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寝間着姿で逃げ帰ったリュリーティスに待っていたのは、地獄のような日々だった。
父は激怒し、母は泣き崩れ、三つ下の妹エルシーは「お姉さま最低!わたくしまで笑いものよっ」と癇癪を起した。
しかし逃げ帰った理由が理由だけに、母と妹はなんだかんだいってリュリーティスに優しかった。
何かにつけて空気が読めない父だけは、「それくらい良くあることだろ」と失言して、己のマザコンさをうっかり暴露して、その後、夫婦関係がギクシャクした。
リュリーティスの母親は、かつて嫁姑問題で苦労した過去がある。
男は皆マザコンだ!と開き直る父と、そういえばあの時あなたはお義母様の味方をしたわねと、十年以上前のいざこざを夫に詰る母。
事あるごとに「結婚するならお父様みたいな人がいいですわ」と口にするパパっ子エルシーは、父親がマザコンと知った途端、毛虫を見るような目つきになった。
明るく穏やかだったヴァウェ邸は、父親だけが孤立し、一気に陰鬱な空気に包まれてしまった。
使用人たちも笑顔が消え、すれ違うたびに同情の目を向けられ、リュリーティスは針の筵のような環境に置かれてしまったが、外の世界は更に辛かった。
夜更けとはいえ、寝間着で髪を振り乱して馬を走らせるリュリーティスの姿を目撃した者は、一人や二人ではない。
社交界はいつも楽しい話題に飢えている。誰かの失敗談や、破綻した話は大好物。リュリーティスの離婚話は、過去最大レベルで社交界を沸かせた。
そのせいで、ちょっと気分転換しようと街に出ても、必ず令嬢たちに捕まってしまう。そして──
「あらぁ~リュリーティスさまぁ~、お話は聞きましたわぁ~、随分と乗馬がお好きなんだとか」
「わたくしも、聞きましたわ。初夜よりも乗馬を優先されたらしいですわねぇ~。随分と奔放だこと」
「ヴァウェ家は厳格な教育をなさっていると伺っておりましたがぁ~、個性を大切になさっているようで羨ましいですわぁ~」
口々にあることないことまくし立てた令嬢達の眼差しは、羨望ではなく嘲りと侮蔑に満ちていた。
いっそ夫が謀反を企てていたとか、国で禁止されている薬物を常用していたという理由だったら、どれだけ良かったか。
しかし病的なマザコンだったなどという理由は、内容が内容だけに口が避けても言いたくない。
そのためリュリーティスは、曖昧な笑みを浮かべそそくさとその場を去ることしかできず、心の中で「あなた達だって”明日は我が身”ですからね!」と、悪態を吐くのが精一杯。
「……やはり、あの時……わたくしはローヴィスに胸を差し出すべきだったのかしら……」
そうすれば、家族は幸せなままでいられたし、自分も後ろ指を差されなかった。
己の堪え性のなさを責めるリュリーティスだが、もう一人の自分があの初夜での光景を思い出させる。
乳繰り合う実の親子の姿は、時間が経ってもおぞましい。
いや、時間が経つほどに、不快極まりない。
「やっぱりわたくしは、ああするしかなかったわ……でも……」
どうせだったら部屋に乱入して、ローヴィスをぶん殴ってから実家に戻れば良かった。
ちょっぴり後悔しながら帰路に着くリュリーティスの肩に、水滴が落ちる。
出かける前は晴天だったのに、いつの間にか空は、どす黒い雲に覆われていた。
天気すら味方してくれない現実に、リュリーティスは、はぁぁぁーーーーと、深いため息を落とした。