「片思い」ファンタジー
第十九章 和解と、もやもや
ブレットに手を引かれて、鎧武者が座っているアスセーナたちに近づいた。
「あら、鎧武者さん」
アスセーナは普通に受け入れたが。
「むう~っ」
ルイーゼは涙目できっと鎧武者を見上げ、睨んでいる。その肩にはマナが乗ってやはり見上げていた。―いつもならここで彼はずざっと退くところだったが。
「…」
鎧武者は(彼としては)決死の覚悟で踏みとどまり、震える指をマナに向かって伸ばした。ふわもこは面白そうにくりくりした目を輝かせ、「チイ」と一声鳴いてその手に飛び乗った。
「…っ」
逃げ出したいのを必死で我慢している。固まったまま震えている全身鎧の上をマナはちょろちょろ駆け回り、肩に乗ってふわふわの毛皮を面頬に擦りつけた。
「…、…っ」
我慢。
「その調子、兄ちゃん」
ブレットに励まされ、鎧武者はマナを肩に乗せたまま腰を落としてアスセーナに寄り添うように座りこんだ。
「どうしたの?まあ、いいけど。一緒に休もう」
事情はわかっていないが、少女は笑顔で状況を受け入れた。
「…♪」
表情は変えようがないが、久しぶりに彼女に近づけて彼は幸せそうだった。もちろんブレットの推測でしかないが。
一方ルイーゼは。
「むう」
今まではマナが「こわいおっきいの」を防いでいてくれたのに、もう止めてくれない…と、もっと涙目になった。ここで「おっきいのをよそにやって」と駄々をこねても駄目だろう、と子どもながらに理解はしていたし。
「むむ~っ」
マナは楽しそうに巨大な鎧の上をちょこちょこ歩き回り、鎧武者はまだ怖いのをこらえて何とかご機嫌を取ろうとしている。ルイーゼと違い、マナは別に彼が嫌いではないので状況を楽しんでいるようだ。…ルイーゼはぶーっと膨れ、立ち上がってとことこ三人から離れて行った。
「鎧武者さん。ルイーゼちゃんに怖がられてるの、大変よね」
彼のふわもこへの恐怖心は克服できても、ルイーゼの方はどうしようもなかった。
「あなたは別にいじめたりしてないのに。守ってるのにね」
ただ外見が小さな子どもには怖すぎるだけで。
「何とかしたい、よね」
「…♫」
鎧武者はもちろんアスセーナの言葉に耳を傾けて(?)いたが、それよりも今の幸せを嚙みしめている(??)ようだった。―しかし。
「おかあさーん!」
ルイーゼの切羽詰まった悲鳴が、あたりに響き渡った。
「「!」」
二人とも弾かれたように立ち上がり、声の方向に急行した。
「お、おかあ、さん」
子どもは出会い頭に悲鳴を上げたが、後は固まって震えるだけだった。
目と鼻の先に、巨大な獣―狼が、いるのだ。
金色の右目がじっとルイーゼを見ていた。睨んでいるのではないが、子どもを凍りつかせるには充分だった。
「う、うう」
「ルイーゼちゃん!」
「―っ!」
そこに二人が駆けつけた。アスセーナはぱっとルイーゼに飛びついて抱きかかえ、鎧武者は二人と狼の間に仁王立ちになって大剣の柄に手をかけた。飛びかかってきたら斬る、そう無言で宣言している。
息詰まる数秒の後―
狼はくるっと向きを変え、風のように駆け去った。
「よ、良かった。ルイーゼちゃん、痛いとこない?」
全身調べてみるが、怪我はないようだ。
「おかあさん…こわかったよおっ」
アスセーナの胸にしがみついて女の子は震えている。遅れて駆けつけたブレットが覗きこんでもそちらを向きもしなかった。
「でも、あの、狼」
ルイーゼをなだめながらも、狩人としての思考をアスセーナは巡らせていた。
「片方しか目がなかった。しかも、右目だけ」
一瞬だが、プロの観察力でそこは見えていた。…もしかしたら、とは思ったがそこを悩んでも仕方がない。それより、今回を機にやっておきたいことがあった。
「ルイーゼちゃん。今、鎧武者さんがあなたを怖い狼から守ってくれたの、わかるよね?」
「…うん」
幼子はこっくりとうなずいた。
「おっきくて、怖く見えるのはしょうがないけど。鎧武者さんは、あなたと仲良くなりたいの。仲良く、してくれる?」
「う…うん」
「じゃ、ありがとうして」
「むー」
ルイーゼは目の前にそびえ立つ巨大な全身鎧を見上げた。彼は大剣を鞘ごと外して地面に置き、できるだけ腰を落として屈みこみ、背丈を合わせようとした。
「ありがとう、だよ」
「…うん。ありがとう、おっきいの」
「『おっきいおにいちゃん』ね。ほら、仲良くしよ?」
「うん。おっきい、おにいちゃん」
女の子の小さな手が、鎧武者の差し出した手甲の…人差し指を、きゅっと握った。
「…!」
「兄ちゃん?」
―な、何だ、ろう。
空いた左手で困惑の意を表現している。
―何か、何か、思い出したような。ずっと前に、何かこう。
「訳わかんないよー、兄ちゃん」
その一方で大分気を許したルイーゼは、いかにも子どもらしい方法で「おっきいおにいちゃん」の気持ちを試そうとしていた。
「おにいちゃん。おっきいおにいちゃん」
ちっちゃな手で鎧武者の手を掴んだまま、ルイーゼは言った。
「ルイーゼとあそんでくれる?」
―う、うん。
「じゃあ、たかいたかいして」
―うん。
巨大な両手でひょいっと差し上げると、子どもはきゃっきゃ言って喜んでいた。
「こんどはおうまさんになって」
―お馬、さん。
「おとうさんはしてくれたよ?」
―わ、わかった。
鎧武者は言われるままにルイーゼを背に乗せた。
「ルイーゼ、兄ちゃんの背中広すぎない?落ちるなよ」
ブレットが心配するが。
「だいじょうぶー」
マントをぎゅっと掴んで、ルイーゼはご機嫌だった。
「はい、どうどう」
「…」
鎧武者は、女の子を落とさないようにゆっくりその辺を動き回った。
「もっとはやくー!」
「…」
「ル、ルイーゼちゃん」
アスセーナは思わず口を挟んだが。
「おとうさんは、おしごとからかえると、いっつもおうまさんしてくれるもん♪」
…どうやらその「おとうさん」は、ルイーゼに相当甘い父親らしかった。
「もっと、もっとー!おっきいおにいちゃん、もっとー!」
「…っ」
かなり長いこと、鎧武者はお馬さんをやることになったのだった。
「何とか、仲良くはなったみたいだねえ。兄ちゃん大変そうだけど」
「…」
「姉ちゃん?」
アスセーナはその光景を見ながら、何ともすっきりしない表情を浮かべていた。
(何だろう、この感じ。もやもやする)
鎧武者の困惑とはまた違うもやもやを、感じていた。
「ひひーんしてー!」
「…」
「できないのぉ?おとうさんはひひーんするのにぃ!」
やりたい放題されている姿を見ると、また、何か。
(わたし、何で、こんな気持ちに。仲良くなって、嬉しいはず、なのに)
一方ブレットは。
「つまんないのー」
今まではルイーゼがアスセーナにべったりで、「兄ちゃん」は自分を構ってくれて(その前は二人とも自分を可愛がってくれたし)、なのに今は彼がルイーゼに行ってしまい少し退屈していた。
「ま、ルイーゼはじきに飽きると思うけどさ。なっ姉ちゃん」
「…」
「どうしたの?」
「あ、うん、何でもない」
そうは言ったが、もやもやは消えなかった。
夕暮れが迫るころまで、ルイーゼのはしゃいだ笑い声が聞こえていたが。いつしか、それも止み。
「…鎧武者さん」
少し疲れた様子(?)の鎧武者が戻って来た。
―ルイーゼが。
両手の中には、丸くなって寝息を立てている女の子の姿が。
―ずっと楽しそうにしていたと思ったら、いきなりことんと。
「あー、ちっちゃい子ってそうなんだよね」
―良かった。側で寝てしまえるほど、気を許してくれて。
「…」
そう言いたげな鎧武者を、アスセーナは見上げて。そっとルイーゼを受け取り、寝袋にくるんで草地に寝かせた。
「ブレット、マナちゃん、ちょっとこの子を見ててね」
そう言い置いて。アスセーナは、全身鎧の前に立って。
「…!?」
「姉ちゃん?」
自分から、鎧の胸甲のあたりに頭をもたせ、身を寄せていた。
「何か、今ね。こうしていたい気がして」
いつもは鎧武者の方が引き寄せてぎゅっとしているのに。今は、彼女から近づいていた。
「…♪」
彼も訳がわからない様子だが。
「…♫」
おずおずと両腕を彼女の背に回して、少女が嫌がる様子を見せないので、しばらくそうしていた。
「甘えたいって言うのじゃなくて。ただ、こうしていたくて」
何でそんな気持ちになるのか、自分でもわからなかったが。―とても安らいでいられた。
(何でこんな、あったかくて、安らいだ気持ちに、なるんだろう)
こうしているのが自然、と言うか。背伸びするのでも、身を縮めて見せるのでもなく、そのままの自分を認め、受け入れられている感じ。
(がんばらなくていいんじゃなくて、何か)
そんなことを思いつつ寄り添っていた。鎧武者が腰を落とし、腕の中に包みこんだまま座っても、自然に一緒に座って。
(でも、あの、狼)
安らぎの中でも、狩人としてアスセーナは考えを巡らせていた。
(ちょっとしかわたしは見ていなかったけど、わかった。ルイーゼを襲うつもりはなかった)
女の子がこちらに聞こえるような悲鳴を上げても、襲いかからなかったし。もしそのつもりがあるなら、声を出す間もなくルイーゼは一瞬で嚙み殺されていただろう。
(つまりあの狼は、ただルイーゼちゃんを見ていただけ)
子どもが怖がるのは当然なのだが。
(それに―片目しか、なかった)
片目の狼。思い当たることは、あった。
(まさか、黒い森で私が目を傷つけて、撃退した?)
