58:穏やかな日常
アッシュさんが魔獣の呪いから解放されてから、二年が経った。
驚いたことに氷の魔力が消えた彼の髪は、雪のような白色から夜空のような濃紺色へと変化していた。
本人曰く、呪いの影響で髪色が抜けてしまっていたそうで、今が本来の姿らしい。私が少し寂しそうな顔をすると、「物好きだね」と言いながら、アッシュさんは幻覚魔法で髪の色を白に戻してくれた。
その度に「羊みたいで可愛いです」と言っては怒られたが、私は白くてふわふわの彼の頭を撫でることが好きだった。
触れることで、アッシュさんがここにいる、いなくならないという安心感を得ようとしていたのかもしれない。
けれどこの二年間、私が危惧していたような事態は一度も起こらなかった。
アッシュさんは、【スパイス食堂】の二階に住むようになり、時々はお城の仕事で留守にはするが、たくさんの時間を一緒に過ごしてくれるようになった。
朝はのんびりと遅めに起きて、朝ご飯。
掃除や洗濯を済ませたら、帝都の市場に買い物へ。
軽食を食べたら、料理の仕込みをして、少し仮眠を。
お菓子をつまみながらのミーティングを終えたら、いよいよ【スパイス食堂】の開店だ。
そんな満ち足りた日々に幸せを感じていたある日、オリビアが突然来店した。
アッシュさんが店の裏口にも魔法をかけてくれたおかげで、ザクト王国の実家からも行き来が出来るようになったのだ。
オリビアはカウンターテーブルに着くと、「アシュバーン様は?」ときょろきょろと店内を見回した。
「アッシュさんは、ヴェルファさんにお料理をデリバリー中よ。ヴェルファさんの娼館に行ってくれてるの」
「えっ! 娼館って、私がお姉様を迎えに行ったお店よね? すっっっごい評判の美人娼婦揃いって聞いてるわ。そんな場所にアシュバーン様を送り出して大丈夫なの? モテモテなんじゃないの??」
オリビアの圧のある口調に驚きながら、私は「アッシュさんに限ってそんな……」と言葉を濁した。
けれどオリビアは納得するどころか、甲高い声で「お姉様ってばぁぁぁっ!」と絶叫した。他のお客さんがいなかったからよかったものの、とんでもない声量に私の耳の奥はピリピリした。
「お……オリビア?」
「アシュバーン様がいつまでも心変わりせず、お姉様を待ってくださると思ってちゃダメよ! 今だって明日だって、魅力的な女性がわんさかアシュバーン様に詰め寄ってるのよ? いつまでもぐずぐずしてるお姉様なんて、いつ愛想を尽かされたっておかしくないんだから! 甘えてないで、いい加減自分の気持ちと向き合って!」
オリビアの剣幕に圧倒され、私は狭いキッチンでよろよろと数歩後退った。
まさか、可愛い義妹から怒鳴られるとは思っておらず、「は……はい……」と敬語で返事をしてしまった。
「私だって、ルゥインとの別れの傷が癒えるものじゃないってことは分かってるわ。お姉様は彼のことが大好きだったものね。……でも、だからってそれが、お姉様が幸せになっちゃいけない理由にはならないと思うの。ルゥインだって、きっと新しい恋を止めたりしないわ……! だって彼は、誰よりもお姉様の幸せを願っていたもの」
オリビアは私を鼓舞し、ホットワインとスパイスクッキーを食べ終えると帰って行った。
(馬鹿だなぁ、私。大切な人がいつまでもそばにいてくれるわけじゃないってこと、よく知ってたはずなのに……)
半刻後、店に戻って来たアッシュさんは「あー、今日もモテたモテた」と肩をぐるぐると回して疲れたアピールをして来たので、私はシナモンとカルダモン、そしてクローブの入ったチャイラテを淹れてあげた。
いつもの私なら、「はいはい」と話半分に聞き流すところだったが、オリビアからキツめに言われたこともあり、ついそわそわとして落ち着かない。
そして落ち着かないついでに、ソファにふんぞり返って座っているアッシュさんの隣にちょこんと遠慮がちに座った。
どうしたの? と言わんばかりのアッシュさんの驚きを滲ませた視線が刺さる。
「あの……モテたっていうのは、どんな感じでした……?」
「どんなって、別に特別なことじゃないよ。今度二人で会いたいって、デートにぐいぐい誘われたってだけ。もちろん断ってるけど」
「あぁ~……、ふぅぅん……。なるほど……、デートのお誘い……」
私がおろおろした口調で目を合わさないので、アッシュさんは何か察したようにニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。うわっ、何か悪い事考えてる顔だ! と、私が思った時には、アッシュさんは私の耳元にグッと唇を近づけていた。
「じゃ、僕としてみる? デート」
思わずぞくぞくと体が反応してしまうような甘い囁きに、私は「はい……」とこくりと頷いたのだった。




