「溺れる」.2
しばらくの間、いつもと変わらぬ日々が続いた。
家庭も趣味もない私には毎日が仕事のみの生活であった。
何のために生きているのか、何を喜びとすればいいのか。
仕事の疲れよりも、そういった途方もない空虚感が私の心をじわじわと蝕んでいった。
そんな日々の中。
いつものように仕事を終え、何をするともなく家にまっすぐ帰った私は、男から渡された薬のことを思い出した。
得体の知れない薬ではあったが、もはや私は自暴自棄に近い状態にあった。
薬が効いてくれれば儲けもの。
それが何かの劇薬だったとしても、人生になど未練はなかった。
しまっておいた例の錠剤を取りだし、私はそれをひょいと口に入れ、水で流し込んだ。
しばらくじっとしていたが、体には何の変化もない。
「バカらしい…」
心のどこかで何かを期待していた自分に気付き、私は体を敷きっぱなしの布団に投げ出した。
「風邪薬か何かか…?
とにかく私はからかわれたのだ…」
そう呟いた私は、いつの間にか眠りに落ちていた。
朝日を体に浴びているのに気付き、私は目が覚めた。
「なんだこれは…」
自分でも驚くほど清々しい気分であった。
いつもより1時間以上早く起床したが、眠気などなかった。
何故か気持ちは高ぶり、何かをせずにはいられなかった。
そんな気分に押されるように私は外に出て、ジョギングを始めていた。
「気持ちがいい…」
自然と足が動き、息切れも気にならなかった。
不思議な高揚感に浸りながら走っていると、同じくジョギングしているのだろう若い女性と目が合った。
「おはようございます」
思わず目を奪われるような笑顔であった。
「お…おはよう」
「お散歩ですか?」
「ええ。珍しく早起きしたもので…」
不思議と会話が弾んだ。
数分の談笑の後、私は家に帰った。
その状態は出勤後も続き、仕事も能率的にこなし、上司には誉められ、私はまさに絶好調であった。
心当たる原因としては、やはりあの薬である。
一体何の薬なのか。
検討はつかなかったが、私の生活に良い変化をもたらしてくれたのは確実である。
上機嫌で仕事を終え、家路に向かう途中。
「やあ。見違えたな。元気そうじゃないか」
声をかけてきたのはあの男であった。