39:逃げ出して
「僕が欲しいのは、君の料理とカラダだよ。過去の男のことなんて忘れて、僕のモノになるよね……?」
アッシュさんの金色の瞳に射竦められ、私は全身を小刻みに震わせた。彼のぞくぞくするような色香溢れる声が頭の中で繰り返され、思考力を奪っていく。私の心はそんな自分を嫌悪することもできないほどに動揺していた。
そうだ。これはきっとアッシュさんの魔法なんだ。私はアッシュさんの魔法のせいで動けないだけ。だから声一つ上げられず、されるがままなんだ……。そうじゃないと、説明がつかない……。
「ずっと楽しみだったんだ。生意気だった君が、婚約者の仇同然の僕に溺れる様を見ることが……。最っ高だよ……。飼い殺すのがもったいなくなるなァ……」
私に馬乗りになっているアッシュさんが、ベッドに左手を突いて体を屈め、私の震える唇をひんやりとした指で撫でる。そして互いの唇がぐっと近くなった。
「フィーナ。愛してる……」
皮肉なものだ。
アッシュさんの愛の言葉が私に正気を取り戻させた。
かつて最愛の婚約者が生きていた時に掛けてくれた言葉と同じだったがために、私の体は反射のようにしてアッシュさんを拒んだのだ。
「だめ……、だめです……。私には……彼しか……ルゥインしかいないから……」
両腕に力を込めて、アッシュさんを押し返す。
瞳からは大粒の涙をぽろぽろと溢れさせ、ようやく出た声はくぐもっていて自分でも聴き取りづらいものだった。
けれど、私の意思が込められたものには違いなかった。
「ごめんなさい、アッシュさん……。ごめんなさい……。私は、彼のことを侮辱したあなたの下にはいられません……っ」
「……どの口が言ってるの? 婚約者の死から逃避し続けていた君に優しくしてあげたのは誰? 君に生きる意味を与えてあげたのは誰? 僕だろ。今、君が僕を拒絶したら、いったい何が残るの?」
アッシュさんが眉を吊り上げ、私を冷ややかな半眼で睨む。私を問いただす刺々しい口調はこれまでにないくらい攻撃的で、自分が絶対的に正しいと信じて疑わないものだった。――いや、私だって彼の言う事に誤りはないと思う。今の私には何もない。最愛の人の死によって空いてしまった大きな穴は、私という人間のすべてをえぐり取った結果だ。
(それでも、私は……)
「……私はルゥインのいない世界と向き合えなくて……ずっとずっと逃げて……、アッシュさんにすべてを委ねたら、もう何も考えなくていいと……そう思ったけど……。でも……ルゥインを裏切ってまで、歪んだ愛が欲しいとは……思わなくて……」
「君はどこまでも自分勝手だなァ」
アッシュさんは私が必死に搾り出した言葉をあっさりと切り捨て、鼻先で笑った。
「婚約者の死を忘却し、家族を悪人に仕立て上げて拒絶するようなイカレタ女に、今さら何を選ぶ権利があるんだよ。僕に求められて嬉しかっただろ? 何も考えずに甘やかされるのは心地良かっただろ? 君はもう、僕に与えられて生きることしかできないんだよ」
「そんな……そんなことは……」
「ないって言い切れないんだろ」
言葉を濁した私がアッシュさんから目を背けた瞬間、強引に唇が唇で塞がれた。
驚く私の唇は、飢えた獣のように激しく貪られ、息をすることができない。全身が痺れて、溶けてしまいそうな口づけは、再び私の思考力を奪おうとする乱暴なものだった。
私はそれを「悲しい」と思った。
「う……んん……っ、んあっっ」
私は全身の力を振り絞り、アッシュさんを突き飛ばした。
薄暗い部屋で、彼の表情を確かめることはできなかったが、チッと舌打ちをする音と、「抗う君を堕とすのも悪くないか」という低く冷淡な声が私の鼓膜を震わせた。
「ごめんなさい……アッシュさん……。ごめんなさい……」
アッシュさんに恐怖を覚えた自分が嫌だった。
アッシュさんが私に与えてくれたものは確かにあって、まだ何も返せていなかったから。
「フィーナ」
名前を呼ばれると同時に、私はベッドから転がり落ちるようにしてアッシュさんの伸ばした手から逃れた。そして足をもつらせながら部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
身を守るためなんかじゃない。
これ以上、アッシュさんのことを嫌いになりたくなかったからだ。
私は裸足のまま【スパイス食堂】のドアを開くと、夜中の帝都へと逃げ出した。
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