第4話「黒猫の呪い」
「奥様? 大丈夫ですか」
ただ、テーブルに腕をぶつけただけ。
そう見えたけど、奥さんは一瞬だけ悲痛な声を上げるものだから、ノルカも俺も奥さんの様子を気にかけてしまった。
「すみません、少し強く打ちつけてしまって……」
自分のドジが招いた事故だと言わんばかりに、奥さんは気丈に振る舞いながらパンを詰め込む作業へと戻る。
「もしかして、あの黒猫が……」
「そんなもの信じるな」
外野が思っている以上に、奥さんが腕を痛めてしまったのかもしれない。
そう思ったノルカが黒猫の存在を思い出すと、モーガストさんはノルカの言葉を真っ向から否定する。
でも、モーガストさんはノルカを叱りつけたわけではなく、優しい声でノルカを諭してくれた。
こういうところから、モーガストさんの人柄ってものを感じることができる。
「でも……」
「噂は噂でしかない」
「……そうですね」
国から配布されたリストを頼りに、ルアポートの街を訪れた。
そういう事情もあって、ルアポートで暮らすモーガスト夫妻の身を案じるノルカの気持ちはよく理解できる。
この国に生存する黒猫全部を捕獲するって案を否定したノルカだったけど、黒猫を捕まえて夫妻の身の安全を保障したいって気持ちもよく分かる。
でも、所詮、黒猫の噂は噂でしかない。
「心配してくれる気持ちだけ、受け取らせてもらうよ」
「……はい」
お土産に大量のパンを持たされた俺たちは、黒猫騒動に関わらせてもらうことなくパン屋を立ち去ることになった。
「明日も、よろしくな」
「よろしくお願いします」
わざわざ一時の売り子のために見送りなんてしなくてもいいのに、パン屋の夫妻は俺たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。
「優しい人たちで良かったなー」
「ねえ、黒猫のことだけど……」
「一応、黒猫には魔法を跳ね返すように結界を施しておいた」
パン屋の夫妻を心配するノルカの気持ちは、とてもよく理解できる。
理解できるからこそ、ノルカの沈んだ表情に返す言葉がない。
「……ありがとう」
ノルカに礼の言葉を向けられたのも初めての気がするけど、その言葉に対して返せる言葉は何もない。
魔力を持たない黒猫に施した魔法の効果が出るのか出ないのか、それは黒猫に尋ねてみないと分からない。
「どんなに心配でも、ちゃんと寝ろよ」
「……わかってる」
ふと空を見上げてみると、陽の光を失った黒色の空に星の瞬きも月の優しさも存在しない。
空に煌きがないことに恐怖じみたものを感じていると、空から雨が降りて来て、あ、空が曇っていたんだってことに気づく。
(寝ろって声をかけた本人が、雨の音で寝れないとか……)
料金価格がお優しい宿屋は、壁も窓も薄くできあがっているらしい。
まるで宿屋に攻撃を仕掛けているかのように打ちつけてくる雨の音が、睡眠を妨害してくる。
眠れないと非難めいた声を上げたところで、雨の激しさは増す一方だった。
「相方が雨を避けるくらいの魔法を使えて良かったよ」
「雨しか避けられないわよ……」
「雨が避けられるなら、水魔法も避けられると思うんだけどなー」
陽が沈めば、夜がやって来る。
陽が昇れば、朝がやって来る。
そんな当たり前の日常が、今日も俺たちを迎えに来た。
「今日もしっかり働いて、旅の資金を稼がなきゃ」
「外で売り子は無理そうだけど」
「それならそれで、新しい仕事を見つけないとね」
「えー、パンを貰うにはパン屋で働くのが1番なのに」
一晩経っても雨は降りやまず、土砂降りの雨の中を走り抜ける。
雨を避けるために防御魔法を使ってはいるものの、ローブが雨で濡れてしまわないか心配になるくらいの激しい雨がルアポートの街を包み込む。
「アンジェ……」
言葉にした通り、外で売り子をしたところでパン目当ての客は集まらない。
それだけ荒々しい雨が街に降り注いでいるはずなのに、昨日俺たちが世話になったパン屋の前には人だかりができていた。
雨に濡れることすら躊躇うことなく、人々は目的を持ってパン屋へと集っている。
「っ」
呑気に水を避けている暇なんてなくなった。
水たまりに足を突っ込んだ際に撥ねた泥水が、綺麗に守られていた靴を汚していく。
「モーガストさん! モーガストさんっ!」
「まだ若いのに……」
「惜しい人を亡くして……」
人々を掻き分けて、パン屋の様子を確認するまでもなかった。
まるで眠っているんじゃないかって思ってしまうほど綺麗な寝姿を晒すモーガストさんが担架に乗せられ、夫妻に馴染みあるパン屋から遠ざかろうとしている。
「モーガストさんっ! 嘘だと言ってくれよ!」
「モーガストさんっ!」
いつもの日常が、モーガストさんには訪れなかったということ。
パンの仕込みをして、客を迎えるためにパンを焼いてっていう、モーガストさんにとっての日常は何者かに奪われてしまった。
「にゃ」
猫の声が聞こえた気がして、ふと視線をモーガストさんから逸らした。
人混みの中から猫を探し出すことは難しく、声の主が見つからないことに焦りを抱く。
(どこにいる……)
黒猫が傍にいるっていう確信を持ちながら視線をさ迷わせていたとき、モーガストさんの奥さんが視界に入った。
「…………」
傘も差さずに、ただただ搬送されていくモーガストさんを見つめる奥さん。
自分が濡れることなんて気にしている場合ではないと分かっていても、止むことのない雨は奥さんの衣服を汚していく。
奥さんが泣いているのかも判断できないほどの雨が地面と人々を叩きつけ、街の人たちから愛されている主人が搬送されていく様子を見送った。
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