36:歪んだ世界にいた私
『フィーナ。あなたは少し休んだ方がいいわ。知り合いが勤めている修道院があるの。だから、そこでしばらく療養するのはどうかしら』
継母は、実子じゃない私を疎ましがって、修道院に出家させようとした。
『私の薬では、お前の心は治せん。このままでは何も変わらない……。なぁ、フィーナ。見合いをして、前に進んでみてはどうだろう。お前の幸せをみんなが願っているんだ』
父は、私とルゥインを引き離し、条件のいい別の男に嫁がせようとした。
『ルゥインは死んだの‼ いい加減、現実を見てよ。お姉様!』
義妹のオリビアは、ルゥインのことを貶め、私を傷つけようとした――。
そんな家族との記憶が走馬灯のように蘇り、私は全身をカタカタと震わせた。汗が噴き出し、血の気が引き、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息苦しい。
「あ……あぁぁ……あ……う……」
「落ち着いて。息を吸って……」
アッシュさんは床に片足を突き、うずくまる私の背中をさすってくれた。ひんやりとした手のひらの感覚が心地よく、私の意識はゆっくりと呼吸に集中していく。
けれど、まだ苦しい。胸の奥が痛く痛くてたまらない。
両親が私のことを頭がおかしくて、カワイソウな女だと思っているから?
オリビアとアッシュさんが、酷い嘘をつくから?
(違う……。そうじゃない……)
二年前のあの日から、私の世界は私を守るためにいびつになった。
「死ぬわけない……。彼が私を置いて、死ぬわけないじゃない……っ」
私が嗚咽を漏らすと、床にぽたぽたと大粒の涙が零れ落ちた。
そして、今口から出た言葉も、この涙も初めてではないことを思い出した。思い出したくなんてなかったのに――。
二年前、戦争は終わった。
けれど、ルゥインは帰って来なかった。戻って来たのは、私が彼にプレゼントした組紐のお守りと、戦死という事実だけ。待ち焦がれた愛する人の帰還は叶わなかった。
「君は婚約者の死から目を背けるために、そのこと忘れることにしたんだね。……つらかったね、フィーナ」
アッシュさんが私の肩を抱きしめた。優しい触れ方と、優しい言葉は、遠くに逃げていた私を現実に引き戻す力が強くて嫌だった。いつもみたいに棘のある言葉をぶつけてほしかった。私はまた逃げ出したくて一生懸命に首を横に振るけれど、アッシュさんから離れることも怖くて動くことができなかった。
何も、できなかった。
「あ……うぅ……っ、あぁ……わ……たし……」
力が抜けてしまい、ずるずると床に倒れてしまいそうな私をアッシュさんが抱きとめている。彼がここにいることが、私が現実を生きている証であり、同時に現実に縛る鎖のように感じられた。
私は二年間ずっと頭の中がぐちゃぐちゃだった。
目覚めるたびに今自分がどこで何をしているのか分からなくなっていた。だからそのたびにルゥインからの手紙――私が書いた手紙を読んで、私の求める世界に浸り直していた。
スパイス料理は、自分のために始めた。
ルゥインが死んだと知った後、彼が心と体を労わるといいと教えてくれたことを思い出し、縋るようにしてキッチンに立った。初めは包丁もまともに使えず、失敗ばかりだったが、料理をしている間は悲しいことを忘れることができた。だから、眠れない夜は朝が来るまでキッチンに籠っていた。
そして、そのうちに私はスパイス料理を始めたきっかけまで忘れてしまい――いや、忘れることにしたのだ。「愛する人のために料理を頑張る自分」を作り上げ、彼と店を開くことを新しい夢にした。甘くてぬるい虚偽に酔うことは、とても心地が良かった。
私は愛する家族よりも、偽りで満ちた歪んだ世界の片隅にいることを望んだ。
悲しい現実を突きつけ、前を向くようにと訴えてくる家族の存在を歪ませて捉え、自分を悲劇のヒロインだと思い込み、拒んで傷つけ、挙句私は彼らの愛から逃げ出した。
そんな歪んだ私の世界に、アッシュさんはやって来た。
何も知らない彼に、自分の夢を語って聞かせることが嬉しかった。
哀れまれない。疑われない。
純粋なアッシュさんの反応は、ルゥインがひょっこりと私を迎えに来てくれるんじゃないかと思わせてくれたし、本当にそうなる気さえしていた。
けれど今、断片的な記憶を都合よく繋ぎ合わせてきた私の違和感に気が付いてしまった彼の目は、すべての歪みと偽りを見透かしていた。
婚約者の帰還を待つ令嬢なんてどこにもいなかったという現実が、私の胸を何度も何度も繰り返しえぐり、痛みが涙になって溢れ出て来た。
「うぅ……私……、死んでしまいたい……」
「……君がいると心強いなァ。死者の国でも二人で【スパイス食堂】、やろうよ」
アッシュさんはぎゅっと強く私を抱きしめると、額に優しい口づけを落とした。柔らかで少しひんやりとしたそれは、私の意識を深い眠りの底に誘う魔法のキスだった。
「おやすみ、フィーナ……」
第1話につながる内容でした。重いです。




