結び目の名
天幕の綱には、それぞれ名がある。風上の地面に斜めに打つ杭の綱を「兄」、その反対を「弟」、天井を吊る太い一本を「母」と呼ぶ。親方の家で修業を始めた十二の春、私は綱を張るより先に、その呼び名を覚えさせられた。
「砂嵐の夜に『あれを締めろ』と言っても、誰も動けん」と親方は言った。「『兄を締めろ』なら、目をつぶっていても手が行く」
名を持たないものは、掴めない。掴めないものは、守れない。
サルハの街の真ん中には、命名の泉がある。子が生まれて七日目、親は銅貨を一枚持って石段を降り、泉守に貨を渡す。泉守が貨を水に落とし、広がる輪の数と崩れ方を読んで、子の名を告げる。サルハの者は皆そうして名を得てきた。私も、妻も、親方も。
ただ、ここ数年、泉の告げる名がおかしい。向かいの鋳掛屋の双子は、上がカディム、下がカディン。去年粉屋に生まれた娘は「乾いた井戸の底の石」という意味の長い名を告げられ、母親が泉守の前で座り込んだまま立てなかったという。
私は綱の名を、その綱が何をするかで覚えた。人の名もそうであってほしい。
もし私に子ができたら、その名は、私が意味を言える名にする。泉にそう言わせるのか、別の手を探すのかは分からなかったが、母綱を張るたびに、私はそう決めていた。
◇
妻のナジャがそれを告げたのは、乾季の終わり、私が縫い糸に蝋を引いていた夕方だった。
彼女は戸口に立ったまま、手のひらを腹に当てた。それだけで分かった。
蝋の塊が膝から転がって、土間で砂をまとった。私は拾わずに立ち上がり、何か言おうとして、言葉の代わりに笑ってしまった。ナジャも笑った。
その夜は眠れなかった。屋上に寝転んで、私は顔も知らない子のことを考えた。強い子がいい。いや、強くなくてもいい。嵐の夜に、隣の天幕まで綱を貸しに走れる子なら。ナジャに似て数に強い子だろうか。私に似て、口より先に手が動く子だろうか。
朝を待ちきれず、私は通りに出た。
サルハの朝は早い。染め物屋の甕から藍の匂いが立ち、鍛冶場の炉に火が入る。水袋を積んだ驢馬が、オアシスの縁から列になって戻ってくる。私は鋳掛屋の戸を叩き、パン窯の前に並ぶ女たちに声をかけ、親方の家の門まで走った。
「子ができた」
言うたびに、その言葉は少しずつ本当になっていった。
◇
鋳掛屋のウマルは、双子の片方を膝に乗せたまま祝ってくれた。
「めでたい。で、泉にはいつ行く」
「生まれてからだろう」
「そりゃそうだ」ウマルは子の頭を撫でた。カディムなのかカディンなのか、私には見分けがつかない。「……近ごろ、泉守の顔色が悪いって話、聞いてるか」
パン窯の前の女たちも、同じことを言っていた。去年からこの通りで生まれた子の名は、半分がよく似た響きで、残りは誰も聞いたことのない名だと。
「似た名は似た運命を呼ぶって言うだろう」ウマルは声を落とした。「うちのは二人とも、同じ日に同じ熱を出して、同じ日に治った。それくらいならいい。だがな、南の通りにカディルって子が三人いて、三人とも井戸に落ちかけた」
「たまたまだろう」
「粉屋の娘はどうだ。あの長い名をもらってから、乳をろくに飲まん」
ウマルの膝の上で、双子の片方がむずかった。すると奥の部屋で、もう片方が同じ調子で泣き出した。
帰り道、私はパン窯の前を、誰にも声をかけずに通り過ぎた。来たときと同じ道だった。
◇
その晩、縫いかけの天幕布を前に、私は針を持ったまま手を止めていた。
思い出したのは、東から羊毛を運んでくる商人の話だった。湖の向こう、川を上った森の国では、子の名を泉ではなく樹が告げる。年に一度だけ葉を落とす樹があって、その葉脈を読むのだと。
樹なら、泉とは違うかもしれない。
けれど東の国までは、ラクダで十日あまり、さらに湖を渡り、川を上る。往って帰れば、ナジャの腹はもう大きく張っているだろう。
