「片思い」ファンタジー
第二十五章 冥府の、司
やっと三人は、平らな地面にたどり着いたが。
「ここ、大きな谷間の中、よね。川も流れてるし」
北の方角に流れていく川が刻んだらしい谷の、底に降り立ったのだった。川の両岸にわずかな平地が続き、まばらに木々が生えていた。
「水はあるけど、お日さまがあんまり差さないせいで森にならないんだって」
ブレットが地図を出して確認した。
「この川を辿って行けば、カイネブルクの街に着くはずだよ姉ちゃん」
「そうよね、街の近くに大きな川が流れてた。百合川とか言ったっけ」
街の近くの平地を潤し、作物を豊かに実らせていたと思い出す。
「だから、この谷間を通って行った方が楽だろうってじーちゃんには言われたんだ。ただ、もう少し行った先に吸血鬼の館があるけど」
「う、うん」
「じーちゃんの話だと、そいつは血を吸って満腹すると十年ぐらいは館の中で寝てるらしいから、その十年に一度に当たらなければ平気だって」
「ちょっと、怖い…よね」
アスセーナはぶるっと震えた。
「そうだね、おいらや兄ちゃんは狙われないだろうけどー」
「…」
吸血鬼が獲物として好むのは、うら若き乙女である―と言うのがやはり常識だった。
「でも、向こう側の山地を通ろうとするとまた時間が」
「そうよね、この谷間を抜けた方が」
吸血鬼の館は怖いが、彼女は心を決めた。
「この川に沿って行こう。いいよね?」
「うん、その方がいいよ」
―ここを行こう。
ブレットも鎧武者もうなずき、一同は歩みを進めた。
鬱蒼とした森より、まばらに木が生えていたり藪になっている所を歩く方が面倒だったりするのだが、そうした中を進みながらアスセーナは気が急いていた。
「もう少しで、カイネブルクの街に、戻れる」
今までの道のりを考えれば、あと少しだと感じられた。
「でも、また邪魔してくるよね」
「うん。今までのあいつら、『札の弟子』って言ってた。遊びとか占いで使う札だとすると」
ブレットは場末の酒場とかで、そうした遊びや占いを目にしていた。
「確か四種類あって。棍棒、杯、金貨、ってあいつら名乗ってたよね。あと一つは」
「―剣」
その声は、三人が進む先から聞こえた。
「「「!」」」
ざっと緊張する一同の前に現れたのは、すっぽりと全身をローブで包みフードも目深に被った人影だった。
「チイ!」
マナが今までになく鋭く鳴き、全身の毛を逆立てて警戒した。
「ローブ姿で、そう答えたってことは」
つまり。
「あんたが、そうだってことかー!?」
「そう。私が四人目、最後の札の弟子」
フードの下から漏れるその声音は。
「女の…人?」
アスセーナより低い声質だが、女性の声であるのは間違いなかった。
「『剣の』冥府の女神の名を、師から授かっている」
「お、女の人の魔術師」
正直びっくりした。
「へー、女の人の魔術師。あれ?魔女ってこと?」
ブレットは無遠慮に尋ねるが。
「その呼び方だと村にいる、賢い老女まで含まれるな」
ヘカーテと名乗る彼女は淡々と答えた。
「あ、緑山地のふもとの村にも、そういうおばあさんがいたなあ」
薬草を調合したりしてたな、とアスセーナは思い出した。
「私は師のもとで学問としての魔術を修めている。一緒にされるのも困りものだ」
「ど、どんな魔術を、学んだんだろ」
冥府の女神の名を授かっている魔術師―嫌な予感しかしなかった。
「一通りの魔術は習得したが、最も得意とするのは生死の理についてのものだな」
「え、え」
「本来は死者の霊を呼び出し、古に喪われた莫大な知識を得るための術だが、応用として」
フードの下で見えないが、彼女は笑っているようだった。
「こういう使い方もできる」
呪文を詠唱すると、地面から幾本もの手が伸びた。しかも、骨だけの。
「わあっ!?」
次々と、全身が現れた。人の形だが、骨格だけ―骸骨の集団が出現する。
「地獄の亡者を呼び出し、思いのままに操ることもできる術。人によってはこう呼ぶ―死霊術とね」
「やっぱりー!」
ブレットの嫌な予感は的中した。
―君たちは下がっているんだ。
鎧武者がずいと前に出て、背に二人をかばった。
―亡者どもが!私の大切な者たちに、近づけさせはしない!
そう宣言するかのように大剣を振りかざし、骸骨の集団の中に斬りこんだ。骸骨たちはぎくしゃくした動きで錆びついた剣や槍を構えるが。
―容赦はしない!
巨大な剣が、一気に数体の亡者を薙ぎ払った。骸骨たちはわらわらと全身鎧に斬りつけ、あるいは掴みかかるが鎧武者の人を越えた膂力はそれを吹き飛ばしていく。確かに、山妖精や岩巨人に少しは見せていたような手加減は一切なかった。
「に、兄ちゃん」
その鬼気迫る戦い方に、ブレットが思わず声を上げた。
「鎧武者さん…!」
アスセーナは加勢したかったが、周囲を薙ぐように剣を振るう彼に近づき、力を合わせて戦うことは難しかった。
亡者たちには恐怖の感情はないらしく、仲間が倒されても倒されてもためらいなく向かって行くが、鎧武者は力任せに剣を振り回す。まさに暴風のような剣技だった。
「ふ、ふふ」
ヘカーテはフードの下から笑い声をこぼした。亡者たちがいくら倒されても別に何の痛痒も感じないようだ。どんどん砕かれていく骸骨を放ったまま魔法陣を展開、転移していく。彼女の姿が消えるのと同時に、骸骨の集団も地下に戻って行った。…かなりの骨が粉々に砕けて地面に散らばっていたが。
「ふう」
ブレットがほっと息をついたが、アスセーナは急いで鎧武者のもとに向かった。
「鎧武者さん。ちょっと聞いて」
その声に彼は振り向き、あわててまだ鎧にしがみついている骨の手を引きはがしにかかった。
「無茶な戦い方、しないで。お願いだから」
―君たちを守りたいんだ。あんな奴らを、近づけたくない。
彼は手でそう示したが。
「わたしたちを守って、あなたが怪我したら同じことでしょう」
―しかし。
「あなたが傷ついたらブレットが悲しむし、わたしだって」
「!」
「心が痛くなるのは、おんなじだから。一人で斬りこんで行かないで。一緒に、力を合わせようよ」
「…っ」
「無理はしないで」
巨大な鎧はしばらく考えて。こう、手で示した。
―努力する。
(…努力なの?)
そうは思うが、彼の精一杯の思いだと感じられた。
「うん、お願いね」
そう言い、その場はそこで終わったが。何とも言えないもやもやが、一同の間に生じていた。
第二十六章 まぼろしと、真実
「このまま川に沿って進めば、あと二日ぐらいで吸血鬼の館ってのの前を通って」
ブレットは地図とまわりの地形を確認して言った。
「そこを通り過ぎられればもう、すぐ谷間が開けて、一面平らな所に出るんだ」
「そうよね。カイネブルクの街がある、平野に入るのよね」
手入れされた畑が広がる沃野に出られるはずだった。もう少しで、カイネブルクの街で一番高い建物である聖堂教会の尖塔が見えてくるかもしれなかった。
「でも、その前にどう考えても」
吸血鬼のことを考えないようにしても、襲撃はありそうだった。狩人の感覚としても谷の中で、進めるルートが限られている今の方が平野に出てからより襲いやすい。
「うん。またあの骸骨たちがきっと」
「ご名答」
また、含み笑いとともに魔法陣が地面に浮かび上がり、その上にローブ姿が。
「「ヘカーテ!?」」
「―」
二人の側をつかず離れず歩いていた鎧武者が、またずいと前に出た。ヘカーテの周囲に湧き出してくる骸骨の集団に相対する。
―亡者どもが!
「鎧武者さん」
殺気立つ彼をアスセーナが制した。
「言ったよね、無茶はしないでって。わたしと一緒に戦うって」
―し、しかし。
「守られてるだけじゃ嫌なの。助け合った方が、怪我もしにくいよ」
―わかった。
二人はそれぞれの得物を構え、肩を並べて襲い来る骸骨たちに立ち向かうが。
「…待って!」
いつの間にか鎧武者はアスセーナを置いてどんどん前進していた。
「ばらばらになったら危ないよ!ねえ!」
必死で呼びかけるが、彼は止まらず。―いつしか、先の戦いのように大剣を振り回し、生ける暴風のように荒れ狂う剣を見せていた。
―いずれ!
まるで、迫り来る何かを予期し、自暴自棄になっているかのように。
―いずれは!しかし、今は!私の大切な者たちに、手出しはさせない!
「鎧武者さん…!」
その後ろ姿に何とも言い難い苦悩と嘆きを感じて少女は声を上げた。しかし、確かに亡者たちは「こっちが敵」と認識(?)したのか鎧武者の方にわらわらと押し寄せて行き、アスセーナの方にはほとんど向かって来なくなっていた。
「でも、あんな戦い方じゃいつか大怪我を」
その身を案じながら小剣を振るうアスセーナは、ふっと骸骨たちの背後に立つヘカーテに目を止めた。
「あの、魔法陣…?」
すっぽりとローブをまとったその足元に魔法陣が輝線で描かれている。素人目だが、転移に使うものとは文様が違うようだ。
その輝く線が、フードの下から漏れる呪文の詠唱につれて脈動し、輝きを増す度に新たな骸骨が地面から現れていた。
「つまり、邪魔できれば!」
これ以上敵は増えなくなる、鎧武者の負担も減る。一瞬でそう判断したアスセーナは、跳躍した。
「はあっ!」
日光が足りずにひねこびた灌木の、細めの幹を蹴ってその反動も利用し、離れたヘカーテのもとに一気に到達した。小剣で斬りかかる。
「くっ!」
さすがにここまで身軽だとは思っていなかったらしい。ヘカーテは防御の障壁を作り出そうとしたが間に合わず、フードを大きく切り裂かれた。
「この!」
「…あなた!」
露わになったヘカーテの素顔に、アスセーナは息を吞んだ。
「何て!」
隠されていた顔が、あまりに―美しかったからだ。
黒絹のような髪が、小作りの顔を包んでいた。肌は雪の白、唇の紅さが際立っていた。繊細極まる顔立ちに、深い菫色の瞳がきらめいている。
「何なの」
言葉の出ないアスセーナに、その美しい少女(年齢はそれぐらいにしか見えない)は問いかけた。
「私の顔が、そんなに意外だった?」
「だ、だって…あなたが、あんまり、きれいだから」
その素直過ぎる反応に、ヘカーテは。
「…きれい?」
陰のある笑みで、応えた。
「あなた、わかってないようね」
「な、何が、わかってないと」
「誰も本当に守ってくれる人もなく、世間に放り出された幼い女の子が…なまじ美しいと、どういう思いをするかを」
菫色の瞳に昏い炎を宿して、嘲笑った。
「ただ貧しい、身寄りのない子と言うならまだしも。利用価値のある血筋に生まれ、それなのに庇護してくれる者はなく、その上美貌に生まれついた女の子が、まわりの大人たちからどういう扱いを受けるか…想像もつかないでしょうねえ?」
「それは…っ」
世間知らずの自覚はあるアスセーナだったが、別に風にも当てずに育てられたお嬢さまでもないので一応の知識はあった。と言うか、まさに何の後ろ盾もなく世間に娘を出さなければならないと覚悟した父親が「女性の危険」については注意を払うよう教えたのである。…まあ、同時に娘を尋常でなく鍛え上げもしたので、薬でも盛られない限り今の彼女は大抵の「危険」は撃退できるだろうが。
「でもその中で、私はたまたま魔術の才能を見出された」
毒の滴るような口調で、続けた。
「その才能を磨き上げて、私はどん底から這い上がった。学んで、行使して、他人を蹴落としてね。やっとのことで、大陸諸国でも最高の魔術師と称される師に弟子入りし、さらに腕を磨いた。まだ、まだ足りない。もっと高みを目指すわ、私は」
そのためならどんなことでもする、そう言い放った。
「でも、その魔術師…ゲンドリル?はカイネブルクの街の人々を”氷”に閉じこめて、賢者さまの話だと『思いの結晶』を抜き出そうとしてるって」
「だから何?悪い魔術師だとでも言いたいの?」
紅い唇を歪め、また嘲笑した。
「その賢者レオナルドゥスも魔術は専門ではないけど使うのよね。そういう人と、私や師の違いって何だと思う?」
「え、えーと」
「白魔術師」と「黒魔術師」と言う分け方は、聞いたことはあるが。
「私たちは、魔術を使う時に『他者の都合』を一切考えない、そう決めた魔術師。世間に受け入れられている魔術師は、配慮する。それだけの違いよ」
「でも、それじゃ迷惑ばっかりかけてしまうし」
うまくやって行けない、と思うのだが。
「人間なんて、一皮剝けばみんな、そんなものよ」
他の人への思いやりなど無駄なだけ。幼い頃から人の裏の面、闇ばかりを見てきたヘカーテの結論だった。
(わたしは、父さんたちがずっと、守ってくれていたから)
人の持つ闇の面を、見ることなく生きて来られた。恵まれていたのだ、そういう意味では。
(でも!)
