21:ポピーシードとオレンジのケーキ
キッチンで二人で作業するのはちょっぴり窮屈だが、アッシュさんが暑苦しくないので気分は悪くない。というか、むしろ彼の傍はなぜかいつも涼しい。
「アッシュさんって、冷気放ってません? 初めて会った日も、口からブリザード吐いてたような」
私がついにその疑問を口にすると、アッシュさんは今更かよと言うような顔でため息をついた。
「ブリザードなんか吐くもんか。でも、冷気は合ってるよ。……僕は氷の大精霊と契約しているんだ」
「へぇ! 氷の大精霊って、なんだかすごそうですね!」
私は銀色の女神様のような何かを想像しながら、大きく頷いた。たしかに「大」が付くほどの精霊と縁があれば、契約者にも影響が出そうな気はする。知らないけど。
私はてっきり、この後アッシュさんの大精霊自慢が始まるのかと思った。けれど、彼は感心している私にわざわざ釘を刺すかのように「でも――」と、言葉を続けた。
「時折制御が効かなくなることがある。君と出会った日が、ちょうどそうだ。周囲に雪を降らし、僕自身も冷気でダメージを受けていたんだ。一応、そうならないようにはしているつもりだけど……、この先どうなるかは分からない。まぁ、今の話で巻き込まれたくないと感じたなら、退職を申し出る権利もあげるけど」
感情を抑えた淡々とした声は、なんだか酷くつらそうに聞こえた。
私は彼の悩める一面を垣間見た気がして、言い方は悪いが、いつもより人間味を感じた。アッシュさんは完璧超人じゃなくて、私と同じ、つらいことや悩んでいることがあるんだ……と。
私は何か気の利いたことを言ってあげようと、頭を捻って、捻って……。
ハッと閃き、人差し指をピンと立てて名案を発表した。
「じゃあ、普段から二人で温かくなるスパイス料理を食べましょう! 大精霊暴走予防になるスパイスを研究して……、食事でもお菓子でも、飲み物でもいいですね! もし雪を降らしちゃったら、ボーナス支給で私が雪かきしてあげますよ!」
「……」
アッシュさんは私の発言が意外だったらしく、数秒間面を食らったように黙っていた。そしてやれやれと肩をすくめると、「お気楽な脳みそだ」と言って、私の額に強烈なデコピンを見舞って来た。ひどい、なんで⁉
私は額を押さえながら抗議しようとしたが、それより先にアッシュさんが保冷庫から丸いケーキを取り出し、「お出しするのって、コレでしょ?」と尋ねて来た。よく分からないが、機嫌がよくなっているように見える。
そして、アッシュさんが出したそれは、私が昼間焼いていた《ポピーシードとオレンジのケーキ》だった。
「黒い粒がたくさん入ってるね。これもスパイス?」
「はい。ポピーシードです! オレンジ色が綺麗なお花の種ですね。加熱によって芳ばしい香りになるので、焼き菓子にぴったりなんです。プチプチが楽しいので、食感のアクセントにもなりますし。カルシウムや鉄分、マグネシウムなんかのミネラルが豊富で、美肌効果も期待できます!」
「こんな小さな粒がねぇ……」
デコピンの痛みよりもスパイスの魅力は上回るので、私は今日も力説した。
アッシュさんがそれを真面目に聞いているかどうかはさておいて、彼はその後ナイフでケーキを一切れ切り出した。ケーキの上にオレンジを飾っているが、生地にも小さく刻んだオレンジが入っているので、断面から柑橘系の爽やかな香りがして来る。
上手に焼けているようで安心だ。余った分は賄いとして食べようかな。
「次はどうするの?」
アッシュさんに話しかけられ、ケーキの断面に見惚れていた私の思考は現実に引き戻した。いけない、いけない。エマちゃんがいつまで寝てくれるか分からないのだから、急がなきゃ!
「では、ノンカフェインの飲み物をご用意しましょうか!」
「あぁ、なるほど。僕は眠気覚ましにコーヒーを飲むけど、赤ちゃんが寝なくなったら困るってこと?」
「察しがいいですね。多量でなければ影響は少ないですが、母乳に赤ちゃんの寝つきが悪くなる成分が入ってしまうんです。今のアンナさんは、きっと気にされると思うので」
私はキッチンの床に置いている踏み台に乗ると、戸棚の上段にある手のひらサイズの缶を取り出そうとグイと背伸びをしたのだが。
「あっ!」
ぎりぎり指が触れた缶は、私の手から零れ落ちるようにして落下していく。それと同時に私はぐらりとバランスを崩し、踏み台を踏み外し――。