私は針を布に刺したまま、寝床のナジャを見た。彼女はつわりで、夕飯を半分残していた。代わってやれることは何もない。水を汲み、背中をさすり、夜中に目を覚ましたとき隣にいる。それくらいしかできない。そのそれくらいまで手放して、私は葉っぱ一枚を取りに行くのか。
「縫わないの」
暗がりからナジャの声がした。
「起こしたか」
「針の音がしないと眠れない」
私は泉の噂を話した。ウマルの双子のこと、粉屋の娘のこと、東の樹のこと。行きたいとは言わなかった。口にすれば、行くことになる気がした。
ナジャはしばらく黙っていた。それから寝床の上で身を起こし、腹に手を置いた。
「カディンのこと、考えてた」
「うん」
「あの子、自分が呼ばれたのか兄さんが呼ばれたのか分からなくて、いつも一拍遅れて振り向くの」
彼女は私を見た。
「この子には、一拍も遅れてほしくない」
「ナジャ。私がいない間に——」
「ウマルのおかみさんがいる。母もいる。それに、あなたがいても、お腹の中のことは何もできないでしょう」
本当のことだった。本当のことだから、少し痛かった。
「行って。いい名前を持って帰ってきて」
私は刺したままの針を抜き、残りの縫い目を一気に仕上げた。その夜の縫い目は、いつもより少し粗かった。
◇
旅は準備がすべてだ、と親方は言う。天幕も同じで、砂嵐が来てから杭を探す者は天幕を失う。
私は三日かけて支度をした。東の国までの地図は、羊毛商が描いたものを写させてもらった。干したナツメヤシ、塩の利いた硬いパン、山羊の乳を固めた白い粒。水袋を二つ、予備の革紐、繕い用の針と蝋。
道中の連れは、親方が手配してくれた。昔、天幕を納めたことのある行商人で、名をゼムドという。東へ向かう道の途中、〈三つ岩〉と呼ばれる場所まで塩を運ぶので、そこまでならラクダの背を一つ貸してやると言った。代わりに、道中で天幕が破れたら私が繕う。
出立の朝、ナジャは戸口まで出てきた。
彼女は私の外套の襟を直し、それから自分の髪を結っていた紐をほどいて、私の手首に巻いた。天幕職人の女房らしく、ほどけにくい結び方だった。
「帰ってきたら、ほどいて返して」
「ほどき方を忘れそうだ」
「なら、切らずに帰ってくることね」
私は手首の結び目を指でなぞった。それから一度も振り返らずに、ゼムドのラクダのほうへ歩いた。
◇
ゼムドは、とにかく急ぐ男だった。
日が昇る前に起こされ、日が沈んでも歩かされた。二日目の昼、岩陰で休もうとした私を、彼はラクダの上から見下ろした。
「明後日の日没までに、三つ岩に着かなきゃならん」
「一日くらい遅れても」
「遅れたら、誰も待っていない」
キャラバンといっても、大きな隊列を組むわけではないらしい。十も二十もの小さな行商人が、それぞれ別の道を、別の井戸を辿って進む。砂漠の井戸は小さく、一度に百頭のラクダが寄れば涸れてしまう。だから散って歩き、決めた日に、決めた場所に集まる。
「三つ岩には、北から塩、南から乳香、西から俺たちが来る」ゼムドは水袋の口を締めながら言った。「水も食い物も、その日に着く分しか積んでない。一日遅れた奴の分の水は、誰も持っていない」
二日後の日没、私たちは三つ岩に着いた。
赤い岩が三本、空に指を立てたように並んでいる。その根元で、すでに火が二つ焚かれていた。日が落ちきるまでに、火は七つになった。
驚いたのは、男たちがほとんど挨拶もせずに取引を始めたことだ。塩の袋が下ろされ、乳香の包みが開かれ、秤が出る。前の集まりで交わした約束——次は何を、どれだけ持ってくるか——を、誰もが覚えていて、誰もが守っていた。半年前の口約束ひとつのために、男たちは砂漠を何十日も、別々に歩いてきたのだ。