「もちろん弟子入りも、あの方に心服してのことではないし。師も弟子の尊敬なんて求めていない。お互い、役に立つからそうしているだけ」
利用し合うだけの関係。人の全て、世の中の全てがそうだと、言い切った。
「わたしは、確かに今まで、あなたほど辛い経験は、してないけど。でも!」
甘いと言われようが何だろうが、彼女の見方にはどうしても賛同できない、アスセーナはそう感じて叫んだ。
「でも、やっぱりわたしは、カイネブルクの街を元に戻したい!街の人たちを、アレクサンデル殿下を助けたいの!」
そのためならこの少女を倒すのも仕方がない、と剣を握りしめた。どんなに辛い思いをしてきたとしても、他の人を苦しめていい理由にはならない、そう信じて。
「一目惚れしたカイネブルクの第三王子を助け出すために、師と敵対しているんだったわね、あなた」
菫色の瞳が、妖しくきらめいた。
「どう?あなた、その王子の抱いている思いを、知りたくない…?教えてあげましょうか」
「え!?」
情けなくも、アスセーナはその言葉に反応してしまった。
「で、でも殿下は、まだ遠いカイネブルクの街で”氷”に閉じこめられていて」
思いを、心の裡を知ることなどできるはずがない、そう思うのだが。
「私は、生死の理を究めることを専門にしているわ」
しかし、ヘカーテは少女の動揺を見抜いていた。
「かつ、師の”氷”の術についても知識はある。捕らわれた人は、生物としては『止まった』状態となり、魂は幽明の境、この世とあの世の境界にいるはず。そうした魂なら、私の死霊術で召喚ができるわ。死霊術で召喚された魂は、一切嘘がつけない。ごまかしのない、真実の思いを語る。どう?試してみたくない?」
「わ、わたし…わたし」
知りたくない、と言えば噓になる。でも。
「そ、そんなの、信じられる訳、ない…よ」
否定する声音がどんどん弱まっていくのを、ヘカーテはくすくす笑いながら見守っていた。
「姉ちゃん!」
…敵のリーダーであるヘカーテと相対している(しかも悠長に話している)アスセーナを後ろから見ていたブレットはたまらなくなり、彼女の元に駆けつけようと試みた。
「わああっ!」
怖くてしょうがないが、骸骨の群れの中をすばしっこく走って行く。幸い、骸骨の動きははしっこい子どもの動きよりは遅かった。骨だけの手をぎくしゃくと伸ばす中、間一髪すり抜けてやっとアスセーナに飛びつけた。
「姉ちゃぁん!」
「ブ、ブレット」
しがみつく小さな身体を抱き留めながらも、少女の意識はヘカーテの誘いの方に囚われていた。
「ふふ、知りたいようね。好きな人の、気持ちを」
「わ、わたし…は」
「姉ちゃんだめだ!絶対おかしいよ、こんなの」
罠の匂いを嗅ぎ取ったブレットが叫ぶが。一切構わずにヘカーテは杖を掲げ、新たな呪文を詠唱しはじめた。―と、まわりの景色が消え失せる。マナが悲鳴じみた鳴き声を上げた。
「わーっ!?」
「今からここに、第三王子がいる場所を投影するわ。見ていて」
一面真っ白だったのが色づき、風景が現れた。どうやらドーム状の幕が張り巡らされてそこに景色が映っているらしい、とブレットは推測する。
その景色は、アスセーナは一日だけいた、ブレットは生まれ育った場所のものだった。
「カイネブルクの街じゃん!」
「そう」
すうっと滑るように進んで行く―いや違う、景色が移り変わっていくのだ。
「ここが王宮ね。晩餐会の客を迎えるために、扉はまだ閉じられていないわ」
半開きの扉を突き抜けるように、視点が動いて行った。
「師の話によると、王族は玉座の間に集まっていたはず」
「姉ちゃん!逃げよう、ねっ」
ブレットが腕を引っ張るが、アスセーナは動くことができなかった。その肩の上では、魔力にあてられたのか白いふわもこが完全に目を回している。
「やばいよ!ほんとにー!」
おそらく幕には実体がないだろうし、数歩でも動けば抜けられるとブレットは考えるが、少女の目はもう見えてきた玉座の間に釘付けになっていた。
石造りの大広間のそこそこに”氷”の柱が立ち、人がその中に閉じこめられている。
その一本、一段高い場所に続く赤絨毯の上の”氷”の柱に、視点は近づいて行った。
中に、参内用の礼装に身を包んだすらりとした青年が、捕らわれている。一歩前に足を踏み出した姿勢のまま、驚愕の表情を浮かべて凍りついていた。
「あ、ああ」
一度見ただけだが、その美貌は間違いようがなかった。
「アレクサンデル、殿下」
「噂には聞いていたけど、なるほどね。一目惚れされる訳だわ」
杖を掲げたまま、ヘカーテはその”氷”の柱に近づいた。細い指で、青年の顔の上あたりをなぞる仕草をする。
「…やめて!」
思わず、悲痛な叫びがアスセーナの口から迸っていた。
「あら」
美しい女性魔術師は目をわずかに見開いた。
「…わたし?」
アスセーナ自身も、自らが発した言葉に驚いていた。
「何、あなた。嫉妬しているの?まるで、もう自分のものみたいに」
「そ、そんな、つもりじゃ」
わからない。
ただ、これほど美しい女性が、好きな人の側に立っているのが、ひどく辛かったのだ。
「いいわ、教えてあげる。恋人気取りの、あなたに―『真実』を」
再び、詠唱がはじまった。紡がれる呪文が一瞬途切れたが、またよどみなく続けられた。
「姉ちゃん!だめだって!」
しかし、アスセーナは動けず。その目の前で”氷”の中の美貌が二重写しになり、揺らぎ―やがてゆっくりと青年の全身が柱から現れた。半ば透き通っており、実体ではない…魂が仮の姿を取ったのだろうと見当がつく。本体は未だ”氷”の中だった。
閉じていた双眸がゆっくりと開き、目の前で硬直しているアスセーナに向けられた。
『君は誰だ?』
音ではない「声」が、まぼろしの唇から発せられた。
「ア、アスセーナと言います。一度、お会いした…」
『済まないが、覚えていないな。一度だけでは、やはり』
「!」
「そんな風に言うなよ!姉ちゃんはあんたのために、ずっと大変な旅をして、それで」
言葉の出なくなったアスセーナに代わり、たまらなくなったブレットが叫ぶが。
『しかし、本当に…覚えていないんだ』
宝石のような瞳が、困惑で揺れていた。
「姉ちゃんはな!”氷”に閉じこめられたあんたや街の人のために、がんばってるんだよう!」
アスセーナの旅を、努力を伝えて。彼女の望む返答を引き出そうとブレットは必死に叫ぶが、しかし。
『そう言われても、私は、その努力に、どう応じたらいいんだろう。礼を言えば、いいのだろうか』
彼は真摯に、誠実に悩み、困惑していた。
(そう、よね)
自分のこととして考えても。いきなり、知らない人が「君のためにこんなにがんばったんだ」と言ってきたとしたら。―どう言葉を、思いを返していいのか悩むだろう。そう思えた。
『どう、報いればいいんだ』
当然の反応―それこそが、少女の心を引き裂いた。
(…迷惑、なんだ)
彼はそう口にしないけれど。
(殿下は、何も悪くない。一方的に、思いを押しつけてる方が良くないよ。わたし、殿下に、迷惑をかけてるんだ)
「好き」と言う気持ちを押しつけて、困らせているのだと気づいた。感じた。
(迷惑、かけちゃったんだ…)
大好きな人を困らせていることに、耐えられなかった。
「もう、嫌だ」
知った「真実」は、あまりに辛かった。
「嫌だ…もう、嫌だよ…」
「姉ちゃん!?」
アスセーナの様子がおかしいことに気づいて、ブレットが振り向いた。
「しっかりしてよ!ねえ!」
しかし、彼女はずるずると腰を落とし、ついにはぺたんと座りこんでしまった。
「姉ちゃん…!」
顔を覗きこんだ子どもが驚愕した。
目は見開かれているが、焦点が合っていなかった。何も見えていないようだ。
「姉ちゃんってば!」
呼びかけても、揺さぶっても何の反応もない。
「…いやだ…」
かすかな呟きも、ブレットに応えてのものではなかった。
「ふふ。『真実』に、耐え切れなかったようね?人の心は、もろいものね」
予想以上だった、とヘカーテは哄笑を上げていた。
「姉ちゃん!アスセーナ姉ちゃん!」
名前なら、と呼びかけるが何も変わらない。嘲笑しながらヘカーテは次なる一手を繰り出そうとしていた。このままでは、確実に二人とも殺される。
「兄ちゃん!」
幕の向こうに声が届くかわからなかったが、ブレットは喉も裂けよと叫んだ。
「兄ちゃん頼む!助けに来てよ!おいらじゃ、だめなんだよう!」
斬!
玉座の間を映し出していた幕が、大剣の一撃で切り裂かれた。
「兄ちゃん…!」
ブレットには、彼がどれほどの激闘を繰り広げていたか大体わかった。全身の鎧がべこべこに凹んでおり、さらにあちこちに骨だけの手がしがみついている。
「…」
鎧武者は兜を巡らせ、状況を把握したらしかった。うつろな目をして座りこむアスセーナ、取りすがるブレット、勝ち誇った笑みを浮かべるヘカーテ…そして、消えつつある玉座の間の光景。
「…!」
薄れていくアレクサンデルの幻影を、目の当たりにした。
「―っ!」
全身鎧から、凄まじい怒りが闘気となって立ち昇った。―神速の踏みこみでヘカーテに迫り、大剣が振り下ろされる。
「くっ!」
鬼神めいた斬撃に、さすがの冥府の司も恐怖を感じたらしい。死に物狂いで飛び退き、怯えの表情を隠さぬまま転移していった。一瞬の後、大剣が彼女の立っていた地面を裂き、深々とめりこんだ。
「――っ!」
相手に消えられ、ぶつけようのない怒りに身を震わせる鎧武者だったが。
「兄ちゃん!」
切羽詰まったブレットの声に、剣を放り出して二人のもとに駆け寄った。
「姉ちゃんが、いくら呼んでも返事してくれなくて!」
子どもは顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。
「…っ」
鎧武者はひざまずき、光のない目を見開いたままの少女の肩を掴んで揺さぶった。
反応は、ない。
「…」
彼は手甲でそっと、頬を叩いた。それでも、アスセーナは正気に戻らない。
あまりの悲しさ、辛さに心を閉ざしてしまっていた。
「っ!」
鎧武者は少女を抱きしめた。何の反応もしない細い身体を腕の中に収め、悲嘆の叫びを無音のまま放つ。囁きかけるように頬を寄せ、身を震わせた。
と。
「…あ…」
かすかに、アスセーナの唇から声が漏れた。
「っ!」
「姉ちゃん!」
「…あ…ああ…」
ようやく、その瞳に意思の光が戻って来る。
「あ、ああ…わた、し」
閉ざしていた心を開いて、現実に戻って来ると―また辛さ、悲しさも戻って来た。
「つらい、よ」
先ほどは流すこともできなかった涙が、溢れた。
「つらいよ、つらいよおっ」
「…」
鎧武者はただ、泣く少女を包みこむことしかできなかった。
「辛くて、悲しくて…もう、わたし…!」
悲しみが針のように胸を刺し、アスセーナは泣きじゃくった。泣き叫ぶ少女の背や髪を、ごつい手甲がそっと撫で続けていた。
結局この日はもう移動せず、その場で野営することになったのだが。
「姉ちゃん。また、泣いて」
日が暮れる頃、顔を覗きこんだブレットが困り顔になった。
鎧武者の胸甲にすがって、泣いて泣いて、泣いて…彼はずっと、無言でアスセーナの背中をさすって何とか慰めようとしていた。かなり長いことそうしていて、やっと嗚咽が止まったと見て、身体を離した。
「…」
泣き止んだ、と判断したのか。それとも何もできない無力さに打ちのめされたのか。肩甲をがっくりと落として、背を向け。光の粒子と化して消えて行った。
しかし、さっき止まったと見えた涙が、今また溢れていたのだ。
「姉ちゃん、しっかりしろよ」
野営の支度はおいらがするから、と立ち働きながらブレットは何とか彼女を力づけようとした。
「まぼろしだよ、あんなの。ウソに決まってる。泣くことないって」
「まぼろしでも」
アスセーナの涙は、止まらなかった。
「『ほんとうのこと』だから。だから、辛くって」
「…?まぼろしなのに、本当?わかんないよ」
火を焚きながら子どもは反論した。
「あのぺらぺら野郎のと同じ、まぼろしじゃんか」
「…前の時、見せられたのは。わたしにとって都合のいい、甘いことばかりだった。だからすぐに、まぼろしだってわかって、抜け出せた」
鼻をぐすぐす言わせながら続けた。
「でも、さっき見せられたのは、殿下の心の裡がどうこうじゃなくって。わたし自身の心根の、情けなさだったの」
「???」
「わたしは、心のどこかで思ってた。『こんなにがんばっているんだから、きっと殿下は喜んでくれる。感謝してくれる。わたしのことを、良く思ってくれる』って」
「そんなの、当り前じゃないか」
ブレットにはわからない。
「好きな人のためにがんばって、好きになってもらおうとするのは当然じゃん。おとぎ話の王子とか騎士とかだって、がんばって冒険してさ。お姫さまに好きになってもらおうとしてるじゃないか。何がいけないのさ」
「だって、それは。その人の心を、自分の都合のいいようにねじ曲げようとしてるってことじゃない?心は、他の人の勝手にしていいものじゃないのに」
何も知らないアレクサンデルに、「あなたのためにがんばりました」と言う事実を突きつけ、代償に「好き」を求める―自分のしようとしていたことはそれだと、アスセーナは感じていた。
「自分が好きだからって、気持ちを押しつけてしまっていた。そんなわたし自身が、情けなくて、悲しくて」
誠実に、純粋に。真剣に恋をしているが故の悲しみだった。
「うう」
どう慰めればいいのか、ブレットにはわからなかった。
「とにかく、何か食べて寝よう。一晩寝たら、きっと気持ちも持ち直すよ」
「…うん」
アスセーナはうなずき、パン粥だけと言う簡単な夕食を摂って火の側で横になった。隣ではブレットが丸くなっている。辛さは消えていないが、何とか寝つこうと努力した。
「う、うう、うう」
それでも涙が止まらなかった少女は、泣いて泣いて、泣いて…いつしか浅い、安らぎのない眠りの中に沈んでいった。
「…う…」
眠っている自分の姿勢が変えられたのをぼんやりと感じ、アスセーナは泣きはらして重い瞼を上げた。
「鎧武者、さん?」
