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前編

 陽が沈んだばかりの街はビルも道路も電柱も、街路樹さえも熱を帯びていた。スーパーを出た理恵はハンドタオルで顔を拭った。二人分の食材を入れた買い物袋の他に、清志が珍しくビールを買っておいてほしいとメールしてきたので華奢な彼女にはかなりの重さになった。

 15分ほどかけて清志のアパートに着くと、彼はすでに帰宅しておりオートロックの玄関を開けてくれた。

 「どうしたの、珍しいやん。まさか、会社を早退したの?体調が悪いん?」

 いや、そうじゃないよ、と答える清志の声に妙な硬さを感じた理恵だが、ふぅん、そう、と、わざと気づかないふりをした。

 「今日は鯖の塩焼きにするけど、ご飯は炊いてあるん?ないなら素麺ゆでるよ。この前の冷麺が残ってたらそっちにしよか?」

 ひと足先に部屋に戻る彼の背中に言っても返事は無く、キッチンに買い物袋を置きにいった彼女を残して、少し横になっているから出来たら起こしてくれ、と言い残して寝室のドアを閉めてしまった。

 珍しいな、と理恵は呟いた。10歳近く齢の離れた清志は理恵の眼から見ればとにかく大人で、彼女と同年代の男にありがちなカン違いやわがままが全くなかった。ショッピングモールで4時間以上買い物につき合わせても、仕事のストレスから泥酔して真夜中に転がり込んでも文句ひとつ言わなかった。父を早くに亡くした彼女はそれがこの上なく素晴らしい包容力に思えたのだろう、自分でも驚くぐらいあっさりと清志に心を奪われてしまった。君が隠し事をするのはかまわないが俺は秘密なんて作りたくないんだ、という言葉どおり、知っていることはなんでもきかせて、答えてくれた。現在は離婚し独り暮らしで、現在の会社に転職してからこの街への異動が決まったこと、それまでは関東を出たことがなかったことまでは教えてくれた。しかし、それよりも前のことはどうしても話したがらなかった。知り合ったばかりの頃は気を遣って触れないようにしていた理恵だが、彼の部屋に上がるようになっても彼の過去に関わるものが全く見当たらないので知りようがなく、最近ではなんとなく不安をいだくようになった。

 炊飯器に二人分のご飯があることを確かめ、鯖を火にかける。あさりのすまし汁は最後にかかることにして、理恵は買い物袋からバナナとオレンジを取り出すとリビングに向かった。テーブルの上の籐のかごには皮が硬くなったオレンジが残っていたので取り出し、新鮮なものを補充する。カレーとビールに偏りがちな清志の食生活を少しでもまともなものにするべく2か月前から理恵が始めた作戦で、バナナはともかくオレンジが苦手な清志は最初は文字どおり渋い顔をしたが、最近では皮をむいて皿に盛ると大人しく食べるようになった。よしよし、ええコやなぁと独りごとを言いながらオレンジの上にバナナを置こうとしたときだった。籐のかごの網目から銀色の光がわずかに見えた。あれ、と小さく声を上げた理恵がかごを動かすと、つつましやかな光を帯びた指輪がそこにあった。

 食卓が整った。理恵が寝室の前で足を止め、ドア越しに「ご飯できたよ」と小さな声で何度か呼びかけると彼が出てきた。理恵が彼の部屋に上がるようになって最初に言い渡されたのがこれだった。起こすときに限らず、彼は大きな足音をたてたり離れたところから大きな声で呼んだりすることを嫌った。特に寝起きは要注意だった。がさつな男兄弟の中で育った理恵はつい忘れてしまうので何度も彼に怒られた。といっても少し不機嫌そうに、次は大丈夫だよな、と言うだけであり、彼女が素直に謝ればすぐに普段の穏やかな顔に戻った。

 清志が座ると、少しぬるめに仕上げたすまし汁をお椀によそおう。彼が理恵の料理に細かい意見をよせることなどまずないのだが、好物のこのあさりのすまし汁だけは妥協できないものがあるらしく、すぐに口に出来るぐらいのぬるめ、しかもあさりに火をとおし過ぎてはいけないと言ってきかなかった。数少ない彼の好みなのだからなんとかして応えたい、と理恵は自宅で何度も練習し、昨年の夏は4日連続ですまし汁を出して母を呆れさせたことがあった。それを見た兄達は、そうか、理恵はいよいよ本気やな、と顔をあわせてニヤついていた。

 清志のことは家族に話してあった。母は彼がバツイチときいて当惑していたが、彼が齢のわりにはなかなかの高給取りであることを知ると、まぁ、悪い人でないならええかもねぇ、と口ごもった。兄はふたりとも彼から贈られた高級バーボンウィスキーにあっさりと降参してしまい、ナ、こんどウチに連れて来いよ、こっちの美味いもん用意して歓迎しよやないか、などとはしゃいではうれしそうにいつまでもグラスをすすっていた。