サルハでは、隣の家はいつも隣にある。約束をするのは、明日も会える相手とだけだ。
その夜、焚き火から離れて横になると、手首の紐が頬に触れた。ナジャは今ごろ眠っているだろうか。吐き気で起きていないだろうか。水甕の水は足りているだろうか。考えても、ここからは何ひとつ確かめられない。
焚き火のほうから、ゼムドの笑い声がした。北の塩商人と、次の集まりの日取りを決めているらしかった。半年後の、新月の夜。彼らはきっと本当に、またここへ来る。互いの顔も、行く道も見えないまま。
私は紐の結び目に親指を当てて、目を閉じた。
翌朝、ゼムドとは三つ岩で別れた。ここから先は、乳香を東の森の国へ運ぶ女商人、オルカの一行に加わる。ゼムドは私の背中を一つ叩くと、北の塩商人と同じ方角へラクダを向けた。
「新月だぞ」と塩商人が言い、ゼムドは振り返らずに手を上げた。
◇
砂が湿りを帯び、やがて泥になり、その先に湖があった。
湖面のあちこちに、黄色い塊が浮いている。近づくと、それは干した葦を束ねて積み上げた島だった。島の上には葦で編んだ家が建ち、細い煙が上がっていた。
「ラクダはここまで」とオルカは言った。「向こう岸へは、浮島の民の舟を買うか借りるしかない」
オルカには馴染みの家があるらしく、乳香の包みを抱えてさっさと迎えの舟に乗っていった。私は一人、岸に残された。
岸に舟をつけていた老婆に、向こう岸まで乗せてほしいと頼んだ。老婆は私を上から下まで眺めて、指を三本立てた。
「銀三枚」
私の財布には、銀が二枚と、銅が少し。ナツメヤシの残りを出すと、老婆はひとつ摘まんで齧り、種を湖に吐いた。
「半枚分」
「帰りの分もいるんだ」
「帰りのことは、帰るときに考えな」
値切っても値切っても、銀二枚と半分から下がらない。サルハの市なら、「また来るから」と言えば一割は引いてもらえる。けれどこの老婆は、また来る客の話には耳を貸さなかった。
「明日のあんたが払う銀なんて、今日の葦一本にもならないよ」
言い返せずに黙った私の目に、老婆の背後の浮島が入った。
島の縁で、若い男が二人、新しい葦の束を古い束に結びつけていた。束を締める縄は葦を撚ったもので、結び目が島の縁にずらりと並んでいる。そのいくつかが、水に浸かったところから黒ずみ、緩んでいた。
「あの結び方だと、濡れるたびに縄が逆に撚れる」
思わず口に出ていた。老婆が振り向いた。
撚りの向きと、結び目を回す向きが同じになっている。乾いているうちはいいが、水を吸うと縄が膨らみ、自分で自分をほどいていく。天幕の綱でも、新入りがよくやる間違いだった。
「回す向きを逆にすれば、濡れるほど締まる」
老婆はしばらく私の顔を見ていたが、やがて顎で舟を示した。
その日の午後いっぱい、私は浮島の縁に膝をつき、男たちと一緒に結び目を直した。男たちは最初こそ疑わしげだったが、私が直した結び目を水に浸けて引いてみせると、黙って手元を真似るようになった。指が葦の繊維で切れ、泥の匂いが爪に染みた。
日が傾くころ、老婆が干し魚を一枚持ってきた。
「舟は明日の朝。銀一枚」
「さっきは二枚半だった」
「さっきのあんたは、何もしてなかった」
翌朝、まだ霧の残るうちに島の縁へ出ると、昨日の男たちがもう膝をついていた。
昨日私が直した結び目を、一つずつほどき、結び直している。
「ちゃんと締まっていただろう」
若い男は手を止めずに答えた。「締まってた。だから結び直すんだ」
葦は下から腐る。どれほど上手く結んでも、縄は毎日水を吸い、毎日少しずつ痩せていく。だからこの島の者は、朝起きるとまず自分の家のまわりの結び目をほどいて、結び直す。一日怠れば、床が一日ぶん湖に近づく。
「親父も爺さんも、毎朝やってた。島は作ったら終わりじゃない」