彼が、左腕で自分を抱き起して、右手の指で涙を拭っていたのだ。
「わたしが、泣きながら眠っていたから、来てくれたの?」
辛い眠りだろうと、見かねて姿を現したのだと気づいた。
「…」
鎧武者はうなずき、焚き火の灰に太い指で文字を書いた。
―ここに、いさせてくれ。
「でも…わたしが、いてほしいのは」
いつもの彼女だったら、ここまでのことは言わなかっただろう。しかし、取り繕ってごまかせないほど、今のアスセーナはぼろぼろだった。
「本当に、いてほしいのは…あなた、じゃなくて」
そう告げるのもむごいとは感じたが、言わずに彼の優しさに甘えてしまうのは、もっとひどいことだと思ったのだ。
―わかっている。
また、文字が書かれた。
―それでもいい。ここに、いさせてくれ。
彼女が慰めを求めているのは自分、鎧武者ではない。それを知っても、少しでも慰めになりたいと伝えてきた。
「…うん、ありがとう。しばらく、ここにいて…お願い」
申し訳ないと思いつつも、少女は彼が示してくれる優しさが、思いやりが嬉しかった。力強い腕に身体を預け、目を閉じる。もう、涙は止まっていた。
(…ありがとう…)
あやされるような安らぎの中で、アスセーナは今度こそ、深く安らかな眠りに落ちて行った。
時間は、少しさかのぼる。
鎧武者の剣が振り下ろされる一瞬前に転移が成功、命拾いしたヘカーテは現在拠点にしている小屋に移動し荒い息をついていた。
しかし、今彼女の心を占めているのは、恐怖ではない。
「―何故」
がん!と杖で壁を叩きつけた。
「何故!あの青年、アレクサンデル・フォン・カイネブルクの魂だけが、召喚できない!?」
死霊術を究めたと自負するヘカーテにとって、幽明の境にある魂を召喚し支配するなど初歩の初歩、試すまでもなく成功して当然の術だった。それなのに。
「何故だ!?」
アスセーナたちの前では動揺を隠し、彼の魂が召喚に応じないと気づいてとっさに幻影の術に切り替えたが。今、彼女は感情をぶちまけていた。
「馬鹿な!失敗しただと!?この私が!」
今まで築き上げてきた自信が、プライドが大いに傷つけられた。―誇り高いヘカーテには容認できない現実だった。
「確かめねば」
そう、呟く。
「確認せねば、原因を突き止めねば!」
そうしなければ、ひびが入ったプライドを立て直せそうになかった。
「…んー」
朝、ブレットが目を覚ますと。
「おはよ、ブレット」
「ね、姉ちゃん!?」
えらくすっきりした顔のアスセーナが、笑いかけていた。泣きはらしていた目も元通りだ。どうやらもう川の水で顔を洗ってきたらしい。何より、迷いの晴れたすがすがしい表情に驚かされた。
「どう、どうしたの姉ちゃん」
寝る前と今とのギャップに戸惑ってしまった。
「大したことじゃないの。ただ…覚悟が、決まっただけ」
「覚悟?」
「うん。しっかり寝て、夜が明けるのを見ていたら、わかったの。わたしの、したいこと。たった一つ、したいことが。わたしが本当にしたいことは、好きな人の心を変えようとすることじゃないんだ」
自らの裡に指摘された思いがあったのは、事実だが。
「じゃあ、何なのさ」
「簡単なこと。…わたしは、もう一度、殿下に会う。会いたい、それだけ」
もう一度、もう一度でいいから会いたい。
「ただ会いたい、それだけだってわかった。だから、会うために全力でがんばる。何があっても、立ちふさがっても負けない。勝って、殿下を”氷”の中から助け出す。だって、そうしなければ会えないもの。一度でいいから会うために、ただそれだけのために何だってできるって気づいたの」
相手の気持ちがどうでもいいのではない。
ただ、相手がどう応えるとしても、変わりようのない自分の気持ちに気づいただけ。
(片思い…だけど、さ。ただの)
「やり遂げる、そう覚悟した」
その一筋の思いを、まっすぐに貫くと決めた横顔を、ブレットは美しいと思った。
「だから、行こうブレット。一緒に来てくれる?」
「もちろん!」
野営の後始末をし、しっかりとした足取りで歩き出した。
「―」
ふっと鎧武者も現れ、一緒に歩んだ。
「来てくれたんだ。あのね、昨日は…」
しかし、言葉は続けられなかった。再び骸骨の集団が立ちふさがったのだ。
「何よあなた。すっきりした顔して」
亡者を引き連れて立ちはだかったヘカーテが呆れたように声を発した。―彼女としては、昨日の失敗、その原因を突き止める前にアスセーナに与えた衝撃がどれほどの効果を発揮しているか見ておくつもりだったのである。しかし、予想よりはるかに早く立ち直っていたことに内心驚愕していた。もちろんひた隠しにして続ける。
「わかったでしょう?あなたが必死にがんばって好きな人を助け出したとしても、彼があなたの思いに応えてくれると言うのはあなたの勝手な思いこみに過ぎないと。好きな気持ちを投影しているだけ」
「そうかもしれない」
アスセーナは、その言葉にうなずいた。
「それ、でも」
「…あなた?」
「それでも、わたしは殿下を助け出す。必ず」
静かな、決意をこめて言い切った。
「殿下が、わたしの思いに応えてくれなくても、それでも!わたしは…わたしは、あの方がただ、元気に、幸せに―生きていてくれれば、それでいいんだから!」
強がりではあるが、精一杯の思いだった。
「何よそれ。自分を偽ってるだけ…」
ヘカーテは嘲笑しようとした。したが。
「――っ!」
「「え…?」」
「!」
大気が、びりびりと振動していた。思わず言葉を切ってしまうほどに、凄まじく。
「――っ!」
「鎧武者さん…?」
「兄ちゃん!?」
鎧武者が、無音の絶叫を上げていたのだ。
長く、長く尾を引く絶叫。こもっているのは深い悲しみ、嘆き、そして…自責の念。自分自身へのやり場のない怒りだった。
「――っ!」
怒りと悲嘆の叫びを上げながら、彼は亡者の群れの中に斬りこんだ。
迸る激情のままに、縦横無尽に大剣を振るう。いつもの、アスセーナを守りその動きをアシストする剣技ではなかった。
次々と骸骨の首が飛び、粉々に砕かれていった。
修羅の剣。
そうとしか形容のしようがない、狂乱の太刀さばきだった。
恐れの感情を持たない骸骨たちが、思わず身を引き逃げようとしていた。
「な、何なのこいつ!?」
ヘカーテが困惑の声を上げる。亡者ではないので普通に恐怖を感じる彼女は、しかしそれを表には出さずただ不利を悟って転移し、去って行った。骸骨の集団も消え失せた。
「……っ」
鎧武者は、骸骨たちが消えた後、大剣を地に突き立ててそれを支えに立っていた。
全身鎧が、震えていた。
一時の狂乱は去ったが、まだ抑えきれない悲しみに打ちひしがれていた。
「ど、どうし、たの」
アスセーナにはわからない。
「何がそんなに、あなたを悲しませたの」
「…」
彼は、近づいてくる少女に力なく首を振った。
「わたしが言ったことがあなたを悲しませたのなら、謝るから」
何がそんなに辛かったのか、よくわからないが。
「謝るから!」
しかし彼は、首を振り―彼女が手を伸ばす先で、光と化して消えていく。
「どうして!?」
アスセーナは、泣きそうになった。
「謝らせても、くれないの…!?」
誰も、答えてはくれなかった。
幕間 2
教会の尖塔を隣に見るバルコニーで、父親は幼子を抱き上げて星空を眺めていた。
「そろそろ、ははうえのもとにもどらなくてはいけないのでは、ないでしょうか」
まだ三つの末息子は回らぬ舌で言う。
「今晩ぐらいは、父のもとで過ごしても良いのではないか?」
父親は幼子の頭を撫でて語りかけた。
「いつもは、母がそなたを手放さぬからなあ」
「はい」
日頃は忙しくてあまり側にいない父親と話せるのが嬉しくて、幼子はにこにこ笑った。
「この地は」
そんな息子に、父は語りかける。
「元々は、人の地ではなく竜の地であった」
「そうなのですか?ちちうえ」
黒い大きな目を見張って、幼子は問いかけた。
「だが、我らの先祖がこの地を、人が住める地に変えたのだ」
「りゅうと、たたかって、たいじ、したのですか?」
寝つく前のおとぎ話で、そうした話を聞いたことがあった子どもはそう考えた。
「彼が私と同じ名前か、ジークフリートとか言う名前だったらそうかもしれんな」
竜退治の聖人か、英雄の名を持っていたら、と父は笑った。
「しかし、彼の名はフリードリヒだったし、竜退治もしなかった。彼がしたのは話すこと。話をして、竜よりこの地を託されたのだ」
「…はなしを、する」
それがどれほどの偉業であるのか、まだ三歳の子どもにはわからなかった。
「その際、竜はフリードリヒと一つの約束をした。―もし彼の血に連なる者がその命を擲つ覚悟を持って竜に呼びかけるなら、竜は現れその切なる願いを聞き届けよう、と」
「いのちを、なげうつ」
小さな顔の眉根が寄った。
「しんでしまうという、ことですか?」
「そうなるだろうな」
愛息子の頭を撫でて、父は優しく言った。
「試したことはまだないから、わからぬがな。…もし、この地に危機が迫った時にはフリードリヒの血に連なる誰か―今なら私か、そなたら三兄弟の誰かが竜に呼びかけ、命を捧げる覚悟を持ってその危機から救ってもらうことも考えねばならんなあ」
「ぼくは、しにたく、ないです」
幼子は考えながらそう口にした。
「ちちうえも、あにうえたちも、だれも、しんでほしくないです」
「そうだろうな。誰も死にたくはないし、死なせたくはない。だから、そんな危機が来ないように努力せねばな」
しかし、と続けた。
「この地を預かる者として、最後の最後に取れる手段があることは、語り伝えて行かなければならないのだ」
「…はい」
夜も更けて来て、幼子は小さく欠伸をしてそのまま寝入ってしまった。
腕の中で眠っている幼子を、父親は母親のもとへ連れて行かなかった。たまたま訪れていた旧友に預けそのまま旅立たせてしまい、後で気づいた母親が烈火のごとく怒ったのだがそれはまた別の話である。
第二十七章 幸福の、真偽
「何か、気まずい、な」
川沿いの道を再び進みながら、アスセーナはそう呟いていた。
「どうして、鎧武者さんは、あんなに」
悲痛な叫び―無音の―を、上げていたのだろう。それに。
「ちゃんと謝るつもり、だったのに。どうして謝らせてくれないの?」
それらがわからず、謝れなかったのも心残りだった。
(…姉ちゃん)
一緒に歩きながら、ブレットは考えていた。
(姉ちゃん、まずいよ、あれは)
彼は彼なりに考えを巡らし、「鎧の兄ちゃん」の悲嘆の理由を推測していた。
(あの時、姉ちゃんが言ったことは、つまり)
(『殿下が幸せに、生きていてくれたら、それでいいんだから』)
つまり。
(姉ちゃんがこの後『殿下って人』に振られたとして、泣いてるのを兄ちゃんが慰めて。『ありがとう、優しいよね。…好き』ってなることも、ないってことで)
それは辛いだろうな、とブレットは考えていた(と言うか、今彼の知っている限りの事実から推測するとこうならざるを得ない)。
そのことを説明したかったが、そうするとどうしても「兄ちゃん」のアスセーナへの恋心のことまで説明しないといけなくなる。それ抜きに納得してもらうのは、いかに口の回るブレットでも無理そうだった。だから、今は何も言わずに一緒に歩いていた。
「今度出てきてくれたら、ちゃんと…謝ろう」
少女は沈んだ表情で、そう口にしていた。
そんな少女の様子を。
「…ふむ。髪や瞳の色は異なるが、あの顔立ちは」
闇に闇を重ねた中で、遠見の水晶で覗きこんでいる者がいた。
「間違いない。余が眠りから呼び覚まされたのは、そのせいか」
一人得心して、そう呟いていた。
「日が暮れて来たね、姉ちゃん」
ヘカーテに襲われ、鎧武者とは気まずい別れ方をし。散々だった一日がもうすぐ終わりそうだった。
「でも、陽が沈んでももう少し進めるかな」
昨日のこともあるし、急ぎたい気はあった。しかし。
「チイ!」
アスセーナの肩に乗っていたマナが鋭く鳴いた。
「どうしたの、マナちゃん」
白いふわもこの毛が全て逆立っていた。ひどく怯え、緊張している。
「「!?」」
日没の後の残照が、いきなり陰った。何か、ただ暗いだけではない。光を否定する闇があたりに満ちているような。
「な、何?あれ」
その闇の中に、一際暗く見える人影がいつの間にか立っていた。
黒装束で身を包んでいる。蒼白な顔だけが浮かび上がり、双眸は鮮血の赤―とどめに口から覗く二本の牙。
「ヴァ、吸血鬼!?」
「その呼称には、下賤の同胞までが含まれてしまうな」
影をまとう者は、ブレットの呟きを重々しく否定した。
「余のことは、竜の公子と呼ぶがよい」
「竜の公子…?」
「余は、同胞の中でも一際高貴な出自であるが故な」
そう言い放ち、彼はアスセーナに視線を向けた。
「やはり、ヤスミナ殿の血筋だな、そなたは」
「母さんのこと!?」
「―かつて」
彼女の言葉も聞いていないようなタイミングで語りはじめた。
「休眠期を終え、目覚めの時を過ごしていた余はラインフェラント大公国に赴き、ヤスミナ殿を花嫁に望んだ。―うまく行かなかったが。しかしそなたなら、我が花嫁に相応しい」
そう言ってアスセーナと視線を合わせる。血色の双眸が強く輝いた。
「え!?」
「『魅了』できぬか」
竜の公子は不満げに一人ごちる。
「どうやらその『思いの結晶』が、余の力を退けているらしいな」
一瞬ペンダントが山吹色の光を発したのを、見逃してはいなかった。
「ヤスミナ殿の力が、今もその娘御を守っているのか」
「ど、どうやら」
震えながらブレットがつっこんだ。
「姉ちゃんの母ちゃんだって人に、あんた、思いっきり振られて追い返されたみたいだな!」
「―余計な詮索をすると」
「ひゃっ!」
じろりと睨まれ、ブレットは少女の後ろに逃げこんだ。幸いと言うか何と言うか、妙な効果はその一睨みには無さそうだった。
「そう簡単には、余の手には入らぬか。まあ、その方がより搔き立てられると言うもの」
牙の生えた口で、笑んだ。すると。
「わあっ!」
まとう黒装束が、周囲の闇がざわざわとうごめき出した。何か途轍もなく嫌な感じがする。
