捜索開始
アラニアが現れたというティホ村までは、エルドミア王国から馬で三日ほどの距離だった。開けていた視界は王国を離れるにつれ、次第に木々が深まり、見通しが悪くなっていった。
出発してから最初の夜が来て、一行は背の高い大木の下でキャンプをすることになった。大木にはホオズキに似た実が無数に垂れており、不思議なことに淡い橙色の光を灯していた。
「これはホリンの木です。旅人の止まり木と呼ばれ、森を行く者はこの木の根元で朝を待つんですよ。火を恐れる獣や怪物も近づきませんから、安全に一夜を過ごせるんです」
ホリンの実が放つ柔らかな光に照らされながら、魔術師の女は言った。カレトの国にも蛍の巣と呼ばれる木があったが、この世界と同じように旅人の休憩所となっていることを思い出し、親近感がわいた。
薪を集めて火を起こすことになったので、カレトは剣の下げ緒を抜いて、サジティグニスの火を放った。「おおっ」という声が、カレト以外の口から洩れた。
下げ緒を興味津々に見つめながら、魔術師の女がカレトに向かって言った。
「…不思議な紐ですね、それ…。馬も呼び出せるんですよね?」
「ああ、これか…。元々これは下げ緒じゃなくて、愛馬サジティグニスの手綱なんだ。我が主から賜った魔法の道具で、聖なる炎を宿しているらしい。私は魔術師じゃないから、使い方以外の詳しいことは知らないんだ」
火を囲むようにして、五人は腰を下ろした。急な招集と出発だったため、互いに面識がほとんどないままだった。落ち着いた今、改めて自己紹介をすることとなった。
まずは団長として、カレトが挨拶を行った。
「今回団長に選ばれたカレト・ヴルッフだ。遥か遠く、アルスールという王国から来た。この地域の習慣や生物について、全くの無知だ。君たちに迷惑をかけることもあると思うが、その時は知識を授けてもらえると助かる。その代わり、戦いにおいては大いに役立ってみせる」
簡単な挨拶を終えると、次はヤーンの番となった。
「ヤーン・バルケイです。まだ新兵で、この中で一番経験が浅いです。今回はみなさんの雑用兼護衛を務めさせていただきます。足を引っ張らないよう、最善を尽くせるように努力しますんで、何か至らぬ点があったらご指摘お願いします」
「あ、君ってまだ新兵だったんだ。道理で若いと思ったよ」
どこか軽い調子で頬に手を突きながら、軽装の女性が言った。傍らに弓を置いていることから、彼女が射手であることがわかった。年齢は二十代前半くらいに見えるが、口ぶりからすると、それよりも上のようだ。褐色の肌と薄く緑がかったショートの金髪という特徴を、カレトは王国内でも見かけたことがなかった。どうやら王国の人々とは人種が異なるようだ。
「あたしはポゥワ・ソーン。三年前までスキ・エイプルの樹上集落で狩人をしてたんだけど、王国軍からスカウトされてエルドミアに来たんだ。弓だけじゃなくて、鳥の声もわかるから、偵察任務は任せてね。そうそう、あたし眼も凄くいいんだ」
ウィンクしながら、片目を大きく開いて、眼の良さを強調した。新緑のような黄緑色の瞳だった。
ポゥワが「じゃあ次、あなたで」と言いながら、魔術師の女を手で示したので、女はにっこりと微笑みながら頷いた。
「魔術師のハーキィン・メイジュと申します。専門は破壊魔法ですので、みなさんをお守りできるように頑張りますね。普段はマジックアイテムの研究を行っておりまして、皆さんにお渡しした”火の盾のタリスマン”は、私が作ったんですよ」
ハーキィンの言葉を受けて、ポゥワが「あ、これそうなんだ」と言いながら、三センチほどの厚みを持った円形のプレートを、懐から取り出した。プレートの表面には逆五角形の模様が彫られており、その中には複雑な幾何学文様と、細かい文字が彫られていた。
「あの、カレトさん。もしよろしければ、お暇がある時にでも、その魔法の紐を拝見させていただきたいのですが…駄目ですか?」
カレトの左隣に座っていたハーキィンが、ススッとにじり寄る。黒いストレートの長髪をいじりながら、上目使いで問いかけられたカレトは、色気と併せて底知れぬ狂気のような感情を含んだ視線で覗かれた気がして、思わずたじろいだ。
