29:アップルパイの潜熱
(一口食べるだけ……。一口だけだ……)
敷物が凍ることは目に見えていたので、僕は立ったままフィーナから皿とフォークを受け取ろうとした。
だが、僕の右手が触れた途端、ピキピキと音を立て、氷がフォークを包み込んでしまった。フィーナは「きゃっ」と短い悲鳴を上げて、地面にフォークを落としただけだったが、僕は全身の血の気が引き、呼吸が止まりそうになった。
もし、彼女の手に直接触れていたらと想像すると、恐ろしくてたまらなかった。寒さのせいじゃない。僕の体は少し前から震えが止まらない。
「ごめん……。やっぱりダメだ」
「そんなことありません。フォークが持てないってだけじゃないですか。いつもの不遜なアッシュさんはどこへ行ったんです?」
青ざめて後退る僕の心中など知らない彼女は、自分のフォークでアップルパイをさくりと切り分けると、一口分を突き刺してこちらを見上げてきた。いつも通りの強気な声は、悔しいけれど、嫌いじゃない。
「食べさせてあげます」
敷物の上で膝立ちをしているフィーナは、にこにことご機嫌に皿とフォークを僕の方に持ち上げている。
「た、食べさせるだって⁉ この僕に⁉」
腰が抜けるかと思った。ザクト王国のご令嬢は、異性に気軽に食べ物を食べさせるのか? 恋人や夫婦のような近しい間柄の者たちがすることじゃないのかと、驚いた僕の声は完全にひっくり返ってしまっていた。
ところがフィーナと言えば、「赤ちゃんだって、ご老人だって、病気の方だって、有事の際には食事介助してもらってますから」と、僕の想像の斜め上を行く発現を繰り出した。
(まぁ、そんなことだろうと思ったよ)
僕はやれやれと肩を落とすと、彼女の申し出を断って、さっさと手掴みでアップルパイを食べてしまおうかと思った。だけど――。
「温かいうちにどうぞ」
吸い込まれそうなほど綺麗で大きなグリーンの瞳が、僕を真っ直ぐに見つめていた。彼女の瞳の中には僕しか映っていなくて、多分、僕の瞳にも彼女しか映っていない。
ここには僕と彼女しかいない。
婚約者がいると知っていながら、自分の運命を理解していながら、彼女に浅ましい感情を抱く僕を。今は誰も見ていない。
「ありがとう、フィーナ。ごめんね……」
僕は少しだけ体を屈めて、彼女が差し出したフォークぱくんっと口に入れた。
サクサクとした食感のパイ生地はバターたっぷり。中のりんごはシナモンと一緒に柔らかく煮られていて、温かくて少しスパイシーな風味が口の中に広がって癖になる。濃厚な甘さが背徳的な熱を与え、もっと、もっと求めさせる――……。
(好きになっちゃいけないって、分かってたのになぁ……)
これが誰かを好きになるってことなのか。
君のことを思うと温かくなる胸の内側も、どうしようないもどかしさも、痛みも全部、全部愛おしくて憎い。
僕はそんな感情をアップルパイと一緒に飲み込んだ。
◆◆◆
私が「あーん」としてあげると、意外にもアッシュさんは大人しく口を開けてくれた。よほどアップルパイを気に入ってくれたようで嬉しい。
大精霊やら魔力やら、そういった難しいことは魔力なしの私にはよく分からないけど、温かいものは食べた人にぬくもりを与えてくれることは、この世の理というわけだ。
ならば、温かい飲み物も私の手で飲ませてあげようではないか。大丈夫、薬師として病気の人に吸い飲みで薬を飲ませた経験は何度もある。
そう思い、私が疲労回復とリラックス効果のあるカミツレティーにミルクをたっぷりと注いでいると――。
「あれ……」
アッシュさんが、先ほど私が地面に落としてしまった氷漬けフォークを拾い上げて見つめていた。驚いて言葉を失っているようだ。
「どうしました? 私にも見せてください」
すごい形に変形でもしているのかな? と、私は少しわくわくして敷物から立ち上がると、唐突にアッシュさんがこちらを振り返り、右手で私の頬をふにっと摘まんだ。
「にゃ……にゃにごとですか⁉」
美味く喋れないまま尋ねると、アッシュさんはいつもの勝ち誇ったような、けれど初めて見る涙を堪えたような眼差しを私に注いでいた。金色の瞳がうるうると揺れるのを必死に隠そうとしているかのようだった。
「冷たくないだろ?」
「あ……」
私が頬で感じたアッシュさんの指の温度は、普通の人より少しだけひんやりしている程度だった。凍るなんてとんでもない。
「大精霊の魔力、制御できたんですか?」
「いつの間にか抑え込めてた……。君の料理のおかげだよ、フィーナ」
目を細めて笑うアッシュさんは、私の頬をつまんでいた指を離すと、氷の溶けたフォークをペンのようにくるくると回しながら言った。
「君のスパイス料理には、特別な力がある」
それは魔力を持たず、役立たず扱いを受けていた私にとって衝撃の一言だった。