「―っ!」
そこへ、どすどすと見慣れた巨体が駆けこんで来た。
「鎧武者さん!来てくれたの!?」
「…」
彼は二人を大きな背にかばい、大剣を抜き放って竜の公子に突きつけた。
―この二人に手出しをすれば、斬る。
無言でそう宣言していた。
「無粋な。逢瀬を邪魔するとは」
影は吐き捨て、改めてアスセーナを見つめた。
「ヤスミナ殿の娘御よ。永き時を経てやっと見い出した、我が永遠の花嫁」
「!」
「近いうちに、お迎えに上がる。楽しみに待っていてくれ」
うやうやしく一礼する。―ふっと闇が晴れ、消えかけているが夕暮れの光が戻って来た。
「…あれ!」
目敏くブレットが何かを見つけ、空を指差す。巨大な影が、飛び去って行くのが見えた。
「さ、さっきのが『魅了の視線』ってやつ?」
ブレットは震え上がってアスセーナにしがみついた。
「姉ちゃんはそのペンダントしてたから平気だったけど、おいらなら」
一瞬で操られ、言うがままになっていただろう。まあ、生意気なだけのただの子どもにその力を使う気は欠片もなかっただろうが。…と言うかアスセーナ以外はほぼ目に入っていなかった気がする。
「良かったね姉ちゃん」
…しかし、アスセーナはそれどころではなかった。
「来て、くれたんだ」
鎧武者を見上げ、懸命に話しかけていた。
「わたしが言ったことであんなに辛そうだったのに、来てくれたんだね」
―私は。
「今度こそ、ちゃんと謝らせて。…何があなたを悲しませたのかわからないけど、でも」
―いいんだ。
兜は横に振られた。
―謝る必要はない。
「どうして!」
―君は悪くない。
「で、でも」
―君は何も悪くないんだ。だから、謝る必要なんてない。
「謝らせてよ!苦しめたのは、確かなんだし!」
しかし、彼はかたくなに首を振った。
―君は悪くない。悪いのは私だ。いつも、私なんだ。
「何でそんなこと言うの!わかんないよ!」
泣きながら、アスセーナは鎧に掴みかかった。
「あなたは、何かとても大事なことを、わたしたちに隠して!」
喋る喋らないのことではなく、彼が何かをひた隠しにしている―それは、さすがにわかっていた。
「全部知りたいなんて言わないけど、せめて何があなたを傷つけるのかは教えてよ!わからないと、いつかまた言っちゃいけないことを言うかもしれないじゃない!傷つけたくなんてないのに!」
ずっと心にあったもやもやが、ついに噴き出してしまっていた。
「何を聞いても、怒ったりしないから。友達だもの…!」
―君が、悩む必要なんてどこにもない。
しかし、鎧武者はやはりそう示すだけで、ついに光と化して散ってしまった。
「何でよ!何で…!」
泣き伏す少女のまわりで、夜の帳が本格的に降りていた。
どたばたしているうちに、進める時間ではなくなっていた。―明らかに吸血鬼の活動範囲内であるこの地を一刻も早く抜けたいのはやまやまだが、二人にはどうしても休息が必要だった。ヘカーテと吸血鬼の襲撃(?)を、一日のうちに食らってしまった今日は、特に。
「と、とにかく姉ちゃんのペンダントは賢者のじーちゃんが言った通り、吸血鬼にも効いたし」
「そうよね」
きっと大丈夫、今晩はしっかり休んで明日できるだけ急いでこの谷間を抜けようと決めて、野営の支度をはじめた。
「まさか吸血鬼の奴が」
ひねこびた灌木から何とか薪を集めながらブレットは考えていた。
「姉ちゃんの母ちゃんを知ってて、しかも言い寄って振られてたなんて」
賢者レオナルドゥスも知らなかったのだろう。でなければ、この谷間を通る道を勧めはしなかったろうと思われた。
「姉ちゃんのことすごく気に入ったみたいだったけど、嫌だよなーあんなの」
「うん。吸血鬼だからとかじゃなくて、好きになれそうにない人だった」
ブレットの集めた薪を受け取りながら、アスセーナはぶるっと震えた。今大好きな人がいるいないではなく、彼女が好きになるタイプの男性では絶対にない…と、直観していた。
「わたしのこと『母さんの娘』としか見てないし。そんなの、嬉しくないよ」
話しながら、いつもより大きく火を焚いた。
「…怒っちゃった」
夕飯の支度をしながら、アスセーナはまた落ちこんでいた。
「怒鳴るつもりなんて、なかったのに。ついひどいこと、いっぱい言っちゃった」
「ひどく、はないよ。きっと」
ブレットも何とか力づけようとするが、どう言えばいいのかわからずにいた。
「鎧武者さんは、わたしたちをいつも守ってくれるし!わたしのこと、慰めてもくれたのに!…どうしてわたしは、恩を仇で返すようなことをして!」
手で顔を覆ってしまった。
「泣くなよ姉ちゃん。ほら、顔上げて」
そう言われてぐしぐししながら顔を上げたが、たまたまその視界にかなり遠くの崖が目に入った。
「グラツィエだって、あんな遠くに止まってるよ!わたしの心がとげとげしてるから、近づきたくないんだよ!」
崖の中腹に止まっている大鷲を指差して、また泣き出した。
「そんなことないって」
慰めつつもブレットは首をひねった。…最近グラツィエをあんまり気にした覚えがないなあと。「鎧の兄ちゃん」がいつも一緒で嬉しくて、つい忘れてしまっているような。
「悲しませたくなんてないのに!どうしてうまく行かないんだろう…!」
涙は、しばらく止まらなかった。
とは言え、休むと決めたからには休もうと二人は一晩消えないように薪をたくさんくべ、不安とその他の思いを抱えながらも星空の下で眠りについたのだが。
「んー…うるさいよ、姉ちゃん」
何やら近くでする変な物音に、ブレットは夜中目を覚ました。
「何だよかりかりって…えーっ!」
隣で眠っているアスセーナを見て、ぎょっとした。
「鼠…!?」
数限りない鼠が、寝袋によじ登って「思いの結晶」のペンダント、その革ひもにかじりついていた。しかし黄色い結晶に近づき過ぎると弾き飛ばされ、毛皮に包まれた身体が一声悲鳴を上げて転げ落ちる。すると次の鼠がまたかじりつく―それが、延々繰り返されているらしかった。革ひもが切れかかっていることからわかる。
「ね、姉ちゃん!?何で、起きない…?」
鼠はよじ登るわ自分は大声出してるわ、起きる要素てんこ盛りなのに少女は眠り続けていた。―よく見ると、寝袋から覗く手に何か棘のようなものが刺さっている。
「ね、『眠りの茨』」
これも噂にしか聞いていないが、刺されると自力では目覚めることも珍しい眠りにつくと言うおとぎ話の物品だった。…おそらく、手に刺すだけでも鼠たちの大奮闘があったのだ。
「何とかしないと!」
ブレットはアスセーナに近づこうと、棘を抜こうとした。しかし無数の鼠―弾かれると言うことは魔性のもの―がこちらを向いて鋭く鳴き、紅い目で睨みつけると怖くて動けなくなった。仕方がない、多少口と頭が回るだけの九歳児である。
「マナは!?」
真っ白なふわもこは、やはり鼠たちに囲まれてすくみ上がっていた。これも仕方ないだろう、外見は鼬でも本当は魔法生物であり、持っているのは鼠退治ではなく魔力返しの能力なのであった。
「兄ちゃん!」
他に、助けを求めることなどできなかった。
「兄ちゃん頼む!早く!早く来て!」
「―っ!」
…鎧武者が、どすどすと―走って来る。
しかし、明らかに。いつもより、駆けつけるのが遅かった。ほんの僅か、紙一重の差ではあったが、間違いなく遅かったのだ。
「―っ!」
彼が手甲を伸ばすその目の前で、齧られ続けた革ひもがぷつんと切れた。「思いの結晶」が、少女の身体から転げ落ちる。
その途端、闇より黒い影が舞い降り、アスセーナを抱えて飛び去った。
「―っっ!」
「ついに手に入れたぞ、花嫁を!」
高笑いを響かせながら。鎧武者の伸ばす手を、髪の毛一筋の差ですり抜けて。
「姉ちゃーん!」
―私が!
鎧武者はパニックを起こしていた。
―私が!いつものように、もう少し近くにいれば!それとなく、気を配っていれば!
そう口に出している訳ではないが、ずっと一緒だったブレットには大体言いたいことの見当はついた。
「仕方ないよ。気まずかったんだよね、兄ちゃん」
泣かせて、怒らせたことを気にしていないはずはなかった。だからつい、近づきづらくなっていたのだとブレットは思う。しかしそれより。
「パニクってたってしょうがないよ。それより早く!早く姉ちゃんを助けないとっ」
いつものことだが、アスセーナのこととなると我を忘れる鎧武者を叱咤するのはブレットだった。
「助けに行こうよ!夕方も、今もあいつが飛んでったのはあっち」
川の下流、自分たちも行く方向で、さらに。
「吸血鬼の館があるって言う方向だったよ。だからあいつは、そこに」
―わかった。
鎧武者は片手を挙げた。どこからともなく、鎧馬が駆けつけて二人の前で止まる。鎧武者は屈んでペンダントを拾い上げていたブレットを抱えて鞍壷に乗せ、後ろにひらりとまたがった。
「行こう!」
鎧馬は一散に走り出した。
「ヴァ、吸血鬼って言う奴は」
ひた走る鎧馬の上で、ブレットは知識を総動員した。
「普通は人の血を吸って食べ物にするだけだけど、特に気に入った人は同じ吸血鬼にしたりして、すごーく好きになった相手は特に『花嫁』にする、とか」
「~っ!」
「に、兄ちゃん落ち着いて」
背後から、凄まじい怒りの気配が立ち昇るのを感じたブレットは震え上がった。
「一度でも血を吸われちゃうと、吸った奴の言うことには絶対逆らえなくなるって」
「~~っ!」
後ろの席の怒りのボルテージがどんどん上がっていく。
「まだ、まだ間に合うよ!姉ちゃんが血を吸われないうちに、助け出そう!」
「っ!」
鎧武者の思いを体現した鎧馬はまさに、風のごとく疾走した。歩きなら半日はかかりそうな道のりを駆け抜け、ついに崖に沿うように建つ大きな石造りの館、その前で停止した。
「これだよね、どう考えても」
建造物は他に見かけていないし、造りが通常のものではなかった。窓はあるが鎧戸があまりに頑丈過ぎる。昼間光を一条たりとも入れたくない、そうしたコンセプトで設計されていた。
「もうあいつ、入っちゃったみたいだね」
周囲に気配はない。玄関はあるが最近開けられたようには見えなかった。
「飛んでったもんなあいつ。屋上から入ったかも」
しかし、いずれにしろ。
「何とか忍びこんで、血を吸われる前に姉ちゃんを助け出さないと」
ブレットは館に向けて一歩踏み出した。下馬した鎧武者も続く、が。
「兄ちゃん、ついて来たいの?」
うんうん。
「でも、忍び足とか絶対無理だよね」
「…」
動く度にがちゃがちゃ音を立てる全身鎧―が、彼の本体である。
―し、しかし君一人では危険過ぎる。
腕を振り回して彼はそう主張した。
「大丈夫、こっそり行くから。このペンダント持ってればきっと」
「…っ」
鎧武者はしばらく悩んでいたが、子どもの言うことが正しいとようやく納得したらしかった。
―だが、忍びこめる隙間がなさそうだ。音を立てないように穴を開ける。
剣を抜き、壁に近づいた。―と。
「~~っ!?」
「兄ちゃん!」
突然、漆黒の蔦のようなものが地面から何本も伸び、全身鎧に巻きついて絡め取った。瞬時に動きを封じられ、がんじがらめに拘束される。
「―っ!」
必死にもがいてはいるが、彼の大力をもってしても剣をわずかに動かせるだけで移動も脱出もできそうになかった。
「ようこそ、我が館に」
朗々と声が響き、石造りの館、その屋上のテラスにあの吸血鬼、自称竜の公子が姿を現した。地上の二人を見下ろし、愉快そうに牙のある口で笑っていた。
「―っ!」
「姉ちゃんっ!」
その腕に、目を閉じたアスセーナを抱きかかえて。
「ね、姉ちゃん!姉ちゃーん!」
呼んでも反応しない。…まさか、とブレットは青ざめるがそうではなく「眠りの茨」が刺さったままだからのようだ。
「こいつ!姉ちゃんを返せよ!おいらたちに返せ!」
「そうは行かぬな」
竜の公子は余裕の笑みで応えた。
「彼女は余の花嫁として、永遠に余とともに過ごすのだから」
「『花嫁』になんて、なる訳ないだろ!姉ちゃんがお前にホレるもんか!」
「そうでもなかろう?」
彼はこれ見よがしに、アスセーナの手から茨の棘を抜き、投げ捨てた。
「これで、目覚めて余を一目見さえすれば彼女は身も心も、最後の血の一滴までも残らず余に進んで捧げることになる」
「ただの『魅了』じゃんそれ!」
「はじまりはそうであれ、余ならば」
ブレットと鎧武者を睥睨し、竜の公子は勝利を確信していた。
「一切の悩みも苦しみもない、永遠の幸福を彼女に保証できるのだぞ?死ぬことも、老いることもなく、余とともに永遠の幸福を享受する。願ってもない幸せと思うべきだ」
「そんなの、ウソの幸せだよ!姉ちゃんはそんなの望まない。第一姉ちゃんにはもう、大好きな人が」
「居るかも知れぬが、今その者が側にいないと言うことは。―未だ叶わぬ、恋なのであろう?」
「それは、その」
願いが叶うとはとても思えない、片思いであることはブレットも認めざるを得なかった。
「余を愛すれば、それで良かろう。何、辛い恋などすぐに忘れ、二度と思い出すこともないだろうよ」
「この…!」
ブレットにはわかった。吸血鬼だからとかではなく、この男は外道なのだと。
(姉ちゃんが何を望んでいるのか、どうしたいのか!こいつには、どうでもいいんだ!)
アスセーナ・ヒメネスと言う少女が抱く思いなど、踏みにじっても構わないのだ。
(そんなの、ほんとの『好き』じゃないよ!)
美しい宝石や絵画を欲しがるのと一緒だった。相手の気持ちを尊重し、大切にすることなど欠片も考えていない。それは本当の愛でも何でもないと、ブレットは子どもながらに感じた。
「―っ!」
鎧武者もまた必死に暴れ、無音の絶叫を上げ続けていた。闇の蔦の拘束は解けなかったが死に物狂いで抗い、前へ―吸血鬼と少女のもとへ、向かおうとしていた。
その叫び、大気の震えとして伝わる響きにこめられているのは…怒り、悲しみ、そして嫉妬。
―嫌だ!嫌だ…!
ブレットにはそう聞こえた。
―君を奪われたくない!本当は誰にも渡したくなんてないんだ。増してや、こんな、外道に!君を奪い取られるなど…嫌だ!
