第十話~加賀征伐~
五大老首座・徳川家康より発せられた加賀征伐の命を受け、従軍する大名の軍勢は数万にも上った。前田家と縁戚である丹後国宮津城主の細川忠興は家康に征伐の中止を嘆願したが受け入れられず、謀反人に加担するのかと疑われたため、止む無く従軍する事となった。
「加賀攻めの軍勢は、いったん全軍を小松城に集めます。そこから手取川の上流と下流、そして海岸線をゆく三軍に分かれ、上流軍は野々市を、下流軍は松任を通って金沢へ―――」
征伐軍の作戦参謀である聖一は、家康の御前で重臣たちを相手に作戦概要の説明を行っていた。
「私は上流軍の指揮を執ります。下流は結城少将殿、海岸線の別動隊の指揮は細川越中殿―――」
聖一が指揮を執る上流軍は大和・伊賀・近江の諸大名、結城秀康が率いる下流軍は山城・摂津・丹波の諸大名、細川忠興の海岸線軍は丹後・若狭・越前の諸大名でそれぞれ編成された。
「越中殿は前田家と縁戚関係だが、寝返る恐れはないのか?」
「すでに越中殿から出陣前に『質』として御内室をお預かりする手筈になっています」
忠興の正室はキリシタンとしてだけではなく、大変な美女として名高かった。忠興は彼女を大変愛し―――いや、彼女に対する独占欲は常軌を逸しているといってもよく、自邸の植木の手入れをしていた職人が妻に見惚れたというだけでその職人を手討ちにしたという話もあるほどである。
夫人の名は『玉』。キリシタンとしての名は『ガラシャ』といった。
「なるほど。かの奥方様をお預かりするとなれば、細川殿が寝返る恐れは万一もないでしょうね」
忠興の妻に対する独占欲は諸大名の間でも知れ渡っている。その事を思い出した家康は苦笑した。
「奉行側は蟄居中の石田殿と老齢の前田殿以外は当主が出馬します。石田家は家老の島左近、前田家は御嫡男主膳殿が名代となられます」
島左近は『三成に過ぎたる者』として名高い侍大将、前田主膳茂勝はキリシタン武将として有名であった。
「敵軍の編成は」
「今のところ然したる動きはありません。七尾の御舎弟殿が堀殿の抑えに越中に差し向けられたぐらいでしょうか」
「征伐軍が向けられるにしてはやけに対応が鈍いな。先手を打って野々市や小松に侵出してもおかしくないはずだが―――」
本多忠勝が前田軍の動きの鈍さに疑問符を浮かべていると、同席していた井伊直政がジロリと聖一を見やった。
「どうせこいつがロクでもない事を考えているんだろう」
直政から文字通り冷たい視線を送られた聖一は苦笑して頭を掻いた。
「見破られているか」
「なにを考えているかは分からんがな」
「え?え?万千代、何の事を言っているんだ?」
事情を呑み込めない忠勝がオロオロと直政と家康、そして聖一に助けを求めるようにそれぞれの顔を見やった。
「大したことではない。我々の夫殿がまたまた策略を張り巡らせ始めたという事だ」
「なに!ならば万千代だけではなく、私にも話せ!」
「わっ!止めてくれ平八!あ、あはははははは・・・・!」
忠勝はまるで肉食獣が獲物に飛びかかるように聖一に襲いかかり、擽り攻撃を開始した。聖一も抵抗するが、相手は女性とはいえ名高き猛将、文官に過ぎない彼が叶うはずもなかった。
「大丈夫でございましょうか」
じゃれ合う二人は放置する事に決めた直政が、家康に意見をする。『何が』とは言わないが、直政は勇猛果敢であると同時に聡明な頭脳を持ち合わせていた。聖一の策略について、気になる事があったのだ。
「大丈夫でしょう―――まぁ、旦那様には馬車馬のように走り回ってもらう事にはなるでしょうけどね」
聖一率いる加賀征伐軍が大坂城からより出陣したのはそれから数十日後の事。馬上で揺られる総大将の脇に馬を寄せた家臣の渡辺半蔵守綱が心配そうに声をかけた。
「殿様、大丈夫ですか?目の下にでっかい『くま』が出来てますけど・・・」
「だ、大丈夫だよ・・・」
言った傍から大欠伸。総大将の威厳もへったくれもない。
「無理はしないでくださいね。殿様が倒れたら―――」
「うん。明日はゆっくり休みます・・・」
ちなみに行軍中、聖一は何度も落馬しそうになり、見かねた半蔵から早めの野営を進言された聖一はこれを呑むことになる。
しかし征伐軍内では『総大将殿におかれては、昨晩はお楽しみだったようで』と人知れず陰口を叩かれる事になるのだが、それは聖一の耳に入る事はなかった。
そしてこの陰口に尾鰭がついて思わぬ『隠れ蓑』になる事になるのだが、それも彼の耳に入る事はなかったのである。