34:皇帝ギルベル④
アシュバーンという男は、誰に対してもふてぶてしく、嫌味を口にし、傲慢に振る舞う。それは俺や諸侯たちに対してもそうだし、目の前のフィーナ嬢に対しても同じだった。
だが決定的に異なるのは、フィーナ嬢を見つめるアシュバーンの表情だ。目の奥が笑っているとでも言おうか。口は悪くとも、奴の眼差しには温かい情が見え隠れしていて、フィーナ嬢を常に目で追っている。二人のやり取りを少し見ただけでも分かる。
そうか……と、俺はふっと肩の力が抜ける思いで息を吐き出した。
(アシュバーン、恋をしたんだな)
『ちょっとあの子のこと考えてたら、眠れなくって。ストレスかも……』と疲れた様子で話していたアシュバーンを思い出して、俺は目を猫のように細くした。
アシュバーンが誰かを好きになることは、俺が知る限り初めてだ。なるほど。だからこの店は特別扱いで、正体を隠しているのも「ありのままの自分を受け入れてほしい」的な感じなわけだ。うんうん、遅れて来た青春だな!
俺がニヤニヤしながら顔を見上げると、アシュバーンは「な……なんだよ」と怪訝そうに眉をひそめたが、そうと分かれば怖さは半減だ。
俺は二人の仲をよい雰囲気にする手伝いをしてやろうと、ご機嫌に口を開いた。
「アッシュとフィーナ嬢は仲がいいな。プライベートでも二人で出かけるようなことはあるのか?」
「ないですね……。私、婚約者がいるので、プライベートに他の男性と二人っきりはちょっと……」
(!!!!)
はにかむフィーナ嬢の威力抜群の言葉。
俺は驚愕して声が出ないまま、錆びたブリキ人形のようにギギギとおそるおそるアシュバーンを見上げた。
「すまん」
「は? 何が?」
「えっと……、こんやく――」
「言わなくていいから、取り敢えず清算して帰ってもらおうかな。ワインの残りは持って帰っていいよ」
目が据わっているアシュバーンの迫力に圧され、俺は「は……はい……」と震えながら財布を取り出した。こんな皇帝の姿、国民には見せられない。
好きになった女の子が婚約者持ちだったら、そりゃあストレスが溜まるだろう。全知全能のイケメンの化身のような男でも、思うようにならないものなのだなと、俺は哀憫の情を抱かずにはいられなかった。倫理的に略奪愛を勧めるわけにもいかないし、今の俺には黙って会計を済ますことしかできない。
(すまん、アシュバーン……。お前にチャンスが巡ってくることを願っている……!)
「今日はごちそうさま。また会おう、フィーナ嬢」
俺は「ありがとうございました」と微笑むフィーナ嬢に軽く手を振りながら、【スパイス食堂】を後にしたのだった。
◆◆◆
翌日、いつもより少し遅く起きた俺は、夜食べたチキン美味しかったなーと、一人で思い出してほくほくとしていた。皇帝業の間にまたぜひ行きたいものだ。
そんなことを思って城の廊下を歩いていると、「ギル」と鋭い声に呼び止められた。顔を見なくとも分かる。俺をそう呼ぶ者は、アシュバーンただ一人だ。
昨日のフィーナ嬢婚約者持ち事件のことがあり、何と声を掛けるべきか一瞬悩んだが、俺より先にアシュバーンが「フィーナのことだけど」と切り込んできた。
「君が心配するような害のある子じゃない。それに、僕が誑かされているわけでもない」
「いや。お前が誑かされているとまでは思ってないが……その……、脈が皆無な境遇だったな……」
気を遣って言葉を濁すと、アシュバーンはいつもと変わらぬ偉そうな口調で「初めから知ってたさ」と投げやり気味に言い放った。
「彼女はそもそも、婚約者を探すために帝国に来たんだ。戦争に参加した騎士だってさ。こないだ届いた手紙には、辺境の復興支援に手を貸してるって書いてあったらしい。それが落ち着いたら、彼女を迎えに来るそうだよ」
「辺境の復興支援……?」
俺は気になった単語をそのままオウム返しした。うっかり聞き流すところだったが、そういった情報は皇帝である俺のもとに集まってくるのだから、知らんふりはできなかった。
何と言ったらいいのか、一瞬だけ唇が固まってしまう。
これを口にすると、アシュバーンを苦しめ、傍観者に留めておくことができなくなる。今以上にアシュバーンを悩ませていいのだろうか。残りの時間を彼が穏やかに過ごしてほしいと願っている俺が、彼につらい役目を負わせてしまうのではないか――。
「……言って。ギルベル」
何かを察したアシュバーンは、愛称ではなく、俺の名を呼んだ。低い声には凄みがあり、皇帝の俺にさえ拒否権がないことが分かる。
だから、俺は躊躇いがちに声を搾り出した。
「二年前の魔獣戦争で、お前は最前線の部隊を指揮していただろう……? 主戦場は辺境。お前が周辺の住民たちを魔法で非難させてくれたおかげで、民間人の死傷者は出なかったな」
「知ってるよ。以前も君からそう聞いた。今は、帝国軍と民間団体が協力して、復興支援に当たってるって――……」
アシュバーンが俺の沈黙の意味を読み取り、薄い唇を小刻みに震わせた。
「君、僕にはそう言ったくせに……」
「民は生き延びた。だが、大地は凍土と化し、最早人が住める場所ではなくなった。故に俺は皇帝として、辺境の地を捨てる決断をした。……すまん、お前には伏せていた……」
「余計な気を回しやがって……!」
アシュバーンは爪が白くなるほど拳を強く握りしめたが、俺に怒りをぶつけてはこなかった。やり切れない思いと対峙するよりも先に、一つの大きな違和感を無視することができなかったに違いない。
「――じゃあ、あの子の婚約者はどこにいるんだよ?」
明るいお話から一変。シリアスパートが始まります。




