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【短編小説】第3病棟

作者: 青いひつじ
掲載日:2026/02/13


『もうすぐ春が来て、桜が咲きますね』


「そうですね」


『春は好きだけど、悲しくなります』


「なぜですか」


僕がそう尋ねると、彼女はそっと下を向いた。


『後悔が多いんです。あれもしてあげたかった、これもしてあげたかったって。どうしても、思い出してしまう』


「そうなんですか」


『もう、ごめんねって、伝えることもできないんです。あの子は幸せだったかしら』


「きっと幸せでしたよ。そんな風に思ってもらえて、幸せに決まってる」


そこらへんに落ちている、とてもありきたりな言葉だったと思うが、僕がそう答えると、隣に座る彼女の頬に一筋の光が流れた。

それを腕で拭って、微笑みながら‥‥その人は、なんて言ったんだっけ‥‥。





ハッと目が覚めた。滲む視界の中、少しずつピントを合わせていくと、カーテンの隙間から差し込む淡い光の線が見えた。

不思議な夢だった。最後の方は、よく覚えていない。夢の中で、不思議だなと思ったことだけは覚えている。目が覚めれば消えて無くなる、儚い、夢らしい夢だ。


特別な夢をみた時、良くないことが起きる前兆だと、悲観的になる人もいるかもしれない。気になって、夢占いをすることもあるだろう。

僕はというと、嬉しかった。夢をみることは、僕にとって、記憶が蓄積されている証だったから。



技術は進歩した。しかし今もなお、人類は妥協することなく改良を続けている。人間だということを誇りに思う。

この素晴らしい星に生まれたおかげで、僕は、失った記憶を取り戻そうとしている。



『あら佐藤(さとう)さん、今日は早くお目覚めですね。何か怖い夢でもみましたか。薬の副作用が出たかしら』


「‥‥いえ。いい夢だった気がします。少し不思議な感覚でしたが」


『それならよかった。今日はお昼に先生がいらっしゃるので、手術について不安なことがあれば気軽に話してくださいね』


窓の外は、水で薄めたような青色が広がっていた。


『もうすぐ春ですね』


看護師の田村(たむら)さんは、僕と同じように窓の外を見て、そう言った。





"記憶復元技術"が発表されたのは、昨年の今頃。その時、僕はすでに第1病棟に入院しており、他病棟のお医者さんの名前も、看護師さん全員の名前も、トイレ掃除のおじさんのことも、閉店したカフェの後に何ができるのかも、院内ゴシップまでよく把握している、入院歴3年の重鎮となっていた。



僕には思い出がない。4年前の交通事故が原因で、15歳までの記憶が全て消えてしまったのだ。今の日本にある最先端技術をもってしても、症状は回復しなかった。

記憶を取り戻そうとどれだけ頭に詰め込んでも、次の日には、昨日覚えたことは何ひとつ思い出せなかった。そうして、また1から覚え直す。この人が僕の父と母。東京生まれ。今僕は高校1年生。中学3年生の卒業式の前日に交通事故にあった。

何度も何度も、同じ小説のあらすじを読み返すように。



薬の開発が進むと、記憶は徐々に蓄積されるようになった。僕は今、18歳から今日までの、1年間の記憶だけを持って生きている。

いつだったか、それはとても孤独なことだと、お医者さんは言った。人は、思い出なしに生きていけないと。「そんなことはない。思い出なら、これからいくらでも作ればいい」と、僕は反論した。すると先生は、窓から見える第3病棟を指差した。


「あそこが、どうしたんですか?」


『佐藤くんはよく知っていると思うが、あそこでは余命1ヶ月の人々が生活している。そして一緒に、記憶を失った人々も。第3病棟は、病棟というより監獄に近い。記憶を失った彼らは、日々幸福を求めて、浮遊するように施設の中を彷徨っているんだ。記憶を失うということは、そういうことなんだよ。記憶復元手術を受けてみないか。君の年齢ならまだ間に合う。効果も大いに期待できる』



先生からの説得は3ヶ月つづき、僕はようやく手術を受ける決心をした。道を塞いでいたのは、手術なんて受けなくても自力で幸せを掴んでやるという、謎の反骨精神だった。この固い岩を砕き、自分の意思で前進するため、僕には3ヶ月という期間が必要だったのだ。



記憶復元手術とは、提供してくれた誰かの記憶を僕の脳に植え付けることで、まるで自分の記憶かのように錯覚させる、というものらしい。

しかし、いわゆるコピーとは違い、移された記憶は持ち主からは完全に消えてしまうという。


『今回佐藤くんに手術を勧めたのは、君に"完全記憶"を提供してくれるドナーが見つかったからなんだ』


「完全記憶?」


『本来、記憶を抜くということは、人間の人格まで奪ってしまう非常に危険な行為だ。だが特例があってね、余命1ヶ月の人に限り、完全記憶の提供が認められている。その人が持っている全ての記憶が佐藤くんの脳に移されるんだ』