もちろん黒い森からここは大分離れているが、自分たちも来られたのだし狼の脚力を考えれば大したことはない。
(わたしを恨んで、追って来た同じ狼なの?)
でも、だとしたら自分たちに襲いかからないのはおかしい。いかに鎧武者が「寄らば斬るぞ」と示していたとしても。
「一体、どういうこと?」
「?」
気づかわし気に顔を覗きこむ鎧武者に。
「少し、気になることがあるの。聞いてくれる?」
アスセーナは今考えていたことをざっと説明した。
―そうか、なるほど。
じっと聞いていた彼は、大きくうなずいて賛意を示した。
―確かに、奇妙だな。
「そう思うよね。わたしの考え過ぎかも、しれないけど」
―いや。
首が振られた。
―君が狩人としても、武人としても優れていることは、よくわかっている。君の感じたこと、考えたことは重要だ。心に留めておこう。
少女を指差し、次に自分の胸甲に手を当てて考えを伝えてきた。
―しばらくは、子どもたちを一人で行動させない方がいいだろうな。
「そうね、わかった。お互い気をつけていよう」
信頼され、正当に評価されているのが嬉しかった。
(『一応武人として食って行けるまでに鍛えたつもりだが』)
父、エルナンに言われたことがあった。
(『しかし、どこかで警備の仕事や、傭兵にでもなったとしても。やはり女の子だからとか、身分がないとかで端から下に見てくる奴はいっぱいいる。それは覚悟しとけよ』)
しかし、性別や身分に関係なく正当に腕前を評価できる奴もいることはいるがな、とつけ加えていた。
(『いるといいな、お前をそのまま評価し、認めてくれる誰かが。雇われた時の上司がそうだと有難いがなあ』)
笑って、そう言っていた父。
(父さん、わたし)
自分は、そうした誰かにもう、出会えたのかもしれなかった。
そうして、二人でいると。
「姉ちゃん!兄ちゃん!大変だよう!」
ブレットの大声が、その時間を断ち切った。
第二十章 人と、狼
「どうしたの!?」
「ルイーゼが…!」
駆けつけた二人に、女の子の様子を示すブレット。
「遊び疲れて寝てるだけだと思ったのに、だんだん苦しそうに息をし出してー!」
目を閉じたまま、真っ赤な顔ではあはあ息をついていた。
「大変、熱がある!」
汗ばんだおでこに手を当てたアスセーナが青ざめた。
―私が…。
「違うから。熱出しても当然なのよ。この子にとって慣れないことばかりだったろうし」
大好きな両親もいない山の中で、知らない人ばかりで。獣と鉢合わせまでして。
「でも、どうしよう。どこか屋根のあるところで、ベッドに寝かせたいけど。今動かすのも」
いろいろあり過ぎて、もうあたりは暗かった。とりあえずここで一晩野営することにする。
「確か、昼間通った道で熱冷ましに効く薬草が生えてたから、朝はまず採りに戻って。それから泊めてくれる場所を探そう」
相談しつつ、不安な一夜を過ごした。
一晩明けて。
「まだ熱は下がってない…うーん」
目は開けたが、やはり苦しそうだ。
「やっぱり、熱冷ましが必要だわ。戻ろう」
職業柄、山の中で有用なものを心に留めておく癖がついている。記憶を頼りに道を戻って、見つけた場所は。
「よりによって、あんな崖際なの!?」
ラウエンシュタイン側には崖が少ないのに、よりによって牧草地に突き出した岩が崖になっている、その際に目当ての薬草は白い花を咲かせていた。
「多分他の場所に生えていたのは、薬草採りの人や牧童が採っちゃったのよね」
採取しにくい場所だから残っているのだろう。
「でも、あの草の根っこが熱冷まし。なら、しょうがない」
抱っこしていたルイーゼをブレットに任せ、アスセーナは身軽に岩を伝ってその薬草に近づいた。足場になる場所からちょっと離れているのを手を伸ばし、力をこめて引き抜いた。
「やった!…え?」
無理な力をかけた結果、ぐらっと身体が揺れた。崖下に落ちかかる。
「姉ちゃん!」
「…ああっ!」
悲鳴を上げた途端、ぐいと薬草ごと手を掴まれた。
「鎧武者さん!」
「…っ」
岩の上に駆けつけた鎧武者が、手甲をできるだけ伸ばしてアスセーナの手をつかみ、引き上げようとしている。しかし。
「兄ちゃん!兄ちゃん!やばいって!」
「…!」
突然超重量が岩の端にかかってしまい、自然に積み重なっているだけの下の岩が軋んだ音を上げている。今にも崩れ落ちそうだ。
「兄ちゃん金属鎧で重いんだよー」
「―っ!」
この時、鎧武者は―まさに彼にしかできないだろう方法で状況を打開した。
すなわち、右腕一本でぐいっと十七歳の少女を岩の上に放り上げたのだ。
「―鎧武者さぁん!」
高々と放り上げられたアスセーナが叫ぶ中で、巨体が岩ごと転げ落ちて行く。
「だ、大丈夫なの!?」
くるっと一回転して無傷で降り立った少女はあわてて眼下を確認するが。
「無事だと思うよ」
見守っていたブレットが答えた。
「鎧の兄ちゃん、落ちてく途中で光になって消えてったから」
「良かったあ」
ほっとするアスセーナを見やって。
「兄ちゃんは元から人外だけど、姉ちゃんも充分常人離れしてるんだよなー」
お似合いかも、と思っても言わないブレットだった。
とにかく薬草は手に入った。
「ルイーゼちゃん、これ飲んだら楽になるからがんばって飲んでね」
本当はワインに漬けて一晩置いておくのが処方だが、いろんな意味で無理だった。
「…うん…」
子どもは赤い顔でうつらうつらしていたが、薄く目を開けて口を開け、根っこのしぼり汁をこくんと飲みこんだ。
「これで熱は下がると思うけど。できたら、夜露の降りない場所で寝かせたいよね」
屋根の下で、ベッドに寝かせたいのだが。
「とりあえず先に進もう。牧童が使う避難小屋とかが、どこかに」
探してそこで休ませよう、そう決めてまたルイーゼを抱っこし、歩きはじめた。
歩いて、昨晩野営した木陰を通り過ぎ、さらに先へと進んだ。
「見て、小屋みたいなのがあるよー!」
「ほんとだ」
ほっとして近づき。避難小屋などではないことに、気づいた。
「人の住んでる気配がする。こんなところに」
たまにしか人が泊まらない建物と、常時人が住んでいる家とでは荒れ具合などがどうしても違ってくるものだ。今目の前に建っているのは、大きさは小屋と言っていいが明らかに人の暮らしている雰囲気が漂う家、だった。
「冬とか、雪に埋まっちゃいそうだけど」
この気候でこの山中では、少なくとも冬の間は村などで協力し合わないと生き抜けないのである。
「こんな場所に一人で住んでるって、ぜーったい変な奴だよ姉ちゃん」
村の中でうまくやって行けない性格なのだろうとブレットは及び腰だが。
「でも、わたしと父さんだって山の中で暮らしてたし」
もっと低い山でしかも狩人なのだから当然なのだが、いい方に考えることにしてアスセーナは扉を叩いた。
「ごめんください。旅の者です」
しばらく叩き続けていると、細目に扉が開いた。
「何だ、お前ら」
「…う」
ブレットが思わず声を漏らすほど、顔を覗かせた三十がらみの男性は「荒んで」いた。
ごわごわの黒い髪、やはり濃いひげまではよくあるのだが。つながり気味の太い眉の下の双眸に浮かぶ、何とも言えない陰り―孤独な、人を寄せつけないような色がどうにも子どもには怖かった。
(鎧の兄ちゃんは、怖いのは見かけだけだけど)
この人は多分中身の方が怖い、そう感じた。
「あの、この子が熱を出してしまって。一晩泊めていただけませんか。ベッドで休ませたくて」
アスセーナもちょっとは引いていたが、心を決めて頭を下げた。
「…」
男性はじろりと抱っこされているルイーゼのまだ赤い頬を見た。
「入んな」
ぶっきらぼうに言い、扉を大きく開いた。
「ありがとうございます」
一礼して少女は入り、びくびくしながらブレットも続いた。
「俺はルーペルトだ。一晩だけなら泊める。そこの部屋使っていいぞ」
顎をしゃくって、閉まった扉を示した。
「物置じゃんかー」
扉を開けるなりブレットが大声で文句を言う。
「仕方ないよ。一人で住んでて、使ってない部屋はこうなるんだって」
そうとしか言いようがないほど、その扉の向こうには物が詰めこまれていた。ハムやベーコン、チーズなども貯蔵され、使っていない家具類も雑然と押しこまれていた。
「これ、ベッド…よね。手伝って」
二人がかりで一番下にあったベッドを引っ張り出し、藁を敷いてシーツをかけてやっとルイーゼを寝かせられた。毛布を掛けて一息ついた。
「薬草は飲んでくれたし、これでゆっくり眠れればきっと」
大分熱も下がったし、とほっとしていると。
「おい」
扉からぐいと木の椀が差し出された。
「ひきわり麦の粥だ。子どもに食べさせてやれ」
「あ、ありがとうございます!」
大喜びで受け取ろうとすると。
「食べさせたら、俺の飯につき合え」
「は、はい」
これは、断れなかった。
「ルイーゼ、麦粥よ。食べられる?」
「んー」
本当に高熱で参っていれば食欲もなくなるが、ルイーゼはそう声をかけると目を開け、匙で運ばれる粥を何口か食べた。
「良かった、回復しはじめたんだ。これで眠れば、良くなるよ」