間違いなく美人で、全身を覆う紫紺色のベロアのローブの上からでもわかるほどグラマーな体つきだ。あまり胸もなく背も高くないボーイッシュなポゥワと比べれば、間違いなくハーキィンの方が男受けするだろう。しかしカレトは本能的に、言うなれば重たい愛のようなものを、ハーキィンからひしひしと感じていた。
「あ、ああ。その話はまたいずれ。あ、あとは君だけだな」
ひきつった笑顔のまま、カレトは最後の一人に話題を振った。カレトよりも一回り以上大きな体をした、いかつい顔の男だった。カレトとあまり年齢は変わらなそうで、三十代半ばほどに見える。
「自分、ゴルベア・スモーハーという者です。…よく騎士の方と間違えられますが、こう見えても魔術師です。剣はからきしです。今回は皆さんの補助役として同行させていただいてます。専門は回復術ですので、誰かが怪我された際にはお役にたてると思います。薬学や生物の研究もしているので、アラニアの生態に関する知識でも、お役にたてることがあるかもしれません。戦闘時は足手まといにしかなりませんが、戦い以外の面で頑張りますので、どうぞよろしくおねがいします」
「ほう、君は多才なんだな。戦いの時は、我々が全力で守るから安心してくれ」
ゴルベアは大きな体に似合わず小心者のようで、「本当に、ご迷惑おかけします」と言いながら、しきりに頭を下げていた。その度に頭の後ろで結んだチョコレート色の髪が、ピコピコと犬のしっぽのように上下した。隣でハーキィンがボソリと「…私も守ってほしいなぁ」と呟いたが、カレトは何も聞こえなかったことにした。
ハーキィン同様、魔術師に与えられるベロアのローブを身に着けているが、ゴルベアのものはワインレッドだった。ゴルベアのローブは大きな体の所為で、どこか窮屈そうに見えた。
「二人は同じ魔術師でもローブの色が違うが、どういう違いなんだ?」
「これですか?所属で色が変わるんですよ。私は王宮軍所属だから紫、ゴルベア君はエルドミア王立大学研究所所属だから赤なんです。まだ若いのに優秀ですよね」
まだ若いという言葉に、カレトは引っ掛かるものを感じた。ハーキィンの口ぶりでは、ゴルベアと同い年か年下のように聞こえるが、とてもそうは見えない。
正確な年齢をヤーン含めて誰も知らないことに気が付き、改めて聞いてみようと思った。
「ところで君たち、年齢はいくつなんだ?私は三十六だ」
「俺は二十二です」
「あたしは二十七。もっと幼く見られることが多いですけど」
「私は二十六歳です。丁度カレトさんとは十歳違いですね。…ふふっ。何だか、不思議な縁を感じます…」
「自分、二十一です。…大抵もっと上に見られますけど」
ヤーンとポゥワの口から、同時に「うそぉ!?」という言葉が飛び出す。ショックを受けたゴルベアのただでさえ険しい顔が、さらに暗くなるのが目に見えて分かった。言葉にしなかったが、カレトも二人と同じように言いそうになった。
「ゴルベアさんって俺より年下なの!?マジかよ…」
「あたし、てっきり最年長かと思ってたわ…。あー、あのー…なんか、ごめんね?」
「私も最初聞いた時は、冗談かと思ったの。でもあまり気にすることないわ、ゴルベア君。老け顔の人って、御歳を召してからはかえって若く見られるらしいから、歳を取るまでの辛抱よ」
素直に驚き続ける者、とりあえず取り繕う者、慰めるふりをして傷に塩を塗る者、三者三様の反応だった。
談笑する様子を見ていると、とても凶悪な怪物退治をしに行くような雰囲気には見えなかった。しかし現実に怪物はどこかに潜んでおり、おぞましい体を闇の中によじらせながら、今か今かと獲物を待っている。その事実を知っているからこそ、心安らげる時間が大切だと理解している一同は、素直に、心の底から今の時間を楽しんでいた。
出発してから二度の夜を越えて、三度目の昼が過ぎた頃になり、ようやく一行はティホ村に到着した。
ティホ村は森の奥にある、寂寞とした村だった。軽く見まわした感じでは、誰も見当たらない。村の入口には木の棒が刺さっており、先端には黒い旗がなびいていた。
「あの旗はなんなんだ?」
