「溺れる」.1
「やあ、元気かい?」
仕事帰りの疲れた私に声をかけたのは見知らぬ男であった。
「どこかでお会いしましたか…?」
私がそう尋ねると男は楽しそうに笑った。
「いえ、疲れているように見えたものでね。
俺はこういう者さ。」
男が懐から取り出した名刺を見やると、私はやっと合点がいった。
「ははん、セールスマンのようなものですね?
私に何か買わせようと?」
ずいぶん不躾なセールスの仕方だ。
疲れていたせいもあり、私は少し腹が立った。
「まぁ、そのようなものだ。
しかし何か買わせようってわけじゃない。
一種のボランティアみたいなものでね。貴方のような疲れた顔をしている人に薬を配っているのさ」
彼の話に私は疑いと胡散臭さを覚えずにはいられなかった。
もはやセールスマンという肩書きさえ怪しくなってきたその男に、これ以上関わるのは何か危ない気がしたし、何より私は早く帰って休みたかった。
「悪いが薬は必要ないし、私は時間もないのだ。
他をあたってくれないか」
男は気味の悪い笑顔を浮かべ、
「飲むも飲まぬも貴方次第。
すぐに捨ててもよろしいさ」
そう言い残すとくるりと体をひるがえし、夜の人混みの中へと消えていった。
「なんだったのだあの男は…」
そう呟いた私は、ふと手の中に何かを握っていることに気付いた。
「薬…?錠剤だ…
あの男いつの間に…」
背筋を何かに撫でられたような薄気味悪さを感じたが、どこかであの男が見ているような気がして、私はそれをスーツのポケットに突っ込んだ。