私を捨てた婚約者は、私が幸せになる理由を最後まで理解できなかった
婚約者のエドワードは、優しい人だった。
少なくとも――
私が「そう信じていた頃」は。
朝会えば微笑み、夜会では必ず私の手を取った。
私が緊張して言葉を詰まらせれば、「無理に話さなくていい」と囁いた。
公爵家の嫡男。
才覚も、家柄も、申し分ない。
だから私は、自分が選ばれたことを誇りに思っていた。
「君は派手じゃないけど、落ち着く」
そう言われるたび、胸の奥が温かくなった。
――ああ、この人は私を“理解してくれている”のだと。
それが、勘違いだったと気づいたのは、あまりにも突然だった。
*
婚約破棄は、舞踏会の夜に起きた。
私はその日、新しく仕立てた淡い青のドレスを着ていた。
彼が好きだと言った色。
会場で彼の姿を探しても、どこにもいない。
代わりに渡されたのが、一通の手紙だった。
内容を読んだ瞬間、視界が歪んだ。
『君より相応しい女性が現れた』
『すでに子を身籠っている』
頭が、真っ白になる。
――ああ、そういうことか。
納得してしまった自分が、悔しかった。
私は彼にとって
「静かで、従順で、都合のいい女」
でしかなかったのだ。
だから、別の女が“結果”を持ってきた瞬間、切り捨てられた。
舞踏会の喧騒の中、私は笑顔を貼り付けたまま帰路についた。
誰にも、悟られないように。
*
地獄は、そこから始まった。
翌日には噂が回り、社交界では私の席が消えた。
「……かわいそうに」
「でも、公爵家に入るにはね」
同情の仮面を被った言葉が、心を削る。
使用人の視線が変わったのも、すぐだった。
腫れ物を見るような、距離。
家に戻れば、母は泣き、父は黙ったまま。
私は初めて、自分の価値が他人の選択で決まる世界にいたことを思い知った。
*
数ヶ月後、耳に入ってきたのは――
エドワードの妻となった女の話。
彼女は妊娠していなかった。
正確には、
「妊娠していると思い込ませていた」
だけだった。
だが、その時私は、もう笑えなかった。
彼が壊れ始めていることより、
自分が彼の人生から完全に切り離された事実の方が、重かったから。
*
私は王都を出た。
逃げではなく、生き直すために。
地方都市で、仕事を始めた。
誰も私を「元婚約者」で呼ばない場所。
最初は、惨めだった。
夜、一人で食べる食事。
成功したはずの未来を、何度も思い出す。
「私が、足りなかったから?」
何度も自問した。
その答えが変わったのは、ある男性と出会ってからだった。
地方都市での生活は、静かだった。
朝は市場のざわめきで目を覚まし、
昼は仕事に追われ、
夜は疲れた体を引きずるように部屋へ戻る。
王都のような華やかさはない。
けれど、ここでは誰も私の過去を知らなかった。
「アリシアさん、これお願いできますか?」
そう呼ばれるたび、胸の奥がわずかに痛む。
“元・公爵家の婚約者”ではなく、
ただの一人の人間として扱われることに、まだ慣れていなかった。
仕事は、書類整理と取引先との調整。
地味で、評価されにくい役回りだ。
それでも、私は必死だった。
――ここで結果を出さなければ。
理由は、分かっている。
また捨てられるのが、怖かったのだ。
*
彼と出会ったのは、そんなある日の午後だった。
帳簿を抱えて廊下を急いでいた私と、角でぶつかった。
「すみません!」
慌てて謝ると、低い声が返ってきた。
「こちらこそ。怪我はありませんか?」
顔を上げると、穏やかな目をした男性が立っていた。
年は私より少し上だろうか。
服装は質素だが、所作が丁寧で、視線が真っ直ぐだった。
「レオン・ヴァルシュタインです。新しく取引を担当することになりました」
名刺代わりの書類を差し出され、私は一瞬、言葉に詰まった。
――まただ。
人と深く関わるのが、怖い。
「アリシアです。よろしくお願いします」
そう言うだけで、心臓が早鐘を打っていた。
*
レオンは、不思議な人だった。
仕事の話しかしない。
世間話もしない。
それでいて、必要以上に距離を詰めてこない。
けれど、私の意見は必ず聞いた。
「あなたは、どう思いますか?」
その一言が、何度も胸に残った。
王都では、そんなことを聞かれた覚えがない。
私はいつも、“隣に立つだけの存在”だったから。
*
ある日、業務の帰り道で、突然雨に降られた。
慌てて軒下に逃げ込むと、レオンもそこにいた。
「……王都の方でしたよね」
彼が、初めて仕事以外の話を振ってきた。
「はい」
「大変でしたか」
その問いに、私は答えられなかった。
大変だった。
辛かった。
苦しかった。
でも、それを言葉にする資格が、自分にあるのか分からなかった。
「……慣れました」
嘘だった。
レオンは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、こう言った。
「慣れる必要は、ないと思います」
その声は、静かで、押し付けがましくなかった。
なのに。
胸の奥で、何かが崩れた。
「……私は」
気づけば、声が震えていた。
「私は、足りなかったから捨てられたんです」
言ってしまった瞬間、後悔した。
重たい過去を、勝手に押し付けたと思った。
けれど、レオンは否定しなかった。
