16 彼女は、そうして
戦闘・流血描写があります。
「嬢ちゃんの父親ティモシオ・マジエストは、事故死じゃない」
ゆっくりと、
「四年前のビストレン大抗争に巻き込まれて死んだわけでもない」
アロルド・ブロジーニは言う。
「殺されたんだ。当時ビストレンに来たばかりの男――」
たっぷりと間を取って。
「ザタナス・ロゼケニーにな」
時が止まったように感じた。
冗談のようにゆっくりとリーナシエラが振り返り、ザタナスを見つめる。その深紅の瞳をザタナスは正面から受け止める。
再びリーナシエラはアロルドに目を戻した。
「……意味が、分かりません。何でお父さんが、ザタナスに殺されなきゃならないの?」
アロルドはわざとらしく肩をすぼめ、大袈裟に眉を寄せてみせる。
「残念ながら本当なんだよ。そのティモシオ・マジエスト殺害がビストレン大抗争の引き金だ。つまり、嬢ちゃんから母親を奪ったのもその男ってことになるのかね」
「ちょっ……ちょっと待ってよ、何でお父さんが死ぬと抗争が起こるの?」
アロルドは嬉しげに額に手を当て、天を仰ぐ。
「おお、それも聞かされてないのかい? ティモシオ・マジエストはな、四年前に滅びたマフィア、ノーデンスの構成員、しかも上級幹部の右腕と呼ばれた男だったんだよ」
「マフィア……お父さんが……? 嘘、そんなの、全然聞いたこと……」
「全ての真実から隔離されて、何と可哀相なお嬢ちゃんだ!」
芝居がかった仕草で両腕を広げるアロルドを後目に、リーナシエラは両手でザタナスの袖を掴む。
「ザタナス、嘘だよね? そんなの全部、嘘だよね?」
ザタナスはリーナシエラの瞳を見下ろし、次いでアロルドに目をやる。
「おい、アロルド・ブロジーニ。真実なんて言葉を使うんなら肝腎なところをはしょるんじゃねえよ」
リーナシエラのすがる眼差しに視線を戻し、ザタナスは静かに言った。
「ビストレンの裏社会全てを手中に収めるためにノーデンスが邪魔だったハスターは、抗争の大義名分が必要だった。だからハスターの所属じゃない俺を使ってノーデンスの構成員を殺し、ノーデンス側の追及を言いがかりだと突っぱね続けて先に宣戦させた。抗争が始まりさえすれば真実なんかどうでもよくなる」
「正確に説明すると話が長くなるだろうが」
文句とも言い訳ともつかないアロルドの言は無視し、ザタナスはリーナシエラの眼差しを受け止め続ける。
「……ザタナス……嘘って、言ってよ……!」
小さくかすれた、悲鳴のような声。揺れる大きな瞳を見つめたまま、ザタナスは囁いた。
「嘘じゃねえよ。お前の父親はマフィアで、殺したのは俺だ」
瞬間、深紅の瞳が一際大きく揺れた。強く眉を寄せて目を伏せ、小さな両手がザタナスの袖から離れる。
膝の上で、関節が白くなるほどきつく握り締められ、――リーナシエラの小柄な身体が翻った。ソファの肘掛けに建てかけられていた剣をその右手が掴む。
銀閃。耳障りな金属音が響く。
リーナシエラの抜き打ちを自らの剣で受けたザタナスは、そのまま剣を払って立ち上がり、間合いを取った。
リーナシエラも無理な体勢からの一撃を受けられて崩れた姿勢を整え、ザタナスから目を離さぬまま慎重にソファから降りる。ゆっくりと、しかし震えることなく切っ先が上がる。
正眼の構え。
彼女を突き動かしているだろう激情をほとんど現さない、仮面のように静謐な表情の中、紅蓮の瞳だけが瞋恚と悲憤と、そして殺意を雄弁に語る。
不意にぞくりとした。
見えない手で首筋をなで上げられたような感覚。
毎日顔を合わせている少女が、突如見たこともないものとして立ち現れたよう。
ザタナスは口の端を上げた。
「アロルド・ブロジーニ、手ぇ出すんじゃねえぞ」
成り行きを見物する構えで部屋の隅から引き出してきた椅子にかけ、窮屈そうに脚を組んだアロルドは軽く頷く。
「ああ、もちろんそうさせてもらうさ。……〈魔王〉にも手塩にかけた弟子は己の手で葬ってやりたいなんて心があったんだな」
感心混じりの揶揄をザタナスは鼻で笑った。
「違う。ちょっかい出した奴の命は保障出来ないっつってんだよ、『ハスター』。俺はともかくシエラがな。当然だろ?」
アロルドの反応を待たずに注意をリーナシエラに戻す。ザタナスは改めて剣を持ち上げた。左足を広めに引き、切っ先はリーナシエラの眉間につける。左手はほぼ柄に添えるだけの変則的な構え。体格差からして、リーナシエラには最も仕掛けづらいはずの形だ。
「俺がアロルド・ブロジーニと喋ってるうちによく打ち込んでこなかったな。少しは隙のあるなしが分かるようになったか」
挑発するように言ってみたが、リーナシエラは何ら反応を見せない。ザタナスはわずかに眉を上げ、自ら踏み込んだ。リーナシエラの肩口を狙って剣先を上げる。
刹那、リーナシエラも動く。ザタナスの飛び込みを狙い、全身のばねを使って放たれた刺突。
ザタナスは引き戻した剣の鍔元で弾いた。リーナシエラの身体の前面が一瞬がら空きになる。
