61:ドキドキとクラクラ
あと3話です!
転移魔法によって一瞬で【スパイス食堂】へと戻って来た私たちの間には、奇妙な空気が流れていた。二人とも非常にそわそわしている。
「ドレス……どうする? 僕はそのままでもいいけど……」
「あっ、えっ。こんな高級なドレスを着っぱなしはちょっと……。汚したらいけませんし……!」
「いいじゃん、別に。汚れたって、破れたって……」
「やぶ……っ??」
(絶対に勘違いされている!)
私はドギマギしながら全力で手をぶんぶんと横に振った。
破かない。億単位のドレスはそっと脱いで返却一択だ。
「い、いつもの服が落ち着くので、着替えてきます! その後は料理しますよ! お腹も空きましたしね! リクエストスパイスはありますか? 考えといてくださいね! 腕を奮っちゃいますよ!」
早口でまくし立てると、私はものすごい速度で階段を駆け上がって行った。
少しだけ一階を振り返ると、アッシュさんがソファに沈み込みながら長いため息をついている姿が目に入った。
あの自信家なアッシュさんが、分かりやすく落ち込んでいる。
そうさせてしまったのは他でもない私だ。
いつまでも彼の優しさに甘えて、繋ぎとめて。
自分は一歩踏み出すことが怖いから、ずっと安全な場所に座り込んだまま。
(ずるい女だ、私……)
私は自分の部屋のドアをぱたんと閉めると、勢いよくベッドに倒れ込んだ――のだが、その拍子にベッド柵にドレスのレースが引っ掛かってしまったらしく、ビリビリィッとこの世の終わりのような音が耳に飛び込んできたではないか。
「いやぁぁぁぁぁっ!」
億のドレスが破損したら、真っ青になって絶叫せざるを得ない。
「どうしたの⁉」
私の悲鳴を聞きつけたアッシュさんが急いで駆けつけてくれたのだが、千切れた布を握りしめてべそべそと泣いている私を見るなり、彼の緊迫した表情は消し飛んだ。たいそう呆れたように肩を落とし、なんなら舌打ちを一つした。
「ったく、泣くなよ」
「だって……ドレスが……高級ドレスが……」
「魔法でそれなりに直せるし、っていうかこんなのまた買えるし」
「うぅ……、これだからセレブは……」
「そんなセレブが二年間君に求婚し続けてるんだけど?」
アッシュさんはやれやれと口に出しながらベッドに腰を下ろすと、パチンッと指を鳴らした。すると、私が纏っていた高級ドレスはいつものエプロンドレスへと変わり、セットアップされていた髪もしゅるりと下りて来た。
その髪をアッシュさんは指先でくるくると弄んだかと思うと、触れたか触れていないか分からないくらい軽く首筋に触れて来るものだから、私は思わず「ん……っ」と小さな声を漏らしてしまった。
けれど、アッシュさんはおかまいなしに喋り続けた。
「まァ、今さら待てないなんて言わないよ。間が抜けてて、ちょっと天然で、スパイスオタクな君と過ごす時間は飽きることがなくて、手放し難い。面白い毎日だよ、ホント。城の仕事を減らしてこっちに来た甲斐があるし――って、あれ?」
「あっしゅさん……」
つらつらと喋り続けていたアッシュさんは、その間ずっと私の首や耳の下、デコルテ周辺を指で散歩していた。
本人は無意識だったようだが、くるくるこしょこしょと指でなぞられていた私は、出口のないむずむずとした心地良さに身悶えしていたのだった。体の内側がじんわりと熱く、顔も火照っている感じがするし、なんだか舌も回らない。
「あぁ、もう……。君ってヤツはどうして……」
アッシュさんは苦しそうに顔を歪めると、優しい手つきで私の体を抱き寄せた。驚いた私はハッと身を固くするが、アッシュさんのほんのりと温かい指で頬に触れられると、なぜか力が抜けていった。
アッシュさんの声も、体温も、香りもお酒のように私を酔わせて来る。胸がドキドキして、思考がクラクラしてくる。
(あ……ダメ…………)




