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62:愛しい時間

あと2話です!

(ダメ……流される……)


 アッシュさんの長い指が、私の顎に添えられ、クイと持ち上げて来た。

 近い。アッシュさんが近い……。

 アッシュさんの心臓の音が聞こえると、私の鼓動はますます速くなった。

 この音は、緊張? 期待? ドキドキしているのは私だけじゃない。

 早く唇を重ねてしまいたい衝動が胸の奥でくすぶっていて、私の中でその火種がたしかに燃えていた。

 燃え上がるのに、もうこれ以上時間はかからない。


(あぁ……、私、アッシュさんのこと愛してるんだ……。アッシュさんは私と一緒に背負ってくれるから……。大切な思い出ごと愛してくれるから……)


「アッシュさん……」


 私はアッシュさんの首の後ろに両腕を回すと、潤んだ瞳で彼を見上げた。


「待っていてくれてありがとう……。私、あなたにならすべてを――」






 ぐぅ。


 鳴ったのは、お腹の音だった。

 私のお腹の音じゃない。ということは、犯人はアッシュさんだった。


「うわぁぁぁ、台無しだァ……」


 アッシュさんは私の腰から手を放すと、頭を抱えて残念そうな悲鳴を上げた。まるで世紀末が訪れたかのような落胆ぷりだ。


「アッシュさん、そんなに落ち込まなくても」


「落ち込むさ。僕は今日をとても楽しみにしてたんだよ。君がノリ気のデートなんて、脈ありだって思うじゃないか。君を喜ばせて、いい雰囲気を作って……って、いろいろ考えてたのに……! 今だって最高の流れだったのに……。僕の……お腹が……」


 あーあと肩を落としているアッシュさんの姿が痛々しくてたまらないのだが、私といえば込み上げて来る笑いを抑え込むことに必死だった。

 デートに気合を入れて臨んだアッシュさんも、畏まった告白の言葉を口にしようとしていた自分もなんだかとても可笑しくて仕方がなかったのだ。

 そして同時に、こんな時間が愛おしいと思えた。


「かっこつかないですね、私たち」


「僕がこんなミスを犯すのは、君の前だけだよ」


 悔しそうな大きなため息を吐き出したアッシュさんは、「何か作ってくれるんじゃなかったの?」と言ってお腹をさすった。

 そんなアッシュさんに私は元気よく答えた。


「任せてください! とっておきのスパイス料理をご馳走します!」



◆◆◆

 やはり私はきらめくドレスや豪華な社交場よりも、エプロンとキッチンの方が似合うし落ち着く。


 キッチンでさっそく料理を始めた私を見守るアッシュさんは、カウンターテーブルに頬杖を突きながら、「のびのびしてるね、表情が」と少し残念そうに笑っていた。


「だって、煌びやかな場所は緊張しますから。アッシュさんの隣に立つだけで、気後れが半端ないんですよ?」


「その辺を配慮して、お姫様抱っこしたんじゃないか」


「お陰で悪目立ちしてましたよっ! 女性のお客さんたちの殺意のこもった目が怖かったんですよ!」


「ははっ! 君はもっと、自己評価を高くすべきだ。それは殺意じゃなくて、羨望の眼差し。似合いのカップルだって、みんな羨ましがってだんだ」


「アッシュさんって、ポジティブですねぇ……」


 私は唇を尖らせた。


「あなたの目には分厚いフィルターがかかってるんですよ。だから私に対しての評価が甘々なんです」


「そうさせてるのは君だからね? いいじゃないか、甘くても。僕は自分の目が曇っていたとしても気にしない。フィーナだけ見えていたらそれでいいから」


 アッシュさんは二年前に私に告白してからずっと、こんな調子だ。

 軽い口調で口説いてきたかと思えば、真剣な顔でキスの真似をしてきたり、堂々とスキンシップに及んだり……。

 人前でなければ私が拒まないことを分かっている彼は、度々Sっぷりを発揮して、私を溺愛してきた。猛アタックだ。


 私がそんな彼の気持ちに応えることができずにいたのは、ルゥインのことはもちろん、私のような平凡な料理人が彼と釣り合うはずがないという想いがあったからだ。

 後者については今日の劇場デートでも、簡単に払しょくできるものではないと改めて実感した。


(だけど、今はそれ以上に――)


 ジャガイモを細切りにしていた私の手ははたと止まり、心臓はドキドキと高鳴った。

アッシュさんのことを想うと、私の胸はいつだってぽかぽかと温かく、ちょっとだけ痛くなる。でも、嫌な痛みじゃない。


 ちらりと顔を上げて、カウンター席に腰掛けるアッシュさんにこっそりと視線を向けた。

 ところがアッシュさんも私を見つめていたようで、ばっちり目が合ってしまう。


「なんか、よくあるよね。不意に君と目が合うこと」


「はい、そうですね。私、ついアッシュさんのこと、見ちゃうんです」


「僕もだよ」


 クスっと愉快そうに目を細めるアッシュさんの視線がくすぐったくて、私はむずむずしながら再び料理に戻った。

 ゆっくりと流れる穏やかな空気が、私たちの間に満ちていた。


 もっと幸せになれる。私が前に踏み出せば――。


 私はクミンパウダーをボウルに振り入れながら、痛いくらい高鳴る胸の鼓動の音に耳を傾けていたのだった。



次が最終話です。お付き合いいただけますと幸いです。

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