ただ疲れと緊張の熱なら治るはず、と判断しアスセーナはブレットを促して部屋を出ようとした。と、窓の鎧戸を叩く音がした。
「グラツィエ?」
開けると大鷲が潜りこんで来た。
「ルイーゼを見ててくれるの?ありがとう」
狭い部屋にもめげずベッドの端に止まる姿に、二人は笑いかけた。マナも枕元に付き添うようにうずくまっている。ちょっとほっとして、二人はルーペルトのもとに向かった。
「お前らは、普通の飯でいいんだろ」
いかにも男の料理と言った感じで、食卓にはベーコンの塊、パン丸ごとなどがどんと置かれていた。
「ありがとうございます。何から何まで」
アスセーナは狩人で豪快な食事には慣れているし、ブレットも元ストリートキッズなので食べられれば問題ないのだが。…問題は、その後だった。ブレットを部屋に戻した後。
「つき合えよ」
どん!と少女の目の前に置かれたのは木製のジョッキだった。なみなみとエールが注がれている。
「あ、あの」
「かまわねえだろ」
そう言っている間にルーペルトは何杯もジョッキを空にし、もう目が据わっていた。
「…う」
十七で成人し、お酒を飲んでもとがめられることはないし。飲めないことはないのだが、正直抵抗があった。彼女にとって「お酒」とは、たまに父が呑みはじめると止まらなくなって、しまいに潰れて次の日二日酔い、と言う迷惑かつ嫌な記憶に直結していたからだ。
(父さんは、寂しいんだから。仕方ないけど)
早くに妻を亡くし、一人で娘を育てて来て。時々寂しさが噴き出してしまうのは当然だと思いつつも、自分がそんな風にはなりたくないと思っていた。そういう訳で、どうにも気が進まない。
「何だよ」
ためらっていると、さらに勧めてきた。
「一杯ぐらいいいじゃないか。なっ?」
普通の台詞だが、一対一でこの男性に言われると怖い。
(他意はないんだと思う。ただ、寂しいだけ)
酔わせてどうこう、と言うつもりはないと思うのだが。しかし、と困り果てているといきなり横から手が出てジョッキをひったくられた。
「え?」
そちらを向くと、何と鎧戸が少し開かれそこから鎧の腕が伸びてジョッキを掴み、さっと引っこんで外で液体をぶちまける音がしたかと思うとぱっとジョッキが戻って来た。こう書けば長いが、曲芸じみた早業である。
「ああ、いけるじゃねえか。もう一杯どうだ」
泥酔しつつあるルーペルトにはその早業が見えていなかった。またエールを注いでどんと置く。―置くが早いかまた鎧の腕が伸びてさらっていった。
「おお、大した…もんだ…っ」
しばらくそんなやり取り(?)が続いて。ついにルーペルトは卓に突っ伏したまま動かなくなった。アスセーナは痛まし気にその姿を見つめたが、さすがに介抱もできずそっとブレットたちの待つ部屋に向かった。
一晩明けて。ベッドの脇で寝袋に入っていたアスセーナは、起きて真っ先にルイーゼのおでこに手を当てた。
「熱は下がってる。良かった、ほんとに」
やはりベッドで眠れたのが功を奏したらしい。薬草で下がりはじめていた熱がすっかり引いていた。ほっとして、朝の身支度のために扉を開けると。
「よ、鎧武者さん!?」
何と、扉の横に彼が立ちつくしていた。動かないでただそうしていると、まるで豪邸の調度品になっている全身鎧のようだ(アスセーナは今のところ話に聞くだけだが)。
「一晩、ここに立っていたの?」
「…」
返事がないのはいつもだが、反応もなかった。
「よ…」
「…!」
やっと動いた。兜がうつむき、アスセーナを見下ろした。
「もしかして、寝てたの?」
―そうらしい。
立ったまま眠っていたらしかった。
―これでは、意味がなかったな。
「ううん。心配してくれたんだよね?ありがとう。眠るんだね、あなたも」
何か、新しい一面を見た気がして。嬉しかった。
「じゃ、後でね」
彼女が去って行くと、目をこすりながらブレットも顔を出した。
「もしかして兄ちゃん」
見上げて、にやっと笑って尋ねた。
「あのルーペルトっておっちゃんが、姉ちゃんに何かするんじゃないかって心配してたの?」
「!」
鎧武者はしばらく手足を振り回して動揺し、やっと我に返って木の壁に書いて見せた。
―じょ、女性の危険は、け、怪我をするだけでは、ないから。
壁に跡はつかないが、もう彼の意思表示に慣れたブレットには読み取れた。
「過保護だなあ兄ちゃん。それとも、やきもち?」
―万が一、万が一のことがあって、彼女が、打ちのめされて泣くのを、見たくないんだ。
しばらく悩んだ末、こう書いた。
―泣くのを…見たく、ないんだ。
そんなやり取りがあったとは知らず、ルイーゼを起こしてアスセーナは出発の支度を整えた。
「ルーペルトさん、本当にありがとうございます。いろいろ助かりました」
「ああ」
やはりひどい二日酔いらしく、昨日よりさらに不機嫌だった。
「朝飯はこれでいいか」
それでもパンなどを出してくれる。
「あ、あの、これ」
わずかだが宿代を出そうとしたが。
「要らねえよ」
「―はい」
宿として経営しているのならともかく、民家に泊めてもらう際は金銭のやり取りをこの辺では普通しない。お互いさまで、いつかは自分も旅をしてどこかで泊めてもらうだろうと言う暗黙の了解があった。だから断られれば引っこめるしかない。
「ありがとうございました。では、これで」
礼だけを述べて、朝飯の後去るしかなかった。
「…ああ」
口から出る言葉は、それだけだったが。
アスセーナは彼の目の中にある何とも言えない陰りと、同時にある人恋しさを気にしつつ、自分にはどうにもできないと理解してルイーゼと手をつなぎ歩き出した。
「何だよあいつー」
ブレットはどうにもルーペルトと反りが合わなかったらしい。
「何てったっけ。えーと、『無愛想』?しゃべれるのにあーんな口の利き方しかできないのかよ。鎧の兄ちゃんの方がよっぽど愛想いいじゃん」
喋らなくても、鎧武者の方が遥かに思いやりや優しさを示している、伝えていると言いたかった。
「気持ちを伝えるのに、喋れるかどうかは関係ないのかもね」
アスセーナは二人を心の中で比べて、くすっと笑った。
「それにしたって何だよあの態度。ひどいじゃん」
「寂しいんだよ」
そう、感じた。
「村の中で暮らすのも、辛いんだろうけど。一人きりで暮らすのも、寂しいんだよルーペルトさんは」
「めんどくさいなー、それって」
お喋り大好きのブレットには想像もできない。
「いるんだよ、そういう…どこにいても、うまく生きられない人って」
その人が悪いのでもないし、変えたくても変えられるものでもない。人に合わせ、普通に生きようとすると辛いだけ、と言う人は少数ながらいるのだ。
「でも、寂しくない訳じゃないのよね」
「へー。あ、兄ちゃん」
ルーペルトの小屋が視界から消えた(向こうからも見えなくなった)と思うが早いか鎧武者がふっと現れ、並んで歩いていた。
―ルイーゼ、おいで。まだ歩くのは疲れるだろう。
とことこ歩いているルイーゼをひょいと抱き上げ、肩車した。急に視界が広がった女の子は兜の前立てにつかまり、きゃいきゃい言って喜んでいた。
(単に姉ちゃんと一緒に歩きたいだけかもしれないけどー)
ルイーゼは口実かもしれないが、ブレットは彼のそういう所も好きだったりして。
「兄ちゃんはどう?人と違うけど、他の人とつき合うのって大変だと思う?」
多分今までの会話も聞いていただろうと思い、子どもは聞いてみた。
―そうだな。「普通に」人と接するのは、難しいと感じることはあるよ。
右手で(左手はルイーゼを支えている)空中に字を書いてそう示した。ゆっくり書いてくれれば充分意味は取れた。
―なかなかに難しいが、私は…一人では、いたくないからな。努力しているよ。
「そうだね。大変だよね」
一言も喋らない空っぽの鎧では、とブレットは考えた。
「でもおいら、兄ちゃんのこと大好きだよ」
―ありがとう。
感謝の意を空中に記した。
「兄ちゃんはおいらといると楽しい?」
―楽しい。
うなずいた。
―私には、弟や妹は、いないから。すごく、楽しい。
「ふーん。弟や妹はいないんだね」
「兄ちゃん」について歩く小さい全身鎧たちを思い浮かべ、大きく✕印をつけた。
―でも、私を「兄ちゃん」と呼んでくれる君は、私の大事な弟だ。小さな、親友だ。
頭をわしわし撫でてくれた。
「んー」
幸せ。
と、そのわしわし撫でている手にマナが飛びついた。ちょろちょろ腕を登って来るのを、鎧武者は一瞬びくっとしたがもう逃げ出したりしない。
「まだ、ちょっと怖いの?」
―ちょっとな。
彼は恥ずかしそうに認めた。
―でも、ちょっとだけだ。ありがとう、ブレット。
「うん、よかったね。姉ちゃんの側にも寄れるし」
―う、うん。
「こうやって、ずーっと一緒にいたいな」
ずーっと。
「…」
「兄ちゃん?」
「ずーっと一緒に」と言った時から、鎧武者の様子がおかしくなった気がしてブレットは彼を見上げた。
―いや、何でもない。何でもないんだ。
また頭を撫でてくれるが、動きがどうにもぎこちなかった。
(?)
