後編
「これは…」
「五年前。」
聞いたことのないほど沈んだ彼の口調に、理恵はわずかに身を固くした。
「下の子はサッカー好きでね。見るのもやるもの…来年の春には高校に進むはずだ。」
「じゃあ、娘さんは?もう高校は」
「卒業して、今年で二十歳になった。」
彼は急に理恵のほうを向いて、
「彼氏だって、今頃は出来てるかもな。」
といって力なく笑った。理恵はすぐにその瞳の寂しげな陰に気づいた。
「あの日」
清志が小さな声で漏らした。理恵が見つめる彼の横顔は見たこともないほど深い陰影をたたえていた。
「あの日…すぐに帰るつもりだった…子供たちが出かけたのを見送って、車を車庫から出して、普通にアクセルを踏んで…いつものスーツで、カバンを助手席に置いて…寄り道なんて考えてもなかったし、すぐに帰るつもりだったのに…」
彼の言葉が途切れた。顔を両手で覆ったが、抑えきれない慟哭が口元から漏れ出た。掌と顔のすき間から涙がにじみ、手首をつたって床に落ちた。
彼の嗚咽が止むのを待って理恵はタオルを手に彼の顔を覗き込んだ。弱々しく微笑む彼の顔を理恵はそっと、しかし何度も拭った。眼の周りがわずかに腫れているのを除けば、清志はいつもの顔に戻った。いや、頬とあごが涙で洗われたせいか、まるで仕事に出かける前のような明るささえ漂っていた。
「落ち着いた?」
「ああ。ありがとう。」
彼は壁の時計にしばらく眼を向けていたが、ふと理恵のほうを向き直った。なにやら改まった様子に思わず身構えた彼女に清志はいつものように微笑んだ。
「花火を観に行こう。」
「え、ええっ、今から?めちゃくちゃ混んでるよ。」
「いいや、大丈夫。ここなら人ごみが避けられますって、後輩に薦められた絶景スポットがあるんだ。ここからはそんなに遠くないよ。」
地元育ちの理恵でも敬遠するほど混雑するこの花火大会にそのような都合の良い穴場があるとは思えなかったが、先ほどの清志の様子を思い出し、よし、今夜はどこへでも一緒に出掛けよう、いつまでも一緒にいよう、と決めた。
「わかった。ええよ、行こか。」
「ほんと?じゃ、すぐ着替えるからちょっと待ってて。」
清志は寝室に向かい、しばらくするとラコステのグレイのポロシャツにラングラーのジーンズに着替えて出てきた。どちらも彼のお気に入りで、しかも外は蒸せかえるような暑さだというのに靴下まで履いていた。これでニューバランスのスウェードのスニーカーを選べば完全装備やねんな、と心の中でつぶやきながら理恵が玄関の彼を見ていると、はたして靴箱から取り出したのはそのスニーカーだった。つい声を漏らして笑ってしまった彼女に清志が振り向くが、理恵は何も言わず笑いつづけた。
陽が完全に暮れてしばらく経っているのに、アスファルトにもコンクリートにもまだ日中の熱がこもっていて、少し歩いただけで汗がにじんだ。普段はこの時間ならガソリンスタンドと中華料理店しか空いておらず薄暗い道に、今日は浴衣姿の少女とはしゃぎまわる子供があちこちから現れた。会場となる河川敷に近づくにつれて屋台が徐々に増えだし、焼けるソーセージの脂やベビーカステラのバニラの匂いがどこまでも漂っていた。風船を割ってしまい泣く女の子の横を通り抜けながら、理恵はなるべくさりげない口調で清志に訊いた。
「家族の生活費はどうしてあげたの?」
「給料を送った。家族共用の口座を使ったよ。」
「そう…じゃ、今の会社に転職したのは」
「家を出てすぐ。コネで入った会社だからさすがに居づらくてね。」
「それで、今の会社でこっちに転勤になったんやね。」
「その前にいろいろ処分したものもあったな…さっきのバイクも。気がついたらものすごい希少価値がついててびっくりしたよ。」
声をたてて笑う清志だが、理恵がその横顔をそっと覗くと、ホットドッグの屋台の白熱灯で照らされているわりになんとなく青い陰が差しているようだった。
河川敷の広場に続く階段を上り、花火会場とは逆方向に河沿いを歩くとしばらくして舗装のアスファルトの真新しい道が現れたが、その道はすぐ先の鉄橋の足元へ向かっていた。清志が言うにはこの辺りは鉄橋の補修工事が長引いていてずっと閉鎖されていたスペースだそうで、この道も今後はもう少し先まで伸びるらしい。鉄橋に懸けられた工事用のネットや足場がある間は花火が見えないけど、2日前に工事が終わって見晴らしがよくなったそうだ。たしかに、周囲を見回しても写真を撮るために三脚を立てたりビニールシートを敷いて座り込んだりしている人はほとんどいなかった。
