10 〈K〉と〈黄金〉
薬物描写もどきがあります。
「おい、鍵かけ忘れてんじゃねえよ。『お客様』が間違って入ったらどうする」
ドアの開く音。二人分の足音。今の声は見張りの男のものだ。
「はあ? 俺はかけたぞ。てめえが忘れたんじゃねえのか」
こちらは案内係の男か。ザタナスは足首のナイフに手を沿わせつつ耳をそばだてる。
「んなわけねえだろ。人のせいにするたあ、とんだ腰抜け野郎だぜ。そんなに〈K殿〉が怖いのか?」
「何だと? てめえの方こそあの野郎が怖くてこっちに押し付けてんじゃねえのかよ」
見ずとも分かる険悪な空気が漂う。息を殺して成り行きを窺っていると、案内係の声が「やめようぜ」と響いた。長椅子が軋む音。
「例の日が近いんだろ。仲間内でもめてる場合じゃねえ」
再び長椅子が軋む音が聞こえた。二人の男がテーブルを挟んで向かい合わせに座っている構図だろう。
「ああ、そうだな。つうか、〈K殿〉はどこ行きやがったんだ。例の日の前哨戦で、何とかって奴を叩くとか言ってなかったか」
「大方女にでも呼び出されたんだろ。ったく、首領も何お考えなんだか。あんな余所者にでかい喧嘩任せるなんて信じられねえぜ」
続けて二、三〈K殿〉への不満を漏らしてから、案内係が話題を変えた。
「で、さっきの客はうまく転んだのか?」
「意識は戻ったから、もうこっちのもんだ。めでたく『特別なお客様』に昇格ってわけだ」
口調から、見張りのにやにや笑いが想像出来る。『客』というのはあの酔っ払いのことだろうか。
「そりゃあよかった。今日はテーターの下っ端が下手打って市衛軍にとっつかまったらしいからな。いい話もなきゃやってられねえぜ、あの大馬鹿野郎め」
「ドルヒの稼ぎが相当でかいからな。功を焦ったんだろうぜ」
「こっちはカジノと〈黄金〉両方で回してんだぜ。〈黄金〉だけのテーターが張り合おうって方が間違いだ」
ザタナスは目を細めた。指示書にあった〈黄金〉の単語が出て来た。もっと喋りやがれ、と念じる。それに反応したわけでもないだろうが、見張りが案内係の意見に同意する。
「違いねえ。それにしてもここのやり方はまどろっこしすぎねえか。最初から二階の金持ち客はともかく、一階から二階に昇格する客なんざ今日のでようやく八人目だぜ」
毎日あれだけ客が来てるのによ、と言う見張りの声音は悔しげだった。案内係がなだめるように声を和らげる。
「カジノの方もかなり利益は出てるんだ、多分〈黄金〉たいてる効果もあるんだろうよ」
「ニグラートの宝に相応しい効果とは思えねえ。決めたぞ、〈K殿〉に談判してやる。一階の〈黄金〉の量を増やしゃ、依存者はもっと増えるはずなんだ」
「馬鹿か。そんなに増やしたらこっちがやられるぞ。交代制とはいえ特にカジノ部屋の奴らはあそこにいる時間が長えんだ」
「だったら酒か白湯にでも溶かして、それを一階で売ればいい。とにかく、今のままは反対だ」
「それならありか。まあ言うだけ言ってみろよ」
ザタナスは眉間に皺を刻んだ。そうだ、カジノでは酒類どころか飲食物の類は一切売っていなかった。持参するとしても、酔い潰れるほどの量を持って来はしないだろう。あの男は酔い潰れたわけではないのだ。
N、つまりニグラートの宝とは、十中八九天空の果実のことだろう。色合いも〈黄金〉という隠語に符合する。彼らの会話からすると、天空の果実をカジノのどこかに仕込み、客をいい気分にさせて金を使わせると共に、天空の果実の直接の顧客を得るため、依存者が出るのを狙っている――ということか。
ブルメスター市のマフィア、ニグラート。ドルヒやその他の店は、ニグラートがビストレン市に進出するための足がかりなのだろう。アロルドが慨嘆していた開業までの手腕も、マフィアの組織力を以てすれば説明がつく。
アロルドからの依頼については、ひとまずこれで十分か、とザタナスは考えた。欲を言えば『特別な客』との取引現場やカジノに仕込まれた天空の果実の在処についても確認したいところであるが――
「くそが、本当にどこ行きやがったんだよ、〈K殿〉の野郎。全然来ないじゃねえか」