ぎこちないのはマナが面頬にすりすりしているせいかとも思ったが、違うようだ。
(『ずーっと』は、駄目なの、兄ちゃん?)
子どもの頭に、そんな疑問が浮かんだのだった。
そんなこんなで、四人と一匹(グラツィエは遠くを飛んでいた)で進んでまた夕暮れを迎えていた。
(よかったね、兄ちゃん。一緒にいられて)
先程の様子は気になったが、ブレットは幸せだった。
「そろそろ野営の支度しないと。罠仕掛けてっと。鎧武者さん、小さいふわもこ捕まえるけど大丈夫よね」
―か、解体とかは、見ないようにするよ。
「ん。じゃあ二人を見ててね」
手分けして夕飯の支度をしていると。
「と、遠吠えが」
どこかから、長く尾を引く獣の咆哮が聞こえた。
(ルイーゼがこの間鉢合わせした、あの片目の狼なの、かも)
だとすると、などと考えると怖いが。子どもたちを怯えさせるのも良くないので平気なふりをして夕飯を仕上げ、みんなで頂いた(鎧武者は遠慮したが)。
「ブレット、どこ行くの?」
「寝る前に、おしっこー」
用足しは仕方がない。物陰に歩いて行く子どもを、鎧武者は少し離れてそれとなくガードしていた。―しかし、やはり怯えさせないようわずかだが距離は取っていた。
「わあっ!?」
闇から湧き出すように巨大な黒いものが襲いかかって来て、ブレットは悲鳴を上げた。
―しまった!
鎧武者は一瞬出遅れ、子どもに白い牙が迫った。
「やだーっ!」
頭を抱えて叫ぶと、いきなり「黒い何か」が身を翻し闇の中に消えて行った。
「ブレット!」
アスセーナが駆けつけると、鎧武者にしがみついて子どもが泣きわめいていた。
―済まない。私の不注意のせいだ。
鎧の肩(甲)ががっくりと落ちていた。
「しょうがないよ、あなたのせいじゃない。ブレット、怪我はない?」
「うん。―これに」
腕を上げて見せた。
「牙が当たった途端、あいつ飛び退いたんだよ」
「これって!?」
あの、小人のブロックに貰った腕輪だった。服の袖が破れて、金属が覗いている。
「これに触れて、逃げ出したってこと?ただの銀造りよね。『魔術はかかってない』ってブロックさんも」
今の時代の小人族には、細工物に魔力をこめることはできないと。
「えーと、確か」
ようやくブレットの頭が回り出した。
「魔法がかかってなくても、銀造りってだけで苦手だってのは。魔性の狼とか、人狼とか」
「そ、そうよね。わたしも聞いたことある」
あくまでおとぎ話や噂だが。森の王者である狼の中には魔性を帯びた者がいるとか、人と狼の両方の姿を持つ人狼と呼ばれる者がいるとか。そういう話では、彼らは教会で聖別された物品、もしくは銀造りの物が苦手だとされていた。
「特に、銀の武器とかで傷つくと傷が治らなくなるって」
「でも、銀の武器なんて普通持ってないよね。柔らかすぎるもん」
とにかく噂話の域を出ないので、かなり尾ひれがついていそうだが。
「さっきのは、その、どっちか」
魔性の狼か人狼か。どっちなのかはわからないが。
―だとすると、全員が銀の何かを持っていた方がいいのか。
鎧武者はしばらく考えて。
―銀貨を少し持っていないか?
アスセーナに問いかけた(地面に文字を書いて)。
「う、うん。この間ブロックさんに手付として一枚渡したけど、あと何枚か」
革袋を渡すと、彼は中から数枚の銀貨を摘み上げ、巨大な拳でぐいと握りしめた。
拳を開くと、ぼろぼろと落ちた「元銀貨」は。
「す、すごいねー兄ちゃん」
怪力で握りつぶされへしゃげたそれは、三辺が尖った形を呈していた。
―これを持っていて、もしもの時にはこの尖った部分で攻撃すれば、少しは。
「うん。ありがとう」
効果があるかどうかはわからなかったが、鎧武者の心遣いが嬉しかった。
「じゃあ、みんなに一つずつね」
アスセーナにくっついて来て、今もしがみついているルイーゼに一つ渡して。
「っ!」
闇の中からこちらを伺う、ぎらぎらと輝く獣の双眸に気づいて息を吞んだ。
「…」
鎧武者が三人をさっとかばい、いつでも大剣を抜き放てる構えを取る。
その闘気を感じ取ったのか、ぎらついた瞳はふっと消えた。
「「「ふう」」」
全員、思わず詰めていた息を吐き出した。
「怖かったあ。目がぎらぎら~ってしてて」
「ほんとに。ぎらぎらして…え?」
ブレットに答えて、アスセーナははっとした。
「目は…二つ、あったよね!?」
「!?」
ぎょっとして鎧武者と顔を見合わせる。わずかな間だが、二人ともはっきりと見たのだ。
(じゃあ、あの片目の狼じゃなくって。もう一頭、いるの?)
二頭の巨大な狼―しかも一頭は、魔性の。…怖すぎた。
不安な一夜だったが、それ以上は何事もなく明けた。とは言えアスセーナも鎧武者も警戒を怠ることはなかったが。二人ともこういう状況には慣れがあり、あと二、三日は耐えられるだろう。しかし、子どもたちのためには早く何とかしたかった。
本来の目的である北への旅は続けたが、昼間は獣も姿を見せず、プルートスと名乗る魔術師の襲撃もなかった。
しかしまた、夕闇が迫って来る。野営の支度をしなければと、木立ちの近くで火を焚くが。
「姉ちゃん、何か」
「わかってる。大丈夫」
何か妙な気配を、全員が感じていた。
「とにかく、一番優先して守らないといけないのはルイーゼちゃんよね」
「うん」
ブレットも自分なりに事の重大さを察していた。
「ルイーゼちゃん、その三角のをしっかり持っててね。落としちゃ駄目だよ」
「うんっ」
幼い女の子はこっくりとうなずいた。
「鎧武者さん」
振り向いて。
「ルイーゼを抱っこしていて。ブレットはわたしが」
少しでも、守り切れる可能性を上げたかった。
―わかった。
彼は左腕でルイーゼを抱き上げ、腕と胴の鎧で包みこんだ。
「これで、よほどのことがあってもルイーゼちゃんだけは」
そう呟いた時―一同の、頭上から。
「うそっ!?」
木立ちの枝から巨大な獣が、飛びかかって来た。
(狼なのに!?)
今までの襲撃も地面の上だけだったし、「上」には注意が向いていなかったと悔やむが、遅かった。
「―っ!」
せんかく少しは尖らせた「元銀貨」を使えば良かったのだろうが。
不意を衝かれ、しかも幼子を左腕に抱えこんでいる鎧武者に、その反応は不可能だった。
とっさに可能だった動きは―右手で馴染んだ武器である大剣を鞘走らせ、頭上から襲い掛かる獣を斬り上げることだけ。
「ギャン!」
いかに「魔性の生き物」であっても。
人を越えた怪力で振るわれる剛剣をその身に受けては、大きく斬り裂かれざるを得なかった。血を飛沫かせ、獣はもんどりうって地面に墜落しそのまま逃げ出した。
「鎧武者さん!大丈夫なの!?」
―平気だ。
彼はルイーゼを降ろし、刀身を確認した。
―手ごたえはあったが。
「た、確か、銀の武器でないと、すぐに傷が治っちゃうとかって」
ブレットが聞きかじった知識を披露した。
―傷が治りきらないうちに、何とか…できれば。
「わかった」
アスセーナは素早く決断した。
「鎧武者さん、二人をお願い。わたしが追跡するから」
「姉ちゃん!」
―危険だ!私が行く!