清志がジーンズのポケットから小さなプラスティックの容器を取り出して理恵に渡した。明かりにかざすとそれが開封したての虫除けスプレーなのが分かり、彼女が笑いながら彼の肩を叩こうとしたときだった。頭上で雷のような轟音が鳴り、空を見上げると青と黄色と白の巨大な球体が膨らみ、次の瞬間には赤い光を残して消えた。オオっと周囲から歓声が上がり、ケータイが一斉に空へと向けられた。閃光は色彩の洪水となってビルの壁を、鉄橋を、その上を走る電車を、川面を自在に染め上げたと思うと風に拭われるように消え去る。腹の底に響く地響きのような火薬の唸りが届く頃にはまたひと筋の光が舞い上がり、人々が言葉を飲んだのを見計らったかのように真っ暗な夜空が割れ、光は星となり滝となって周囲を冷たく燃やした。
「君はこの花火を観たのは久しぶりかい?」
「うん…3年前に観たのが最後やった。めっちゃ混むし、それに終わった後にみんなで飲みに行くほうが楽しくなってしもたから…でも、きれいね。こんなに…」
理恵は虫除けスプレーを手に持ったまま空を見上げていた。ノースリーブから見える白い肌が光を反射してほのかに浮かび上がった。
しばらくすると、打上げ花火がいったんおさまり、仕掛け花火が始まった。二人のいる場所からは鉄橋が邪魔して見えないので、みな会場のほうへと動き出した。
「うちらもあっちに行こうか。のど渇いたからなんか飲もうよ。ほら、ラムネとかあったやん。」
理恵がそういって清志の後ろに回り背中を押した。
「いや、ここでいい。」
振り返って言う彼の眼は真っ直ぐに理恵を見つめていた。
「俺のこと、さっきの話で分かってもらえたと思う。」
声はいつも通りの落ち着いた調子だったが、彼の表情には強い意志が現れていた。理恵はやや気圧され気味ではあったが、うん、とうなずいた。
「自分のしたことが正しいなんて思っていないし、ひどい奴だと思われても仕方ないと思っている。君に嫌われて、別れるって言われても…」
清志は息を継いだ。
「でも、隠すことなんて出来ない…誰かを苦しめ、悲しませてしまったことを…だから知っておいてほしかった。」
伏し目になった清志が、言葉を選びながら、絞り出すように続ける。理恵は身じろぎひとつせず、虫除けスプレーを両手でしっかりと持って聞いている。
「でも、今までずっと考えて、迷って、決めたんだ。俺の全てを差し出すよ。」
清志はもう一度息を継いだ。
「俺と一緒になってくれ。どこまでも、いつまでも一緒にいて欲しいんだ。」
仕掛け花火のはぜる音が遠くから聞こえてきた。その音が止むと理恵の両目から大粒の涙があふれ出し、すぐに頬から顎をつたってしたたり落ちた。何か声にならない声をあげながら清志の腕に飛び込み、ただひたすら肩を震わせてしゃくりあげた。
ようやく顔を上げた理恵は、精一杯の笑顔で、うん、と清志にうなずいてみせた。肩の力が抜けた清志が大きく長い溜息をつくと彼女はふたたび清志の腕の中に身を寄せた。二人がお互いを強く抱きしめたとき、頭上で球状の光が割れて無数の閃光を放った。再び打上げ花火の時間になったらしく、豪奢な光の洪水が二人の周囲を照らした。
「ねぇ、今日はもう帰ろうよ。」
理恵が清志の腕の中でささやく。彼は少し迷ったようだが、そうだな、帰ろう、と小さな声でこたえた。
二人はもと来た道を歩きはじめた。道路が渋滞する前に家路につこうとする人達と、友人や家族よりも遅れて会場に着き、どうにか合流しようとケータイ片手にうろつく人達で大変な混雑になっていた。理恵は清志の後ろから、何も言わずそっと手をつないだ。彼の手が強く握り返してこたえた。道端に置かれた自転車をよけながら、理恵は彼の手を握りなおし、指をからめてしっかりとつないだ。清志も同じように彼女の指を確かめるように握りなおした。次の角を曲がるともう花火が見えなくなる、というところまで来て清志が立ち止まり、空を見上げた。ひときわ大きな火球が尾をひいて空を駆け上がり、閃光の花束がオレンジと水色と黄色をまき散らした。理恵が清志の横顔を見上げると、彼の眼には涙が浮かんでいた。
(了)