25:館長ヴェルファ・マルゴー
私、フィーナは小刻みに震えていた。
そこは帝都で最も愛憎渦巻く華の娼館。男と女が触れ合う場所だ。
「大丈夫。優しくするから。俺のとこにおいで」
伸ばされる手が怖くて、私は思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
「やっぱりダメです……!」
「ダメって言われると燃えるんだよねぇ」
指で無理矢理顎をクイと押し上げられ、私は緊張と震えで「か、勘弁してください!」と半泣きになっていると――。
「何してんだよ、君は」
聞き慣れたイケボが背中に刺さって来たかと思うと、心底呆れた顔のアッシュさんがドアにもたれるようにして立っていた。娼館の娼婦控室に突然現れた救いの神に、私は全力で感謝した。
「ああああアッシュさん‼ 助けてください‼」
「ん? アンタは――」
私と同時に声を上げたのは、帝都一大きな娼館を切り盛りする敏腕館長のヴェルファさん。見た目は無精髭の生えた色気溢れるイケオジで、舞台俳優でもやっていそうな人を惹きつける雰囲気が漂っている。
そして、その色気溢れるヴェルファさんと平凡な私をたくさんの色っぽい娼婦のお姉さんたちが取り囲んでおり、全員の視線が突然現れたアッシュさんに注がれていた。
「今日はアッシュって呼んでくれます?」
アッシュさんがすかさずそう口にすると、ヴェルファさんは「いいぜ。源氏名を使いたい気分の日もあるもんな」とパチリとウインクをした。
私は源氏名を使いたい気分の日なんてあるの? いや、アッシュさんが偽名を使おうが使わまいが、私にはあまり関係がない。私はとにかく早くこの場から逃げ出したかったから。
「アッシュさん! 私をお店に連れて帰ってください~っ!」
「なんで娼館で油売ってるのさ。料理を届けに来たんじゃなかったの?」
「わ……分かってますよ! 私だってすぐにおいとましようとしたんですけど……」
私は使い捨ての箱に入ったピザを大事に抱えながらアッシュさんの下に行こうとするが、すかさず娼婦のお姉さんたちに「待ちなさいよ♡」と笑顔で腕を掴まれてしまい、まったく身動きが取れない。というか、露出の多い衣装を身に纏った彼女たちのふくよかなお胸に腕が挟まれて、思考がすっかり停滞していた。
(私の体のつくりと全然違う……! じゃなくて!!)
私がお姉さんたちの柔らかボディにくらくらしていると、その様子を見たアッシュさんは「はぁぁ……」と大袈裟なため息を吐き出し、ヴェルファさんに半眼を向けた。
「なんとなく想像はつきますけど、一応説明していただけますか?」
「ん~……、こんな美人な料理人を隠してたなんて、アンタも隅に置けないよな。店の子たちも、こんないい素材なかなかいないって盛り上がっちゃってさ。ちょっと綺麗な化粧してあげようって言ってたとこだよ」
「そういう浅い話じゃなくて。ヴェルファさん、この子を娼婦に勧誘したでしょ?」
娼婦のお姉さんたちに目配せをしながら愛想よく笑んでいたヴェルファさんは、アッシュさんの氷のような冷たい視線を受けてスッと真顔になった。
「だったらどうする? こちとら、気立ての良い美人は逃したくない主義でね」
「どうって、渡しませんけど。……フィーナは僕のです」
アッシュさんの金色の瞳が猛禽類のようにギラリと光り、娼婦のお姉さんたちはその言葉の内容に「きゃ~っ!」と黄色い悲鳴を上げた。
けれど、私一人だけ、彼の言葉の正しい意味を理解した。
(私はしがない従業員。所有物だって言いたいわけね! 今はそういうことでかまわないです、はい! だから助けて)
「アッシュがそれだけはっきり言うんじゃ、これ以上勧誘しても無駄だろうなぁ。……フィーナちゃん、ほんっとうにウチに来ない? アンタなら清純キャラでお客さんから引っ張りだこだと思うけどなぁ」
ヴェルファさんは一縷の望みをかけて、再度私を娼館に勧誘してきたが、残念ながら私の答えもNOだった。
「何度も言いましたが、私には婚約者がおりまして。今は彼との将来のために、料理の仕事に専念したいんです」
「え~~……。こんなパワハラ上司の下で大丈夫なのかい? 俺ならとびきり優しくしてあげるのに」
ヴェルファさんは悩まし気な色っぽい息を吐き出すと、「ま、また口説こうかな」と気を取り直したようにニヤリと口の端を持ち上げた。
一方アッシュさんは「誰がパワハラ上司ですか」と不機嫌そうに下唇を突き出している。ヴェルファさんの前では、なんだかアッシュさんが子どものように見えて面白い。
「お二人はどういうお知り合いなんですか?」
「うーんとねぇ、悪い貴族仲間的な?」
気になっていた私が口を挟むと、ヴェルファさんがと顎の無精髭を軽く撫でながらパチンとウインクを放つ。って、言われても分からないし!
「ヴェルファさんは、マルゴー公爵家の当主だよ。夜の街を仕切る【夜王】なんて異名もある、数少ない僕より偉い人。君みたいな小娘が気軽に会話していい相手じゃない」
「えぇぇ⁉」
アッシュさんの説明を聞いた私は、勢いよくヴェルファさんを振り返った。ま、まさか公爵閣下であらせられるなんて……。私は顔面蒼白だ。
だが、当のヴェルファさんは陽気に笑いながら、「ヤダなぁ、フレンドリーに頼むぜ」と、私の肩をパシパシと叩いてきた。男性慣れしていない私の体は、思わず石のように固くなってしまう。
「あの……、私……」
「店の子だって、街の連中だって、俺の事特別扱いなんてしてないんだから。公爵だなんて思わずに、娼館のオジサンくらいに思っててくれれば――」
「ヴェルファさん。手、どけてください」
ヴェルファさんの話をスパンと遮り、彼の手を掴んで止めてくれたのはアッシュさんだった。




