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8 狂うほどの嫉妬


 ストレッロがアナトラを殴り付けたのだとは、すぐにはわからなかった。

 ぽとりと落ちた花が、きっとアナトラが手品の最後に自分に贈ろうとしていたものなのだとわかると、それ以外はパニックだった。彼の命が花と同様に堕ちてしまったように感じた。


「アナトラ!」


 女性がアナトラに駆け寄る。

 デルフィーネも一拍遅れてアナトラの傍らに膝をついた。


 花に血が飛んでいる。


「だ、大丈夫ですか?」


 アナトラは気絶しているのか、目を閉じたまま反応がない。

 先までの笑顔が消えてしまった──デルフィーネは寒気がしてアナトラの体に触れた。


「ど、どうしよう……アナトラさん、大丈夫ですか。あの、えっと……どうすれば……」

「……で、デルフィーネ様、お早く、お早くストレッロ殿下のお傍に……!」


 こんな状況で、女性はなんとアナトラではなくストレッロの傍に行けと言うではないか。

 正気か?

 はっとしてデルフィーネが振り返ると、ストレッロの猛烈な視線に気圧されて、尻餅をついてしまう。


 怒り?

 恨み?

 その瞳に宿された強圧的な感情は一体なにか?

 わからない。


 ど、どうしろというのだ。

 教養をサボったことが彼の逆鱗に触れたのだろうか。

 どうして、どうしてアナトラを傷付けたのだ。


(も、もしかして私も)


 殴られるのかもしれない。

 さくり、と一歩近づいてきたストレッロに、デルフィーネは咄嗟にアナトラの体に覆い被さるようにして身を挺した。

 必死だった。


「や、やめてください! アナトラさんは私を元気づけようとしてくれて……もうサボったりしませんから! ずっと勉強しますから!」

「……れ……」

「頑張りますから! だから──!」

「……てくれ」

「……え……?」


 ぎょっとした。

 ストレッロが、まるで懇願するみたいに脱力してその場に膝をついたのだ。

 王子が、地面に膝をつく。


 その場にいた全員が目を剥いた。

 それはストレッロの背後にいた従者たちも同じで、全員の顔が驚愕に染まる。


 頼りない小さな声で彼は願った。



「離れてくれ」


 そして、両手を広げた。

 それがなにを意味するか、理解するのに時間が掛かった。

 どくどくと流れるアナトラの血。

 デルフィーネは判断を迫られている。当たりはどちらか。ハズレはどちらか。


 早くアナトラの治療をするためには──。


 駆けた。


 デルフィーネはストレッロの胸に飛び込み、今までそうすることに抵抗があったけれど、もう躊躇いなく彼の屈強な体に華奢な両腕をうんと巻き付けて、思い切り抱きしめてやった。


「大丈夫です、私はあなたの(つがい)です。どこにも行きません、誰にも心を奪われません、あなた以外には、誰にも。ただ、ただ彼は私を元気づけようとしてくれただけです。医者を呼んであげてください、お願いします」

「肌に、デルフィーネの肌に触れていた」


 瞑目した。

 迂闊だった。

 (つがい)に対する執着心を侮っていた。

 まさか善良な市民に手を上げることを厭わないとは思わなかったし、それほどに独占欲があるとも思わなかった。


「元気づけようとしてくれていただけです」

「だめだ、誰にも触れられないでくれ。頼む。お願いだ」

「ごめんなさい。もう誰にも触れられないようにします」


 だから、お願い。

 早く医者を呼んで。


 デルフィーネは自分が震えていることに気が付かなかった。

 抱き締め返すストレッロの力が儚いことにも気付かず、ひたすらこの場をやり過ごして医者がアナトラを診てくれるよう強く望んだ。


「医者を呼んでやってくれ。」


 その一言に、危うく安堵の息を洩らすところだった。

 それでは、この抱擁が彼を救うための嘘だと知られてしまう。腕に力を込めたまま、固く閉ざされている瞼を押し上げる。


 肩越しに、同情の眼差しを向けられた。

 獰猛な獣に見初められた不憫な娘を見る従者からの同情。

 違う、彼はまだ、自制ができていないだけ。

 (つがい)を見付けたばかりで、自分の感情にコントロールが効かないだけで、獣なんかじゃない。


 ストレッロの背中を撫でた。

 それは、自分を撫でて慰めるのと一緒だった。自分は可哀想なんかじゃない。


「……すまない」


 謝罪はきっと女性に向けられたものだった。

 女性がどんな表情でどんな対応をしたかはわからないが、責め立てないところを見るに、自分も自己判断でしてしまった行動を悔いているのかもしれない。


 デルフィーネはストレッロを放してやることはしなかった。彼が満足するまで、ずっと抱きしめていてやるつもりだった。

 そうすると、ストレッロは抱擁されたままデルフィーネを抱き上げ、つかつかと歩き始めてしまう。


 風に吹かれて飛んでいく一輪の花。

 零れた茶にまみれた、どうしてそれを選んだのかわからない、やる気のない顔の鴨のぬいぐるみ。


 自分が間違っていた。

 自分がまず学ぶべきは、(つがい)がどれほどの存在であるのかを知るところからだった。


 あの親子の傷は自分が負わせたようなものだ。


***


 体中の血液が突沸したようだった。


 泊りがけの勤務が長引き、思いのほか長い間、デルフィーネをひとりぼっちにさせてしまった。


 宛がった教師はみな人柄もよく、デルフィーネを孤独にすることはないと信頼を置いていたが、デルフィーネの孤独を癒せるのは自分でありたいとも強く思う。なによりも、会いたい気持ちが強い。


