20:アンナさんとエマちゃん
「違う。お客さんだ」
アッシュさんの目が三角になり、私を睨む。
そんなやりとりを見た女性は苦笑いを浮かべながら、「お邪魔しています」と小さく会釈した。赤ちゃんは眠っているようで、すやすやと心地良さそうな寝息が聞こえた。
「この子、夜泣きが酷いんです……。お乳の出がよくないせいだと思うんですが、寝つきも悪くて。気分を換えてみようと思って外に出て、抱っこして歩き回ってようやく寝たんです……。でも、私、疲れてしまって……。そしたら、この方が店で休んで行けばとおっしゃってくださって」
女性の髪は艶がなく乱れ、目の下にはクマができていた。誰がどう見ても疲れている様子だ。
私には出産も赤ちゃんのお世話をした経験もないが、赤ちゃんは生まれて数か月間は授間隔がおよそ三時間、といってもその三時間大人しく眠ってくれるわけでもないため、母親が休息できる時間はごくごくわずかしかないという知識だけは持っていた。
薬師として町の産婦さんの家を初めて訪れた時、赤ちゃんとのほのぼのライフなんて幻影であることを知ってから、その分野の勉強だけはしていたからだ。
「グッジョブですよ、アッシュさん。子どもは人類の宝。その子どもを育てるママさんも宝ですから!」
私がグッと親指を立てると、アッシュさんはフンと鼻を鳴らした。多分、口を開いたら「客になりそうだったから連れて来ただけだよ」と言いそうなのを自分でも理解しているのだ。だからきっと黙っているに違いない。
「良ければママさんと赤ちゃんのお名前を伺っても?」
私は笑顔でエプロンを着けながら、女性に問い掛けた。
女性は私の笑顔に緊張が少しほぐれた様子で、「この子はエマ。私はアンナと言います」と答えてくれた。
「じゃあ、アンナさん。何か食べたいものはありますか? エマちゃんが寝ている間に急いで用意します」
「嬉しいです。……何か、甘いものをいただけますか? あっ、でも、スパイス料理屋さんには置いてないでしょうか」
「いいえ。ちょうど、すぐお出しできるものがありますよ! 楽しみになさってください!」
女性が心配そうしているので、私は仁王立ちになり、拳でドンと胸を叩いた。この【スパイス食堂】はディナーだけでなく、夜のカフェとしても利用してほしいというのが、私とアッシュさんの方針だった。だからもちろん、自慢の甘いお菓子があるわけだ。
だが私がご機嫌にキッチンに入ると、なぜかスッとアッシュさんまでキッチンに入って来た。「え」と私は疑問符を浮かべながら彼の顔を覗き込む。
「賄いの時間はまだですよ」
「僕はそんな卑しい奴じゃない。手伝ってあげようってこと」
アッシュさんがテキパキと自分用エプロン(多分高級素材のもの)を着けているので、手伝う気持ちは本物らしい。普段はホールで注文聴きや配膳をしたり、暇なときは一人でワインを煽っているというのに、いったいどういう風の吹き回しだろうか。
私が「うーん」と首を傾げていると、アッシュさんはキマリ悪そうに口を尖らせて言った。
「世間話を続けても良かったけど、多分、僕がいるとくつろげないだろ」
私は彼の言葉に思わず「へぇ!」と感嘆の息を漏らした。
誰かに話を聴いてほしい時もある。けれど、一人でぼんやりしたい時もある――。それをアッシュさんなりに考えて、客席を離れて来たということらしい。
「意外と優しいんですね」
「意外は余計だ」
私はめいっぱいアッシュさんを褒めたつもりだったが、うっかり本音が一部漏れてしまった。多分、これ以上口を開けたら、「ちょっと見直しました」と、また余計なことを言ってしましそうなので、私はいったん黙っておくことにした。




