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42:別れ

 翌日、娼館に一泊させてもらったお礼に、私は朝から施設の掃除と洗濯の手伝いをしていた。娼婦のお姉さんたちからは「真面目過ぎよ~」と何度もたしなめられたが、動いていないとつらいことを思い出してしまいそうだったので、忙しいくらいがちょうどよかった。


(もう、忘れるわけにはいかないもの……。考えることは怖くて苦しいけど、心には留め置くんだ……)


 個室の寝具を洗濯し、さぁ外に干そうと娼館の裏庭に出てみると、先ほどまでは晴天だった青空が濁った色の雲で覆われ始めていた。ひんやりと冷たい空気辺りに漂い始め、まるで雪でも降り出しそうな気配がする。私はぶるりと身を震わせると、自分の吐いた息が白いことにも驚かされた。娼婦のお姉さんが貸してくれたブラウスとスカートが薄手であるとはいえ、ここまで冷えるのは異常な気候と言えるだろう。


(もしかして、アッシュさんが……?)


 彼が来てくれたのではないかと思った私は、洗濯カゴを抱え、慌てて娼館の中へと舞い戻った。

 廊下ですれ違う娼婦たちは、「アシュバーン様、なんだか怖かった……」、「若い女性を連れていらしたわね」と小声で噂話をしており、私は胸に爪を立てられているような息苦しさを覚えた。


 やっぱりアッシュさんはまだ怒っている……? 女性って誰……? もしかして、もう私の代わりの料理人を見つけたとか? 


 冷静に話をするつもりが、女性を連れていると耳にしてからは、鉛のように足が重たくなってしまった。胸の奥がもやもやとして、それまで彼に言いたかったことや聞きたかったことが霞んで見えなくなってしまうくらいには、心が乱されていた。


 そして私が娼館の玄関入口まで辿り着くと、先に来ていたヴェルファさんが「フィーナちゃん、今呼びに行こうと……」と言ってこちらを振り返った。

 けれど、私はヴェルファさんではなく、玄関に立つアッシュさんに目が釘付けだった。

 アッシュさんも黙って私を見つめており、包帯が巻かれた私の足を見て、一瞬だけぴくりと眉が動いたかのように見えた。

 けれど、彼の口から飛び出したのは刺々しい言葉ばかりだった。


「やぁ。まさかヴェルファさんに囲ってもらっていたとはね。料理人の次は、娼婦に鞍替えするのかな? いいんじゃない? 僕よりもっと優しい客たちに慰めてもらえば」


「アシュバーン!」


 ヴェルファさんが目を吊り上げて睨みつけるが、アッシュさんはフンと鼻先で笑っただけだった。

 私はアッシュさんの冷たい半眼と、彼が纏うピリピリと痛いくらいに冷え切った空気に思わず震えてしまった。昨晩の強引な口づけや乱暴な言葉を思い出すと、足が竦んで動けない。怖い、と思ってしまった。

 それでももう逃げるわけにはいかないと、私はか細い声を搾り出した。


「アッシュさん……、私、あなたとちゃんと話がしたくて……」


「忙しい僕を呼び出したんだから、中身はあるんだろうね? あぁ、大人しく僕のところに戻って来る気になったの? 君は何も考えず、僕の言うように生きることが一番楽で気持ちが良いもんね」


「おいコラ、てめぇ! いい加減にしろ!」


 ヴェルファさんが耐えきれずにアッシュさんの襟首を掴んだ。今にも殴り掛かりそうなヴェルファさんを見て、私は「やめて」と叫ぼうとしたのだが――。


「だ、大丈夫ですか? 大きな声がしましたけど!?」


 ドアの向こうで待たされていたらしい「女性」が、ハラハラとした表情で玄関に飛び込んできた。その「女性」の正体が分かるや否や、私は呼吸が止まりそうになるほど驚かされた。


「お……オリビア……?」


「お姉様⁉ フィーナお姉様⁉」


 煌めく金の髪に澄んだ碧眼の華やかな美少女――義妹のオリビアは、私と目が合うとふるふると震え出し、そして周りの者すべてが振り返るような大声で「あぁあぁぁぁぁっ!」と叫んだ。

 何が何だか分からないまま、この状況に面を食らっていると、オリビアは主人を見つけた飼い犬のような速度でこちらに駆け寄って来て、ぎゅっと力強く私を抱きしめた。懐かしい家族のぬくもりを体が覚えていて、私はつい呆けるようにしてふらりと床に膝を突いた。

 一瞬夢でも見ているのではないかと思い、ぼんやりと意識が飛びそうになったが、オリビアの髪から香るラベンダーの香油は私が彼女の誕生日に贈った特製品で、その香りが私の思考を現実に引き戻した。


(間違いない……。本物のオリビアだ……)


「どうしてオリビアがここに? お父様やお母様は?」


「娼館の外で待ってるわ。みんなでお姉様を迎えに来たのよ! 家族四人でザクト王国に帰りましょう! もう傷つかなくていいの。一人でつらい思いをしなくていいの。私たちがついてるから」


「え……。なんで……? なんで――……」


「落ち着いて、お姉様。大丈夫……。大丈夫だから……」


 美しい碧眼を潤ませながら話すオリビアの言葉は、私をさらに混乱させた。オリビアにぎゅうぎゅうと抱きしめられているのに、体がふわふわとどこか遠い空に浮かんでいるかのような感覚がして、何もかもに実感がわかない。

 けれど、こんな現実があるはずないと思いながらも、ある人ならばどんな不可能も可能にしてしまえることも知っていた。


「私たち、お姉様がいなくなってからずっと探し回ってたのよ。でも、見つけられなくて……。もう二度と会えないのかも。お姉様は死んじゃったのかもしれないって思って、不安で不安で……。そんな時にね、アシュバーン様がお姉様は無事だって教えてくださったの! しかも、迎えに行く手伝いまでしてくださって! ね、アシュバーン様?」


 声を弾ませるオリビア。私は彼女の視線を追いかけるようにして、壁にもたれているアッシュさんの顔を見上げた。


「アッシュさんが私の家族を……?」


「そうさ。ブルオン男爵家ってことは聞いてたし、僕の転移魔法があれば一瞬だからね。……嬉しくて泣けたかい?」


 アッシュさんはヴェルファさんに掴まれていた襟の皺を正すと、静かに涙を流していた私を冷たい目で見下ろした。

 そう、私は泣いていた。

 けれど、その瞬間に思っていたことは、家族に再会できた喜びではなかった。


「私が帰ってしまったら、大精霊の魔力を制御は……? アッシュさん……、私の料理には特別な力があるって――」


「あぁ、アレね」


 蒼白な表情で唇を震わせ、縋るように手を伸ばす私をアッシュさんは鼻先で笑い飛ばした。


「調べたら、君の料理になんて何の力もなかったよ。たまたま僕の調子が良かっただけ。役に立たないなら、もうそばに置いとく必要ないよね?」


 アッシュさんはパチンと指を鳴らすと、私の大切なスパイスボックスを召喚した。スパイスボックスがふわりと目の前に現れたので、私は慌ててそれを抱きしめた。


「サヨナラだ。フィーナ」


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