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7 慌ただしい毎日


 それからのデルフィーネはほとんど記憶にないほど忙しい毎日を過ごした。

 入れ替わり、立ち替わり人が変わって挨拶の方法、テーブルマナー、茶会マナー、この国の歴史、王国側の貴族家紋、反対派の貴族家紋、ストレッロの友人、ストレッロの部下、極めつけはダンス──とにかく色々な知識を注ぎ込まれるのだけれどなにせ読み書きができないから並行して文字の成り立ちから学ばなければならない。


 その間にストレッロは仕事をしているらしかった。

 毎朝、惜別の別れのような別れをするのである。



 デルフィーネの手を取り、しょんぼりと背中を丸め、わかりにくいくらい僅かに眉尻を下げて、デルフィーネの手指を撫でる。


「すまない。街の巡回や現地に連れて行くのは危険が伴うから、待っていてくれ」

「もちろんです」

「俺の幼少期からマナーを教えてくれていた教師を呼び戻してある。手を上げることもなく、罵詈雑言を浴びせるでもなく、いい者たちばかりだ。きっと、色々と知識を詰め込まれると思うのだが……ティグレーのときのように絡まれないためにも必要なものだ」

「大丈夫です。頑張って覚えます」

「素直で努力家……ッ!」


 また片手で顔を覆い、天を仰ぐ。

 彼のこの反応には、いささか慣れてきた。

 そうして名残惜しそうに何度も振り返りながら出勤する──というのがお決まりの朝の流れである。



「あ、ご、ごめんなさい」


 デルフィーネは何度目かのペンを駄目にした。

 うまく文字を書こうとすると、つい力が入ってペン先を潰してしまうのである。


「お気になさらないでください。練習用のペンですから、それほど高価なものではありません」


 そう言ってくれるのは、文字の読み書きと歴史と手紙の書き方を教えてくれる妙齢の女性である。

 力を抜きすぎてミミズの這う字になってしまっても、力を込めすぎてしまってインクだまりができてしまっても、紙を破いてしまっても、ひとつも嫌味を言わず、ひとつも笑わない我慢強い女性だ。


「それから、すぐに謝るのはデルフィーネ様の長所でもありますが、お立場を考えると良いこととは言えません。立場が上のものが謝るということは、ストレッロ殿下が謝ることと同じです。社交の場ではすぐに謝ってはいけませんよ」

「は、はい……」

「さあ、続けましょう。お手紙のお返事は頻繁にしたためるでしょうから、流れるような文字になるまで頑張りましょう」

「はい」


 デルフィーネは気付かれないように嘆息ついた。

 疲れていた。

 その疲労に、女性が感付いていることにデルフィーネは気が付かなかった。


***


 教養を受け始めて一か月が経ったころ、デルフィーネは限界を迎えつつあった。

 頭はパンクし、どんなときでもマナーを気にして、他の人の顔色を窺って、間違っていないかを気にしてしまう。

 運悪く、ストレッロが泊りがけの仕事が長引いてしまっていることも追い打ちをかけた。

 奇しくも、ここに連れて来た諸悪の根源だというのに、ここで唯一自由に振る舞えるのが彼とふたりで過ごす夜の時間だった。

 眠るときまで誰かに見守られ、息の付く暇もない毎日が続き、デルフィーネはとうとう疲れてしまった。


「デルフィーネ様、少し、息抜きをしませんか」


 あの女性だ。

 手紙の指導をしてくれる、あの女性。


「え、い、息抜き……?」

「殿下もお忙しく、こちらにいらしてからお出掛けもできていないでしょう? ただ、わたしが街へお連れすることができませんので、息子を呼びました。手品が得意なんです。庭でお茶をしながら、手品を見てみませんか」

「手品……?」

「ええ。驚きますよ。わたし、何度見てもどうやっているのかわからないのです。どうです?」


 甘美な誘惑だった。

 少し、頭を使うことから離れたかったし、外の空気が吸いたかった。


「行きます。手品、見てみたいです」


 それから庭に移動すると、テーブルセットの上にお茶と菓子が並べられ、デルフィーネより少し年上の男性が待っていた。薄い茶色のベストを着た彼は、垂れ目で、心の明るさと優しさがそのまま表情に滲み出ているような男性だった。


「息子です。アナトラといいます。さ、どうぞ」

「初めまして。アナトラです。お疲れと聞いて、デルフィーネ様がうんと楽しめる手品を練習してきました」

「楽しみです」


 アナトラが引いてくれた椅子に駆け、マナーに倣ってお茶を飲むとアナトラがひとつ拍手をした。


「さあさあ、こちらをご覧ください。この箱には──」


 それからアナトラはいくつもの手品を見せてくれた。

 空っぽの箱の中から何羽も鳩を出すもの、シルクハットの中から、およそその中には隠し切れないだろうという大きさのぬいぐるみを出して贈ったり、カードの絵柄を当ててみせたり、コップの中にいれたはずのコインが移動していたり、みるみるうちにデルフィーネは感動してしまって、いつの間にかデルフィーネがデルフィーネであった頃の笑顔を自然と溢していた。


 貴族らしからぬ歯を見せる大きな笑顔。


「すごい! アナトラさん、すごい!」

「自慢の息子です」

「お褒めいただき、光栄です」

「どこにぬいぐるみを隠していたの?」

「それは秘密です」

「そうね、そうだよね秘密ね!」


 久しぶりに声を出して笑った。

 こんなに笑ったのは、かつての裏切りを知って以来かもしれない。

 いや、彼が自分への態度を少し変えたくらいから、本当は心から笑えていなかったのかもしれない。彼の心を繋ぎ止めるため、努めて明るくしていたのだ。

 アナトラが出してくれた鴨のぬいぐるみを抱きながら、口許を隠しもせずに笑う。


 心地がよかった。


「じゃあ、最後の手品です。ここに花の絵が描いてある小さな紙があります。」


 アナトラが胸元から取り出したのは紙幣にも満たない小さな紙だった。その中央に名前のわからない花の絵が描かれている。


「小さく折り畳みます。小さく、小さく」


 四つ折りにも、八つ折りにもして小さく折ると、アナトラはそれをデルフィーネの手に握らせてきた。


「これをぎゅっと握っていてください。隙間から抜き取られないように、力を込めてぎゅっと」


 デルフィーネの握った拳の上下から、さらにアナトラが掌で包み込んでくる。

 わくわくした。次はどうなっているのだろう。

 笑顔を隠しもせずに、至近距離にいるアナトラの目を見返す。

 アナトラも垂れ目を存分に笑顔にしていた。こんなに喜んでくれる客が珍しかったのかもしれない。彼自身もまた、楽しんでいるように見えた。


「握ってるよ」

「そのままにしていてください。僕が息を吹き掛けると……さあ、手を広げて! そこには──」


 次の瞬間、目の前からアナトラが消えた。

 それは、手品なんかじゃなかった。


 芝生の上に倒れ込むアナトラの側頭部からは血がぱっと花開く。そしてそのすぐ横に、小さく折り畳んだ花が描かれた紙と、描かれたままの本物の花が一輪、音もなく落ちる。淡いピンク色の、アナトラの心にそっくりな優しい色の花弁だった。


 はっとした。

 ストレッロがそこにいた。

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