「兄ちゃん…!」
しかし、大剣で斬りつけても蔦はうねって逸れ、益々きつく縛り上げるだけだった。
「さあ、花嫁よ」
自らの勝利、相手の敗北を知らしめ見せつける、その歓喜にも酔いながら竜の公子は少女の頬に手を伸ばした。
「目覚めてくれ。余を見てくれ。そして余に、心のすべてを、身体を、甘き血潮を捧げてくれ。永遠を誓う口づけを、受けてくれ…」
「やめろーっ!」
その時―鎧武者が、今自らに可能な範囲で動いた。
わずかに動かせる大剣を、逆手にして。
「っ!」
「兄ちゃん!?」
自らの腹部、鈍色の装甲に深々と突き立てたのだ。
「死を、選んだか」
吸血鬼が呟くのを尻目に、剣を自らに突き刺しながら鎧武者は身を反らせて無音の叫びを上げていた。先程の激情に満ちた絶叫ではなく、大気を震わせながら広がっていく長く長く続く叫びを。
はるかかなたの夜空が、かっと輝いた。
「な、何か」
何かが、咆哮を上げながらこちらに飛来する。
流星のごとく光り輝きながら、一瞬で流れ去りはしない。次第に、全身が見えてきた。巨体を鱗が覆い、四肢には鋭い爪。燃えるような割れた瞳―背に広がる、一対の翼。
「流星竜…!?馬鹿な、何故!?」
吸血鬼が驚愕の声を上げる中、竜は上空を遊弋しながらこちらを見下ろした。
”我が休眠している間に、妙なものが巣食ったようだな”
殷々と声が響いた。
”我欲のために闇に落ち、おこがましくも永遠の生を手にしたなどとほざく慮外者が”
はっきりとした怒りをこめて、割れた瞳で吸血鬼を見やった。
”我らですら、永遠の生など望むべくもないものを。目障りだな。その偽りの命を、偽りの永生を、捨てよ”
「ひいっ!」
ここで、アスセーナを盾にしていれば生き延びる目はあったかもしれない。しかし、恐怖に駆られた彼は少女を放り出し、一人で逃げ出そうとした。
”失せよ。行くべき場所へ、逝け”
「待…!」
一瞬、竜の口から吐息が奔った。火柱が立ち―それが消えた時、吸血鬼の姿は灰すら残さず消え失せていた。
呆然と見上げるブレット、無音の叫びを上げた後倒れ伏した鎧武者の頭上に、竜の声が響き渡った。
”わかっているだろうが、汝の召喚は無効だ”
誰に、語っているのだろうか。
”命を擲つ覚悟はあっただろうが。汝の命はここになく、汝の自由になっておらぬではないか。覚悟はあっても中身が伴っておらぬ”
燃えるような竜の瞳が、見下ろしていた。
”あの慮外者を排したのは、汝の願いを聞き入れた訳ではない。単に目障りだっただけだ。しかし”
巨体の向きを変え、戻りながら続けた。
”我に呼びかけた、あの叫びだけは真実であったぞ。命を擲っても、守りたい―その思いは、真実であった”
『死ぬ気か、汝は』
『死にたくないなあ』
兜を外して、男性は笑った。
『ロザモンドには夫が必要だろうし、生まれてくる子どもの顔も見たい。死ぬのは嫌だが、一生に一度ぐらいはその大事な命を掛け金の代わりにして、大勝負をしないといけないのかもな、と』
それでもやらなければならないことがあると、かつて彼は言った。
『ほいほい捨てていい命じゃ、ないけどな』
今がその時かなと彼は笑っていた、と竜は三百年ほど前の記憶を呼び起こしていた。
竜が去った後。
「…」
鎧武者が、腹部に大穴を開けたまま立ち上がった。
「大丈夫?」
―心配ない。
手でそう示した。
「兄ちゃん、今のは、一体」
ブレットは一応そう聞いてみたが、彼はやはり兜を振った。答えては、くれない。
夜が、明けかかっていた。と、吸血鬼の館に幾筋もひびが入った。さらに、ぎしぎしと軋み出した。
「崩れちゃうの!?」
―君はここにいろ!私が行く!
そう伝えて、鎧武者は崩壊をはじめた館に飛びこんでいった。
「兄ちゃん頼む、姉ちゃんを!」
子どもがはらはらして見守る中、石造りの館は完全に崩れ落ちるが。―その中から、少女の身体を抱きかかえた全身鎧が、歩み出て来た。
「血を吸われてなんか、いないよ」
横たえられた身体を調べたブレットが呟く。
「何も変わってない。おいらたちの、大切な、姉ちゃんだよ」
「…っ」
改めて、鎧武者は眠るアスセーナを震える手甲で抱き上げ、思いをこめて抱きしめた。
取り戻せた、愛おしくてたまらない、失いたくない存在…それを、確かめるように。
それは子どもの目から見ても、一人の男性が一人の女性を心から思い、気づかう姿だった。
「…兄ちゃん」
たまらなくなったブレットが声を上げた。
「やっぱり『好きだ』って伝えようよ。大好きだって。姉ちゃんだってきっと、わかってくれるよ。すぐに気持ちは変わんないにしても、伝えるぐらいは」
「…」
彼は身体を震わせ、答えない。
「…う…」
アスセーナが身じろぎした。目を開け、ぼんやりと自分を抱きしめている鎧武者を見上げる。
「…あなたは」
ぼうっとした顔で呟いた。
「あなた…は」
鎧武者はさっと手を伸ばし、ブレットが持っていたペンダントを取って少女の首に戻した。鳶色の目がぱちっと開き、正気に戻った。
「あ、あれ?」
訳がわからない様子であたりを見回した。
「ここ、どこ?何がどうなって…よ、鎧武者さん何その傷!?」
身体を離した鎧武者の腹部に気づいて叫んだ。
「…っ」
鎧武者は、何をどう説明すればいいのかと言った様子でわたわたと手を振り回し、焦り、困惑し…ついに光と化して消えてしまった。
「…逃げた」
また悪い癖が出た、と言う感じである。
「わたしが寝てる間に、そんなことが」
道を進んだと言えなくもないが、野営地に色々放りっぱなしではこれからの旅が困る。戻りながら、アスセーナはブレットの(大体の)説明にうなずいていた。
「ちょっと悔しいけど」
自分は「お姫さま」ではないと思っているアスセーナには、寝ている間に助け出されたという結末は我ながら情けない。
「おいらにも訳わかんないことばっかりだけどさ」
竜のあたりはさっぱりであった。
「まあ、竜のことはいいわ」
少女は野営地を片づけながら言った。
「それより鎧武者さんの傷。どうしてついたの、あれ?まるで自分の剣で刺しちゃったみたいだったけど」
さすがに剣には詳しい。傷痕からそこは見抜いていた。
「え、えとね。姉ちゃんがさらわれたんで、兄ちゃんも焦って、剣の扱いを間違えて」
「そうだったの」
我ながら苦しい説明だと思ったが、彼女はうなずいてくれた。
「珍しいわね、あんなに剣さばきが上手なのに」
ここで、「どれだけ自分が大切に思われているか」にまで考えが及ばないのがアスセーナであった。
「ありがとうね、ブレット。がんばってくれて。…鎧武者さん」
荷物をまとめて身につけながら、彼女は声を張った。
「どこかで、聞いてるんだよね?出て来て。もう怒ったり、泣いたりしないから。わたしはあなたと話さないといけないことがあるの」
しばらくして。
「…」
見慣れた巨体が、姿を現した。もう、あの大きな傷はない。
「来てくれたんだ。ごめん、勝手に呼び出して。ちゃんと、謝りたくて」
―君は悪く…。
「ううん。そうだとしても、ちゃんと謝らせて。そうでないと、前に進めないから」
首を振る彼を制し、アスセーナは頭を下げた。
「ごめんなさい。あなたが辛く感じることを、言ってしまって。ごめんなさい」
「…っ」
「ああ、やっと言えた。じゃ、その次ね。ありがとう。今日も、今までも、助けてくれて、守ってくれて。これからも、よろしくね?」
「…」
鎧武者は、おずおずと近づき、少女の手を取った。
―これからも、私と…一緒に。
「おいらもっ」
ブレットも手を添えた。
「うん」
にっこり笑って、彼女は包みこまれた手を握り返した。
「良かった、ちゃんと言えて。危ないところだったよ。もう少しで、大切な友達と気持ちが離れ離れになるところだった」
心が通い合っているのが、嬉しくて。
「少しわかったよ。あなたは優しいから、他の人を傷つけたくないから、自分が身体を張って守れればいい、自分はいくら傷ついても構わない、そう考えているんだよね」
この間の悲嘆も、どうつながっているのかはわからないがそのためだろう、アスセーナはそう考えていた。
「でも忘れないで、大事な友達が傷つけば、身体は守られても心は痛いんだよ?あなたが怪我してたら何にもならない。だから、誰も傷つかないように、力を合わせてがんばろう」
そう言って、晴れやかな表情で彼女は歩き出した。
「急がないと。後、ほんの少し」
カイネブルクの街の方角へ。
「…兄ちゃん」
取り残されたかたちになったブレットが、傍らの鎧武者を見上げた。
―友達。
それでいいはずだった、と彼は手で示した。
―それなのに、私は今、空っぽのはずの鎧の中が、とても痛い。
ブレットにだけ、打ち明けた。
―納得していたはずなのに、どうして…こんなに、苦しいんだろう。
第二十八章 理解と、信頼
「―師」
”氷”に閉ざされたカイネブルクの街、その中心に当たる王宮に、今ヘカーテの姿はあった。
「師、ご教示を。何故私の死霊術でアレクサンデル・フォン・カイネブルクの魂だけが召喚できなかったのか、お教えください。教えを頂いた学び舎の蔵書、果ては聖都ロマヌスの禁書庫まで調べつくしましたが、原因がわからずじまいでした」
厳重に封じられた禁書庫に侵入までしたが突き止められず、恥を忍んで教えを請いに来たのだった。知の探究者として学び修め、究めたはずの死霊術―その絶対の自負にほころびが生じ、それを繕うために自分で認めたくないほどに必死になっていた。
「どちらに、居られるのですか?」
かつて札の四弟子に指示を下した部屋には魔術師の姿はなく、彼女は捜し求めていつしか玉座の間に入りこんでいた。
「…これは?」
先日、この玉座の間の光景を空間に投影し、アスセーナたちに見せつけたが。それはあくまで映像、幻影であった。今ヘカーテが足を踏み入れた現実のこの場所で、彼女が見たのは―あの時とは異なる、光景であった。
「こんな、ものが」
林立する”氷”の柱、その中の一本。アレクサンデルを閉じこめている柱の周囲に、ぎっしりと魔術式が組まれ、光の文様として浮かび上がっている、そうした光景を彼女は目の当たりにしていた。
「これが…!」
魔術の心得がない者なら、そもそも見ることもできないだろうが。ヘカーテには見え、それどころか複雑に組み上げられた文様、重層魔法陣とでも言うべき精緻を極めた術式の機能、目的も読み解くことができた。
「ふ、ふふ」
笑い声が漏れた。
「これが、真実。師よ、貴方が私たちに指示した、真の理由」
一人の少女を示し、弟子たちに狙わせた理由。
「いいのです、師。それでこそ、我らの師。私たちが貴方を利用して高みに昇ろうとしているのですから。貴方が私たち弟子を利用するのは、当然のことですわね」
冥府の女神の名を持つ魔術師は、哄笑した。
「いいでしょう。師よ、見ていてください。私が自らの道を究め、その先で貴方の思惑すら超えて行けるかどうかを。ご覧ください!」
「あの、川が大きく曲がってる、あそこを抜けたら」
谷間を流れる川は、行く手で大きく湾曲していた。どうやら非常に硬い岩盤に突き当たって曲げられたらしい。
「きっと開けた所に出るよ」
「うん」
いよいよ谷間を抜け、アスセーナたちは平地に出ようとしていた。しかし。
その湾曲部の前で、一行を待つようにゆらりと立つローブ姿があった。
「…ヘカーテ」
大理石を彫り刻んだような美貌に浮かぶ表情は読み取れなかったが、彼女のまとう雰囲気にアスセーナは「何か」を感じた。
この間の、プルートスが最後の襲撃を仕掛けて来た折に感じた追い詰められた印象とは違う。
何かを悟った―それも彼女にとって嬉しいことではないが、しかし紛れもない真実を知り、何らかの悟りを得た、そんな雰囲気をヘカーテは身にまとっていた。
「…」
彼女はこちらに何か言うでもなく、ただ杖を掲げて無数の骸骨の群れを召喚した。戦う気、しかも決着をつけるつもりであると宣言している。
「鎧武者さん」
アスセーナは、傍らに立つ全身鎧に声をかけた。
「言ったよね?無茶は、なしだよ」
―わかっている。
彼は兜を重々しくうなずかせた。
「おいらは捕まらないように気をつけるね!」
ブレットは距離を取って見守る体勢を取った。
「行こう!」
アスセーナと鎧武者、二人はそれぞれの得物を手に襲い来る亡者の軍団に立ち向かった。
また、骸骨の群れとの戦いだったが。前回と違い、心は通い合っていた。
―私は、君たちを守りたい!
巨大な剣が骸骨を斬り、打ち倒す。
―だが、もう無理はしない!自暴自棄に、なったりしない!大切な、君たちのために!