好機。だが切っ先を戻していては間に合わない。
そのままの角度で殴りつけようとした柄頭は、しかし空を切る。リーナシエラが弾かれた剣の慣性に逆らわず、大きく右肩を引いて打撃を避けたのだ。
常人ならばかなり窮屈な姿勢だが、リーナシエラにとっては恐らく自然体とさほど変わりない。リーナシエラは手首を返し、後ろ足と強くひねった上半身の力を使い、二度目の突きを試みる。
ザタナスは左後方に大きく間合いを取った。
リーナシエラがすかさず追撃する。突きが空振りとなったにもかかわらず、立て直しのための遅滞はほとんどない。
リーナシエラの斬り下ろしに刃を合わせる。鼓膜を引き裂かんばかりの金属音。
彼女の剣を自分の剣の腹ですり上げて空間を作ろうとしたのを察したか、素早く切っ先を引き、今度は下から斬り上げる。
先程の一撃必殺といった趣とは打って変わり、息つく間もない連撃を浴びせかけられる。
手数は多いが決して闇雲に剣を振り回しているわけではない。斬撃に刺突、陽動を織り交ぜ、気を散じた受けでもしようものなら死角から刃が襲う。
(我が弟子ながらっつーか。……やっぱ強えな)
生来のセンスはもちろん、人並外れて柔軟な関節と、日々の訓練に支えられた技術が、筋力不足や性別による不利を補って余りある。何よりも特筆すべきはその精神性だ。
通常、激情によって剣を取れば、感情の乱れによって剣が乱れ、畢竟激情によって自滅するものと相場が決まっている。
しかしリーナシエラは、どのような理由により剣を取ろうとも、ひとたび敵と対峙すればほとんど感情を切り離したかのような平静さで目の前の戦いのみを見る。戦場における心の持ち方など師があれこれ教えたところで役に立たないことが多いが、リーナシエラがすんなり飲み込んで実践しているのはよほどザタナスと波長が合ったのか、それとも元々の資質によるものか。
今はさすがのリーナシエラも燃え上がる瞳の色が見え隠れし、感情を切り離し切れていないのが見て取れるが、動きには微塵の影響も及ぼしていない。
(……あと十年もすれば、冗談抜きで俺を越えるかも知れねえな)
ザタナスは苦笑して左手を柄から放した。
リーナシエラの斬撃に合わせて左足で踏み込み、剣を握る彼女の右手首を押さえに行く。
それを避けようとリーナシエラが剣先を上げ、肘で押し返す。逆らわず下がりながら、ザタナスは剣を下段に払った。
脚を狙った牽制だったが、リーナシエラは避けなかった。
金属音。剣にはわずかな手応え。
小さな身体が近間に飛び込んで来、斜め下方から喉元を狙った突きが放たれる。ザタナスはわずかに身体を傾け、――首筋に灼熱に似た痛みが走った。
無視して下段から左斜め上方に斬り上げるが、手応えはない。
間合いを取って再び正眼に構えたリーナシエラの陶器めいて白いふくらはぎから血が滴っているのを見、ザタナスは舌打ちした。
(これだから、こいつは)
先程ザタナスが彼女の膝上の高さで走らせた刃は、リーナシエラがその剣筋上に割り込ませたブーツの金具に当たり、ふくらはぎへと滑った。その際巻き込まれたスカートの生地も切り裂かれ、破れた布切れが力なく床に落ちている。
牽制のつもりだったゆえにこの程度で済んだが、気勢が乗っていればブーツごと足首を深く斬り裂いていたに違いない。リーナシエラがそれを分かっていないとは思えないが。
ザタナスはリーナシエラに負わされた首筋の傷に軽く触れた。指先をこすり合わせればぬるりとした感触。皮一枚――否、痛みや出血量からしてもう少し深いか。双方剣を持っての一対一で、出血を伴う手傷を負わされたのはいつ以来だろう。
リーナシエラの方も皮一枚とはいかなかったらしい。脚を伝った血液はブーツの縁に止めどなく吸い込まれていく。
これもまた、彼女が持つ戦士としての美徳。負傷しても決して怯まず、隙を見て取れば躊躇なく踏み込む。
リーナシエラを『こう』したのはザタナスだ。四年前、幼い彼女に剣を握らせたのも、砂地に水が染み込むように教えを吸収し、みるみる腕を上げていくのが面白くてつい熱心に指導してしまったのも彼自身。
今でもリーナシエラの成長は好ましく、彼女がどこまで到達するか興味があることに変わりはない。けれど、同時にザタナスは矛盾したことを思う。
――リーナシエラを戦場に立たせたくない。
馬鹿が、とザタナスは内心で自分を罵る。剣の師が弟子に対して思うことではない。
ザタナスは剣を下ろした。高そうな絨毯が傷付くのも構わず切っ先を床につけ、柄頭の上に両手を重ねる。
「その靴じゃもうだめだろ」
言ってザタナスはリーナシエラの足元を一瞥した。ブーツの左足首。ザタナスの剣を受けた際にちぎれた靴紐が、頼りなく垂れ下がっている。
この状態では確実に足さばきに支障が出る。靴を脱ぐ隙を見逃してやるつもりもない。元より負ける気はしなかったが、これでリーナシエラの勝ちは万に一つもなくなった。