「わたしは狩人だよ?鎧武者さん足遅いし」
適任だから、と少女は笑いかけ。子どもたちが泣き叫び、全身鎧が腕を振り回して抗議するのを置いて、駆け出した。
(わたしは、これが本業だもの)
駆け出す際、とっさに火の中から抜いた薪をたいまつ代わりにして血の跡をたどり、木の根元にうずくまって呻く黒い「何か」を、アスセーナは見出した。
しかし、その「姿」は。
「こんな…ことって」
見覚えが、あった。…獣ではなく。
「ルーペルト、さん」
あの孤独な男が、うずくまっている―と、見えたのだ。しかし。
「その、傷…!」
身体に走る、ざっくりと断ち割られた刀傷。そんな傷をつけられる剣の使い手を、アスセーナは一人しか知らない。それに。
「き、傷が」
その刀傷が見る間にふさがって、新しい皮膚が再生していくのだ。さすがに、全てふさがるにはもう少しかかるだろうが。人の回復速度では、なかった。
その姿は、目の前で―人のものと獣のものとを、行き来していた。ルーペルトに見えたその次には、獣…狼の姿となって見える。
「ルーペルトさんが…人狼」
確かに、あくまで噂レベルの話だったが、あるのだ。村人の中で「様子がおかしい」と囁かれ、周囲から浮いて、さらに爪はじきにされている者がいて。出没する凶暴な狼を殺してみたら、その姿がその爪はじきにされていた者に変わった、と。
おそらく、村人の中でどうにもうまくやって行けず、一人で暮らしはじめたのも、彼が「そう」だったから。
「…ひとり、は」
そんな、人と狼の間を行き来する男が、人の声で呻いた。
「ひとりは、いやだ…ひとりは」
「ルーペルトさん…!」
人との生活に馴染めない。―でも、一人ではいたくない。
推測だが、彼の「一人でいたくない」と言う思いと狼の狩猟本能が相まって、その結果自分たちを執拗に追い、襲いかかったのだ。―自分たちの訪れで寂しさが搔き立てられ、一人でいられなくなって。おそらく昨晩の襲撃の後、朝目覚めれば自分が何をしたのか覚えてもいず。しかし夕闇が迫るとまた、衝動に駆られてしまったのだろう。
「ルーペルトさん、でも」
彼の孤独、苦しみを思うと胸が痛んだが。
でもそれは、あくまで同情であって。もし自分がずっと彼と一緒にいて、それで孤独を癒せるかと言えば「違う」と彼女は感じる。
(心は、どうしようもないもの)
アスセーナの「好き」がルーペルトに向けられることは決してなく、彼もそんな自分がついていても幸せにはなれない、そう思ってしまった。
(でも、このままだとこの人は、ずっと)
孤独に苦しみ続けるのかと思うと、居ても立ってもいられずにアスセーナは「元銀貨」の尖った先を手にしたまま立ちつくしていた。
”やめてくれ”
「え!?」
何か聞こえた、と同時にルーペルトのもとに巨大な獣が駆け寄った。
”その、銀で触れられたら、再生が止まってしまう。傷が治らず、死んでしまう。やめてくれ”
「あなたは!?」
巨大な狼―片目の。
「あなたは、わたしを恨んで、追って来たんじゃないの?」
”違う”
声ならぬ声で、返事が伝わって来た。どう考えても異常事態だが、アスセーナももう何と言うか、声でない会話にかなり慣れてしまいあまり驚く気になれなかった。普通に会話している。
”確かに、貴女には以前目を傷つけられたが。あれは狩りにおいて貴女が正当な反撃をしたに過ぎない。恨むなど狼の流儀ではない”
「そう、ですか」
”この者は”
片方しかない目で、ルーペルトを見やった。
“私の、さだめられた、伴侶だ。我ら狼の一族には、さだめられた時に伴侶の存在が示され、探し出して生涯をともにする。もし片方が死ねば、もう片方は生涯を独りで過ごす”
「でも、でも、ルーペルトさんは、人で」
”そうした者もいる。人の中で生まれても、狼の性を持つ者がな。ごく当り前のことであり、我々は特に気にはしない。時間はかかるが、いずれ自らの性を受け入れるだろう”
「そうです、か」
”だから、殺さないでくれ。この者は私のただ一人の、さだめられた伴侶だ。失いたくない”
「わかりました」
自分にはどうにもできないルーペルトの孤独を、この狼が寄り添うことで埋められるなら。そうしてほしかった。
(もちろん、人として生まれたルーペルトさんが、ずっと苦しまないでいる保証はないけど)
しかし、それでも「ひとり」ではない、なら。
”感謝する。この者には、これからよく言って聞かせる。人を狩らぬ約束はできないが、この者に貴女たちを追うことはさせない。追おうとしたら、私が止める”
「はい」
”貴女の伴侶にも、もう斬らないでくれと、言ってくれ”
「え?『伴侶』って」
アスセーナは一瞬きょとんとして。
「って、もしかして!鎧武者さんのこと!?」
今度は一瞬で真っ赤になった。
「ち、違うの!あの人は、わたしの伴侶じゃなくてー!」
”違うのか?”
狼は驚いたようだった。
”人のことは、良くわからんな”
「とにかく!鎧武者さんには、斬らないでって言っておきますから!」
まだ赤くなったままそう叫んで、くるっと後ろを向いて走り出した。
「…伴侶じゃ、ないんだから…っ」
「姉ちゃん!」
「おかあさん!」
戻って来たアスセーナに子どもたちが飛びつき、鎧武者は。
―良かった。
ただ、彼女を抱きしめた。
「うん、大丈夫。大丈夫だよ」
―あの獣は?どうした。
「そうだよ。あいつ、やっつけたの?」
「え、えーと」
どう説明していいのか。嘘をつくのは苦手だが、「生きている」なんて言ったら鎧武者は押っ取り刀で飛び出していきそうだった。「斬らないで」と言って聞き入れてくれるかどうか。
「倒した…の。もう、わたしたちを襲っては来ないよ」
結局あの狼との約束は果たせてない気がするが、彼女はそう口にしてしまった。
「むー」
その奥歯に物の挟まったような言い方に、ブレットはありありと疑問符を浮かべていたが問い質しはしなかった。
「…」
鎧武者も、疑念は捨てていなさそうだったが。
―君が、君たちが無事なら、それでいい。
彼女が言いたくないことを、無理に聞き出すつもりはなかった。
「うん」
その思いやりが嬉しくて、顔を見上げた。巨大な兜と視線が合った(?)時、アスセーナの顔が真っ赤っかになった。
(”貴女の伴侶にも、斬らないように言ってくれ”)
伴侶。
「ち、違うの!違うのー!」
「へ?」
思わず口に出してしまい、ブレットに聞き返されてあわててごまかした。
(違うの、違うんだから。『伴侶』じゃないの、この人は)
ここにいない狼になぜか弁明していた。
(わたしの、恋い慕う人は、この人じゃなくて。ずっと遠くに、いるんだから)
「伴侶」になってくれるとも思えないが、どうしようもなく恋焦がれているその人が。
(この人は、違うんだから)
「何だよ姉ちゃん。変なのー」
明らかに様子のおかしい少女にブレットはあきれたが、返事がないのに飽きてルイーゼのもとに行ってしまった。
―どうしたんだ。
ブレットに代わって、今度は鎧武者がアスセーナを気づかった。
―顔が赤い。熱でもあるのか?ルイーゼと同じに。
「違うの!そうじゃなくてー!」
顔を覗きこまれ、ますます赤くなってしまう。
(”貴女の、伴侶”)
声なき声で伝えられたその言葉が、その顔に―兜に、重なって。もう恥ずかしくて、なぜか照れてしまった。
(な、何で、何で、わたし)
こんなに、気になって…しまうのだろう。
第二十一章 信頼と、心配
朝が来た。
―本当に、心配はないようだな。
「うん。そう言ったでしょう?」
「もうあの獣は襲って来ない」とアスセーナは言ったのだが、鎧武者はやはり落ち着かない夜を過ごしたようだった。
「もう来ないよ。少なくとも、あの獣―狼は」
―うん。
「獣(狼)」があのルーペルトと同一の存在だとは思っていないのだろうが。双方がそれぞれに彼にとって嫌な相手であり過ぎ、どうにも不安が抜け切らないのだろうとアスセーナは感じた。
(意外に心配性だよね。今までにもあったけど、今回は特に)
ジョッキをひったくったり、夜通し扉の外で立ちつくしていた姿を思い出して、笑みをこぼしながら朝飯の支度をした。
「ルイーゼちゃん、もう普通のパン食べられるよね?お粥じゃなくて」
「くろいぱん、ちょっとかたいけどぉ。ルイーゼ、しろいぱんがたべたいなあ」
「ルイーゼ、ほんっとにいい家の子なんだなあ」
「ぶー。ちっちゃいおにいちゃん、いじわるだよぉ」
ブレットのいかにも呆れたと言った口調に女の子は膨れたが、渡された黒パンを素直にシチューの残りに浸してもぐもぐしていた。
「ごめんね?黒パンしかなくって」
とは言え、こんなわがままが言えるようになったのは回復したからだ。元気なルイーゼを見るのが嬉しくて、アスセーナは手を伸ばして巻き毛の頭をなでなでしていた。
「兄ちゃん、一晩中警戒しててくれたんだね。ありがと」
アスセーナがルイーゼにかかりっきりなので、ブレットは鎧武者に話しかけていた。
―一応、用心はしておかないとな。
「なんか最近、いつも一緒にいてくれて嬉しいよおいらは」
―そうか。
「前は、危なそうな時しか来なかったじゃんかー」
―そう、だな。
最近は、人目がない時には現れている気がブレットにはする。それが嬉しくて笑いかけるのだが。
「…っ」
鎧武者はどう答えていいかわからずにいるようだった。
「早く、ほんとのお母さんに会えるといいね」
