気まぐれゲシュペンスト
彼女に映画に誘われたのは、三日前の事だった。
「日曜、よろしければ一緒に映画見に行きませんか?」
僕は気持ちが昂るのを必死で抑え、彼女に言った。
「別に良いよ。暇だし」
彼女は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女の長い黒髪が艶やかに揺れる。
僕は彼女に微笑みかけると、浮かれて妙な事を口走る前に彼女の元から立ち去った。
まるで、試合でハットトリックを決めたやったかの様にに気分が晴れやかで、アホみたいに幸せだった。
僕は部室のドアを捻り、部屋に入った。部屋は運動部の部室独特の熱気と臭気を放っていた。体に纏わりつくような鬱陶しいその空気も、今日は全く気にならなかった。
何を話しかけられても上の空の僕にチームメイトが訝しげな目を向ける。
僕はなるべく早く着替えを済まし、急いで家に帰った。
帰宅すると、すぐさま自分の部屋で彼女にメールを送った。
「映画、何が良い?」
待ち合わせ場所は大型ショッピングセンターだった。ショッピングセンターに組み込まれているシネコンで映画を見ることになっているからだ。
僕は上から下まで姉に服を選んでもらった。姉は、僕と一緒に出掛ける相手が女の子だという事を勘ぐり、おせっかいにも下着まで僕に選んできた。どこで入手したのか、目がチカチカするようなショッキングピンクだった。ニヤつく姉を振り切り、僕は家を出た。
姉が僕を追い、玄関前で叫んだ。
「プランDまで遂行するのだ。弟よ」
「そんなの知らねえよ」
僕はヘルメットを被り、バイクに跨った。
僕がバイクを発車させると共に、姉は言った。
「アルキメデス11号発信!!!」
姉は今日も元気いっぱいだった。僕の元気度を1とするなら姉の元気度は100だ。元気100倍。新しい顔なんてなくても、姉はいつでも戦える。
僕は振り返らず、姉に手を振ると、目的地まで急いだ。
僕は集中していると、目つきが鋭くなるらしい。友人が教えてくれた。きっとバイクに乗っている時も気難しそうな顔をしているのだろう。今日はなるべく近寄りがたい雰囲気を出さないようにしなくては。僕は右の掌を頬につけ、頬を軽くつぶした。
ショッピングセンターは、休日だというのに、そんなに人が多くはなかった。僕は待ち合わせ場所の楽器店まで早足で歩いた。
楽器店に着くと、ソナタが聞こえた。静かで、心を落ち着けるような、少し感傷的なメロディだった。
僕はピアノの鍵盤に指を乗せ、ソナタを奏でる少女に近寄った。
「先輩。もう来たんですか」
僕が声をかける前に、彼女は僕に気が付き、演奏を止めた。
「僕も2楽章が好きだな。ピアノ、弾けたんだね」
「意外。先輩、クラシック聴くんですね」
「姉貴がピアノをやってるからな。姉はその曲の3楽章が好きなんだ」
僕が言うと、彼女はこちらを振り返った。
「3楽章はまだ練習中です。というか、1楽章も弾けないんです。難しくって」
「後輩には2楽章が似合ってるよ」
「簡単ですしね、2楽章だけ」
彼女は口をとがらせた。
「そうじゃない」
僕は適当にピアノの鍵盤を1音弾いた。
「きれいだった」
ピアノ椅子に座っている彼女が僕を見上げる。僕は彼女の目を見られず、相変わらず鍵盤を適当に弾いていた。
彼女は少し笑うと、言った。
「行きましょうか」
彼女は立ち上がり、僕の肩の高さに頭を並べる。
「うん。そうだな」
僕らは、足先を映画館へ向けた。
彼女が選んだ映画は、意外にもバイオレンス・ホラーなジャンルだった。
僕はそういう映画をあまり見たことがない。