「しゃあねえ、持ち場に戻るか。いつまでも呼び込みのエリオだけに任せちゃおけねえからな」
案内係の言葉に見張りが「そうだな」と応える。足音、ドアの開閉、そして錠が落ちる音。
部屋の中から気配が消えたのを確認し、ザタナスは息をついた。左手に持ったままだった書類綴りを元の場所に押し込む。
必要な情報は得た。これ以上の長居は無用だ。ザタナスはドアの鍵を開け、通路に誰もいないのを確かめてから外に出た。足音を殺して通路を進むうち、思い付いて足を止める。
手を伸ばし、ザタナスは飾り棚の上に置かれた壺を手に取った。口から中を覗き込む。
熟れ切った果実のような甘い香り。
目の前の景色がねじれた。
壺の中から立ち上ってきた空気を身体がとっさに拒絶し、派手に咳き込む。
それでも視界の歪みは収まらず、二、三歩よろける。
壁に肩を打ち付けて身体を支えたが、その拍子、壺が手からこぼれ落ちた。
思ったよりも大きな音を奏でて壺が床に転がる。
その場に横たわって甘い幸福感を堪能したいという衝動を抑え、ザタナスは転がった壺を凝視した。壺は割れてはいない。代わりに散らばっているのは、金属の皿のようなもの、油らしき液体、そして薄黄色の粉。
壺の口から炎が見えたので、ザタナスは手を伸ばして壺を真っ直ぐに立てた。壺の中に仕込んだ天空の果実を下からあぶって、その成分を拡散させる仕組みのようだ。恐らくカジノにあった壺も同じ仕掛けが施されているのだろう。かなり高価な薬物であるはずだが、随分と贅沢な使い方をされているものである。主に休憩用の椅子の近辺に配置されていたのは、カジノの係員を出来るだけ巻き込まない配慮ということか。
ザタナスは舌打ちした。ホールの方から「何だ、今の音は」などといった声が聞こえてくる。壺が落ちる音がことのほか響いてしまったらしい。
うっかり迷い込んだふりをするのは無理がある。であれば、あまり賢い行動ではないが、こちらを確認に来たドルヒの店員――つまりニグラートの構成員を片付けて正面から撤退するか。
「この際だ、ご対面の前にもう少し見学させてもらっても罰は当たらねえよな」
誰にともなく呟き、ザタナスは並ぶドアのうちの一つを選んでノブをひねった。見張りが倒れた男を背負って入っていった部屋だ。
鍵はかかっていない。部屋の中に入った途端、甘い香りが鼻を突いた。天空の果実の匂いだ。ザタナスは袖口で鼻と口を押さえる。
メルツァーやカミラディアの言っていた通り、効きが強烈だ。先程のようにまともに吸い込んでしまった時ほどではないが、この部屋にしばらくいればそれだけで身を蝕まれてしまうのではないか。
長居は無用、とザタナスは部屋の中を手早く見回ることにした。背の高い衝立を回り込む。
「……なるほどな」
ザタナスは袖口の隙間から一つ息を吐いた。
並ぶ寝椅子。思い思いの体勢でそれに収まっている人々。目を閉じている者、恍惚の表情を浮かべる者、全くの無表情の者。半開きの口の端から唾液をこぼしている者もいる。共通しているのは、目に生気がないこと。ザタナスの乱入に気付いた者もいるようだが、ほんの少し首を動かしただけで、声を上げようともしない。
寝椅子の脇に一つずつ置かれた小さなテーブルの上には、火にあぶられて細い煙を吐き出している天空の果実と、液体が入っていたらしきグラス、そして白い紙。紙は、昼間ザタナスが売人から受け取った包みに似ている。
「これが二階の商売か。物が天空の果実なら、そりゃ金持ちが多いわけだ」
ザタナスは窓際に歩み寄った。カーテンを開き、窓を開ける。新鮮な冷たい空気を顔に受け、深く呼吸する。
格子がはまっているわけでもなく、窓は開放的な両開き。大きさも十分――ザタナスが通るに当たっては。
窓から身を乗り出し、下の様子を確かめる。この建物はザタナスの身長より少し高いほどの塀に囲われている。建物の東側に当たるそこは、手入れはおざなりで塀との間に草が生い茂っているようだ。
好都合だな、とザタナスは考えた。手入れが行き届いていないのは客の目に付かない場所だからであろうし、ドルヒ側の人間の目もあまり届かないと判断していいだろう。うまくすれば人目に付かず脱出出来るかも知れない。
