〜慣れない人 ...。
丸と四角です。
生きている上で大切なこと、役立つことなんかを小説を通じて紹介出来ればなと思います。
三月の終わり、桜がまだ蕾のままでいる頃、私は七年間付き合った彼に別れを告げた。
理由を聞かれると困る。浮気でも、喧嘩でも、すれ違いでもなかった。ただ、私たちはあまりにも
「慣れすぎて」いたのだ。
彼——誠司は、私の言葉を聞いた後、しばらく黙っていた。テーブルの上に置かれたコーヒーカップを、指でくるくると回しながら。
「……そっか」
それだけだった。泣きもせず、怒りもせず、引き止めもしなかった。それがまた、私たちらしかった。
別れた翌週、私は会社の後輩・田中くんに声をかけられた。
「先輩、最近なんか顔色悪いですよ。
ーご飯でも行きましょう!」
田中くんは二十四歳で、私より五歳年下だった。いつも少し大きすぎるシャツを着ていて、話すとき相手の目をまっすぐ見る子だった。
断る理由もなくて、私たちは会社の近くの定食屋に入った。
彼は唐揚げ定食を頼んで、私はサバの味噌煮を頼んだ。他愛もない話をした。上司のこと、最近読んだ本のこと、子供の頃に飼っていた犬のこと。
気づいたら二時間が経っていた。
帰り際、田中くんが言った。
「先輩、笑うと目が細くなりますね。
なんか、いいなと思って。 笑」
それだけ言って、彼はさっさと改札を通ってしまった。ホームに消えていく後ろ姿を見送りながら、私は自分の頬がほんのり熱いことに気づいた。
いつぶりだろう。こういう感覚。
それから私たちは、
週に一度くらいのペースでご飯を食べるようになった。
田中くんはよく喋り、よく笑い、よく驚いた。
私が「これ好きなんだよね」と言うと、
次に会うときそれを調べてきていた。
私が疲れた顔をしていると、「今日は早く帰りましょう、俺も帰ります笑」と言って一緒に退社した。
特別なことは何もなかった。ただ、彼といると、
世界の解像度が少し上がる気がした。
桜が満開になった頃、私たちは公園を並んで歩いた。
「先輩って、怖いものあります?」
突然の質問に、私は少し考えた。
「……慣れること、かな」
「慣れること?」
「大切なものに慣れすぎて、ありがたさを忘れること。昔の彼氏と別れたのも、たぶんそれが理由だったから」
田中くんはしばらく黙って歩いた。
桜の花びらが一枚、彼の肩に落ちた。
「じゃあ俺、先輩のこと
ちゃんと毎回新鮮に好きになります!」
私は思わず立ち止まった。
「……それ、告白?」
「どっちとも取れるように言いました」と、彼は笑った。「でも、先輩が怖いと思ってることを、俺は怖いと思いたくないので。練習するつもりで。」
その夜、私は部屋の電気を消す前に、
ぼんやりと考えた。
【愛することは、いつだって練習なのかもしれない】
慣れそうになったときにもう一度ちゃんと見ること。
目の前の人が、当たり前じゃないと思い直すこと。
それを怠ったとき、愛は静かに冷えていく。
誠司を責める気はなかった。私も同じだったから。
ただ、私たちは練習をやめてしまっただけだ。
スマホに、田中くんからメッセージが来た。
「今日、楽しかったです。おやすみなさい」
私は少し笑って、返信した。
「私も。おやすみ」
送信ボタンを押してから、もう一度だけ打ち直した。
「また、新鮮に会いましょう」
翌朝、窓を開けると、昨夜の風で桜がずいぶん散っていた。 地面がうっすら白くなっていた。
でも不思議と、寂しくなかった。
散った花びらの向こうに、もう若葉の緑が透けて見えていたから。
最後までお読みいただきありがとうございました。
慣れていることに気づく大切さを実感して頂ければ幸いです。