「先輩はこういう映画、好きです?」
「そんなに。後輩は?」
「私、こういうの見たこと無くて」
「これが見たくて俺を誘ったんじゃないの?」
「見たかったんです。ちょっと挑戦してみたくて」
映画のタイトルの横にはPG12の文字が並んでいる。
ペアレンタルガイダンス12。12歳以下は保護者同伴でないと見られない、という意味だ。僕は以前にこの指定を受けている映画を見たことがある。たしか座頭市の話だったと思うが、戦闘シーンのリアルさに、なかなか衝撃を受けたものだ。
あれから数年。僕は少しは成長したはずだ。身長も伸びたし、バイクにも乗れるようになった。きっと大丈夫。
ブザーが鳴り、映画が始まる。
僕は両手を堅く結び、意を結してスクリーンを見つめた。
「面白かったですね」
「……ちょっと待ってて」
僕はトイレへ走った。ピンク色のてらてらとした物を見ると、横隔膜が上がってくる。気持ち悪かったし、目に涙が浮かんでいるのが自分でも分かった。あれでPG12というのは、審査が甘いのではないだろうか。R15にしてもおかしくはないと思う。
彼女が楽しいなら僕はそれで満足だけど、情けない姿を見られたくはなかった。
「先輩、もしかしてああいうのムリでした?」
彼女は心配そうに言った。
「いや、まあ、大丈夫だよ。ただ、しばらくは生肉とかは見れない感じ」
彼女は僕を見上げながら言った。
「先輩、泣きそうでしたよね」
彼女は「意外だなー」と口にすると、笑った。
「あまり年上をからかうもんじゃないぞ、後輩」
「からかうと、どうなるんです?」
「ヒドイ目に遭うんだよ」
僕が投げやり気味に言うと、後輩はまた笑った。
「どんな目ですか?」
「例えば、水たまりを飛び越えた時に着地に失敗して、水たまりに頭から転倒するとか」
「その時は、先輩が助けてくれますよね?」
「まあ、一緒にいればな」
「他には?」
「テスト中にシャーペンの芯が折れまくって1文字も書けないとか」
彼女は笑うと言った。
「先輩っておもしろいですね」
僕は、こんなに楽しそうに笑う彼女を初めて見た。
「ああ、そうですか」
彼女の笑顔を見ながら、僕はぼんやりと言った。
「行きましょうか」
彼女は言うと、歩き出した。僕もそれに続く。
「前から気になってたんですよ」
彼女が僕を連れてきたのはお化け屋敷だった。
「へぇー。そう」
僕は動揺を悟られまいと平静を装った。
「すっごい怖いみたいですよ」
中から叫び声が聞こえる。
「へぇー。そう」
既に鼓動が早まっていて、手には汗がびっしょりだった。
「先輩、良いですか?」
「うん。うん、良いよ。もちろんさ」
僕は入口に垂れ下がった柳の枝をアホらしいと思いつつ、お化け屋敷の存在を呪った。
「後輩、後輩はこういう心拍数上がる系のやつが好きなの?」
「いいえ、別にそれほど」
「ああ、そう」
僕はどうやってこの場を切り抜けるか思案した。脳をフル回転させれば何か良い案が浮かぶことを信じて。
「先輩、嫌なんですか?」
彼女は不安そうに僕に尋ねた。
「え、何で?」
「だって顔、怖いですよ」
僕は頬を抑えた。
「先輩、怖がりなんですね」
図星だ。僕は目を泳がせた。
「えーっと、後輩……」
申し訳ないが、僕はここで待っていることにしよう。そう彼女に伝えようとしたが、彼女は僕の腕を掴み、ぽっかりと空いた真っ暗な入口へ歩き出す。
「大丈夫です、私がついてます。先輩」
「いや、僕は」
僕の身体を恐怖の暗闇と冷気が包みこむ。
「あー、楽しかった」
彼女は屈託のない笑顔を惜しみなく僕に向ける。