「災報旗です。災害や襲撃があった場合に掲げるもので、黒は害獣被害の時に掲げるものです。国から兵が派遣されるまでは掲げるものなんです」
「…そういえば、国に報告に来たのは誰だったんだ?」
「確か村の人だったと思います。報告してすぐに帰ったらしいんで、探せばいるんじゃないですかね」
村に入るなり、カレトは大声で到着を報せた。すると木戸の開く鈍い音がしたので、音がした方を向くと、木戸の間から村民がカレトたちを伺っていた。
「国の方ですか…?」
どこか怯えた様子で、粗末な服の女は尋ねた。
「ああそうだ。アラニアが出たとの報せを受け、王国から派遣された者だ」
女の表情が和らいだ。すぐさま彼女は「兵隊さんがいらしたわ!」と村中に触れ回った。女の言葉を受けて、次々と村人が一行の下へと駆け寄ってきた。村人はすがるような視線を投げかけている。老若男女問わず、誰もが救いを求めていた。
村人たちをなだめると、状況を把握するため村の集会場に場所を移した。集会場は、二十人ほどが収まる規模の木造建築だった。一行が入ると、改めて村長から挨拶を受けた。長い白髪と白髭を蓄えた、痩躯の老人だった。
「遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。私は村長を務めております、ローと申します」
「丁寧な挨拶、痛み入ります。私はアラニア討伐団団長のカレトと申します。並びに、討伐団員のポゥワ、ハーキィン、ヤーン、ゴルベアです」
互いに挨拶を終えると席に着いた。カレトたちは横並びに座り、机を挟んで向かい側に村長のローと、あと三人の村人が座っていた。
「まずは詳しい状況を確認させていただきたい。アラニア幼虫発見の状況と対処、今日にいたるまで何らかの異変があったかどうかをお聞きしてもよろしいか」
「はい。順を追ってご説明させていただきます。トーエ、説明を」
トーエと呼ばれた中年の男が「はい」と頷いた。
「…十日前の朝、畑に立っていた時のことでした。隣の畑のもんが、突然ぎゃーって叫んだんです。何事かと思って見に行ってみると、そいつの畑に毛むくじゃらの見たこともない生き物が居たんです。二、三歳のチビくらいの大きさで、まるでハイハイしているみたいな様子で、隣のもんに近づいていったんです。気持ちの悪い糸を垂らしていて、こりゃあなんかまずいぞって言うんで、そいつが持ってた鍬を思いっきり叩きつけたんです。鍬が当たって死んだんですが、化け物の緑色した血をもろに浴びちまって、隣のもんもあっという間に溶けて死んじまって…。しかも、畑も見たこともない変な色に変わっちまって、作物もダメになっちまったみたいで、こりゃあまずいと思いまして」
「それですぐ、王国に向かったと」
「はい。見たこともない化け物で、どうしていいかわからんで…。そしたらまあ、大昔に都をボロボロにしたって化け物だって…。こりゃあまずいって言うんで、都から帰ってすぐに、村のもんみんなに家出るなーっつって、よっぽど用がない限りはみんな家に籠って待ってたんです」
「なるほど。亡くなられた方と畑、あとアラニアの死体はどうしましたか?」
「変になっちまった土は全部さらって、隣のもんと化け物と一緒に焼いちまいました。…あのぅ、なんかまずかったでしょうか…?」
不安そうに、口に手を当てて伺うトーエに対し、すかさずゴルベアがフォローをする。
「いえ、アラニアの毒を浄化するには、炎が一番有効です。正しい判断だったと思います」
「そうですかぁ、よかったぁ…。」
自分たちの処置が正しいものだとわかり、トーエと隣の村人たちは胸をなでおろしていた。
「目撃されたのは一匹だけですか?」
「今のところ、他には確認されておりません。どこから来たのかもわからない状況でして、村を出るのもひと悶着あったほどです」
「そうでしたか。…ゴルベア、アラニアの生態でわかっていることはあるか?」
ゴルベアに尋ねると、懐から一冊の手帳を取り出した。どうやら必要な情報を書き留めておくための手帳らしい。
「以前目撃された時の情報ですが、湿気を好む性質から川や洞窟で生息するそうです。この近くに川や洞窟はありますか?」
