9 自制の練習
「ストレッロ。無理しないほうがいいのでは……」
「いや、このまま続けてくれ」
と言いつつ、ストレッロの表情も体もがちがちに強張っている。
というのも、先日の殴打事件からストレッロは自分の行いを悔い改め、常識の範囲内でデルフィーネと接する男性へのアンガーマネジメント訓練を始めたのだ。
初めは王宮内の男性従者たちから一言挨拶を受ける。その次に日常会話をし、その次に笑顔を向ける。
それを数週間(数日ではなく、数週間)訓練したあとで、殴り掛かったり、怒鳴ったり、威嚇したり、引き剥がそうとしなくて済む段階に達したところで次は身体の接触へと進んだ。
ちなみに訓練開始初期の怪我人は数人で済んだ。
しかし従者たちはデルフィーネに触れるのを畏れ、訓練は滞りをみせる。そこでストレッロの提案で騎士たちへの差し入れを行うこととした。
なぜ騎士たちなのかというと、少なからず旧知の中であるし、見知らぬ者よりは信頼があるし、万が一にでも度が過ぎたら咎められるから──という理由からだった。
だからデルフィーネは騎士全員分の菓子を作り、訓練場に赴いて手渡す形で激励をし続けている。
「デルフィーネ様、ありがとうございます!」
「これからよろしくお願いします!」
「いつでも御守りしますので、ご安心ください!」
騎士たちは思いのほかデルフィーネの訪問と激励を喜んだ。貴族出身の騎士も多いが、平民から実力をつけて騎士の座を手に入れたものは特に平民であるデルフィーネに好感触をもっているらしく、一際距離が近い。
隣に立つストレッロがデルフィーネと部下たちの会話や握手をするたびに青筋をたて、瞼や口角を小刻みに痙攣していること以外は、穏やかな挨拶回りに思える。
「デルフィーネ様」
「デルフィーネ様」
番の名を他の男たちが連呼する。
デルフィーネは笑顔で返事をする。
物のやりとり。
言葉の投げ渡し。
そのどれもが、デルフィーネの想像を遥かに凌駕するほどストレッロには負担のはずだった。
しかし彼は二度と同じ過ちは繰り返すまいと、きつく拳を作り、冷や汗をだらだらと流しながら、無表情を取り繕って耐えている。
最後のひとりとの握手を終えると、デルフィーネはそっとストレッロの拳を包んでやった。
「終わりました」
ストレッロがどっと重い息を吐いた。
固く握り潰されていた指を一本、一本ゆっくりと離してやると、掌にはぐっしょりと汗が光っている。デルフィーネはハンカチで顔と掌の汗を拭ってやった。
「すごい忍耐力ですね」
「俺がどれほど我慢していたか、心を見せてやれるなら見せてやりたいくらいだ。危うく斬り掛かりそうだった」
「それは……」
「我慢したんだ。褒めてくれ」
つい、笑ってしまった。
この大きな体に恵まれた王子が、たかが自分が握手をしたくらいでこんなにも必死に自分を抑えて褒めろとせがんでくるものだから、つい噴き出してしまう。
乱れた髪を治すついでにストレッロの頭を撫でてやると、それをしやすいようにストレッロが体を傾けてくる。そうして、追加で頭を撫でてやる。
「よく頑張りました」
言うと、ストレッロの硬い表情がふわりと緩む。
その笑顔は、デルフィーネにとって嫌ではなかった。
自分を愛するという強い心は、デルフィーネの安心の種と一緒だった。
後ろのほうで「隊長が笑うだなんて」だのと部下たちが驚愕してるけれど、それにも慣れてもらわねばならない。きっとアンガーマネジメントの次に表情の緩みを耐える練習をするのだろうけれど、こちらのほうが長く掛かりそうだから。
「デルフィーネ、このハンカチを貰ってもいいか? デルフィーネの香りが強い」
「え、ええ。でも、それは古いですから新しいものをお渡しします」
「古いほうがいい。デルフィーネの香りが根強くついているものがいいから」
「そう、ですか……? では洗ってお渡しを──」
「一生洗わないでおく」
「それはやめてください」
また、笑ってしまう。
デルフィーネが笑うと、ストレッロもまた嬉しそうに笑った。
アナトラは数日の間、目を覚まさなかったらしい。
脳震盪だったようで、命に別状はなかったものの彼自身に恐怖が深く刻まれた。
番に関わるという恐怖を身に染みて感じたらしかった。
だからデルフィーネが何度もお礼をしたい、もう一度会いたいと願っても、彼は母を通じてすべて拒絶した。
無論、会いたくないと言われたわけではない。
忙しくてだとか、先約がだとか、そういったなにかしらの理由をつけて断られたのだけれど、それらすべてが嘘であるとは容易に察しが付く。
容態は?
傷跡は?
手品はどこで学んだの?
なぜ鴨のぬいぐるみ?
あの花の名前は?
ごめんなさい。
聞きたいこともたくさんあったし、言いたいお礼もいくつもあったのに、そのどれもを受け取ることさえ否定されてしまうと、自分が関わらないのが最も彼にとっていいことなのだろうと思えてくる。
だから、諦めた。
会えないならばとせめてものお礼として感謝の気持ちをしたためた手紙を彼女に託して、アナトラが受け取ってくれずに彼女から改めて返されたその日に、諦めた。
いいや、もしかしたらアナトラに渡そうともしていないのかもしれない。
息子を傷付けられて、平気でいられるはずがなかった。
その証拠に、彼女はすぐに教師を辞めて王宮に近付くことはなくなってしまった。
全部自分のせい。
うまくやらないと──デルフィーネはその気持ちを強くした。自分がハズレを引けば、他の誰かが傷付くことを目の当たりにしてしまったから。
(大丈夫。うまくやれる。こんなにいい暮らしができているのだから、恩返しも兼ねて)
そう言い聞かせるしかなかった。