 「ビールは食後にする?」 

 「いや、今はいいよ。」

 「えっ、何でなん?せっかく買って来たのに」

 「うん、もっと遅くに…寝る前にしたいな。」

 「そうなんや、それなら冷蔵庫に戻しておくよ。」

 理恵が冷蔵庫の扉を閉めて座りなおした。既に清志はあらかた食べ終わり、鯖の身の残りと大根おろしを一緒に口に運んでいた。

 「ねぇ、これ、さっきリビングの上で見つけてんけど」

 理恵が指輪をそっとテーブルにおいた。麦茶のグラスを持った彼の右腕が止まった。

 「これ、結婚指輪、よね。」

 彼は横を向いて、黙っていた。

 「それに、リビングの棚の上にあったの、あれアルバムよね?今まで見せてって言っても全然見せてくれへんくて」

 「中身は見たかい…アルバムの」

 理恵は首を横に振った。清志は、そうか、と言ったきりまた黙ってしまった。彼女は静かに立ち上がり、食器の片づけを始めた。清志はリビングへと消えた。

 洗いものが終わり、理恵は麦茶のグラスをふたつ持ってリビングの手前へ行き、物陰からそっと清志の姿をうかがった。彼はソファに深く座り込んでアルバムを手に取っていたが、じきにアルバムを机に置いてうなだれた。

 「私も見ていい?」

 彼女の眼をじっと見つめた清志は軽くうなずいた。彼女はグラスをテーブルに置き、かなりの厚さのあるアルバムを手に取って清志の隣に座った。

 「どっか、眼につかんところにしまっておいたんやね。」

 清志がうなずく。

 「指輪は?どこに置いてたん?」

 「昨日このソファでビール飲みながら寝てしまって、てっきり無くしたかと思ってた。」

 彼の答にならない答をききながら理恵は素早く考えをめぐらせた。どこかにしまいこんでいたのを出してきて一人で眺めていたのだろう、そう考えることにした。

 アルバムの開かれたページには彼の学生時代の写真が貼られていた。黒いジーンズに真っ白なタンクトップ、赤いバンダナを巻いた彼がギターを抱えてマイクに叫ぶ姿があった。

 「ギター弾いてたん?」

 「うん、サークルでバンドを組んでた。このギターは何年か前に甥っ子にプレゼントしたから手元にはもう無いけど。」

 「なんか変わったかたちやねぇ。彫刻っぽい飾りもいっぱいあって。」

 「オベイションっていうアメリカのメーカーの、かなり上のモデルを無理して買ったからね。スーパーアダマス、だったっけ。」

 いくらしたん、と言う理恵に彼が教えたのは、彼女の月給のほぼ3倍ちかい金額だった。眼を丸くする理恵に、あの時は必死でバイトしたし、ギターを抱いて寝たよ、と照れくさそうに笑った。

 「で、これ、バイクやんね、乗ってたん?」

 次のページにある写真を指して理恵が訊ねた。よく目立つライムグリーンと白の車体にまたがり、赤字に黒のストライプの入ったヘルメットを脇にかかえて親指を立てる清志は、とてもではないが今の姿からは想像がつかなかった。

 「それもかなり無理したなぁ。ギターのローンもあったし、すごく珍しい車種ですぐに売り切れるからってバイク屋にせかされるし。」

 彼の表情がさらに緩んだ。心なしか頬が照っているように見えた。

 何枚かページをめくると意外なほどあっさりとその写真が見つかった。白いチャペルを背景に満面の笑みを浮かべる清志と、その隣で純白のドレスに身を包んだ小柄な女性が、化粧崩れを気にしつつなのだろう、わずかにひきつったような笑顔で大判のフレームに収まっていた。

 「きれいなひとやん。」

 なるべく平静を装って理恵が呟き、清志が、ああ、とこたえる。明るい茶色に染めた髪と切れ長の瞳、白人を思わせる鼻筋のとおった顔だが、しばらくして理恵が、あれ、もしかして、と言いながらアルバムのページを数枚戻した。先ほどの清志がギターを片手に熱唱する写真をよく見ると、同じ女性が客席から彼を見上げていた。

 「ばれたか。」

 いたずらがばれた子供のような声を出して彼が笑う。頬の赤みが増している。

「もしかして学生結婚?」

「厳密には違うけど、ほとんどそうだった。」

 彼は麦茶をひと口飲んで、彼女の親類のコネで就職できたんだよ、と頭をかいた。

「けど仕事はきつかった。結婚して子供もいる先輩が急に退職したり、今だから言えるけど系列の子会社では自殺者も出たよ。」

 理恵が息を飲む様子を察したらしく、俺はまぁ、なんとかやっていけたよ、といって彼は笑ったが、先ほどの頬の赤みは消えていた。

「さっきのバイクがずっと手元にあってね。眠れないときは…午前4時ぐらいでもこっそりベッドを抜け出して、気が済むまで走りまわったりしてたんだ。」

 清志はそう言うものの、結婚を境にしてアルバムのページからはバイクやギターが消え、家族旅行や雛人形や運動会でいっぱいになった。

 アルバムは男の子がサッカーボールを蹴っている姿を最後に、およそ10枚の白いページを残して唐突に終わっていた。よく見るとその先のページに一枚の写真を抜き取った跡があった。

「ここで、終わりなんやね。」

 理恵は再び平静を装って清志に声をかけた。彼は無言だったが、ふとソファから立つとリビングを抜けていった。向こうで寝室のドアが開く音が聞えたが、彼は何かを手にすぐに戻ってきた。彼が持ってきたのはフォトフレームだった。小学生ぐらいの男の子と、それより年上らしい女の子が、どちらも制服姿で写っていた。

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