43:魔獣の呪い
今回少し長めのお話なのですが、大事なことが書いてあるので
ぜひお読みいただきたいです。
その後のことは、あまりよく覚えていない。私には相変わらず、受け入れがたい記憶を忘却する悪癖があるらしい。
そのことを嫌悪しながら重たい瞼をゆっくりと開くと、二十年間朝晩眺め続けた懐かしい天井と、ベッドに横たわる私を覗き込むようにして囲む両親、そしてオリビアの姿が視界に映った。
私の瞳に光が灯ったことに気がついた父はおいおいと泣き出し、母は安堵して腰を抜かし、オリビアは仔犬のように飛びついてきた。
私は彼らから注がれる温かい眼差しや言葉、ぬくもりを感じて、ぐすぐすとすすり泣き、やがて堪えきれなくなって大声を上げて泣いた。
どうして私を見捨てなかったの?
つらい現実から逃げるために、みんなのことを悪者にした私を。
心ない言葉を散々喚き散らし、理不尽な態度ばかり取っていた私を。
どうして嫌いにならなかったの?
どうしてまた迎え入れてくれたの?
「ずっと言っていただろう。お前の幸せをみんなが願っていると。わしらはフィーナを愛しているんだ」
「私とあなたは血こそ繋がってはいないけど、可愛い娘に違いないの。見捨てるわけがないじゃない……!」
「私……、早くお姉様に元に戻ってほしくて、酷いことをたくさん言ってしまったわ。……ルゥインの死は、お姉様が一番触れてほしくないことだったのに。ごめんなさい、本当にごめんなさい……。私がお姉様を追い詰めたんだわ……」
家族の言葉と涙は、かけがえのない愛で溢れていた。
ルゥインを亡くした私を支えようと、彼らはずっとそばにいてくれたのに。
愚かな私という存在を諦めず、辛抱強く待っていてくれた。
「ごめんなさい……。お父様、お義母様、オリビア……。ありがとう……。大好きよ……」
私、フィーナ・ブルオンは、ザクト王国の実家ブルオン男爵家に戻って来た。
婚約者ルゥインの死を受け入れて、魔力のない平凡以下の薬師として、けれど私は穏やかで愛に満ちた日常を取り戻した。
ロムルス帝国でアッシュさんと【スパイス食堂】をやっていた日々が、まるで泡沫の夢のように思えるほどに――。
◆◆◆
ロムルス帝国帝城、皇帝ギルベルの執務室――。
季節は春だというのに、最近はよく雪が降る。
原因は分かっている。僕、アシュバーン・フォン・ドナペディルの存在こそが、帝国を日々凍土に近づけているのだ。
「すっかり寒くなったな。雪が積もったら、町で雪合戦大会でも開こうか」
僕がギルベルの居室を訪れ、近況の報告を行っていると、当の本人は上の空で窓の外を眺めていた。
僕の魔力の暴走を知っているくせに、悲観的な発言を一切しない優しさは嫌いじゃない。ギルベルは、昔からそういう男だった。いざとなると国民よりも親友を選んでしまうような危うさがある、そんな優しい奴だった。
「雪合戦? 平民のガス抜きには適したイベントかもね。僕はやらないけど」
「はははっ。お前が出場したら、圧勝してしまうからな!」
ギルベルが豪快に笑ってくれるおかげで、ほんの少しだけ、僕の気持ちは軽くなる。
彼が笑顔でいるならば、自分のやっていることは間違っていない……。どれだけ人を傷つけ、欺き、そして自分の感情を押し殺したとしても、ギルベルが笑っていたら、それはこのロムルス帝国が平和であるということだ。きっと、そうなんだ――。
僕が自分にそう言い聞かせていると、ギルベルの黒眼が一瞬だけ悲しそうに揺らいだことに気が付いてしまった。
「ギル……、君……」
「ん……、すまん……。つい、自分の無力さを考えてしまって……。お前が自分を犠牲にしているというのに、俺は……」
熱くなった目頭を指で押さえるギルベルは、嗚咽を必死に堪えているようだった。僕は反射的に「笑ってくれよ」と彼に言い放ったが、それが如何に酷なことであるかも理解していた。だからといって、どうにもならないことも――。
