26:胃袋掴まれてんな
アッシュさんは鋭い金色の眼光をヴェルファさんに向け、手に力を込めている。かつて、当たり屋の腕を掴んだ時のように。けれど、あの時と違い、怒りを隠さない真剣な眼差しで。
娼館内の室温がぐっと下がり、その中心にアッシュさんがいるその意味を理解した私は、慌てて大声を上げた。
「だ、ダメです! ヴェルファさんを氷漬けにしたら!」
「……チッ。しないよ。馬鹿じゃないの」
アッシュさんが手を緩め、ヴェルファさんを解放すると、室内に漂っていた冷気がスゥッと散るように消えていった。心配しすぎだったのかもしれないが、アッシュさんの感情と魔力が反応し合っていたことは事実だと思う。
(アッシュさん……。私のために怒ってくれたの……?)
彼に対して今まで抱いて来なかった感情に、私は戸惑ってしまう。そんな、まさか。いつだって唯我独尊な態度で相手を見下しているようなアッシュさんが、私の気持ちを汲み取って助けてくれるなんてこと――。
「いやぁ、ごめんね。フィーナちゃん。ボディタッチ嫌だった?」
私が呆けたようにアッシュさんの横顔を見つめていると、ヴェルファさんが両手を擦り合わせて謝ってきた。彼にとって女性に触れることは特別なことではないのだろう。けれど、そうでない女性がいることも理解してくれたようで、何度も頭を下げてくれた。
公爵様に謝罪させる男爵令嬢の図に耐えきれず、私は「もういいです~ッ!」と悲鳴に似た叫び声を搾り出す。
そんな私に、アッシュさんが手を差し伸べてきた。
「帰るよ。しばらくデリバリーの注文を受けるの禁止。店は僕がいる時間に開けて」
低くて威圧的な声が少し怖い。アッシュさんは私のために怒ってくれたのかと思ったが、もしかして言いたいことも言えない私に対して怒っていたのかもしれない。
そう思うと何も言い返せず、私はしょぼくれながら配達してきたピザをヴェルファさんに託す。そして、「はい……」と素直に返事をして、アッシュさんの手を取った。触れたらこちらが痛くなるくらい、冷たい手だった。
「今度店に行かせてくれよー!」
転移魔法の魔法陣の光に包まれる私とアッシュさんにひらひらと手を振ってくれるヴェルファさんと娼婦のお姉さんたち。
私は彼らに「お待ちしております」と手を振り返したが、アッシュさんはムッとした表情のまま、黙って指をパチンと鳴らし、魔法を発動させたのだった。
◆◆◆
アシュバーンとフィーナちゃんが魔法で姿を消した後、娼館内は騒然としていた。
「きゃーっ! アシュバーン様の過保護っぷり見た?」
「牽制も半端なかったわよね~! ヴェルファ様にバチバチにキレてた!」
噂好きの娼婦たちがキャッキャと騒ぎ出し、大陸の英雄アシュバーンの意外な一面に大興奮が止まらない。ま、館長の俺も混ざってんだけど。
「う~ん、面白いもん見たねぇ! アレが一人の女の子に執着するなんてさぁ」
「でも、あの子、アシュバーン様の偉大さを分かってなさそうな感じでしたよね? 超世間知らずなんですかねぇ」
娼婦の一人が色っぽく首を傾げる。
その点は俺も同感だったが、アシュバーンのヤツも自分のことをアッシュと呼べと言って来たし、もしかしたら敢えて正体を隠しているのかもしれない。理由はなんとなく察せなくもない。
「俺と同じかも。身分関係なく、そのままの自分を見てほしい的な?」
俺はしばらくほったらかしにしていた髭をじょりじょりと触りながら、アシュバーンの内心を想像して笑ってしまった。
「多分、アイツ馬鹿だから自分でも分かってないと思うけどね。しかも、婚約者持ちが相手だなんて、気の毒だなぁ」
俺はどうなるか見物だなと思いつつ、フィーナちゃんがデリバリーしてくれたピザの箱を開けた。ふわりとオレガノの爽やかな香りが室内に漂うと、その場にいる娼婦たちが独り言のように「お腹空いたぁ」、「いい香りぃ……」と、ふにゃりと力の抜けた声を発した。
あぁ、こりゃあれだ。
ピザを一切れ取って豪快にかぶりついた俺は、核心した。
アシュバーン、胃袋掴まれてんな。