私は手首の紐を見た。ナジャの結び目は旅の埃で白く汚れていたが、まだ固かった。
名前も、そういうものかもしれない。泉が告げても、樹が告げても、それで終わりではない。朝に呼び、夜に呼び、そうやって結び直されていくものなのかもしれない。
だとしたら私は今、毎朝呼ぶはずの相手から、いちばん遠いところにいる。
霧の向こうから、老婆の櫂の音が近づいてきた。
◇
湖を渡り、川を上って四日目、空気が変わった。
乾いた風に慣れた肌に、湿った重い空気がまとわりつく。川岸の木々は見上げても梢が見えないほど高く、その幹の途中に、家があった。板と蔓で組んだ床が枝から枝へ渡され、縄梯子が地面まで垂れている。
樹の国の人々は、地面ではなく樹の上で暮らしていた。
縄梯子を登ると、樹上の広場のような場所に出た。若い女が籠に盛った赤い実を、通りかかる者に誰彼なく配っていて、私にも一掴み渡された。代金を払おうとすると、女は首をかしげた。
「明日には傷むもの。今日食べる人がいるなら、その人のよ」
この国の食べ物は、果物と芋と、森で獲れる小さな獣だという。どれも日持ちしない。蓄えようにも蓄えられないから、手に入ったものはその日のうちに分ける。広場で何か揉め事を裁いていたのも、髭の白い長老ではなく、私より若く見える男女だった。
サルハでは、倉の大きさがその家の格を決める。ここには倉がなかった。
当てのない私は、職人を探した。樹上の家を組む者たちの組合が、川沿いの大樹の根元にあった。蔓を編んでいた男に事情を話すと、男はあからさまに面倒そうな顔をした。
「命名の樹か。あんたで今年三人目だ」
それでも男は私の手を見て、蔓の継ぎ目を一つ締めさせた。締め終わると、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がった。
「ついて来い」
命名の樹は、森のいちばん奥にあった。
思っていたほど大きくはなかった。幹は苔に覆われ、根元に茶色い葉が積もっている。その下に、灰色の衣を着た聖職者がいた。私とさして年の変わらない女だった。
私は泉のことを話した。似通った名、おかしな名、カディムとカディン。ナジャのこと、まだ見ぬ子のこと。
聖職者は落ち葉を一枚拾い、葉脈を指でなぞった。
「この樹も、同じです」
昔、この大陸のすべてを治めた帝国があった。帝国は、どこで生まれた子にも帝国の言葉で名を与えるために、各地に泉や樹を置いた。名が揃えば、人も揃う。帝国が滅んで何百年も経つうちに、国々は別々の言葉を話し、別々の暮らしをするようになった。泉と樹だけが、元の働きを失ったまま残った。
「今のこの樹は、世の中にある名前を、くじのように引いているだけです。似た名が続くのは、多い名がよく出るから。おかしな名が出るのは、どこかの誰かが一度だけ付けた名も、同じ箱に入っているから」
膝から力が抜けて、私は根の上に座り込んだ。十日あまりの砂漠と、湖と、川。
「それで、この国の子はどうやって名を」
「私が考えます」聖職者は葉を落とした。「親から話を聞いて、その子に合いそうな名を。樹の下で告げれば、親は安心しますから」
彼女は私の前に屈んだ。
「遠くから来られたのです。よければ、あなたのお子の名も考えましょう。もう、いくつか浮かんでいます」
良い名なのだろう。この人は、私の話を最後まで黙って聞いてくれた。
彼女が口を開きかけたとき、私は手を上げていた。
「待ってください」
声が、思ったより大きく森に響いた。
「聞いたら、たぶん、その名にします」
聖職者は口を閉じた。
「でも、それは、あなたがこの子に願ったことです。私のじゃない」
言ってから、自分が何を断ったのかを知った。泉が狂っていなかったとしても、私はきっと、同じ顔で石段を上ってきただろう。