ザタナスは道具入れの底を漁った。二階程度の高さで、しかも地面が草地なら、そのまま飛び降りても問題はない。だが、今は暗くて視界もよくないし、通路で吸い込んでしまった天空の果実のこともある。自覚のないまま身体能力が低下しているかも知れない。ザタナスは細い綱を取り出した。両端がそれぞれ輪の形に結ばれている。
綱をカーテンレールに引っかけ、一端の輪の中にもう一方の端を通す。ザタナスは綱を窓の外に垂らした。長さは大分足りないが、ないよりはましだ。綱の強度は確認済みだが、カーテンレールの方はどうだろうか。二、三度綱を引っ張り、ザタナスはまあいいか、と内心呟いた。
(これだけぼろもうけしてやがるんだ、カーテンレールが曲がったぐらい何でもねえだろうよ)
綱を持ち、窓枠に飛び乗ったところでドアが開かれた。入って来た案内係がこちらに気付き、あんぐりと口を開ける。
見付かったか、と密かに舌を打ちつつ、ザタナスは彼に、ことさらに莞爾たる笑みを浮かべて見せた。衝立の向こうを顎で示す。
「いいもん見せてもらったぜ」
案内係が反応する前に、ザタナスは外へ身を躍らせた。
※ ※ ※
「どうかされたか?」
彼の声に、クラウデン・ディーツは振り返った。先程彼が見た追い詰められたような表情は綺麗に拭い去られ、常通りの柔和な笑みがたたえられている。
「ああ、アーデルベルト卿。こんな時間までお疲れ様です」
「貴殿こそ」
クラウデン・ディーツの言葉に合わせて返しつつ、彼はくずかごとクラウデン・ディーツを見比べた。
思わず声を掛けてしまったが、どうやらクラウデン・ディーツはこちらに弱み――もしくは他の何か――を見せる気はないようだ。ならばこちらからわざわざ首を突っ込むこともあるまい。
彼がそう考えていることを知ってか知らずか、クラウデン・ディーツは芝居がかった風に肩をすくめて見せた。
「何しろ、未熟なもので。能力を時間で補わねば追い付かないのですよ」
「謙遜を。大学時代の噂は聞いている」
「どうやら本体より巨大な尾ひれがついているようですね」
表面的な会話を交わしつつ、彼が切り上げる時機を窺っていると、同じ職場で働く男二人が顔を出した。年はクラウデン・ディーツより少し上、中流貴族出身の彼らは、平民出の同僚を良く思っていないことを隠そうともしない部類の人間である。
「おや、ディーツ殿、こんなところでどうされました。くずかごがそんなに――」
そこまで言ってから、男達は彼がいることに気が付いた。驚いたような顔をした男達だったが、彼がクラウデン・ディーツに寄らず触らずの態度を貫いていることを知っているためだろう、安心したように会釈してきた。
「お疲れ様です、アーデルベルト卿」
彼が当たり障りない挨拶を返すと、男達はそれきり注意をクラウデン・ディーツに戻した。
「くずかごがそんなに気になるのであれば、清掃部門への配置換えを希望されてはいかがです? 微力ながら我々も口添えいたしますよ」
「そう言えば、明後日の諮問会は貴殿の仕切りではありませんでしたか? 何でしたら私どもが肩代わりいたしましょうか」
つまり、と彼は考えた。クラウデン・ディーツは、恐らくはこの二人組に、諮問会に必要な書類を隠されたかだめにされたかしたわけだ。目障りな平民に恥をかかせようとしたのだろうが、随分と稚拙な手法である。一年かけて有能さを披露したクラウデン・ディーツが、自ら書類をなくすなどという初歩的な失敗を犯すはずがないのは誰にでも分かる。クラウデン・ディーツが上司に事実を訴え出れば二人の罪は露見するだろうし、もし彼らにまで手が及ばずとも、諮問会の失敗は彼らの部署全体の連帯責任として扱われるに違いない。
クラウデン・ディーツは丁寧に微笑んだ。
「いいえ、お手を煩わせるには及びません。どうか私のことはご放念ください」
男達はクラウデン・ディーツが文句も泣き言も言わなかったことに拍子抜けしたようだったが、更に二、三遠回しな嫌がらせの言葉を重ねると、それで満足したらしい。
「では明後日。素晴らしい諮問会になるでしょうから、勉強させていただきますよ」