「わたしも、がんばる!」
アスセーナは鎧武者のマントの陰に身を潜めては飛び出し、小剣で骨格の要を的確に刺突、砕いて行く。二人の連携は、取れていた。
「く…!」
その姿に、ヘカーテは紅い唇を歪め。言葉を、アスセーナに投げつけていた。
「そうして、必死に戦って。その先で、あなたが助け出したいのはあの第三王子よね。彼があなたにどんなことを言うか、それどころかどんな人なのかもわかってないのにね?」
「殿下がわたしのことを、どう思われても!わたしは、あの方に会いたいの!それだけ!」
「彼の心の裡は、あなたにとってどうでもいい、ってことね」
「どうでもいい訳じゃ、ないけれど!」
投げつけられる言葉に、動揺しないではいられなかったが。それでも叫び返した。
「どう思われてもいい!わたしは、わたしの思いを、貫く!そうしないと、納得なんてできないもの!」
「全ては、あなたのわがままってことね」
「そうよ」
わかっていて、それでも押し通すと決めた。
「あくまで、戦い抜くと。その喋らない鎧と、肩を並べて」
屈しないアスセーナに、ヘカーテは攻撃の矛先を変えた。
「一言も喋らないその鎧を、信じると言うの?」
「信じてるよ!」
一緒に旅して、ともに戦って。泣いてわめいて、喧嘩して。その上での、信頼だった。
「そいつが告げられない秘密を、抱えていても?」
「それは…!」
何かとても大切なことを告げられていない、それはわかっている。知りたくないと言えば嘘になるけれど、でも。
「全部知らないと信用できないってことは、ないから!それに、言わないのには、ちゃんとした理由があるんだよ、きっと」
告げられないことに彼が苦しんでいることも、感じていた。それでも伝えられない理由があるのだとアスセーナは思い、それを尊重したいと今は考えていた。
「言える時が来たら、教えてくれるよ」
多分、この旅が終わった時だろう。そう、思っていた。
「ふ、ふふ、ふ」
この言葉を聞きつつ、ヘカーテは笑い声をこぼしていた。
「ふふ…あーっはっはっは!」
いつしかその笑い声は、哄笑へと変わっていった。
「な、何が、おかしいの」
「だって、だって、あなた」
哄笑の合間にヘカーテは言い放った。
「あなたたちが、そうなることこそが!我が師の、思惑通りなんだもの!」
「何を、言っているの」
「もう、話すことなんてないわ」
言ってヘカーテは短距離を転移し、距離を取り直した。以前アスセーナが灌木を支えに跳躍し斬りつけて来たのを踏まえ、どう考えても跳躍では届かないであろう位置を選んでいた。さらに、またしても無数の骸骨を呼び出して自分の前に配置する。彼らは錆びついた武器を手に二人に押し寄せた。
「きりがないよ!」
一対一ならアスセーナも鎧武者も、骸骨など一蹴できるのだが。このままではいずれ数で押し切られる。ヘカーテが呪文を詠唱し続ける限り、増援は続くのだし。
「何とか…鎧武者さん!」
アスセーナは、ともに戦う鎧武者に声をかけていた。何事かと振り向く彼に手短に説明する。距離があり過ぎてヘカーテには聞こえていないだろう。
―わかったが。
彼は不安げだった。
―できるか、本当に。それに、君が一番危険だ。
「大丈夫。わたしと、あなたなら」
必ず、と笑いかけた。
「……」
鎧武者は、改めて大剣を骸骨の群れに対して構えた。しかし、剣の角度がいつものそれとは少しだけ異なる―わずかに平たいことに、亡者たちも、魔術は達人だが剣技には疎いヘカーテも気づいてはいない。
「はっ!」
しかし、アスセーナにはそれで充分だった。彼女は鎧武者の背後に下がり、跳躍した。鎧武者の肩甲を蹴って、さらに跳躍する。
「!?」
ヘカーテはさすがに驚いたが。だがこの跳躍では彼女のもとには届かないし、アスセーナもそのつもりはなかった。
少女が降り立ったのは―鎧武者がかざす大剣の、剣の平の上。
「はあっ!」
鋼鉄の刀身を蹴って、さらに跳躍する!だけではなかった。
「…っ!」
鎧武者は剣を振り、アスセーナの靴底を押してさらに勢いを与えた。大きく振り抜き、前へ!少女の身体を飛ばした。つぶてのように、まっしぐらに骸骨の群れを飛び越していく。
「馬鹿な…っ!」
途轍もない身体能力と、完璧に呼吸を合わせられる信頼がなければ不可能な合わせ技だった。およそ人の跳躍できる限界をはるかに越えた距離をアスセーナは飛び越え、ヘカーテのもとに達した。
「くっ!」
さすがに意表を突かれ、動きが遅れた。防御の障壁が一瞬間に合わず―今度は、フードを切られるだけでは済まなかった。
「はああっ!」
「あぐうっ!」
小剣が振り下ろされ、ヘカーテの杖を持つ手が斬り裂かれた。彼女は思わず杖を取り落とし、呻いた。
その途端、今まで一糸乱れぬ動きをしていた骸骨たちの統制が乱れた。錆びついた武器を取り落とす者、あらぬ方向に進む者。地下に戻ろうとする者までいる。
「っ!」
その乱れを、鎧武者は見逃さなかった。
「―っ!」
前方へ、女性二人が争う場へと突撃する。
左肩甲を前にし、凄まじい勢いで突進をかけた。鉄塊が飛んでいくが如き破壊力―時代が違えば「砲弾のような」と称されていたであろう突貫攻撃だった。亡者の群れを跳ね飛ばし、薙ぎ倒しながら前進し、ついにアスセーナと肩を並べた。
「行こう!」
―おお!
双剣が、舞う。
大剣と小剣。リーチも、振るう速さも全く異なりながら、二本の剣の動きは完璧に調和していた。お互いを補い合い、助け合う剣技。
「わたしたちは、思いを、貫く!」
「―っ!」
「う、ぐ…!」
双剣が、同時にヘカーテの身体を刺し貫いていた。
「ふ、ふ」
唇から鮮血をこぼしながら、魔術師はまだ笑い続けていた。
「理解と、信頼」
様々なことを経て編み上げられた、深く強い絆。
「それこそが、我が師の目論見―いずれ、わかるわ」
「な、何を、言ってるの」
「ふ、ふ…言葉は、噓をつく」
ヘカーテの笑いは止まらない。
「生と死だけが、真実。あなたには、私がついた嘘が、言わなかった事実が見抜けて?隠された真実に気づいた時、あなたがどんな顔をするか。ああ、楽しみだわ」
凄絶な笑みを浮かべたまま、こと切れた。
「冥府の女神の名を持つ我が弟子は、やはり」
遠見の水晶でその様子を見ていた魔術師は、呟いた。
「復活の秘法は、自らに施してはいなかったようだな」
生死の理を究めていた彼女は、その秘法での復活は真の蘇りとは言えないと理解していたからな、と続けた。
「―全ては、計画通り。順調だな」
西洋将棋のように、一手一手が自分の目論見通りに打たれている、とほくそ笑んだ。
「後少し。もう、一押しか」
そう、呟いていた。
「…」
倒れたヘカーテの前で、鎧武者はアスセーナの方に向き直った。
―本当のことを告げられなくて、済まない。
先程の言い争いを聞き、そう詫びていた。
「ううん。何か、理由があるんだよね?なら、しょうがないよ」
この前は怒って「教えてよ」と詰め寄ってしまったが、今は笑ってそう言えた。
「信じてるから。大丈夫」
優しくしてくれるから、守ってくれるから信じるのではない。声は発さなくても、その心根は伝わっているから。何を隠されていても、信じると決めた。その思いをこめて、笑いかけていた。
結局その日は谷間を抜けられず、屈曲部の手前で野営した。眠りにつく二人を、鎧武者は少し離れて見守っている。―その頭上に、夜鴉が舞い降りた。以前ブレットは翼が傷ついているのを見たのだが、癒えたようで漆黒の羽毛には一筋の乱れもなかった。
『そんなに、愛おしければ』
「…っ」
『そんなに、離れがたければ。いっそのこと全てを打ち明け、ともに堕ちたら如何です?』
凍りつく全身鎧に、囁きかけた。
『彼女も否とは言いますまい。何と言っても、貴方は』
「―っ!」
やっと呪縛が解け、鎧武者は怒り狂って大剣を振り回すが。激怒の余り剣筋にいつもの冴えがない。容易く見切って舞い上がった夜鴉は嘲笑を残し、飛び去って行った。
第二十九章 黄金の、魂
朝、ブレットが目を覚ますと。いつもは自分より早く起き出すアスセーナが、まだ寝息を立てていた。
―彼女は、もう少し寝かせておこう。昨日も大変だったからな。
代わりに鎧武者が野営地で立ち働いていた。
「うん。そのうち、自然に起きるよきっと」
まだ「眠りの茨」の影響が残っているのかもしれないが、彼女ならすぐ元通りになるだろうし。それより鎧武者が今している作業の方が子どもの興味を引いた。
―ひきわり麦で粥を作ったんだが。
シチュー用の鍋に、麦粥が煮えていた。
「へー。兄ちゃん、料理作れたんだね」
―ま、まあな。荷物を無断でかき回してしまったことは、悪いと思うが。
ひきわり麦などは、グレーテおばちゃんが持たせてくれた食糧の最後の最後である。
「いいと思うよ。姉ちゃんは、どうしても触ってほしくない物は身につけてるもん」
最小限の身だしなみの道具などは。
―あと、味見はできなかったから…味つけは頼む。
「そりゃそうだよね。ん、大丈夫。ちゃんとおいしいよ兄ちゃん」
目分量でやったにしてはと、ブレットは鎧武者に笑いかけた。
「でも面白いね。自分じゃ食べられないのに、料理はできるんだ」
―他の人に、食べさせていたからな。
彼はそう手で説明した。
―ただ、「食えれば、腹が膨れればそれでいい」と言うタイプの人だったからな。腕は上がらなかった。
「そっかあ。でも充分おいしいよ。姉ちゃんの方が、確かにおいしいけどさー」
―そうか。
「うん。いっつも工夫して、飽きないように色々味つけも変えてるしね」
移動生活ではどうしても単調になりがちな食事を、彼女は工夫して様々なバリエーションを生み出していた。薬味となる植物を探し出していたり、努力しているのを子どもは見ていた。
「ほんとにおいしいんだよ。一度食べてみれば、わかるんだけど」
「味」を口で説明するのは難しく、ブレットは首をひねった。と。
「…兄ちゃん?」
鎧武者が座りこんで、大きな身体を丸め、震えていた。
「も、もしかして泣いてるの兄ちゃん?ごめん、ごめん。悪かった」
食べるのは無理そうな彼に、つい「食べてみれば」などと言ってしまったブレットは焦るが、鎧武者は手で「君のせいじゃない」と示した。
―大丈夫だ。何でもない、君が気に病むことはないんだ。
そう伝えながら、しばらく彼は震え続けていた。
「あ、ほんとに美味しい。すごいのね、鎧武者さん」
そのうちにアスセーナも起きて来て、麦粥を素直に褒めた。何とか感情を落ち着けていた彼は、その言葉を嚙みしめているようであった(ブレットの推定)。
そんな、和やかなひと時に。
「オイ、オイ」
甲高い声で割りこんで来る者がいた。
「な、何だあんた」
小さい。今までに出会った小人族より、山妖精よりさらに小さい男性―に、見えた。火口湖でふわふわ飛んでいた妖精さんよりは大きいが、そう変わらない。
「久しぶりじゃの、俺に会うのは」
「…え?会ったこと、ない…気がします、けど」
面識があるような喋り方をされてアスセーナは戸惑った。
「待って姉ちゃん。この顔、どっかで見た気が」
ブレットは小さな男性の顔を覗きこんで首をひねった。
「でも、こんな風に見下ろしてなくて。見上げてた顔で…あーっ!」
ついに思い出し、子どもは素っ頓狂な大声を出した。
「あんた、あの筋肉ダルマじゃん!棍棒持って襲って来た!」
「え、えーっ!あの、怪力の神とか名乗ってた、あの魔術師…!?」
「思い出してくれたようじゃの」
小さな背を精一杯反らして、彼は三人を見上げた。
「で、でも、あの時はもう、すごく大きくて」
鎧武者に負けないぐらいの身長があって、しかも筋骨隆々だった記憶が。しかし今の彼は、ただ小さいだけでなく体格も貧相とされる部類だった。
「うむ。これはの、『反動』と言うものでな」
「反動?」
「そうじゃ。俺は元来腕力の強さに憧れておっての。しかしいくら鍛えてもどうにもならず、魔術で身体を強化する道を極めようと志したのじゃ。師に弟子入りし、魔術を自らにかけたり魔術薬を使ったりして―ああ、なったんじゃが」
望みであった筋骨隆々の身体を手に入れたのだが。
「お主らに負け、師に泣きついても役立たずと叩き出されてしまい。魔術薬も手に入らなくなったら、今までの無理がたたっての。身体はどんどん縮んでいった。縮んで、縮んで、元の俺の体格を越してさらに縮み…このざまじゃ。いずれ、縮みに縮んでこの身体は消えてしまうのかも知れんな」
「そんな!」
「まあ、邪法の類だったからの。『反動』が来ることは、当然の結末だ」
寂しげだが、納得したような笑みだった。
「何とか、何とかならないの?」
「それより」
あっさり同情するアスセーナに比べ、ブレットは冷静だった。現実的と言うか。
「何であんた、ここに来ておいらたちに会おうとしたのさ」
偶然出会ったとはとても思えなかった。
「うむ。…一つ、教えておいてやろうと思っての」
「へ?」
「俺が師のもとへ、今居られるカイネブルクの街に泣きつきに行った折にな。師は俺のことなど気にも留めず、儀式を行ってどこかに言葉を届けておった。この世の場所ではなさそうだったが。『お求めの『黄金の魂』をやっと見い出しましたぞ。しかも、この地にゆかりの深い王族の一員。すでに契約で縛り上げ、生け贄の目星もつけております。もうしばらくお待ちを』とな」
「は、はあ」
「その後師は俺に気づかれ、叩き出されたのだが。今のことを聞かれたくなかったらしく、聞いていなかったか何度か念を押されての。何とか誤魔化したが、それほど知られたくないことなら、お主たちに教えてみるのも面白いかの、と」
「それって、つまり」
役立たずと見捨てた彼の師、魔術師ゲンドリルへの意趣返しなのか。
「まあ、お主らは俺の命を取らなかったしの」
身体に塗った魔法薬がはがれ、力を失くした彼が情けなく悲鳴を上げるのを見ていられずつい逃がしてしまっただけなのだが。
「その礼と言っては何だが、手助けができれば。縮んで消え去る前に、ひとつ面白いことが出来るかな、と」
縮みゆく運命を背負った男性は、笑っていた。
元魔術師と別れ、野営地を片づけて歩き出すとじきに視界が大きく開けた。谷間を抜け、平地に入ったのだ。
「「わあ…っ」」
ゆるやかな起伏はあるが、おおむね平らと言える大地を縫うように今まで谷間を流れて来た川が流れ、他の川と合流してさらに水量を増して続いていた。そうした川に潤され、小さな森が点在する平地に黒土に覆われた地面が広がっていた。
「畑に大麦の種をまく支度を、してるんだ。秋に、なってるんだね」
地力が戻った休耕地を耕し、大麦畑にする準備をしているのだった。アスセーナがカイネブルクの街に着き、あの”氷”に人々が閉じこめられたのが春先だった。黒い森を踏破し、賢者の館を訪ね、ラウエンシュタイン王国経由で戻って来たが。
「『半年』の期限には、あと半月ぐらいはあるはず」
しかし、ぎりぎり間に合っているぐらいでしかなかった。
「二、三日歩けばカイネブルクの街が見えてくると思うんだけど」
間に合うはず、ではあったがぐずぐずしてはいられなかった。また、歩き出す。
「あれ、これって…教会?崩れてるけど」
