55:私と彼の【スパイス食堂】
深く頭を下げるギルベル様は、必死な気持ちを隠してはいなかった。
国のトップに頭を下げさせてしまったことに私は大いに戸惑い、「頭を上げてください」と何度も繰り返したが、彼はやめなかったし、ヴェルファさんがそれを止めることもなかった。
今のギルベル様は皇帝としてではなく、アッシュさんの親友としてそこに立っていた。
「アシュバーンはどうしても自分を犠牲にしようとする……。俺との夢のためにだ。最期くらい願いを叶えてやりたいのに、俺では駄目なんだ……! あいつは君を孤独にするまいとして遠ざけたが、本心は――」
「はいはい、そこまで。皆まで言わない」
ヴェルファさんが口を挟み、ギルベル様の額に指を当ててグイと顔を上げさせた。ギルベル様は不安そうな色を浮かべて私を見つめ、震える手をぎゅっと握りしめている。
「フィーナ嬢、アシュバーンは君を酷く傷つけただろう。だが、もし少しでもあいつを想ってくれるのならば……最期に傍にいてやってくれないか……?」
ギルベル様の真摯な眼差しは、私の目の奥を熱くさせた。
アッシュさんに素敵なご友人がいてよかった……と、心の底から嬉しく思った。
(だから、私は――)
「お断りします! 最期、なんてごめんです! 私の料理でアッシュさんの呪いを解いてみせますので!」
ギルベル様の顔がくしゃっと綻び、ヴェルファさんはグっと親指を立てて片目を閉じた。
私の料理に魔獣の呪いを解く力があるかどうかは分からない。アッシュさんの言った通り、本当は特別な力なんてないのかもしれない。
けれど、私がそうしたかった。そうすると決めたのだ。
「スパイスはきっと、アッシュさんを元気にしてくれますから」
◆◆◆
『アシュバーンは、氷の魔力の制御を失うことを恐れていた。今までは氷の魔力を大魔法として活用することで、体内への蓄積を防いでいた。だが、魔獣の呪いは日々勢いを増し、ついに抑えることも限界に近い……。溢れ出した氷の魔力は大地を凍土にかえてしまう。だから、その前にアシュバーンは――』
アッシュさんは、自ら命を絶とうとしている。
ギルベル様の言葉を思い出しながら、私は帝都の路地裏を駆けていた。
ギルベル様は、アッシュさんが辺境に転移したのではないかと言っていた。そこは二年前の魔獣戦争の主戦場であり、アッシュさんが氷の魔力を暴走させ、大地も人間も死に至らしめてしまった場所らしい。
(そして、ルゥインが亡くなった場所でもある……)
たしかに、そこなら死に場所に相応しいと考えるかもしれない。仲間への想い、罪の意識、つらい記憶が残り続けるその地は、責任感の強いアッシュさんからは切り離すことができないだろう。
(でも、私なら――)
私は路地裏にひっそりと掲げられた【スパイス食堂】の看板を見上げて、静かに目を閉じた。まだ魔法が解けていないことを願い、ドアノブに手を掛ける。
「ただいま」
ドアを開くと、そこは帝都ではなく迷いの森にある【スパイス食堂】だった。
あの夜に飛び出してしまって以来なので、久しぶりの店の空気が懐かしく、また戻って来れた嬉しさが胸に込み上げて来た。
静かでひんやりとしている店内は、私が初めてアッシュさんに出会った日を思い出させた。あの時は私が窓ガラスを割っていたせいで、室内がなかなか温まらなかったのだ。
けれど、思い返せば温かな思い出がたくさんが蘇る。
初めて作ったカレー、二人で飲んだお茶やお酒、一緒にキッチンに立って用意したケーキ、賄いだって何度も共にした。
すべてがかけがえのない思い出で、私を元気づけ、幸せな気持ちにしてくれる。
(【スパイス食堂】は、私とアッシュさんのお店……。失くしたくない大切な居場所……)
私はキッチンに飛び込むと、急いでエプロンを着けて料理の支度を始めた。材料はギルベル様からいただいて、マジックバッグに入れて持ってきていた。アッシュさんはお城を発つ前にギルベル様にマジックバッグを託していたようで、有難くそれをもらい受けたのだ。
私は手早く豚肉の下処理を済ませると、ゴボウやレンコン、ニンジン、カブといった根菜を大きめに包丁で切った。どれもしっかりとした野菜ばかりで、料理し甲斐がある。
そして鍋に水を入れると、そこにタイムとローリエ、カブを除く根菜を入れて煮込み始めた。煮立ったら灰汁を取り、カブとソーセージを入れてさらに煮込み――。
私は「ふぅ」と温かい息を吐き出しながら、鍋を見つめる。
もし私が今日にも死ぬと分かったら、どうしたいだろうか?
私だったら、大切な人に会いたい。ルゥインのお墓参りをして、家族にたくさんの感謝を伝えて、それから――。
「美味しいスパイス料理が食べたいです。あなたと二人で」
料理を終えた私は、ソファで静かに眠っていた白髪の魔術師の寝顔を覗き込むと、彼の柔らかい髪にそっと手で触れた。触れた指が痛くなるほどに髪の先まで冷え切っている彼は、重たそうに瞼を持ち上げると、長いまつ毛に縁取られた金色の瞳で私を見上げた。
「ん……、こんな所まで来るなんて……。君、僕のストーカーか何か……?」
光に揺らぐ双眼は、私を見つめて猫のように細められた。
「アッシュさん。ご飯の支度ができましたよ」