僕は呼吸を整えつつ、彼女に相槌を打った。
「全速力で走った後みたいですね」
汗が僕の首筋を伝う。暑いわけではなかった。むしろ寒かった。
「何か、食べましょうよ。アイスとか」
僕はミックスベリーが良いとかチョコが良いとかぶつぶつ独り言を言う彼女を肩越しに見おろしながら曖昧な返事をした。
僕たちはアイスを買うと、席に着いた。
「今日は先輩の意外な一面を見れて楽しかったです」
「俺も楽しかったよ」
僕はアイスを口に運んだ。
「先輩ってもっと大人な人かと思ってました」
「いつも大人ぶってるだけだ」
「一人称も、本当は‘僕‘なんですね」
「周りに合わせてるだけだ」
「私の前でだけ、僕にしてもいいんですよ」
僕は彼女の黒い瞳を見つめた。
「後輩だって、何ていうか、僕が思ってたよりもずっとエキサイトしてる人だったよ」
彼女はアイスのスプーンを咥えたまま僕をじっと見る。
僕はすぐに彼女から目を逸らした。
「がっかり、しちゃいました?」
彼女に視線をもう一度戻す。
彼女はいつもと変わらない表情をしていた。でも、声がいつもと違っていたように思う。少し不安げだけど、何かを期待しているような、そんな声音だった。
「全然。するわけないじゃないか。さっきも言っただろ、楽しかったって」
彼女は僕の言葉に安心したようで軽く微笑んだ。
「人間誰しも、世間体の良さげな仮面を被っているもんさ。俺もそうだ。世間が良いと評価するものを得ようと、頑張ってみたりもした。周りに合わせて一人称も変えた。俺は――俺自身を形成しているものは、俺であって、俺でないのかもしれない」
彼女は僕を見つめる。僕もその視線に応える。
「先輩は、やっぱり大人ですね」
彼女はアイスを口に運ぶ。
「先輩は先輩ですよ。形成しているものが、例え世間にありふれてる種々雑多なつまらないものだとしても、先輩は先輩なんですよ」
僕の為に懸命に言葉を選ぶ、目の前の少女が愛らしかった。
僕は彼女に微笑みかけた。
「そうだな」
僕らは溶けかけたアイスを食べた。
「もうそろそろ帰る時間ですね」
ショッピングセンターを出ると、予想以上に蒸し暑く、僕は手で顔を煽いだ。
「暑いですね」
彼女はうんざりした様に言った。
「夏だからな」
「私、夏生まれなんですよ」
「そんな気がしてた」
「先輩は?」
「冬生まれ」
「そんな気がしてました」
彼女は言った。
「もう少しなんです、誕生日。その時はまた、こうして遊んでくれますか?」
「さあ、どうでしょうね」
僕はぶっきらぼうに言った。
「女の子にヒドイ事言う男性は、嫌な目に遭いますよ?」
「俺、さっきヒドイ事言った?」
彼女は頷く。
「例えば、どんな目に遭うんだ?」
「学校で間違えて女子トイレに入るとか」
「そいつはヒドイ」
「ズボンを穿く時に、片方に両足を突っ込んじゃうとか」
「他には?」
彼女は少しだけ考えると言った。
「ちょっと嗜虐的な年下の女の子におそわれるとか」
「悪くない」
僕が言うと、彼女は立ち止まった。それに気づき、2、3歩遅れで僕も立ち止まり、振り返った。彼女は俯いていて、顔は見えなかった。
「でも、やっぱりその女の子はちょっと奥手で、その人にリードして欲しいと思ってるかもしれない」
「いいさ。どっちでも」
彼女はエメラルドグリーンのワンピースを両手で握りしめていた。
「どっちでも、後輩は後輩じゃないか」
僕は後輩に歩み寄り、後輩の頭に手を乗せる。後輩は何も言わず、そのまま俯いていた。
鼻をすする音が聞こえる。どうやら彼女は泣いているようだった。僕は困惑した。ハンカチを渡せば良いのかとか、指で拭う方が良いとか考えていると、彼女が僕の胸に飛び込んできた。