重苦しい沈黙が流れ始めたタイミングで、執務室のドアが乱暴に蹴り開けられた。ドアの向こうであたふたしている使用人たちと、ドアを蹴った張本人の姿が露わになり、僕は咄嗟に面倒くさいなと思ってしまった。
「ギルベル! アシュバーン! いるかい!?」
整った顔立ちの中年男性は、以前娼館で会った時に蓄えていた無精髭を剃り落とし、すっかり若々しい外見になっていた。僕が今会いたくなかった人第二位、マルゴー公爵ヴェルファだ。
「先生。城に来てくださるのは久しぶりですね」
「ギルベル、先生はよしてくれ。俺はもう貴族学校の教員じゃない」
「じゃあ、ギルのこと、皇帝陛下って呼べばいいじゃないですか」
僕が口を挟むと、ヴェルファさんは眉間にぎゅっと皺を寄せて睨んできた。
僕とギルベルは学生時代、ヴェルファさんの授業を受けていたことがあった。その時は、まさかこの人が公爵位を継ぎ、しかも帝都の夜の街を牛耳るようになるとは思っていなかったが、彼のことは話しの分かる大人だと認識していた。
(だから、こんなとこまで乗り込んで来るなんて思ってなかったんだけど)
「お前さんがまったく町に来なくなったから、わざわざ参城してやったんだ、アシュバーン! こないだの猿芝居はなんだ? フィーナちゃんを泣かせて、怖がらせて。挙句家に送還するなんて」
ヴェルファさんはツカツカと僕に歩み寄り、説教臭い声を浴びせて来た。あぁ、ヤダヤダ。今すぐ転移魔法で逃げようかなと思わなくもなかったが、ギルベルを残して消え去るわけにもいかず、僕は諦めてすべてを話すことにした。
(もういい。すべて終わったことだから)
「フィーナの婚約者は、二年前に死んでいた。そのことを思い出した彼女は、抜け殻のようになりましたよ。帝国で頼れるのは僕だけで、無垢な子どもみたいに甘えてきました。このまま彼女を僕のものにしたい、とも思いました。大事に大事に守って、囲い続けたい欲望が出て来て……でも、僕じゃダメでしょう?」
僕はべぇっと舌をヴェルファさんに向かって突き出して見せた。
そこには刺青のような魔法陣が刻まれており、ゆらゆらと揺らめく銀色の光を放っていた。
それは、僕を蝕む氷の魔獣の呪い。
僕は初めから大精霊と契約なんかしていない。無理矢理体に巣食っているのは、忌々しい魔獣だけ。大陸の民を救うため、僕がこの身を犠牲にして封じた大災厄だ。
「魔獣の呪いは、宿主の意思とは無関係に強制的に氷の魔力を作り続ける――。氷の魔力は体内貯蔵量をオーバーすると、宿主にとっても周囲の者にとっても有害だ……。だから僕は意識が飛ぶスレスレまで大魔法を使って魔力を消費し、暴発が起きないようにして生きている。……氷の魔力は何から作られるか、前に言いましたよね? ねぇ、ヴェルファさん」
察しの良いヴェルファさんは、言葉を失い、唇を引き結んでいた。
この人も大概お人よしだから、言わせるのは酷か……と僕が口を開きかけると、沈黙を貫いていたギルベルが悲しそうな顔を上げた。
「……命だ。アシュバーンの命が蝕まれている。魔力を制御するために、お前は命を自ら削り続けている。残りの寿命が僅かしかないお前は、フィーナ嬢に愛する者が死ぬ悲しみを再び与えまいとして、彼女を遠ざけたんだろう?」
「正解だよ。付け加えるとしたら、フィーナの婚約者は、魔獣を封じた直後の僕の魔力暴走に巻き込まれて亡くなったってことかな」
ヴェルファさんが息を飲み、ギルベルがやり切れない表情で僕を見つめた。
(そんな顔をするのはやめてくれ。この世のすべての苦しみを僕が背負ってもいいから、君は太陽のように笑っててくれよ。でないと僕のせいで不幸になった者たちが報われないじゃないか)