代わりに、こう言った。
「それは、選んだ側の問題です」
雨音の中、その言葉だけが、はっきりと耳に残った。
「足りない人を選んだのではなく、
自分に都合のいい人を選んだ。
それだけの話でしょう」
私は、何も言えなかった。
そんな考え方があることを、知らなかった。
*
それから私は、少しずつ変わった。
仕事で意見を言うようになり、
自分の判断に、責任を持つようになった。
失敗もした。
叱られもした。
それでも、以前のように「無価値」だとは思わなかった。
レオンは、距離を保ったままだった。
優しくも、踏み込まない。
だからこそ、私は安心して隣にいられた。
――この人は、私を“所有”しない。
その確信が、何よりも大きかった。
*
そんなある日。
街で、聞き覚えのある名前が囁かれているのを耳にした。
「……クレイン公爵家、もう駄目らしいわ」
心臓が、嫌な音を立てた。
その噂は日に二度、三度と何度も耳にするようになる。
そして、その噂話から逃げるように歩き出した私の前に――
信じられない人物が立っていた。
「……アリシア」
やつれた顔。
かつての気品は、どこにもなかった。
エドワードだった。
彼は、私を見て、縋るように言った。
「話がしたい。少しでいい」
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは――
彼ではなく、レオンの言葉だった。
――選んだ側の問題。
私は、深く息を吸った。
エドワードは、私の前に立ったまま動かなかった。
以前なら、整えられていたはずの髪は乱れ、
仕立ての良い服も、今はくたびれて見える。
彼は、私を見て安堵したように息を吐いた。
「……元気そうだな」
その言葉に、胸は何も反応しなかった。
懐かしさも、怒りも、もうない。
ただ、知らない人を見ているような感覚だけがあった。
「話があるなら、手短にお願いします」
そう言った自分の声が、驚くほど落ち着いていて、私は少しだけ驚いた。
エドワードは唇を噛み、視線を彷徨わせた。
「……あの時のことだが」
来る。
そう思った。
「君に、ひどいことをした」
その一言は、遅すぎた。
「君は、悪くなかった」
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
怒りではない。
呆れでもない。
ただの、終わりの音だった。
「今さら、その話をされても困ります」
私がそう言うと、彼は一瞬、目を見開いた。
「俺は……すべてを失った」
声が、かすれていた。
「妻は出ていき、家は傾き、味方は誰もいない。
……君なら、分かってくれると思った」
その言葉を聞いた瞬間、はっきりと理解した。
彼は、私に謝りに来たのではない。
縋りに来たのだ。
私は、ゆっくりと首を振った。
「分かりません」
静かな否定だった。
「あなたが失ったものは、あなたが選んだ結果です」
エドワードは、何か言おうとして口を開き――
結局、言葉を見つけられなかった。
「私は、あなたに捨てられたのではありません」
一歩、距離を取る。
「あなたが、自分の都合で手放しただけです」
彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……アリシア、戻ってきてくれ」
最後の一言は、ほとんど祈りだった。
その瞬間、背後から穏やかな声がした。
「彼女は、戻りません」
振り返ると、レオンが立っていた。
彼は私の隣に立ち、静かに続ける。
「彼女は、あなたの所有物ではない」
エドワードは、私とレオンを交互に見て、理解した。
――もう、何も取り戻せないのだと。
彼は、何も言わず、肩を落として去っていった。
その背中を、私は最後まで見送らなかった。
*
それから、エドワードの噂を聞くことはなくなった。
聞こうとも思わなかった。
私の人生には、もう必要のない名前だった。
*
季節が一つ巡った頃、レオンはぽつりと言った。
「無理に、強くならなくていい」
夕暮れの街を歩きながら。
「あなたは、最初から折れていただけで、
壊れてなんかいなかった」
その言葉に、私は初めて涙を流した。
声もなく、静かに。
レオンは、何も言わず、ただ隣にいた。
それが、何よりも救いだった。
*
私たちは、急がなかった。
恋だと認めるまでにも、
未来を語るまでにも、時間がかかった。
でも、ある日ふと気づいた。
彼の前では、
自分を小さく見せる必要がないことに。
それが、答えだった。
*
今、私は穏やかな日々を生きている。
仕事は順調で、
自分の判断を信じられるようになった。
過去を思い出すことはある。
けれど、それは痛みではない。
ただの、通り過ぎた季節だ。
私を捨てた人は、最後まで理解できなかっただろう。
私が失われた存在ではなかったことも、
幸せは、奪い合うものではないことも。
それでいい。
私はもう、
理解されなくても、幸せなのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
静かな再生と、少し遅れて訪れる幸せを書いてみました。
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