大戦の炎に包まれるのであるが、この時はまだ、一握りの人間を除いてまだ誰も知らなかったのである。
「さぁ三成殿。憎き家康の背は開けておきましたよ?いつでも御出であそばしませ」
「とうとう家康めを大坂から引っ張り出せた!さぁ、いよいよ奴に鉄槌を下してくれん!」
静かに燃える家康と激しく闘志を燃やす三成。二人の激突の日は、近い―――