結局僕は何をすることも、言うこともできず、しばらくそのままでいた。
「先輩、暑いです」
彼女が言った。
「だったら離れれば良いかと」
「嫌です。こんな顔先輩に見られたら死んじゃいます」
「俺も、後輩にこんな顔見られたら死んじゃうかも」
僕が言うと、そうっと彼女は顔を上げた。
「顔、真っ赤ですね」
「ああ、死にたい」
僕が言うと、彼女は笑った。
彼女は僕から離れた。
「本当に今日はありがとうございました」
彼女は頭を軽く下げる。
「本当、死んでも死に切れません」
僕は彼女の言葉の真意を真っ直ぐに受け取れなかった。
「そんな顔しないで下さいよ。私、今とっても幸せなんです」
「僕も幸せだ。とても幸せだ」
この言葉に嘘はなかった。それなのに、胸が痛く、息をするのも苦しかった。
「生きていれば、この先もあったんでしょう」
生きていれば、彼女はそう繰り返すと笑った。
「何で私、死んじゃったんでしょう」
僕は彼女を茫然と見つめていた。彼女にかける言葉も、自分の気持ちを静める言葉も、何も思い浮かばない。現実を直視すれば、僕はたちまち狂気に飲まれてしまいそうだった。
「何でもっと早く先輩と仲良くなれなかったんだろう。神様は、何も私から命を奪わなくても良かったんじゃないでしょうかね。世の中には私よりずっと年を取ってて、私よりもずっと幸せな思いをしてきた人もいるのに」
視界がぼやけ、彼女が良く見えなくなった。彼女の声は、相変わらず飄々としていた。
「こんな事言ったって、今となっては遅いでしょうけど。全て遅すぎたんですね、私には」
僕は目からこぼれる涙を拭った。
「まだ、何とかなるかもしれない。この世に魂を繋ぎとめていれば、そのうち生き返る方法が見つかるかもしれない。身体なんて無くても、それでも良いから」
彼女は悲痛そうな顔を僕に向けた。
「側にいてくれよ」
彼女は首を左右に振った。僕はその場に泣き崩れた。生まれて初めて、人前で声をあげて泣いた。人々の視線が彼女をすり抜け、僕に集中する。膝をつき、子供みたいに泣く僕を、彼女は優しく抱いた。
「先輩、私の誕生日にはここで食べたアイスを、私のお墓にお願いしますね」
「アイスなんて、すぐ溶けちゃうだろ。夏なんだから」
僕が何とか彼女にそう返すと、彼女は笑った。
「きっとですよ」
「僕が死ぬまで、毎年プレゼントしよう。飽きたって知らないからな」
彼女は嬉しそうに笑った。それは夏の太陽にも負けない、とびきり明るい笑顔だった。
彼女は流星のように消えた。
姿も温もりも、彼女がさっきまでここに存在したことを表すものは、もう何も残っていなかった。
僕は必死で正気を保ちながら、立って歩いた。
彼女は昨日、交通事故で死んだ。
その事を僕は知っていた。
けれども僕は、待ち合わせ場所に彼女が来てくれると、ほとんど確信していたのだ。
彼女は来てくれた。僕の好きな音楽を奏でながら、僕を待っていてくれた。
それは、彼女が死んでいるという事実を忘れさせるくらい鮮明で、残酷なほど幸福な時間だった。
もしかすると、先ほどまでの彼女は、僕の描いたただの幻想だったのかもしれなかった。
ピアノの音色が聞こえる。誰かが弾いているのだろう。そのメロディは僕の心に沁みこみ、僕に再び歩き出す勇気をくれた。
彼女の奏でた優しいピアノソナタは、僕の胸に残っていた。
たとえ、一万回他のピアニストの演奏を聴いたって、どんなに素晴らしい女性が現れたって、僕は彼女を忘れない。一生忘れることはないだろう。