谷間と広がる麦畑の間に、石造りの―教会とおぼしき建物が半ば崩れかけて残っていた。特に、屋根の一番高い場所にあるはずの聖印が無残にへしゃげているのが目についた。
「多分だけど」
ブレットが推測した。
「あの吸血鬼の奴が谷間から出て来ないように、ここに建てたんだよ。でも苛ついたあいつにぶっ壊されて、それっきりなんじゃないかな」
「そうよね。麦畑があるってことは、近くに人が住んでるってことよね」
畑を耕す人などが襲われてはたまらないから吸血鬼除けのために教会を建てたが、目覚めている時の彼を抑えるには力不足だったと。
「中の聖印は、無事なのかな?」
ちょっと気になって、アスセーナは崩れかけた教会の入口を覗いてみた。一番奥の祭壇と、その背後に掲げられた聖印は無傷のようだ。
「イライラしてとりあえず目につく屋根の聖印はぶっ壊したけど、奥のやつは見えないからいいやってほっといたのかも」
「確か、吸血鬼って神聖なものに触ると火傷するって聞くしね」
そう話しながら二人は教会に入りこんだ。
「お祈り、しとこうかな」
毎週教会に通う習慣こそなかったが(山中の小屋に住んでいては難しい)、アスセーナにも素朴な信仰心はあった。願いが叶うように、とも思って祭壇に近づいて行く、と。
「え!?」
「わあっ!」
壁に掲げられた聖印が、ぼうっと光を放った。
『『思いの結晶』を持つどなたか!もしかして、アスセーナ殿ではないか!?』
聖印が震え、声を発する。聞き覚えのある声音、喋り方だった。
「も、もしかしてグレゴリウス師…ですか?」
『おお、そうじゃ!やっと話ができる!これこそ神のおぼしめし!』
相変わらずの感謝の仕方だった。
『いや、大変じゃったよ。そなたらに伝えねばならないことがあるのだが、どこにいるかもわからず。儂としては聖都ロマヌスを飛び出してでも捜したいところではあったが、皆止めての』
「わかるよ、その気持ち」
グレゴリウス師を捜索の旅に出した日には、何もかも終わった後でもどこかで迷子になっていそうだった。
『何とかならぬかと調べたら、緊急の通信手段として教会の聖印を介して言葉を交わす奇跡があると文献にあっての。ただ枢機卿レベルの高位聖職者でないと降ろせる奇跡ではなく、何人か既に人事不省になられておる。いや、助かった』
「そこまでして下さったんですか!?」
「で、伝えたいことって何なのさ」
ブレットにはやはり遠慮の欠片もない。
『うむ、何とか聖都ロマヌスに戻りカイネブルクの状況を伝えるとの。『先見の者』が新たな予見をしたと言うのじゃ。カイネブルクにて『黄金の魂』を使った悪魔の陰謀が進行していると。止めねばカイネブルク王国だけでなく大陸諸国に危機が訪れる、とな』
「『黄金の魂』!?」
「聞いたよね、その名前!?さっき!」
『さっき!?』
仰天するグレゴリウス師に、先程の元札の弟子の彼について話した。
『王族の一員…契約で縛り上げ…生け贄じゃと!これは、予想よりはるかにまずい事態になっておるかもしれん』
「どういうこと?わかんないよじーちゃん!」
『うむ、説明せねばわからぬし、どうにもならんな』
長くなるがの、とグレゴリウス師は聖印を介して説明をはじめた。
『まず、回り道になるが”悪魔”について語らねばならん。天に神と天使がおられ、地上には人と生き物が、地獄には悪魔が巣食っておるとは聞いておるな。悪魔はピンからキリまでいるが、その多くは人間よりはるかに強大な力を持つ。…しかし、悪魔はこの地上を勝手にうろつくことはできない』
「まあ勝手にうろうろされても困るけどー」
『神さまはの、悪魔が自由に地上には出て来られぬように地上と地獄の境界を厳重に塞いだのじゃ。『悪魔は招かれないと入って来られない』と聞いたことがあるかの』
「うん。でも聞いたのは、吸血鬼とかが人の家の中に『入っていいよ』って言われないと入れない、だったかな」
『それもそうだが、本来の意味はの。悪魔はこの地上の人間が悪意を抱くか、魔術師が儀式で召喚しない限りは地上に出ては来られず、影響も及ぼせないと言うことじゃ。自分の意志ではなく、あくまで人間任せにするしかないと』
「へー。悪魔はすごいすごいとは聞くけど、人任せかあ。にしては世の中、『悪魔の所業』って言われることも多い気がするけどー」
今は収まっているとは言え戦乱も多いし、自分のように路頭に迷う子どもも多い、とブレットは考えた。
『悪意を抱く者は後を絶たない、からのう』
素直過ぎるつっこみにグレゴリウス師も回答に窮した。
『ごく普通の人でも隣人と揉めたり、羨んだりはするしの。果ては聖職者の、『自分は誰よりも神に忠実である』と言う自負の中にも慢心が生じ悪魔につけこまれると聞く。もしくは他の者の信仰が間違っている、自分の信仰が正しいと糾弾する心の中にすら』
「どうしようもないじゃんそれ。やりたい放題だよ」
自分は正しいと信じている心すらつけこまれるのでは。
『しかし悪魔としてはそれでも飽き足らず、やはり自由に地上に出て好き勝手したい、とずっと願い続けているようでな。人の魂を地獄に落とそうとするのも、神が塞いだ地上との境界を破る原動力としたいかららしい。しかし、悪意を抱きその果てに地獄落ちする魂は原動力とするには内包した力が弱すぎる。そこで悪魔が特に欲しがるのが『黄金の魂』と呼ばれる魂でな』
ついにその名称が出た。
『ごく稀に、人の中にその魂を持つ者がいる。非常に強い力を内に秘めており、もしその者が魔術を修めれば途轍もない大魔術師になれると言うのだが、魔術を志す者はそう多くないからの。普通は誰も何も気づかず、善良な一生を送って天に召されるのじゃが』
やはり「特に良い人だった」と語り継がれる人であることが多い、と続けた。
『悪魔はその『黄金の魂』を手にしたいと常に求めておる。手に出来さえすれば、厳重に塞がれた境界を破ることができるのではないかと。しかし、悪意に染めて力を弱めては何にもならん。善良なまま、絶望させねばならない』
「絶望?」
『絶望させねば、内なる力を弱めないまま悪魔が手にすることは出来ないらしくての。かつて『黄金の魂』を持つと噂されていたある国の伯爵夫人を標的に、悪魔が陰謀を巡らしたことがあったと教会には伝わっておる』
百年ほど前のことらしい。
『伯爵夫人はその美しさよりも善良さ、敬虔さ、人々への優しさで讃えられる女性であった。しかし、ある時夫である伯爵は領地を離れて出征しなければならなくなり夫人の肩に領地の運営が託されたのだが。そこに、領地に悪天候が襲い掛かりこのままでは深刻な飢餓が訪れるとわかった。救援を求めたが、物資はなかなか領地に届かず。焦る夫人の前に悪魔の意を受けた者が現れ、夫人の魂と引き換えに飢えから人々を救う、と申し出た。夫人は悩み抜いた末に、魂を代償とした契約を交わしてしまった。…しかし、そこからだ。契約が交わされた後悪魔は告げた。伯爵の出征、悪天候、物資の遅れ―全ては彼女の魂を得るための布石であったと』
「えーっ!?」
『自責の念から、絶望に追いこもうとしたのじゃな。周囲の人を自分のせいで危機に巻きこんでしまったと思わせ、自らを責めて絶望させようと』
「そんなの、その人のせいでも何でもないじゃん」
『しかし王や領主ともなると、そう言っておられんのじゃよ。上に立つ者は、きちんと責任を負わねばならん。そこで責任転嫁できるなら『黄金の魂』を持つ者ではないのだろうな』
グレゴリウス師のため息が伝わって来た。
『夫人は確かに、己を責めた。全ては自分の責任だと。もう逃れられない、契約により地獄に落ちることも決定している。もう少しで絶望に沈み、悪意に染まることなく悪魔の手に落ちるところであった。…そうなれば地獄との境界が破られる危険があるとは、知らなかったからの』
それを知らせないのが、悪魔の巧妙さだった。
『しかし、夫人は最後の最後で抗った。…必死に神に祈りを捧げ、契約を交わしてしまったことを悔い、ただ一筋にすがったのじゃ。神はその祈りを聞き届け、夫人の魂を天に召して契約を破棄し、地獄落ちからも救った―と、教会では語り伝えておる』
教会側としては「救われた」のだった。
「でもさ」
ブレットはそれを「救われた」と思わない訳で。
「『天に召される』って、要するに死んじゃうってことだよね?」
「…っ!」
これまで口が挟めなかったアスセーナが、息を吞んだ。
『そう…じゃ』
グレゴリウス師もさすがに口ごもった。
『生きて、この地上に留まることは…いずれにしても、叶わぬ』
「じゃ、じゃあ。さっき聞いた、その」
少女は唇まで青ざめて続けた。
「お、王族の方がその『黄金の魂』を持たれていて、その方は契約で縛られていて。それって」
『その方を絶望させ、悪魔の手に落とさせる陰謀が巡らされていると言うことじゃな』
「そんな!」
『文献によると、カイネブルクに使われた”氷”の術によって捕らわれた者は普通意識を失い、じわじわと『思い』を搾り取られて行くのだが』
抽出された「思い」は結晶と化し、魔術の動力源となるのだが。
『『黄金の魂』を持つ者のみは捕らわれても意識を保つと聞く。それであぶり出されたのであろう。その魔術師が悪魔の助力を得ているのなら、見返りとしてその陰謀を進めていてもおかしくはないな。向こうも、今度は神にすがらぬようさらに巧妙な罠を仕掛けているのだろう。このことをその方に伝え、絶望だけはせぬように頼めれば良いのだが』
(ああ…!)
グレゴリウス師はまだ話していたが、アスセーナの耳にはもう入っていなかった。
(もし)
想像は、どうしても最悪を思い浮かべてしまう。
(もし、その『王族の誰か』が)
そうでないこともあり得る。いくらそう考えようとしても、無駄だった。
(その方が…アレクサンデル殿下だったら!)
他の人はいいのかと言われそうだが、恋する身としてはやはりその恐怖で胸が張り裂けそうだった。
(もう、契約で縛られていて。絶望されたら悪魔の手に落ち、されなくても生きて地上には、留まれない!)
いつしか、彼女はふらふらと教会から歩み出ていた。ふと前を見て、呟く。
「鎧武者、さん?」
彼が、おぼつかない足取りで出て来たアスセーナの前に立っていた。
「今の話、聞いてた、よね?」
「…」
彼は重々しくうなずいた。
「わたし、もうどうしていいか、わからなくて」
不安と恐怖で、どうしようもなかった。
「…」
鎧武者は大きく腕を広げた。
―おいで。
さし招いた。
―私の胸で、泣いて…くれ。
「う、うわあ…っ」
少女の顔が、くしゃくしゃになった。泣きながら鎧武者の胸に飛びこみ、すがりついて泣きわめいた。
「どうしよう、どうしよう」
不安でたまらない思いを、ぶつけた。
「殿下が、アレクサンデル殿下が」
涙と泣き言が止まらない。
「その『黄金の魂』を持つ方で、絶望なんて、されたら!」
もしそうだったら。
「あの方が、手の届かない所に、行ってしまう!会いたいのに、どうしても会いたいのに!いなくなっちゃうのは、二度と会えないのは嫌なの!」
悪魔がどうこうより、それが恋する少女としては辛過ぎた。
「どうしよう、どうしよう!どうしたらいいの!?」
自分の努力ではどうにもできない、その悲しみを泣き叫んでいた。その背中を、手甲がそっと撫で続けていた。
「怖いよ!怖くて、怖くて…!」
「……っ」
泣き続けるその背に回された手甲が、髪を撫でるをの止めて―ぐっと握られた。
「…え?」
違和感を覚えたアスセーナは泣くのを止め、胸甲から顔を上げるが。何でもない、と言うようにまた頭を撫でられた。
「わあ…っ!」
慰められている、その思いやりにまた泣けてきた。
「こ、こんなこと、グレゴリウス師には言えないけど」
切ない胸の内を、優しくしてくれる鎧武者にだけ打ち明けた。
「殿下が、『天に召される』のも、やっぱり嫌なの。救われてるのかも、しれないけど!嫌なの!わがままなの、わかってるけど、でも!」
泣いて泣いて、泣き続けた。
「ブレットの前では、もう泣かないから!今だけ、ここでだけ泣かせて!」
嗚咽は、しばらく続いた。
「う、うう…うう」
しゃくり上げるのも、ようやく途切れがちになって来た。
「…も、もう、大丈夫」
やっと身を離し、少女は泣きはらした目で鎧武者を見上げた。
「ごめんね、また」
―いいんだ。君を支えるために、私はここにいるのだから。
そう手で告げて、彼はアスセーナを見つめた。
―一人で立てるね?
「うん」
―それでいいんだ。君は、君にできることをすればいい。
「そうだね。そう、なんだよね」
大好きな人を心配するのはいいが、それで何もできなくなっては仕方がない。できることをする、それしかなかった。
「きっと、うまく行くよ。がんばれば」
―そうだ。
鎧武者はうなずき、立ち去ろうとした。
「あ、あの」
その背中にアスセーナは声をかける。
「わたしたちを守って、支えるためにあなたはここにいてくれて。それって、ひいてはアレクサンデル殿下や街の人たちを助けることになるよね。それが、あなたの今したいことだろうけど。でも、その他にあなたのやりたいことがあったら、教えてね?他の人のためだけじゃなく、あなた自身のしたいことを。こんなに良くしてくれたんだもの、力を貸すから」
「…」
まだ腫れた目で微笑む彼女に、彼は振り向き。かすかにうなずいて、消えて行った。
「戻らないと」
教会に、ブレットのもとに戻ろうとしてアスセーナはふと胸元に手をやった。
「母さんの、『思いの結晶』」
(『砕いて、力を一気に使うことであんたの願いごと、一つだけ叶えられるはず』)
確か、そう言われた。
「もしかしたら、その願いで、何とか」
そう考えたが。―彼女は結局、首を振った。
「ううん。そんなあやふやなものに、頼れないよ」
「願いを叶える」などと言う、具体的でないものに頼る気にはなれなかった。
これは彼女が狩人と言う実際的な仕事をすでにしているからかもしれないが。願いを叶える力にすがるより、自分の手でできることを突き詰めたい、そう考える方がたやすかった。
第三十章 希望と、不安
結局グレゴリウス師の話が長すぎ、その晩は崩れかけた教会に泊まることになってしまった。
朝、外に出て。
―ここからは、私は姿を現さない方がいいだろうな。
いつものように近くで見守っていたらしい鎧武者が現れ、そう告げた。
「うん。耕してる人、いるものね。びっくりしちゃうかも」
人目を気にしないといけない彼の胸の内を思うと、心が痛いが。
「兄ちゃん、怖くなんてないのになー」
鎧の腕にぶら下がって文句を言うブレットを引きはがし、アスセーナは笑いかけた。
「ありがとう、気を使ってくれて。これからも、姿は見えなくても一緒だよね?」
―もちろんだ。
彼は胸甲をどんと叩いて保証した。
―何かあったらすぐ駆けつける。安心してくれ。
「うん」
うなずくと、巨大な鎧は光と化して散って行った。少女と子どもは手をつないで、耕地の中に続く道に足を踏み入れた。
(もう少し)
さすがにアスセーナは気が急くのを感じていた。
(もう少しで、カイネブルクの街に戻れる。殿下の、アレクサンデル殿下のもとに、戻れる!)