「そうなると、つまり」


『失った幼い頃の記憶が戻ってくる。正確には、顔や声まで緻密に定着させることは難しいが、幼い頃誰かと過ごしたという記憶が君に残る。どうなるのか不安もあると思うが、海外の研究では、20歳以下の術後の経過はかなり良好だと報告されているよ』


「分かりました‥‥」


『記憶が完全に定着するには、術後最低でも1ヶ月はかかる。焦らずにゆっくりと取り戻していこう』


難しい説明ではなかった。先生は諭すように、ゆっくりと話してくれた。手術を目前に、僕が緊張していたからだろうか。

退室する時、ドナーの正体について聞いてみたが、それは守秘義務で答えられないと言われた。




明日は手術当日だ。昼過ぎ、僕は先生との話を終えると、中庭へ向かった。

ベンチに腰掛けて、雲の泳ぐ空を見上げた。

空気が、もう暖かい。田村さんが言っていたとおり春が近づいているようだ。気持ちのいい風のおかげか、心は驚くほどに落ち着いている。


僕は目を閉じて、これからの人生を想像してみた。

手術が無事成功すれば、退院して、僕には新しい世界が待っている。新しい人と出会い、思い出も、きっとたくさん増えていく。

誰かと付き合って、結婚して、子宝に恵まれるかもしれない。でも、ふたりでのんびりと暮らすのもいい。結婚しなくても、大切な人がいれば、それで十分かもしれない。

思ってもみなかった。僕に、こんな未来を想像できる日がくるなんて。




『もうすぐ春が来て、桜が咲きますね』


突然、声が聞こえた。


「‥‥えっ」


僕は咄嗟に目を開き、声の方を向いた。

1メートルほど離れた、横のベンチに座っている女性は、『桜、一緒に見たかったな』と寂しそうに囁いた。


「あぁ、桜‥‥。楽しみですね。ここの桜、綺麗ですよね」


『えぇ。でも春は好きだけど、悲しくなります』


「なぜですか」


そう尋ねると、女性はそっと下を向いた。


『後悔が多いんです。あれもしてあげたかった、これもしてあげたかったって。どうしても、思い出してしまう』


「そうなんですか」


『もう、ごめんねって、伝えることもできないんです。ちゃんと、幸せだったかしら』


正面を向いていた女性は、そう言うと、ゆっくりと僕の方を見た。


「きっと幸せでしたよ」


『私が買い物を頼んだことが原因でも、そうかしら』


「え?‥‥あぁ、ハハ」


言葉の意味が汲み取れず、僕は愛想笑いを落とし、頭をかしげた。


『大切な人を守れなかった。ずっと落ち込んでばかりで、とうとう病気にまでなってしまって、本当にどうしようもない』


「それでも、きっと幸せでしたよ。そんな風にずっと思ってもらえて、幸せに決まってる」


『そう‥‥よかった』


女性は柔らかく微笑むと、視線を前に戻した。

ふたりの間には少しの沈黙が流れて、話し始めたのは僕の方からだった。


「僕、長い間入院してて。でも、もう少しで退院できるかもしれないんです。一緒に頑張りましょう」


僕の言葉に、女性は弱々しく頭を横に振った。


『私は今日から、第3病棟に移るんです。もう長くないそうで。これが最後の外出です。あそこに入ると、二度と外に出ることはできませんから』


「そんな‥‥」


『でも、最後にあなたとお話しできてよかった。あなたの力にもなれた』


女性は前を向いたまま、また微笑んだ。


『退院したら、新しい人生を楽しんでね。たくさんの、優しい人と出会ってほしい。無理はせずに、あなたらしく生きて』


僕は驚いて、言葉を返すことができなかった。

彼女が、微笑みながら泣いていたから。


「あの」と声をかけようとすると、僕の言葉を遮るように、『じゃあね』と女性は立ち上がった。


そのまま真っ直ぐ歩いていき、欅の下で立ち止まると、女性は振り返り、僕に大きく手を振った。


その瞬間、光を受けた葉が白く光った。


それは、ほんの一瞬。

まるで、彼女が桜の木の下で、僕にエールを送っているような、そんな姿に見えた。



手を振り返すと、彼女は前を向いて歩き始めた。

その先には、第3病棟の入り口があった。

僕はその背中が見えなくなるまで、ずっと、見つめていた。





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