51:帝国へ
終章に入りました。クライマックスも近いので、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
私の手のひらの上で解けてしまった組紐のお守りから、スゥッと冷たさが引いていくのを感じた。アッシュさんの魔法が消えたのだと理解した私は、動揺を隠せずに唇を小さく震わせ、お守りを握りしめた。
「アッシュさんに何かあったんだ……。すぐに行かないと……!」
「えーっ! 無茶言わないで、お姉様! 帝国に行くには海路を使わないといけないし、っていうかあの人に意地悪なことたくさん言われてたじゃない!」
「大丈夫。アッシュさんは嘘つきだから」
「そんな……!」
居ても立っても居られうず、ずんずんと早歩きで墓地を後にしようとする私をオリビアは大慌てで止めて来た。
それでも止まらない私がしがみついてくるオリビアを引きずりながら歩いていると――。
「いたいた! やーっと見つけたよ、フィーナちゃん!」
一目で高級と分かる馬車が墓地の前に停まり、整った顔立ちの中年男性が降りて来た。見覚えはない。だが、声に聞き覚えがあった。
「ヴェルファさん⁉」
「久しぶり。君に用があって王国にお邪魔しましたよー」
無精髭がなくなり、フォーマルな礼服に身を包むヴェルファさんは、最後に娼館で会った時とはまるで別人のようにスマートなたたずまいをしていた。色気は健在なので、世の女性たちが放っておかないであろう雰囲気が漂っている。
ヴェルファさんは、私に近づくと「元気そうで良かった」と目尻を下げて微笑んだ。
「あの時はありがとうございました。私、たくさんお世話になったのにお礼もできなくて……」
「いやいや。俺なんてなーんもしてあげれなかったよ。まぁ、お礼をしたいって思ってくれてるなら、ちょっと一緒に来てくれないかい?」
ヴェルファさんは馬車を顎で指すと、「帝国まで」と付け足した。
「……やっぱり、アッシュさんに何かあったんですね」
私が眉をひそめると、ヴェルファさんは黙って頷いた。私はサァッと血の気が引く思いがして、「連れて行ってください!」と大声を張り上げた。
「察しが良くて助かるよ。港に船を停めてっから、話は移動の馬車で頼むよ」
「はい! あ……でも……」
私が振り返ると、オリビアが唇をぎゅっと噛み締めてこちらを見つめていた。綺麗な碧眼には涙がじわりと滲んでいる。
「お姉様、どうしても行くの……?」
「……行きたい。ルゥインの時は、待つ事しかできなかったもの。手が届くなら伸ばしたい。じゃないと、絶対後悔するから」
私は凛とした声で言い切った。
心の弱い私がいなくなったわけじゃない。
今でも、誰かに縋って守られていたい気持ちは残っている。
けれど、それ以上に変わりたいという想いが勝っていた。
アッシュさんへの気持ちが愛なのか友情なのかは分からない。けれど、あの人からもらった不器用な優しさを私のやり方で返したいと思った。
「大丈夫よ、オリビア。今度は家出じゃないから。私、必ず帰ってくるわ」
「お姉様がそう言うなら、信じるわ……。お父様とお母様には私から言っておいてあげる!」
オリビアは、寂しそうな顔をくしゃくしゃに歪めて大きく頷いた。
私はそんな可愛い義妹を「いってきます」と、力強く抱きしめた。
◆◆◆
ザクト大国の田舎の港に似つかわしくない立派な船に乗せてもらった私は、初めての船旅に緊張を隠せなかった。甲板から下を覗くとすぐ海面が見えるという状況が、大波や沈没を連想させて、ガクガクと足が震えて仕方がない。
「海……、これが海なんですね……。船がひっくり返ったらどうしましょう……!」
「ははっ。それなりの金で造った船だから、ダイジョブだとは思うけどねぇ。まー、天候が心配っちゃ心配かなぁ……」
私に船を案内してくれていたヴェルファさんは、白く曇った空を見上げてため息を吐き出した。その息は白く、冷たい空気の中にふわりと溶けていった。
ザクト王国を発ってからも雪は降り続いており、寧ろ海を進めば進むほど降雪量は増えていた。
「今頃帝国は大雪かもな。急がないと間に合わなくなる」
「この雪はアッシュさんの大精霊さんが暴走して……?」
私が不安な顔を向けると、ヴェルファさんは「あぁ……」と眉根を寄せながら顎を指で撫でた。
「アシュバーンが大精霊と契約してるってのは、世間にあのバケモノじみた魔法を納得させるための嘘だ。いや、ホントのところ、アイツのナカにはバケモノが入ってるんだけどね」
「バケモノ?」
「そう。アシュバーンは大陸の人間を守るために、自らの体に取り込んだんだ。『氷の魔獣』をさ――」