一方アスセーナはルイーゼがシチューをこぼさないように面倒見ながらそう語りかけていた。いくら懐いて、自分を「おかあさん」と呼び、側に「ちっちゃいおにいちゃん」と「おっきいおにいちゃん」がついていても、やっぱり大好きな両親のもとに帰してあげたかった。
「ルイーゼちゃん、お口にパンくずついてるよ。払ってね」
「うんっ」
そんな和やかな一時は、しかし。ひたひたと近づいて来る気配に断ち切られることになった。
「ルイーゼちゃん、ご飯はあとでゆっくりね?ブレット、しっかり抱っこしてて!」
「朝っぱらから何だよもう」
ぶつぶつ言いつつブレットはまだもぐもぐしている女の子を抱っこ。アスセーナは火を消して小剣を抜いた。
―君は二人から離れるな。私が引き受ける。
鎧武者が、三人をかばうように立ちはだかった。
「やっぱりあんたかー。随分間が開いたねえ」
「こちらにも、色々と都合がありましてな」
現れたのは予想通りプルートスと名乗る魔術師、それに。
「何かチンピラ臭がぷんぷんするなあ」
ブレットには馴染みのある雰囲気をまとった、やたらと粋がっているあんちゃん達大勢だった。
「金をばらまいて集まるのは、こういった類の者ばかりでしてな。ラウエンシュタインでも」
「元手は小人族の宝じゃんかー」
「金に変わりはありませんからな。他にも方々に足止めを依頼しておりますよ」
金は力ですなあ、と笑った。
「さらに金が減りますが―やれ!」
その号令で、チンピラたちが一斉に革袋から銅貨を掴み出しこちらに放った。
「!」
鎧武者が大剣を一閃、ことごとくを打ち払った。
「やむを得ん!次!」
「「「えー」」」
チンピラたちがありありと不満の色を示した。
「勝たねば報酬も何もない!」
「わかったよー」
また別の革袋から出て来たのは。
「銀貨ぁ!?」
ブレットの素っ頓狂な声の通り、銀貨が掴み出されていた。
「私の開発した爆破魔術は、どういう訳か金銭的価値が高いほど威力が増すのですよ」
確かに、投げつけられた銀貨の起こす爆発は銅貨のそれより巻き起こす爆風は強い気がした。
―だから、効かんと!
しかし鎧武者の剣は全ての銀貨を叩き落し、その威力を増した爆風を受けても全身鎧は小揺るぎ一つしなかった。
―ええいうっとうしい!君たちはここにいてくれ、私が片づける!
一瞬振り向いたのち、大剣を振りかざし鎧武者は突撃した。
「駄目!一人で突出しちゃ!」
たった一人で突貫していく姿にアスセーナが悲鳴を上げるが、彼は止まらない。その身体から闘気が迸っていた。
「待って!」
しかし、子ども二人を抱えていては追って行けなかった。
―どけ!
「「ひいっ!」」
あまりの迫力に、チンピラたちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。一人残された魔術師に、鎧武者が迫る。
「ぎ…!」
膨れ上がる殺気に、プルートスは使えるであろう防御の障壁も忘れて情けない声を上げた。
―斬る!
と―鎧武者の頭上から、稲妻のような光が降りかかった。
「!」
大剣を振りかざしたまま。
「鎧武者さん!」
「兄ちゃん!」
彼は、まるで彫像のように固まっていた。
「…っ!…っ!」
わずかに震え、もがこうとしているが全く動けないようだ。
『『金貨の』プルートス殿、油断したようですな?』
声も降って来た。―見上げると、翼を広げた巨大な鴉が悠然と舞っていた。紅玉のように輝く双眸が、一同を見下ろしている。
『やむを得ず、師がワタクシを介して麻痺の術を行使される事態となったのですぞ。弟子として失態だと思いませぬか?』
「師、感謝いたします!申し訳ございませんでした!」
謝りつつプルートスは剣の軌道から退避した。
「あいつ、使い魔ってやつ?」
ブレットは聞いたことがあった。魔術師は何らかの動物を使い魔とし、情報を集めたり伝えたりするのに使うと。普通の動物のように見えるが、人語を喋ったりと並みの動物にはできないことをすると言う。
「本人から離れたところに、その使い魔を介して魔法を届かせたりもできるって」
だから、この大きな鴉もそう言うのなんだろうと考えた。そんなブレットの頭の上で、マナが頭上を見上げ全身の毛を逆立てて敵意を示している。
「鎧武者さん!」
アスセーナは何もできずにいた。ただ、叫ぶだけ。
『やれやれ』
鴉はその姿を見下ろし、いかにも同情したと言った口調で語りかけた。
『こんな大変な思いをして、ここまで旅されて。お辛いでしょうなあ。戻っても貴女は、何も得られませんのに。慙愧に堪えません』
「な、何を、言ってるの」
『カイネブルクに戻られても、アレクサンデル殿下が貴女の思いに応えることはない、そう申し上げているのですよ』
「え…?」
『あの方は』
もったいぶって言った。
『ご自分の美しさにしか、興味がないのですよ』
「そ、そんな、こと」
『他の者に興味を持たない方なのですよ。女性であれ何であれ』
「でも、わたしに笑いかけて、くれたし」
『そのぐらいは出来ますよ。興味がなくてもね』
鴉の吐く毒は止まらない。
『考えても御覧なさい。あれ程の美貌で、しかも王子。周囲には恋い慕っている女性が山のようにいる。そんな方に浮いた噂の一つもない、それが他者に関心がない何よりの証拠だと、思いませんか?』
「…く…」
反論できない。
(『そんな方じゃない』と言えるほど、わたしは殿下のことを、知らない!)
ただ一度会っただけなのだから。心の裡を知っているとは、とても言えなかった。だから鴉が吐き散らす毒舌を締め出せず、心をじわじわと浸食されてしまう。
「やめて!やめて!殿下のことを、そんな風に言わないで!」
心に猛毒を注ぎこまれているようで、あまりにも辛かった。
「もう、やめてよう!」
耐えられずに、耳をふさいで座りこんでしまった。
「くっそー!あのバカガラス!」
代わりにブレットが怒ったが、こっちもどうしようもなかった。
「おいらのパチンコじゃ届かないしー!」
弓なら届くだろうがアスセーナの弓は実家に置いてあるし、そもそも本人が泣いていては。
「くそ、降りてこいバカガラス!」
―その時、怒りの叫びとともに何者かが飛来して巨大な鴉に飛びかかった。
「グラツィエ!?」
今まで姿を見せていなかった大鷲が、怒り狂って鴉に襲いかかったのだ。双方羽毛を散らしながら、上になり下になりで凄まじい空中戦を繰り広げる。もちろん世の常の鴉なら大鷲と対等に戦えるはずもないのだが、そこはやはり常識外の存在だった。
「グラツィエ…殿下のことを悪く言われて、怒って」
怒りの叫びが届いて、アスセーナはやっと立ち上がった。
「殿下のことが、大好き、だから」
嬉しそうに身体を擦りつけていた姿を思い出す。よほど愛情こめて世話されなかったら、あんなに懐かないだろう。
(殿下がグラツィエを可愛がって、愛情を注いで。つまり)
「そうよ!あの方が、自分以外に興味がないなんてこと、ない!」
それにカレルも、師匠であるギュンターも、老賢者もそれぞれにアレクサンデルのことを大事に思っていた。ただ、女性に関しては奥手で不器用なだけだと。
「鴉の言うことより、カレルさんたちの言葉を信じるよ、わたしは!」
そう叫んだ時、ついに勝負がついたらしく巨大な鴉がまっしぐらに逃げ出していた。グラツィエは勝ち誇ったように一声鳴き、追跡にかかる。
「あれ?」
勝ち誇ってホバリングしていた姿を見て、ブレットは首を傾げた。
「何かグラツィエ、いつもと違うような」
いや、そう感じた時には大鷲は追跡に入っていて確かめようがなかったのだが、何かが違っていたような。と、子どもは感じたのだった。
鴉が逃げ出すのと時を同じくして、鎧武者の麻痺も解けていた。
大剣がその手から落ちて、地面に突き刺さる。が、さっきまでその地点で腰を抜かしていたプルートスはとっくに逃げ出していたし、チンピラたちも影も形もなかった。
「…」
剣を取り落としたまま、鎧武者は真っ先にアスセーナのもとに駆けつけた。目の前で、崩れ落ちるように膝をついた。
―違う。
何度も、何度も巨大な兜を横に振った。
―違う。違うんだ。信じてくれ。
「え?もしかして」
アスセーナは何が「違う」のか少し考え、思いついたことを言ってみた。
「アレクサンデル殿下のこと?あの鴉が言ったことが『違う』ってこと?」
うんうん。
彼は、うなずき、また否定の身振りをした。
―違う。わかってくれ、違うんだ。
「大丈夫。信じるよ、あなたのことを」
「…っ」
「グラツィエも、カレルさんたちも。あなたも、みんな殿下のことが大好きで、いい人だって言ってたもの。鴉の言うことより、みんなを信じるよ、わたしは」
笑いかける少女を。
「ひゃっ!?」
鎧武者は、抱きしめていた。
―ありがとう。
震える鎧から、そんな思いが伝わって来た。
―信じてくれて、ありがとう。
「―兄ちゃん」
その姿を見て、今度はブレットの胸がぎゅっとしていた。
(何でだよ、兄ちゃん。姉ちゃんのこと、好きなのに)
最初は上司であるアレクサンデル殿下を助け出すために旅に同行したのだろうが。
(でも、それに関係なく兄ちゃんは、姉ちゃんが好きになって)
子供の目から見てもわかる。あの巨大な全身鎧の中で、好きな気持ちがどんどん膨れ上がって溢れそうになっているのが。
(なのに今、『違う、違う』って)
必死にかばったのは、アレクサンデルのこと。
(もう、兄ちゃんの方がちゃんと、好きなのに!)