「川は、村から西に一時間ほどのところに一か所だけです。洞窟は三つ、川が途中で分かれてまして、その先に一つ。あとは昔は熊が巣穴にしていた洞窟が一つと、何十年も前の閉鎖された廃鉱が一つあります。川は日常的に使いますので様子はわかりますが、洞窟は永い間誰も近づいていないので、今はどうなっているか見当が付きません」
結局、有力な情報があったのはここまでで、他に大した情報は得られなかった。出現以降、特にアラニアの動きはないようで、その上村人たちはカレト一行が到着するまで引きこもっていたので、知る由もなかったのだ。
アラニアの脅威が残る現状では、狩りや山菜採りにも出かけられないため、村人は備蓄された食料に手を付けることになっていた。討伐までの見通しが立たない現在、事前に王国から支給された食料を優先的に使い、村に負担をかけずに済むよう心掛けていたため、もてなしを断り厨房だけ借りて食事を済ませた。
たまに討伐遠征や見回りでやってくる衛兵が使う兵舎が空いているので、五人はそこで泊まることになった。最初は交代で夜間の警備を行うという提案をしたが、村長に「とにかく今日は体を休めて下さい」と断られたため、村の若者に警備を任せて眠ることとなった。三日ぶりに横になるベッドは、粗末なものにも関わらず、まるで最高級のものであるかのような寝心地の良さだった。
幸いなことに、何事も起きることなく夜が明けた。
朝食と身支度を手早く終えると、すぐに調査へ向かうことにした。事は一刻を争うからだ。
一行はまず、一番手近な熊の巣穴だったという洞窟を目指した。村から南へ一時間ほどの場所にあるということだった。熊がまだ居る場合、害獣として駆除する必要もあるため、優先して行くべきという判断になったのだ。
王国へ向かう道と川への道を除くと、村の周囲は木々が身を寄せ合って群生しており、馬で入るには窮屈なほど鬱蒼と茂っていた。それでも枝は身長よりも高い位置に伸びていたため、歩く分には邪魔をされずに済みそうだった。
「熊かぁ…。実物見たことないんですよね、俺」
三十分ほど歩いたところで、ぽつりとヤーンが言った。だんまりに慣れていないのか、それとも退屈を紛らわせるためなのかはわからないが、ハーキィンも話題に乗った。
「私も死体と毛皮でしか知らないかな。王国のあたりには居ないみたいだからね。ポゥワさんのところには居たんですか?」
のんびりとした調子のハーキィンが話題を振った。対照的に、神経を遠くまで張り巡らせながら、それが自然であるかのように警戒を続けつつ、ポゥワは答えた。
「居たよー。たまに狩ってた。毛皮を剥いで枝から吊るしておくと、怖がって獣や鳥が近づかないから、案山子代わりにみんな使ってたんだ」
「…自分は前に、人食い熊の解剖で胃の中を見て以来もう…ダメです。無理です」
そういえばゴルベアは、村を出発した時からずっと真っ青な顔だったことを思い出した。すぐに気が付いたカレトはゴルベアを心配し尋ねたが、特に理由は言わず大丈夫だと答えたため放っておいたが、ようやく理由がわかった。
「熊みたいな見た目してるのにね。間違って射っちゃったらごめんね」
カラカラと笑うポゥワ。カレトはさすがにゴルベアが気の毒に思った。
「その、なんだ。もし本当にダメだと思ったら早めに言うんだぞ」
「…言ったら何かしてくれるんでしょうか」
「あー…私の馬を貸してやるから、空にでも逃げていろ」
恐怖から逃がしてやり、その間に元凶を取り除く。とりあえず考えうる最善の方法だと思った。しかし、ゴルベアの表情は一層曇るばかりだった。
「…自分、高いところも苦手です…。本当に何から何まで申し訳ないです…」
こいつに勇気を分けてやれる魔法はないのだろうかと、心からそう思うカレトだった。
落ち込むゴルベアを励ましながら歩くこと、さらに二十分ほど。木の肌とは異なる乾いた土気色が、木々の向こう側に見え始めた。険しい絶壁が聳え立っているようだが、空を覆う枝葉の所為で、正確な高さは測れない。だが間違いなく五十メートル以上はありそうだった。
「洞窟はこの岸壁沿いにあるそうですけど…村の人たちも大体の位置しかわかってないみたいでしたね」
