第3話「黒猫の噂を信じるか、信じないか」
「おまえのせいで、せっかく焼いたパンが余っちゃっただろ」
この黒猫が、災いをもたらすかもしれない。
でも、ノルカの言う通り、この黒猫は害のない野良猫の可能性だってある。
(にしては、毛並みが綺麗なような……)
魔力を持たない動物は、魔法の力で人間に危害を加えることはできない。
黒猫型のモンスターが人間に災いをばら撒いているのか、黒猫の登場と共に災いが見舞うようになっているのか。この段階では何も判断ができない。
「怖くないんですか?」
「好きにさせておけばいいさ」
黒猫を追い払おうとしない主人を見て、ノルカが声をかける。
「モーガストさん、猫に対しても優しいのね」
「さすがはモーガストさんっ!」
黒猫の登場と同時に、逃げ惑う人たちで混乱に陥ったルアポートの街。
黒猫と堂々と対峙するパン屋の主人を見て、街の人たちは足を止めて主人へと声をかけ始める。
「こいつも悪く言われて、気を悪くしてんじゃないかなって」
「モーガストさんの優しさを見習わないとだなー」
パン屋の主人であるモーガストさんは黒猫の噂を信じていないのか、黒猫の呪いに打ち勝つ自信があるのか。
どちらにしても、黒猫に危害を加えるつもりのない度量の大きさが伺える。
「奥さんも、優しい旦那さんを持って幸せね」
「ありがとうございます」
旦那を褒めてもらっているのに、謙遜しているのか奥さんの表情は硬かった。
「うちの旦那にも、モーガストさんの優しさを分けてほしいわ」
「もったいないお言葉です」
奥さんは口角を上げようと頑張ってはいるみたいだけど、黒猫に怯えているのか目が笑っていない。
そんな奥さんの様子に気づかない街の人たちは、次々とパン屋の旦那へと賞賛の声を奥さんへと投げかける。
(災いをもたらす黒猫……)
どんなに人間たちが大騒ぎしていても、騒ぎの中心になっている黒猫は動じない。
パン屋の主人に視線を向けたり、パン屋の中を覗き込んだりして、あちこちへと視線をさ迷わせている。
(腹が減ってるわけでもない)
パン屋の美味しい香りに誘われたのかもしれないと思ったけど、黒猫はパンを盗みに店の中へと侵入することはない。
ただただ店の外から、パン屋の主人と外から店の中を観察して、何も悪さを起こそうとはしていない。
「ノルカ、アンジェル、中に入ってくれ」
「ずっと立ちっぱなしだと、足も疲れちゃうでしょう」
「ありがとうございます」
客が完全にいなくなったわけではないけど、黒猫が登場する前よりは客足が遠のいた。
気づけばルアポートの街に訪れたときよりも太陽の位置が下がっていて、もうすぐ黒猫が闇に染まる時刻が訪れるってことが分かる。
「…………」
何も仕掛けてこない黒猫を見つめる。
一方の黒猫は俺の存在を無視して、パン屋の中を覗き込む。
(少しは構ってくれてもいいのに)
物語の世界では、魔女の相方として描かれることが多い黒猫。
現実で黒猫に無視されてしまうなんて、猫まで男性魔法使いの存在を認めてくれないのかって悲しい気持ちになってくる。
(何も起きないと良いけど)
黒猫の関心を引き寄せることができなかった俺は、黒猫の頭を撫でるフリをして黒猫へと魔法をかける。
防御魔法という名の結界で黒猫を覆い、この黒猫が魔法を使用したら、黒猫自身に魔法が跳ね返るように仕込み完了。
「にゃ!」
俺が結界を仕掛けたことに勘づいたのかなんなのか、爪で引っかかれそうになって一歩後退る。
その隙を狙って、猫は何事もなかったかのようにパン屋の前からいなくなってしまった。
「今日は、本当に助かったよ」
「本当にありがとうございました」
猫にすら認めてもらえない惨めな女装魔法使いは、パン屋を営む夫妻に温かく迎えてもらう。
香ばしいパンの香りと、注ぎたての温かい紅茶の香りが幸福感を高め、黒猫から受けた仕打ちをなかったことにしてくれる。
「お2人のおかげで、過去最高の売り上げです」
「お役に立てたのなら、光栄です」
口数が少なめの奥さんだとは思っていたけれど、過去最高の売り上げを記録したことに奥さんは顔を綻ばせてくれた。
穏やかな声で優しい労いの言葉をかけてくれるという気遣いが嬉しくて、魔法を使わない労働も悪いものじゃないとすら思ってしまう。
「黒猫騒動で余ったパン、良かったら持って帰ってくれ」
「そこまでお世話になるわけには……」
「これはもっと売れるぞーって欲を出して、追加で焼いちゃった分だよ」
ノルカの返答を聞く前に、奥さんは今日の営業で余ったパンを紙袋の中へと詰めてくれる。
(めっちゃいい夫妻!)
魔女資格を持たない魔法使いが魔法の力で金を稼ぐことは禁じられていても、今回の労働で魔法の力は一切使っていない。
夫妻の厚意を遠慮する必要はどこにもなく、俺は奥さんに近づいてパンを詰め込む作業が終了するのをおとなしく待つ。
「ちょっ、アンジェル!」
「ははっ、いっぱい食べてくれ」
俺の態度を一喝しようとするノルカだけど、パン屋の主人であるモーガストさんは大きな声で笑ってくれた。
「っ!」
場の雰囲気が明るくて過ごしやすいものだと感じていると、奥さんはパンを詰める作業の合間に腕をテーブルにぶつけた。