上司ではあっても、言ってみれば恋敵になると思うのに。と、ブレットは彼の気持ちがわからなくなっていた。
(それに、最近の兄ちゃん、少し変わったし)
人目のないところなら戦いのない時にも出てくるようになったし、と考えた。
(さっき姉ちゃんが『待って』って叫んでるのに一人で斬りこもうとして)
今まではあそこまでしなかったような気がする。何か、焦っているような。
(ラウエンシュタイン側に入って―戻りはじめてから、だよね)
そう気づき、ブレットはどきっとした。
(『ずーっと一緒』は駄目みたいな感じだったし。ずっとじゃないの?この旅が終わるまで、とか…あっ!)
これからは、戻っていくだけ。旅の時間は、どんどん削られていくのだ。
(『一緒にいたい。一分でも、一秒でも長く』)
だから、よく出てくるようになったし、一緒にいたのに邪魔して来たプルートスに怒りを爆発させた。
「もしかして」
いろいろ考え併せて、達した結論を声に出してしまう。
「兄ちゃんは、戻ったら。カイネブルクに戻ったら、どっかに行っちゃうつもりなの?」
上司であるアレクサンデルに、アスセーナを引き合わせて。そう思い当たって、子どもは真っ青になった。頭の中では、アスセーナとその「殿下(ブレットの中では顔だけで具体的なイメージがまるでない)」とが見つめ合って「あなたが好きです」「うん、ありがとう」とかやっていて、それを置いて肩を落としてとぼとぼと去って行く鎧の兄ちゃん、と言う映像が浮かんでいた。
で、その映像の中で自分は、間に立って叫んでいる。
(『兄ちゃん!やだよ、一人でどっか行かないでよ!そんなの、兄ちゃんがあんまりつらいじゃないかあ!』)
そんな光景を想像して、ブレットはそれだけで泣きそうになった。
「おいらだけだったら、いっくらでもついててやれるけど。ううん、駄目だよ」
鎧武者がどんなに「ブレット、君のことも大好きだよ」と伝えてくれても、自分への好きな気持ちとアスセーナへの好きな気持ちが違うのはわかる。代わりにはなれなかった。
(姉ちゃんに気持ちを伝えないのも、辛くさせないため?)
「本当は君のことが好きだけど、身を引くよ」なんて言ったらさすがに心を痛めるだろうと、自分の気持ちは隠して。
(全部あのでっかい鎧の中に抱えこんで、閉じこめて。何も伝えずにいなくなるのが、兄ちゃんの優しさなの?)
「ちっちゃいおにいちゃん、どうしたの?」
ルイーゼが袖を引いて、そう聞いているのにも気づかずにブレットはずっと考えこんでいた。
また、夜が来る。
ルイーゼを抱っこしたアスセーナも、考えこみ過ぎてなかなか寝つけなかったブレットもようやく眠った頃。一人立ちつくす鎧武者のもとに紅玉のように輝く目をした鴉―夜鴉が舞い降りた。
『お怒りのようで』
見るなり抜刀しそうになった彼をからかうように、語りかけた。
『麻痺の術をかけたことが、ご不満ですかな?』
わざとらしく頭を下げた。
『申し訳ありませんなあ。しかし元々の条項に、その身体を操るとは入れないお約束はしましたが、それに関係なく新たに術をかけない約束は、しておりませんので。ご了承を』
「…っ」
そういうことです、と嘲弄の言葉を残して飛び去って行った。
同じ頃。
「まだ見つからないのか?さらわせたんだろうが!」
『はあ、確かにご要望の子どもをさらわせましたが。しかし報酬が良すぎて、確保した奴が欲をかきまして。しばらく隠して額を吊り上げようとしたら、いなくなったと』
「早く探し出せ!さもないと報酬どころか二度と表に出られないと思え!」
遠見の水晶を介して、そんなやり取りが行われていた。
第二十二章 悲痛な、声
「見つけたぞ!子連れの、黄色い髪の娘っ子!」
「気をつけろ、あの娘っ子も剣使うし、どっかからでっかい鎧男が邪魔してくるって」
一行は北への旅を続けていたのだが。
「あの娘っ子を殺すか捕まえて連れてけば、魔術師のおっさんがどっさり報酬くれるってよ」
「金貨や宝石の袋をいくつも見せたって話だぜ」
どうやらラウエンシュタイン中のチンピラたちに噂が広がったらしく、ここ数日で何度も襲撃があった。
「あの貧相なおっさん、自分じゃ出て来ないでー!しかもその金貨の袋っての、もとは小人のおっちゃんたちの宝物じゃん!」
文句を言いつつ、今回も無法者の一団を退けてほっとしていた所だった。
「大変よねほんとに。来てくれてありがとう、鎧武者さん」
―いや、そのために私はいるのだから。
さすがにほっとして、気が抜けて。―緊張の糸が緩んでいたかもしれない。
…気づいた時には、かなりの至近距離から何か光るものが飛んできていた。
「!」
とっさにアスセーナは子ども二人に覆いかぶさってかばい、鎧武者はさらに立ちはだかってマントを広げた。飛来した光るものはほとんどがマントに突き刺さり、何本かは分厚い金属鎧に阻まれて地面に落ちた。
「『吹き針』っての、かな」
異邦から伝わった暗殺用の武器だと聞く。口にくわえて何十本も一度に発射できる器具があるとか。お話では使われるが、射程が短すぎてあまり実用的ではない。緊張の糸が切れかかっていなければ、届く距離まで接近されることはなかっただろう。
「あのおっちゃんが吹いたのかー!」
藪の陰にいたらしい小柄な男が、転がるように逃げ出していた。
「次から次へと…あっ!」
アスセーナが声を上げた。手に、マントを逸れた針の一本が刺さっていたのだ。抜こうとした身体が、ぐらっと揺れた。
「―っ!」
間一髪鎧武者が手を伸ばし、地面に倒れこむ前に抱き留めたが。少女はすでに目を閉じ、ぐったりとしていた。
「ね、姉ちゃん!姉ちゃんっ!」
「おかあさん!」
子ども二人が悲鳴を上げるが、反応しない。意識がないようだった。
鎧武者の腕の中で、その顔がどんどん青ざめていく。
「毒!?毒針だったの?」
そう、吹き針は射程も短いしせいぜい目潰しぐらいにしか使えない。―それこそ毒でも塗っていないと役に立たないのだ。口に含んで使うなら無理だが、器具を使うなら。
「姉ちゃん…!」
「うわーん!」
大泣きのルイーゼ、マナも混乱してあちこち駆け回りブレットもパニックを起こす寸前だったが。
「…う、うう、うう」
その呻き声が、どこから聞こえてくるのか最初、ブレットにはわからなかった。
「に、兄、ちゃん?」
「うう、ううう」
信じられなかったが。―その悲痛な呻きは、今まで一切「声」を発したことのなかった鎧武者の身体、面頬の奥から発せられていた。ぐったりした少女の身体を抱え、青ざめた頬に自らの面頬を寄せて、身も世もない悲痛な呻き声を上げて身をよじっている。
「兄ちゃん、本当は、声が」
「…うううう…」
ブレットの呟きには答えず、ただ耐え難い悲しみに震えていた。
「だ、駄目だ。泣いてても駄目だよ兄ちゃん」
いやブレットだって泣きわめいていたかった。―しかし得てしてこういう場合、他の人が先にパニックを起こしてしまうと出遅れた方は落ち着く、と言うか落ち着かざるを得なくなるもので、まことに不本意だがここは九歳の子どもが落ち着きを取り戻して頭を働かせるしかなかった。
「何とか!何とかして姉ちゃんを助けないと。さ、さっき吹き針吹いてた奴」
必死で、聞きかじった知識を総動員して考えをまとめた。
「ああいう毒使う奴って、自分にぷすってやっちゃったら大変だ~って、えっと、『解毒』できる薬を持ち歩いてるんだって聞いたよ。あいつ捜し出して、薬を出させたら、きっと」
「!」
ブレットだって確証があって言っている訳ではないが。でも、少しでも可能性があるなら彼女を助けたかった。で、それができるのは自分ではなく。
「兄ちゃん…っ」
―わかった。
鎧武者はうなずき、抱きしめていた少女の身体をそっと、壊れものでも扱うかのように優しく草地に横たえた。
―二人を頼む。
アスセーナと、ルイーゼを。
「うん。がんばって兄ちゃん」
―わかっている。
再びうなずき、彼は右手を上げた。どこからともなく鎧馬が現れて駆け寄り、鎧武者はひらりと騎乗し先程男が逃げて行った方向に駆けて行く。山地で、馬を操るのは大変そうだが問題ないようだ。
「姉ちゃん!」