ヤーンの手には簡易的な地図があった。村を中心にして、三つの洞窟と川の位置が描かれているが、川と廃鉱以外は正確な位置がわからなかった。
「二手に分かれて調べよう。ゴルベアは私と共に来い。ヤーンは先頭に立って調査、ポゥワとハーキィンは援護を頼む」
皆が頷いて答えた。ただしハーキィンだけはつまらなそうな顔をして「…ゴルベア君と代わりたいなぁ…」と呟いたが、やはりカレトは何も聞かなかったことにした。
「私たちはこちらを調べる。ヤーンたちは逆側を頼む。発見の如何を問わず、十五分後に一度ここに戻り、報告を行うこと」
カレトの言葉を受けて、二組はそれぞれ逆の方向へと歩き出す。
互いに姿が見えなくなった頃、カレトは不安そうなゴルベアの気を紛らわそうと思い、話しかけた。
「ゴルベア、君は確か薬学や生物にも精通していると言っていたな」
きょろきょろと忙しなく左右に首を振りながら、大きな体を縮こまらせ、おっかなびっくりカレトの後ろを歩くゴルベアは、突然話しかけられ少し驚いた様子を見せた。が、すぐに気を取り直すと、カレトの質問に答えた。
「はい、大学時代は薬学を専攻し、今は生物の勉強も行ってます。まだ勉強の身で、未熟者ですが」
「謙虚だな。…君の見識を聞きたいのだが、アラニアの毒は一体どういう類のものだと思う?もちろんまだ実物を拝んだわけではないから、推測の域を出ないことはわかっているが、門外漢の私としては、専門家の考えを知っておきたいと思ってな」
うーん、と口に手を当て考える仕草をしながら、手帳を取り出してぱらぱらとめくる。大きな体と手にすっぽりと収まった手帳は妙に小さく見え、カレトにはその妙な光景が少しおかしかった。
「…話を聞いた限りでは、腐食作用のある毒ですね。亡くなった村の方が浴びただけで溶けてしまったということは、強酸性の毒でしょう。だから経口や粘膜を通じた摂取だけじゃなく、直接触れただけで危険です。多分、普通の金属なんかもあっという間にボロボロになってしまうでしょうね。文献では土地を百年腐らせると言われていますから、多分一見影響がなくなって作物が採れるようになっても、土壌汚染によって毒素が作物に蓄積される可能性もあると思います。現に、アラニアの被害があった土地で、何百年も経ってから正体不明の疫病が流行したこともありました」
専門分野の話題になると、途端にゴルベアは饒舌に話した。話している最中だけは、恐怖を忘れることが出来るようだ。
「なるほどな。それで、対処法としては炎が有効だと言っていたな」
「はい。炎によって気化すると毒素が消える…と言われています。炎はアラニアにも有効で、一番の利点は打撃や斬撃と違って毒液を撒き散らさずに済むということです。ハーキィンさんから頂いた”火の盾のタリスマン”か、持参した油を使って焼くのが理想ですね。簡単な火種くらいなら、自分も魔法で出せますから」
炎が有効であると聞き、カレトはサジティグニスの手綱を思い出した。
「炎が効くんだとすると、これも使えるのか?」
剣の鞘を持ち、下げ緒をゴルベアに見せた。再びうーんと唸りながら考えた後、ゴルベアが口を開いた。
「…それなんですけど、自分もよく仕組みがわからいのでなんとも…。キャンプの時に火を生み出してましたけど、自分で握っている時には燃え移ったりしないんですよね。なので、その紐の炎を使って燃やせるものの基準がわからないんですよね…」
確かにサジティグニスの手綱は、カレト自身にも不思議なものだった。こればっかりは口で言うよりも実際に見せた方が早いと思い、カレトは下げ緒を引き抜いて握った。
「これはな、狙ったものだけを燃やすことが出来るそうだ。最初聞いた時は不思議だったが、使ってみると、確かにその通りなんだ」
カレトが燃えろと念じる。すると即座に呼応し、下げ緒全体に炎が灯る。幻想的な、夕焼けを切り取ったような赤い炎がゆらゆらと燃える。炎に触れているにもかかわらず、握っているカレトの手には火傷ひとつない。
「例えば、今は”炎よ灯れ”としか念じていない。だから私やそれ以外のものが燃えることはない」
言いながらカレトは、手近な草に燃える紐をくっつける。しかしカレトの言葉通り、一向に燃え移る様子はなかった。
