32:皇帝ギルベル②
結局、スパイスの一覧表の内容を読み解くことができなかった俺は、「チキンが食べたい。後はシェフの気まぐれセレクトでお任せする」と言いながら、ソレを笑顔で返却した。
一方のフィーナ嬢は「シェフの気まぐれセレクト」という単語が気に入ったらしく、「シェフだなんて……、ふふっ。では、気まぐれセレクトしちゃいますね」と、大変満更でもなさそうに顔をほころばせてキッチンの奥へと消えていった。ヤバそうな女の子だと思ったが、単純な一面もあるのかもしれない。
(アシュバーンの周りにいる女性とは、タイプがぜんぜん違う感じだなぁ……)
清涼感のある爽やかな口当たりの水をごくごくと飲み干し、俺は「ふぅ」と息を一つ吐き出した。
当然といえば当然だが、普段帝城を出入りできる身分のアシュバーンを取り囲む女性たちは、上位貴族や大商人クラスの高貴な者たちばかりだ。野心を上品な言葉で包み、皇帝の右腕と称されるアシュバーンに必死に取り入ろうとする――。そこに彼女たちらしさなどは存在しない。
アシュバーン自身も、「損得勘定を綺麗な皮で包んでるけど、皮が極薄だよね」と俺には皮肉まみれの本音を漏らしていた。まぁ、俺とて皇帝の身分なので女性に言い寄られることは多々あるので、アシュバーンの言い分が分からなくはない。
(まれに本当に熱を上げているご令嬢もいるにはいるんだがな)
――などと、アシュバーンの近くの女性たちのことを考えていると、カウンターの向こうからすごい香りが鼻腔を刺激してきた。爽やかですっきりする香りではあるのだが、何と言うか、笑顔で殴りつけられているかのような威力のある香りだ。
気になって少し腰を浮かし、キッチンを覗いてみる。すると、フィーナ嬢が鼻歌を口ずさみながら、ドドドドドドドドドッとすごい勢いで緑の葉を包丁でみじん切りにしていた。表情と手の動きのギャップが怖い。
「えぇと……、野菜?」
「バジルとパセリです。いい香りのハーブでしょう?」
包丁を持ち上げて微笑むんじゃない。
そう叫びたくなるのを堪え、俺は「爽やかだな……!」と当たり障りのないコメントをした。
正直、こんなに強烈な匂いのハーブを使った料理がどんな代物になるのかという不安がよぎったが、間もなくそれは杞憂に終わった。
「……⁉」
ジュゥゥゥ……ッと耳に心地良い音と、ガツンとしたニンニクの香り、そして先ほどのバジルとパセリの清涼感のある香りが入り混ざり、俺の食欲を豪快に刺激した。腹が鳴り、口の中に唾液が溢れた。
再びキッチンを覗き込むと、小さなフライパン(たしかスキレットという名前だったと思う)で、鶏肉と輪切りのジャガイモ、そしてみじん切りされたニンニクとハーブが焼かれている。鼻腔をくすぐり、それだけで食欲を強引に引きずり出すかのような香りが店に漂う。
「おおぉ……」
思わず、皇帝らしからぬ気の抜けた声を漏らしてしまった。アシュバーンに聞かれたら馬鹿にされるやつだ。
だが、食欲に嘘はつけない。食べる前から分かる。これは絶対に美味いし、なんなら実物を食べなくても香りだけでバケットを数本平らげてしまえそうな気さえする。
俺がそわそわと肉の焼き上がりを待っていると、フィーナ嬢は笑顔で熱々のスキレットごと、料理をカウンターテーブルに置いた。
「お待たせいたしました。《ハーブチキン》です。バケットはお代わり自由ですよ」
「それは有難い」
俺は「いただきます」と手を合わせると、さっそくナイフとフォークを肉に押し当てた。じゅわりとたくさんの肉汁が溢れ、もったいないので急いで一口分切ってかぶりついた。
「ん……!」
ハーブの爽やかな香りと風味がたっぷりの脂と溶け合って、口当たりが軽くなっている。肉の臭みもなったくない上に、脂っこく感じないため罪悪感ゼロでパクパクいける。表面は揚げ焼きでカリカリ、中はジューシーでふっくらとしていて、食感の差がたまらない。
「美味い……」
無意識に唸るような声が漏れ出た。
ここが帝城ならば、皇族らしく堂々と威厳のある居住まいで食事を続けるだろう。だが、今日はお忍びの偵察。寧ろ、平民らしく行こうではないかと、俺はスライスされたバケットで切り分けた肉を挟んでみた。なんちゃってサンドイッチだ。
ちらりとキッチンを見ると、フィーナ嬢が親指をグッと立てて頷いてくれた。
(美食を生み出してくれたこと、感謝する!)
チキンサンドイッチを夢中で頬張る俺は、気が付けばハーブチキンを追加注文し、バケットを五本平らげ、ワインも一本開けていた。
俺が我に返ったのは、背後からガシっと肩を鷲掴みされた瞬間だった。
「こんなトコで何してるわけ?」
聞き慣れた毒気に満ちた美声。俺が玉のような汗を滲ませて振り返ると、そこには眉を吊り上げたアシュバーンが立っていた。




