37:優しく溺れて
目覚めるとベッドの上で、瞼が腫れていて重たいが、気分はとてもすっきりとしていた。なんだか久しぶりによく眠れた気がする。
ここはどこだろう。私は昨晩何をしていたんだっけと、ぼんやりと霞みがかった記憶をどうにかしようと、私は無意識にルゥインの手紙を探した。
けれど手が届く範囲には何もなく、見つけてハッとしたのは、ベッドにもたれて床に座っているアッシュさんだった。彼は腕を胸の前で組んだまま、うつらうつらと舟をこいでいた。
(アッシュさん……。もしかして、一晩中そばにいてくれたの……?)
アッシュさんの存在が、私の昨日までの記憶を鮮明に蘇らせた。
昨日の夜は、アッシュさんとヴァン・ショーを飲み交わした。
何か言いたそうにしていたアッシュさんのことが気になって、ルゥインの話題になったことが嬉しくて、それで――。
『彼は二年前に死んだんだろう?』と、アッシュさんが言った。
ルゥインから届いた手紙なんてなかった。
ルゥインの死を受け入れることができなかった私が、自分の心を守るために、ずっとずっと自作自演で書いていたのだから。
ルゥインは、二年前の戦争で亡くなっていたのだから。
「う……っうぅ……」
思い出すと、涙が込み上がってきた。
二年間、現実から逃げ続けた私は、いったい何をして生きていたのだろう。
ルゥインを悼むことも、慰めてくれた家族に感謝することもなく、私は――……。
「……やぁ。よく眠れたかい?」
私がすすり泣いていたせいで、アッシュさんは目を覚ましてしまったらしい。ベッドにもたれた体勢のまま、首を反らせてこちらを見上げている。彼の顔には疲労の色が滲んでいたが、声調はそれを感じさせないような明るいものだった。
「アッシュさん、私……」
「昨日は飲ませすぎちゃってごめんねー。僕、お酒にすごく強いからさ。つい相手を酔わせちゃうんだよ。服はそのままでベッドに運んだから、動けそうならシャワー浴びておいで」
軽妙なアッシュさんの言葉を聞いて、私は自分の体を見下ろした。たしかに昨夜の服のままだだった。汚いと言われたわけではないが、今はまとわりつく全てを洗い流したい気分には違いないので、私は大人しく「はい……」と小さく頷いた。
◆◆◆
シャワーを浴びても、瞼が腫れた酷い顔はすぐには治らない。私は冷たい水で何度も顔を洗ってみたが、瞳に光のない死人のような顔はどうにもならなかった。
諦めてバスルームを出ると、キッチンから漂うふんわりと芳ばしい香りと数種類のスパイスの香りが鼻腔を刺激した。
「……ナツメグ、ターメリック、シナモンの香りがします」
私がぼそぼそと呟くと、アッシュさんが目を細めて「さすがだね」と言いながら、キッチンからホールに出て来た。高級そうな魔術師衣の上に庶民的なエプロンを纏う姿が、なかなか様になっている。
「料理……してくださったんですか……?」
「またギルから食材を押し付けられてね。一人じゃ食べきれないから、朝食にしてみた」
アッシュさんは立ち尽くしていた私に席を勧めると、「僕は本気を出せば料理だってできるんだ。まァ、君の作ったスパイスの表? を見てやってみたんだけど」と、少し照れ臭そうに目を逸らしたまま、料理をテーブルに並べた。
「君だったらパンにスパイスやハーブを混ぜて焼くんだろうけど、さすがにそれはできなくて……。でもちょっといいパンだから、美味しいと思う。あとはカボチャのポタージュ。これはちゃんと作ったよ。えーっと……ナツメグは体温を上げたり、消化器系に働きがあって……、ターメリックは二日酔いにいいんでしょ? あとシナモンはなんだっけな……。あぁ、そうだ。あったかくなるんだよ、これも」
いつもの私なら、雑なアッシュさんの解説に思わず笑ってしまっただろう。けれど今は、彼が私のためにスパイスの効用を調べて料理をしてくれたことがただひたすらに嬉しくて、何も言葉を返すことができなかった。
私はアッシュさんが用意してくれた朝食をじっと見つめたまま唇を震わせ、お礼を言わなきゃ……と、自分に言い聞かせる。けれど、それでも声が出ないのは、喋ろうとした瞬間にわっと泣き出してしまうことが分かっていたからだ。
これ以上、アッシュさんに迷惑はかけられない。いや、かけたくないと思った私は、体と心が固まって動けなくなっていた。どうしたらいいのか、分からなかった。
そんな私の胸の内を察したのか、アッシュさんは「食べさせてあげようか?」といたずらっぽい笑みを浮かべ、スプーンでポタージュをひとすくいした。
「口、開けて」
私は一瞬だけ躊躇ったが、言われるがままに口を開いてスプーンを待った。アッシュさんに見られるのがなんとなく恥ずかしかったので、目は閉じた。
「君ってヤツは……。僕のことなんか信用するなよ……」
アッシュさんの自嘲気味な声が聞こえたかと思うと、唇に温かくなったスプーンの縁が触れた。私がぱくんっとそれを咥えると、シナモンの独特なスパイシーな香りとカボチャの甘味が口内にじんわりと広がった。
「優しい……味がします……」
私は目を開いてアッシュさんを見つめたが、溢れる涙で視界が滲んでしまい、彼の表情がよく分からなかった。ぽろぽろと零れ落ちる涙は、手の甲で拭っても拭っても止まる気配はない。
ポタージュの優しい味が、私の隠し続けていた傷にそっと触れて癒してくれているかのような、そんな気がした。
「アッシュさんは、どうして私に優しくしてくれるんですか……? 同情……ですか……?」
私が肩を震わせながら声を搾り出すと、アッシュさんは二口目のポタージュをスプーンですくいながら小さく鼻で笑った。
「そんなたいそうな感情じゃないさ。君は知らなくていい」
アッシュさんがそう言うなら。
私は考えることをやめ、再び目を閉じた――。