「な?」
「…本当ですね。はー…凄いですね…」
口をぽかんと開けて、感心したような口ぶりでゴルベアが答えた。
カレトは紐を草から離し、次はその草をむしった。そして片手に草を持ったまま、もう片方の手に持った下げ緒を近づけた。
「今度は草を燃やすぞ」
そう言うと、紐の炎が一気に手にした草へと燃え移り、あっという間に草は焼け焦げてしまった。カレトの手には灰だけが残っていたが、燃える草を乗せていても、やはり手のひらには何ら焼け跡はついていなかった。
「どうだ。言った通り草だけが燃えて、私の手は何ともないだろう」
カレトがスッと灰を差し出すと、ゴルベアは自分の指で挟んでこすった。指先が黒ずみ、確かに草が燃え尽きたことを確認した。
「持ってみるといい」
続いてカレトは未だ燃え盛る下げ緒を差し出した。恐る恐る手を近づけるゴルベアだったが、間近にあってもじんわりとした温もりを感じるだけで、焼かれる感覚は一切なかった。それでも確かにゴルベアの手の中で、下げ緒は静かに燃え続けていた。
「…これ、ハーキィンさんが調べてみたいって言った理由がよくわかります。あの人に限らず、魔術師だったら誰でも興味持ちますよ、絶対」
「…彼女が本当に紐に興味を持ってくれているだけだといいんだがな」
思わず本音がポロリとこぼれた。
「はい?」
「いや、なんでもない」
言い終えた瞬間のことだった。
それは、視界の端にかすかに映っただけに過ぎなかった。しかし僅かな違和感をカレトは見逃さなかった。
気が付いた瞬間に足を止め、無言で手を向けてゴルベアに制止の合図を送る。不思議そうに見つめるゴルベアから紐を急いで受け取ると、カレトは紐を右手に結びつけた。そのまま右手を柄にやり、警戒態勢を整えたまま、空いている左手で指差した。人差し指の延長線上、三十メートル先の木の影に、何かがあった。
目を凝らして木陰にあるものを注視する二人。よく見ると茶色い毛が生えている。耳を澄ますが、自分たちの呼吸と風にざわめく森の音、時折遠くで鳥の声が聞こえるだけで、他にそれらしい音はない。
(ゴルベア、身を守っていろ)
出来るだけ声を潜めてカレトは言った。ゴルベアは緊張した面持ちで二度頷き、腰から下げたナイフを手にした。翡翠と思しき半透明の刃でできた、実用性の低そうなナイフだった。ゴルベアが蚊の鳴くような小声でブツブツと呪文を唱え始めると、次第に刃から緑青の薄い光の膜が現れ、全身を覆い尽くした。恐らく防御系の魔術だろう。
カレトは目標がひとまず無反応であることを確認すると、剣を引き抜きながら弾かれたように間合い詰めた。意識は空間に巡らせつつ、視線は木陰のものをしっかりと捉えていた。
「…!!」
思わず眼前の光景にカレトは眉を顰めた。
「ゴルベア、…とりあえず大丈夫だ。こっちに来てくれ」
カレトの言葉に引っ掛かるものを感じながらも、ゴルベアは恐る恐る近づいて行った。その間も、カレトの視線はずっと何かを見つめたままだった。カレトの横に並び、ゴルベアも視線の先を追った。
「…これは…!」
中途半端に見えていたものの正体は熊の手だった。爪の先から肘へと続くはずだが、肘から先はほとんどが原形を留めていなかった。暗くおぞましい緑の粘液と混ざり合った熊の亡骸が、森と大地を穢していた。
「アラニアに襲われたのか…」
不快な光景に吐き気を覚えながらも、ゴルベアは必死に胃液の逆流を抑え遺体を観察した。
「…間違いない、と…思います…。村の人が言ってた情報と、合致してますから…」
熊の無残な亡骸は、アラニアの脅威は確実に近づいているということを報せていた。しかし肝心のアラニアは、もう近辺には居ないようだった。
「少なくとも、相打ちにならずに熊を仕留めることができる程度には、成長している個体が居るということか…」
目に見えぬ物陰を這いずり回りながら、アラニアは命を絡め取るべく死の糸を張り巡らせていた。熊を餌にしてアラニアは成長し、さらに力を蓄えている。
一刻も早く見つけ出して駆逐しなければ、取り返しがつかなくなる。毒液に塗れた死体を見つめながら、カレトは改めてアラニアの脅威を肌で感じていた。