聖職者は少しだけ笑って、落ち葉を一枚、私の手のひらに載せた。
「では、これを持って帰ってください。何も書いてありませんけれど」
◇
組合の男のところへ戻ったのは、日が暮れかけたころだった。男は蔓を編む手を止めずに、「名はもらえたか」と訊いた。
「もらわなかった」
男は初めて顔を上げた。
私は男の手元を指した。「それは、この国の言葉で何と言う。蔓をそうやって結ぶことを」
「ティルナ」
「チルナ」と繰り返すと、男は笑った。私の舌では、どうしてもそうなる。サルハの言葉には、その音がない。
「ただ結ぶんじゃない。離れた枝と枝に渡して、人が歩けるようにすることだ」男は編みかけの蔓を持ち上げた。樹と樹のあいだに渡す、床の縁になる蔓だった。
帰りの舟で、私はそのことばかり考えていた。
三つ岩の男たちは、半年先の約束で互いを結んでいた。浮島の民は、毎朝の結び目で今日を結んでいた。樹の国の人々は、傷む前の実を手渡すことで、隣の誰かと結ばれていた。同じ「結ぶ」でも、信じているものが違った。言葉の後ろに、それぞれの暮らしがあった。
私の子は、サルハで生まれ、サルハの言葉で育つ。けれどいつか、砂漠の向こうへ行くかもしれない。そのとき、違うものを信じる人たちのあいだに、蔓を一本渡せる人であってほしい。
浮島では、老婆は今度は銀を取らなかった。代わりに私は、島の端の結び目を三つ直した。翌朝、それはもう結び直されていた。
三つ岩には誰もいなかった。焚き火の跡に、黒い灰が風で薄く散っていた。半年後の新月にまた七つの火が灯ることを、私はもう疑わなかった。
サルハに着いたのは、出立から四十日目の夕方だった。
ナジャの腹は、外套の上からでも分かるほど丸くなっていた。戸口で私を見ると、彼女は何も言わずに私の手首を取り、紐の結び目を確かめた。それから、ほどいた。指先が少し震えていた。
「固く結びすぎた」と彼女は言った。「途中で切って捨てられてたらどうしようって、毎晩考えてた」
その晩、私は旅の話をした。三つ岩の火、浮島の結び目、樹上の赤い実。樹が泉と同じだったこと。聖職者の申し出を断ったこと。
責められると思っていた。四十日もそばを離れて、葉を一枚持って帰っただけなのだから。
ナジャは落ち葉を灯にかざして、葉脈を眺めていた。
「本当はね」と彼女は言った。「あなたが名前をもらって帰ってきたら、どうしようと思ってた」
「どうして」
「その名前で、この子をちゃんと呼べるかなって。知らない国の、知らない誰かが決めた名前で」彼女は葉を下ろした。「でも、行ってって言ったのは私だから」
彼女が一人で過ごした四十日を、私は思った。吐き気の朝と、腹の重い夜。そのあいだずっと、口にしない不安を、手首の結び目のように固く締めていたのだろう。私はそこにいなかった。
けれど浮島の男たちは、緩んだ結び目を見ても島を捨てはしなかった。
「これからは毎日いる」と私は言った。「生まれてからも、ずっと呼ぶ」
「何て呼ぶの」
私は樹の国の言葉を教えた。蔓のこと、枝と枝のこと、浮島と三つ岩のこと。
ナジャは何度か口の中で転がしてから、「チルナ」と言った。私と同じ訛りだった。二人で顔を見合わせて、笑った。
「呼びにくい」
「呼んでいれば、慣れる」
子は、冬の最初の雨の夜に生まれた。
七日目、私たちは泉へは行かなかった。代わりに、ウマルの家と、パン窯の前と、親方の門の前で、その名を告げて回った。
最初の何十回か、私の舌は「チ」と「ティ」のあいだで迷った。ナジャも迷った。ウマルは三度聞き返し、双子は面白がって、二人そろって真似をした。
それでも朝ごとに呼び、夜ごとに呼んだ。
ある朝、奥で泣き声がして、私は振り向くより先に名を呼んでいた。
ティルナ。
舌はもう、迷わなかった。
◇