もちろん昨日聞いた「黄金の魂」についてのこととか、戻ればマナを守るために魔術師ゲンドリルとの対決は避けられないとか、不安要素はてんこ盛りだが。それでもまだ若く、身体に力が満ち、恋もしている少女は希望に溢れていた。
(がんばって、何とか。アレクサンデル殿下を、助けて)
具体的にどう、何とかすればいいのかはわからなかったが。
(一目でいい、お会いして。どう思ってくださるかはわからないけど、それはわたしにどうこうできることじゃないし)
会わないうちにあれこれ心配せず、会うために全力を尽くそうと決めていた。
(多分、それで…緑山地に、帰るんだろうな。ブレットもついて来そうだよね)
ストリートキッズに戻るとは思えないし。賢者に弟子入りする話もあったが、まだ早いだろう。二、三年は一緒にいて、父とともに家族の温かさを味合わせてあげたかった。
(鎧武者さんは、また王家に仕える仕事に戻るんだろうな。それが本来だものね。でも、たまには会いに来てほしい。友達だもの。そうして、みんなで、ずっと、幸せに)
おとぎ話の結びの言葉のように。
『そうしてみんな、いつまでも幸せに暮らしました』
そんな幸せな未来を、思い描いていた。
一方、手をつないで歩いているブレットの考えていることは、全く違っていた。
(悪魔の陰謀。『黄金の魂』を使った)
アスセーナが真っ青になって出て行った後も、ブレットはグレゴリウス師と話していたのだ。…まあ、お互い伝えたいことを全部言う前に『ああっ!猊下、お気を確かに!』と言う声とともに聖印の震えが止まったのであったが。
(『その元弟子は、カイネブルクにゆかりの深い王族と言ったのじゃな。他国から来られた王妃さまや王太子妃殿下ではなく、陛下と二人の王子さま方のどなたかが『黄金の魂』を持つのだろう』)
そう言われたのだった。
(あの怖い死霊術師のねーちゃんが見せた中じゃ、姉ちゃんの大事な『殿下って人』は目をつぶってた。『意識を保ってる』っていう話だから、違うのかな)
しかし、アスセーナと違ってブレットには向こうが見せる幻影を信用する気は欠片もなかった。
(姉ちゃんのこと、安心させてやりたいけど。ぬか喜びさせちゃ悪いし)
安易なことを言う気にはなれなかった。
(結局、わかんないことばっかりなんだよな。どう絶望させるつもりなのかもわかんないし)
(『おそらくだが』)
グレゴリウス師の話も憶測ばかりだった。
(『その方は、何らかの人質を取られているのだろう。大切な誰かのために、神さまにすがって自分の魂を救っていただくことを願えなくなっているのだろうな。私欲のために契約を交わしてしまったとは思えぬし、魂の力を弱めることになるからな。悪魔もそれは望まぬ』)
(『見捨てて、自分だけ助かるのは嫌だって思ってるんだ』)
(『もしかしたら、その人質こそが伯爵夫人の時にはいなかった『生け贄』なのかも知れない。それほど大切な存在を、最後の最後に生け贄として悪魔に捧げ絶望に沈ませる。『黄金の魂』を持つ者を縛りつけ、さらに絶望に追いこむ決定的な一打なのだろうな』)
(『ひどいなーそれ』)
まさに「悪魔の所業」であった。
(どうすりゃ、いいんだろう。姉ちゃんが泣くのはやだし、兄ちゃんも…兄ちゃん)
そっちはそっちでブレットには気になっていた。
(前は、この旅が終わったらどっかに行っちゃうつもりなのかもって思ってたけど)
今はそれどころではなく、本当にいなくなってしまうのではないかと感じていた。いなくなってしまう、消えてしまうのではないか。そう思い、子どもの心は不安でいっぱいになっていた。
(兄ちゃんやだよ、いなくなったら。姉ちゃんだって、兄ちゃんの気持ちに気づいてないだけで。気がついたらきっと、気持ちに応えてくれるよ。だから、ずーっと一緒にいてよ)
はじめて優しくしてくれる大人に出会った子どもの、切なる願いだった。
…手をつないで歩いていても、二人の思いは―これほどに、違っていた。
「…あんたら、見かけん顔だね」
黒土の畑を耕していた、見るからに農夫と言った服装の人が二人に話しかけてきた。
「あ、はい。わたしは、もっと西の緑山地の生まれで」
どう答えていいのかアスセーナにもよくわからない。余所者を嫌う人だっているのだし、カイネブルクの街がああなっていて、みんながどう思っているかも不明だった。向こうも、どう対応していいのか決めかねているようだったが。
そこに、大鷲が舞い降りてきた。
「グラツィエ?」
巨大な翼を広げて降りてきた鷲は、少女の肩に爪を立てないように気をつけながら止まった。
「こ、この大鷲は」
わらわらと集まって来た農夫の一人が声を上げた。
「王室近衛隊の隊長さんが、いつも連れてたあいつみたいだの」
「隊長…アレクサンデル殿下のこと?」
「ああ、そう言や王子さまでもあったっけあの方は。うん、同じ鷲のようだな」
羽根の色などから判断したらしかった。
「近衛のメダルも下げとるしな。前の時は下げとらんかったが」
「こちらにも、来られていたんですか」
「時々だが巡回に来られての。盗賊や無法者が村を襲わないか、気をつけておられた」
カイネブルクの街の警備が本来の仕事だが、周囲の村々も巡回していたのだと言う。
「ってことは、嬢ちゃんも王室近衛隊の関係かね」
そう解釈して、人々の表情が随分和らいだ。
「あ、その」
勧誘はされた気がするが、「そうです」と言い切っていいのだろうか。戸惑うアスセーナの袖を引いて、ブレットが「話を合わせて」と伝えてきた。
「春先から近衛隊どころか、税を取り立てる方の役人まで来なくなっての。いや税は喜んで納めたい訳ではないが、やはり不安になってカイネブルクの街を訪ねてみたら。何と街中が妙なきらきら光るものに覆われておっての」
「そうなんですか!?」
「ああ。妙な気配が漂っていて、近づくのも怖くてやめにしたんだ」
「あ、あの、わたしたち」
アスセーナはつっかえつっかえ、ブレットの助けも借りて今までのことを説明した。カイネブルクの街を、人々を助けるために今まで旅をして来たことを。
「…はー」
人々はうなずきながら聞いてくれた。
「そうかね。何の手助けもできんが、がんばってほしいのう」
「は、はい」
「儂らにしても、税を取られるのは嫌だが国が無くなるのは困るからの。いざとなったら守ってもらわんといかんし」
「俺たち農夫には戦いなど無理だからな」
この時代、戦いは騎士が主力である。
「二十年前の戦乱期は大変だったからなあ。戦がないのが何よりだ」
よほどの悪政を敷いていない限り、政府と言うものは人々にとって必要なのだった。
「この畑も、儂らの食い扶持だけならここまで耕さんでもいいんだが。また街が元に戻ったら必要になるだろうし、手間はそう変わらんからいつも通りに手入れをしておるんだよ」
だから、カイネブルクの街を助けようとしているアスセーナたちに対する人々の目は、温かかった。
「儂らには、食事とベッドぐらいしか提供できるものはないがの」
「ごはん!?ベッドー!」
アスセーナより先にブレットが食いついた。
「一晩泊めてもらおうよ姉ちゃん。ねっ、ねっ」
「う、うん」
急ぎたい気はあるが、ベッドが恋しいのはアスセーナも一緒である。まだ日は出ているが、やはり。
「では、お願いします。一晩だけ」
「もっと詳しく話を聞きたいしなあ」
頭を下げる二人を、人々は笑顔で受け入れた。
「今晩は屋根のあるところで、ベッドに寝られるねー」
心のこもった食事を頂き、寝室に通された二人は弾んだ声で話している。鎧戸を閉じる前、窓から嬉しそうな顔が覗いていた。
「…」
その光景を、暗がりの中で姿を現した鎧武者が見つめていた。
「…」
ずるずると座りこみ、地面にうずくまってしまう。
『あの中に立ち混じれないのが、寂しゅうございますかな?』
また、夜鴉がその頭上からからかうような口調で語りかけた。
『一言告げれば、済みますのに。『声』だけは、残しましたのにね?』
ガン!
振り下ろした巨大な拳が、転がっていた石を砕いた。
『まあ、どうにもなりませんがな。貴方はそもそも最初から、あの娘御の切なる願いを、踏みにじっておられた』
「―!」
『何もかも、既に決まっているのですよ?』
取って置きの嘲笑の言葉を投げつけ、夜鴉は去って行った。鎧武者は大きな身体を丸めたまま、どうしようもない思いに震える。
―そんな彼の傍らに、一人のがっちりした男性の幻影が現れた。
『俺は只の剣士だ。騎士とかじゃない』
使いこまれた長剣を腰につけた男性は、そう語った。
『剣一本でずっと切り抜けて来て、剣聖なんて二つ名を奉られているがな。要は無理をせず、逃げなきゃ生き延びられないと見極めたらさっさと逃げる、それができていたからに過ぎない。騎士道なんぞに縛られてない分逃げやすいからな』
だがな、と続けた。
『誰でも、一生に一度ぐらいは。逃げちゃいけねえ、大事な大事な命を賭けても立ち向かわなくちゃいけないって時が、あるのかもな。…俺はたった一度の、その時を逃しちまったのかもしれない。おかげで、この年になっても独身のままだ。弟子は取るがな』
あいつらと違ってな、と自嘲した。
『だから、お前には言っておく。逃げちゃいけないその時を、間違えるなよ?』
「…っ」
鎧武者は肩を震わせ、手甲をその男性に向かって伸ばした。が、幻影はそのまま消え失せる。
「―っ!」
地に伏せ、両腕で地面を叩きつけ。彼は、無言のまま嘆き続けていた。
幕間 3
「おかあさん、どうしたの?」
朝目を覚ましたが、ベッドに腰かけて立とうとしない母親に幼い娘が問いかけた。
「おなかいたいの?」
腹部に手を当てて難しい顔をしている母親は、娘に精一杯の笑顔を見せた。
「大丈夫、何でもないわ。すぐ行くから、先にお父さんのところに行ってて」
「うんっ」
まだ三つになったばかりの娘はとてててと部屋を出て行った。母親は、改めて腹部に手を当てて―ふう、と息をついた。
(奥の方に…あるのよね、何かが)
結婚する前に癒しを仕事にしていて、こうした病を何度も見てきた。
「これは、助からない、かも」
そうわかってしまう自分が嫌になるが、治せない病があるのは職業柄わかり切っていた。どうにもならない現実があることも。
「多少寿命を延ばしても、あんまり意味がないのよねえ。だとすれば」
残された時間、できることをする。その方向に考えを切り替えていた。
夜、娘が寝てしまった後に夫とゆっくり話をした。
「…そうか。君の見立てじゃ、間違いないな」
前職での業績を知っている夫は、辛そうだったがうなずいていた。
「どうがんばっても、延ばせる寿命はたかが知れてるわ。そのぐらいなら、残していくあの子のためにできることをしたいんだけど、いい?」
「まあ、一日でも長く一緒に…とは思うが、君が選んだことなら」
妻の決断を受け入れる、それが彼女が夫にした男性だった。
「駆け落ちまでしてあなたと結婚したのに、こんなに早く別れが来るなんてね。…でも、悔いはないわ」
それだけは、伝えておきたかった。
「あたしは、あたしの生き方を自分で決められたんだもの。どう生きて、誰と結ばれて、どんな幸せを追い求めるか、すべて自分で決められた」
この時代、この地域の女性には稀な生き方だった。
「だから、あの子にも。…できれば、自分の生きる道は自分で決めてほしいな。あの子が望めばだけど」
「まあな。普通だったら、女の子は持参金をつけて嫁がせるもんだが。この暮らしじゃ持参金なんて貯まりそうにないしな」
「だから、ね。幸いあの子、あなたに似て元気いっぱいだし。もう少し大きくなったらあなたの狩りや剣の技術を教えてもいいんじゃない?嫌がったら仕方ないけどさ」
「確かにそりゃ、普通の育て方じゃないなあ。だけど」
それを言うなら君の経歴も、俺の過去も普通じゃないしな、と彼は笑った。
「家の仕事だけできればいい、が常識だけど。でも、やっぱりそれだけじゃ『自分の生きる道を自分で決める』のは、難しいから。あの子が自分で道を切り開いて行ける、その選択肢だけは用意してあげたいなと。その道を選ぶかどうかは、わからないけどね」
人生を人任せにしない、その選択はできるように。それが、幼い娘を残していかなければならない母親の、願いだった。
「忘れるなよ。俺たちの仕事は命を奪うことだが、人間はそれなしでは生きていけないんだからな。獣だけでなく、草木だって生きてるんだし。霞を食って生きては行かれない」
「うんっ」
まだ六つの娘はうなずいた。
「奪うが、それは命を軽んじている訳じゃない。ただ、『生きる』とはこういうことだ。それを覚えておけ」
生きている、生かされている―それを忘れずに、自分の道を切り開いていく。それを父親は娘に教えようとしていた。
「う、うん」
完璧に理解はしていないだろうがこっくりとうなずく娘の胸元で、黄色い石のはまったペンダントが揺れていた。