わざとらしいことを言い残し、男達は去って行った。
「……素晴らしい諮問会、ね」
クラウデン・ディーツが呟いた。その声音は常になく低い。
ふと、クラウデン・ディーツの口角が上がった。声もなく嗤うようなその表情に不穏なものを感じ、彼は早急に場を辞去しようとする。
「では、私もこれで――」
「アーデルベルト卿」
王都で生まれ育った人間特有の、全くなまりのない発音で彼の名が呼ばれる。甘ささえ感じられるほどに穏やかな語調ながら、どこか有無を言わせぬ響きは彼の言葉を完璧に遮った。
「失礼ながら、確か今、お暇――いえ、余裕がおありでしたよね?」
彼は眉間をしかめた。確かに、彼の担当するうちで最も大きな事業は先日片が付き、今抱えている案件にも期限の迫るものはない。
しかし、なぜクラウデン・ディーツが彼の仕事量を把握しているのだ。
「ご不快でしたら申し訳ありません。ご存知かも知れませんが少し、色々ありまして、いざというときのために同じ部署の方々の仕事は調べさせていただいております」
クラウデン・ディーツの言う「少し、色々」は数々の嫌がらせのことを指すのだろうと、彼にも察しがついた。情報は時に何よりも強い力となる。例えば、今のように。
「七月期限の土地収用」
まだ余裕はあるが、少し手こずりそうな案件を挙げられ、彼は目元を険しくする。クラウデン・ディーツは浮かべる笑みを深くした。
「地権者の方とは、父を通じて懇意にさせていただいているんですよ――アーデルベルト卿」
金の瞳が真っ直ぐに彼を見つめる。
「手伝っていただけませんか。明日一日あれば、私一人でも体裁を整える程度は十分、と思っていたんですが。……気が、変わりました」
ほんの一年前まで学生だった若者とは思えない、実力に裏打ちされた凄味のある態度と、言葉。
「ご期待に添うような、『素晴らしい諮問会』を、開催しようと思います」
この一年弱、彼の知る限り、クラウデン・ディーツが自分から実家について口にしたことはなかった。まして、実家の手づるの利用を示唆することなどは。
それだけ、本気だということだ。何をしようとしているのかは分からないが。
「――私でよければ」
彼がそう頷いたのは、自分のためでしかなかった。
クラウデン・ディーツの実家のつては魅力的であるし、そうでなくても、諮問会が失敗でもすれば、尻拭いが降りかかってくるのは避けられない。彼が手伝うことで失敗の可能性を少しでも減らせるのならばその方がいい。
「ええ、もちろん。よろしくお願いします、アーデルベルト卿」
そして、その夜から諮問会当日にかけて、怒濤の作業が始まった。
関係各所への連絡調整、『紛失』した書類の再作成、参加者へのレクチャー、当日の流れの再構成と、最終確認。
どうやら諮問会の内容を当初のものと一部変更したらしく、やることはいくらでもあり、いくらやってもなかなか『完璧』には近付かない。
クラウデン・ディーツの指示は的確だった。自らも通常業務と合わせて膨大な事務をこなしながら、終着点を見据えて着実な手を打つ。
ほぼ不眠不休で作業を続け、諮問会は何とか開会までこぎ着けた。
結果から言えば、諮問会は大成功のうちに終わった。国王から異例のお褒めの言葉もあったらしい。『らしい』というのは、彼は一通りの後片付けが済んだ時点で、この件から手を引いたため、又聞きでしかないからだ。クラウデン・ディーツは彼に感謝し、この諮問会の共同担当者としたいと言ったが、彼は断った。彼の官吏として望みは平穏無事に日々を過ごすことだ。突出した手柄は必要ない。
それに、クラウデン・ディーツには言わなかったが、彼は密かにこの諮問会にきな臭さを感じていた。
『素晴らしい諮問会』、確かにその通りだ。だが、あの夜のクラウデン・ディーツの笑みは、決してこれほど円満な結末を予想させるものではなかった。土壇場で変更した内容といい、彼の勘は「まだ裏に何かある」と囁く。
そんな面倒くさそうなものとは、きっぱり縁を切るのが賢明だ。
そうして、彼は彼の日常に戻った。
クラウデン・ディーツとの関係もあれきりだと――そう、思っていた。