 だからこそ帰還してすぐに騎士隊舎を後にして、隣接する王宮に向かったのだった。

 足早に、近付こうとすればするほどほとんど走っていることは無自覚だった。


「デルフィーネ様はお庭にいらっしゃいます。ティータイムのようです」


 執事に言われ、踵を返す。庭に出ると、ぶわりとあの風が吹いた。


(ああ、デルフィーネの香りと気配がする。何日ぶりだろう。早く会いたい)


 そうして見えてきた先にあったのは、デルフィーネの傍らに膝をつき、まるで求婚するかのようにデルフィーネの手を包む男の背中だった。デルフィーネの笑顔を受け止め、手に触れることを許された男。


 沸騰した血液は、ストレッロから理性と冷静な判断を蒸発させた。


 鍛え上げられたその腕と全身を使って、気付けば男の頭を殴打していた。頭蓋骨の硬さが拳と激突する。指が何本か折れたかもしれない。そんなことは構わない。それよりもデルフィーネに近付いた愚かな男の無防備だった頭は、首の妙な曲がり方と共に頽れていく。


 花。一輪の花。

 見覚えのない鴨のぬいぐるみ。


 それよりも、男を庇うデルフィーネ。


 やめてくれ。


「……てくれ」


 男に触れないで。男に近寄らないで。見られないで。笑い掛けないで。

 俺だけを見ていて。俺だけを感じて。俺だけに触れて。


「離れてくれ」


 辛うじて、本音を言えた。

 そうすると胸に飛び込んできてくれたデルフィーネを抱きすくめる以外になかった。


 彼女は俺を愛していない。


 そうわかっているのに、抱き締められるだけで心の安寧が取り戻されていく。

 彼女から放たれるストレッロを安心させる言葉のすべてが、ストレッロを愛する心からの言葉ではないとわかっているのに、信じてしまう。


 そうしてようやく、自分のしでかした行為を察する。

 後処理をしなければと思うのに、ついぞ出てきたのは短い謝罪のみ。

 改めて謝らなければならない。ご子息にも。


 デルフィーネを抱いたまま自室に戻ると、ソファに座ってまたさらにデルフィーネを強く抱きしめた。膝にのせたまま。強く。


「嫌うな。嫌わないでくれ」

「嫌わないです。嫌いになんてなりません」

「俺のやったことを見ただろう」

「見ました。でも、すべて私のためです。わかっています」

「花も、ぬいぐるみもだめにしてしまった」

「いいのです。ストレッロが贈ってくれたものだけで満足です。それさえあれば充分です」


 嘘だ。


 彼女は屈託なく笑っていた。

 珍妙な顔のぬいぐるみを膝に乗せて、俺以外の男に掌を包まれて、喜々として笑っていた。

 ぬいぐるみも、受け取る間もなく風に吹かれたあの哀れな花も、きっと彼女は喜んで部屋に飾るはずだった。


 ああ、嘘だ。嘘だとも。


 狂おしい。どうしてあの笑顔を向けられたのが自分ではなかったのか。どうして贈ったもので笑顔にしてやれたのが自分ではなかったのか。

 ああ、狂おしい、悔しい。苦しい。


 なのに言葉のひとつひとつに歓喜してしまう。安堵してしまう。嘘なのに。俺を愛してなどいないのに。


「俺だけのデルフィーネだ。俺だけの、俺だけの」

「もちろんです。わかっています」


 壊さないように、でも全力でデルフィーネを抱く。うわごとのように繰り返す(つがい)への独占欲は、自分に言っているのか、周りに言っているのか、デルフィーネに自覚させようとしているのか、判断がつかない。


 どのくらい、そうしてデルフィーネを腕の中に閉じ込めていたか。

 落ち着いて、改めてデルフィーネの顔を覗き込むと青ざめているのがわかった。


「怖いのか」

「いえ、違います」

「人を傷付けることに躊躇しない俺が怖いか」

「いえ、怖くありません。だって私への純粋な愛だから」

「じゃあ、どうしてそんなに顔が──体調が悪いのか?」


 もしかして、だから教師は自己判断で息子を呼んだのだろうか。

 元気づける──そういう意味か?

 デルフィーネは諦めたように瞑目した。


「ごめんなさい……うまく、覚えられないことが多くて……。少し、疲れてしまいました。それに──」

「それに? それに、なんだ。誰かになにかされたのか? 厳しい指導でも?」


 頬を包むと、デルフィーネは首を振った。

 そして照れ臭そうに頬を赤らめながら、言った。


「ストレッロが、いなかったから……」


 え。と、言うのが精一杯だった。


「夜もずっと気を張っていて……だから、その……」

「俺とふたりきりなら、気を張らなくて済む、と?」


 デルフィーネは答えてはくれなかったけれど、その赤面した顔が返事の代わりだった。


 天にも昇る気持ちだった。


 自分という存在がデルフィーネにとって特別であると知り、それを間近で直接伝えてくれたこの瞬間、ストレッロは感じたことのない快楽と幸福を味わった。温かく、熱く、デルフィーネの全身を愛撫してもまだ足りないくらいの高揚感。


 頭が、心が、すべてデルフィーネに支配されていく。



 狂いそうだ。

 ストレッロは涎をだらしなく垂らして意識を飛ばしそうだった。

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