「おかあさーん!」
鎧武者がそっと横たえた身体に、二人は飛びつくが。
「!ぬくみが、どんどん…!」
体温が下がっていくのがわかった。脈も途切れ途切れで、呼吸もおかしい。
「兄ちゃんは、これを、感じて」
抱きしめていた身体が、どんどん冷えて行くのを感じ取って、耐え切れずに悲痛な呻き声を上げてしまったのだ。
「ルイーゼ、マナ、姉ちゃんにくっついてて。おいらは火を焚くから」
幼児と小動物の高い体温、それに火で少しでも温めたかった。
「兄ちゃん頼む、早く!早く帰って来て!」
いや、本当に。ものの十五分ほどで、鎧武者は戻って来た。
「兄ちゃん!」
しかも、左の籠手には怯え切った男を手荷物のようにぷらんとぶら下げて。
「…っ!」
鎧馬が止まり、ぽいっと放り出されると地面に落ちた男は這いずるようにブレットに近づき、すがりついた。
「た、助けて下せえ!あ、あの旦那、ものも言わずに追って来て!急いで岩陰に隠れてやり過ごそうと思ったら、あのでかい拳でどかん!とそこいらの大岩を軒並みぶっ壊しにかかって!あっしの隠れてた岩も一発で粉々に!で、あっしの首根っこ掴んでまっしぐらにここに!一言も喋らんで、そりゃもうお怒りのご様子で!」
怒りのあまり口を利かないんだと解釈していた。
「あー、見たんだ兄ちゃんの鉄拳。怖いよね」
「剣を抜かなかったのは、怒りに任せて真っ二つにしそうな自分を抑えるためだったのだろうが。代わりに拳を振るわれるとかえって野蛮人みたいで怖いのだった。
「だ、旦那に坊っちゃんから言って下せえ。あっしの話じゃ聞いてくれそうにないんで」
「おっちゃんがえっと、『解毒薬』?姉ちゃんを治せる薬を出せばいーんだよ!出してよ!出さないともう兄ちゃん、止めらんないよ」
半泣きの男に、ブレットは脅しでも何でもないありのままの事実を告げた。
「出します!出しますって!ひいっ!」
下馬し、熊のようにうろうろ歩き回って時々こっちを見る鎧武者のあまりの迫力に、男はすくみ上った。震える手で懐を探り、「これと、これでさあ」と二つの小瓶を取り出す。
「こっちを傷口に塗って、こっちの薬は飲ませて下せえ。そうすりゃじきに目を覚ましますって、本当でさあ。だからもう、逃がして下せえ!」
「ほんとだよね?何か隠してない?」
「本当ですって!」
「…」
鎧武者は背に手をやり、大剣を抜き放った。確かな決意と怒りをこめて、長大な刀身を男の上にかざし、陽の光を受けてぎらりと輝くのを見せつけた。
「もし姉ちゃんが治って良くならなかったら、どこまでもおっちゃんを追っかけてって真っ二つ…ううん、細切れ肉だってさ」
最後はブレットの想像による翻訳だが、そう外れてはいないだろうと思った。
「大丈夫ですって!戻りますって!だから!」
「わかった、わかった。もうどっか行っちゃって」
「ぎゃあああ!もう嫌だ、いくら金積まれても二度と御免だあ!」
恐怖の叫びを上げつつ、男は這いずるように逃げて行った。
「あんなのほっといて、とにかく姉ちゃんを」
手の小さな刺し傷に薬を塗って。
「えーっと、気絶してる人に飲ませるには、たしか」
悪いと思うが鼻をつまむと口が開いて、水薬を垂らすとこくん、と飲みこんでくれた。
「これで、きっと」
ブレットもルイーゼも息を詰めて見守っていると、真っ青だった頬に少しずつ、少しずつ赤みが差してきた。
「手も、だんだんあったかくなって来てるよ」
体温が戻りつつあった。解毒さえできれば、元々健康で鍛え抜かれた身体は回復が早いのだ。
「……っ」
鎧武者はアスセーナの頬に確認するようにそっと触れ、身体を抱き起した。感極まったと言うような仕草で抱きしめる。
「…」
そうして、伝わってくるぬくもりと、響く鼓動を確かめているようだった。
(兄ちゃんには、抱っこすることしか、できないから。ううん、『それしかしない』って決めてるんだ、多分)
ずっと声を発さず、出せない振りをしていたのもおそらく「好きだ」とうっかり伝えないようにするため。自分の気持ちを伝えないために、必死で己を律していたが、溢れる「好き」はどうしようもなくて。ぎゅっとするのだけは自分に許していた。
(姉ちゃんはただの抱っこだと思ってるしー)
挨拶としての抱擁はこのあたりでは当然なので、彼がそこまで思っているとは気づかれにくかった。
(兄ちゃんの、空っぽの鎧の中には)
かつてアスセーナが「優しさが詰まっている」と笑いかけた全身鎧の中には。
(今は、たくさんの『好き』が、詰まってるんだよ。どんどん湧き出して、いっぱいになって、溢れてるんだよ、姉ちゃん)
ブレットはそう考えながら、ルイーゼを側に置いて二人を見守っていた。
と。鎧武者の腕の中で、アスセーナがわずかに身じろぎした。
「…でんか…」
かすかに呟く。夢を見ているらしかった。幸せな、夢を。
「ずっと、こうしていて…」
ほんとに幸せらしく、にへら、という感じで笑みを浮かべていた。
「離さないで…どこにも、行かないで…って!」
いきなり鳶色の目がぱちっと開いた。ぱちっと開いて、思いっきり、どん!と―鎧武者を、突き飛ばした。
「殿下に!アレクサンデル殿下に抱きしめられる夢を見てたのに!何で、何であなたなのよーっ!」
「…姉ちゃんひどい」
ブレットが思わずつっこんだ。
「……」
鎧武者はうずくまって、しばらく動かずに震えていた。肩甲が、見るからにがっくりと落ちている。
「…」
そのまま、光の粒子と化して消えて行った。
「姉ちゃん。寝起きだったにしても、あれはさすがにひどい」
「う、うう」
ブレットの、さすがに少し怒りながらの説明を聞いて、アスセーナは反省した。
「もう、必死で。すごーくがんばってくれたんだよ、兄ちゃんは」
もう必死で解毒し、感極まって抱きしめていたら―どん、と突き飛ばされたのだった。
「うう。ごめん、つい」
彼女にしてみれば、手に刺さった針を抜こうとしたあたりから記憶が途切れていて。あこがれの人に抱きしめられる幸せな夢を見て、ふっと目を覚ましたら自分を抱っこしていたのはその、あこがれの人ではなく。…つい、「何で違うの」と反応してしまったのであった。
「『ごめん』は兄ちゃんに言ってよ」
「うん。次に会えたら、ちゃんと言うから」
しゅんとしながら「でも、すぐに出て来られたら恥ずかしいかな」とか言っている少女の姿を見ながら、ブレットは思った。
(姉ちゃんに、兄ちゃんは本当は声が出せることは、言わないでおこうっと)
アスセーナのことだから、そう知ったら考えることなしに「喋って」とか言いそうだった。
(でもそれって鎧の兄ちゃんには、すごく辛いことみたいだし)
ともに旅をしている二人の性格は、把握しているつもりだった。ブレットは子どもながらに考えを巡らせ、言わないでおこうと決意した。
(好きになるって、大変だなあ)
「姉ちゃん」の片思い、彼女に恋する「兄ちゃん」の片思い。
(大変なんだね、ほんとに)
結局その日は大事を取ってそのまま動かずにいたのだが、夕暮れ頃。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、ちょっとね」
一時は生命の危機にあったのである。意識がすぐに戻っただけでも大したことだった。数時間経ったが、まだアスセーナはふらふらしていた。
「火のこととかはやっとくから、休んでて」
「うん、そうさせてもらうわ」
パンをかじるだけ、という夕飯になってしまったが。ルイーゼも駄々をこねたりせずにもぐもぐしていた。
「多分、一晩眠れば力が戻ると思うんだけど。でも今晩は、いつもみたいに警戒していられそうにないわ」
本業は狩人なので、熟睡していても危険を察知できる自信があるのだが。今晩ばかりは跳び起きる自信がなかった。
「じゃあおいらが。って、言い切れないなあ」
そこは子ども、我慢して起きていられるとは思えなかった。
「ここは兄ちゃんに頼もうよ」
「で、でも」
さっき思いっ切り突き飛ばしてしまったことを思い出し、アスセーナはさすがにためらった。
「ごめんなさいするいいチャンスじゃん。―兄ちゃん!」
一方ブレットはこの際仲直りしてもらおうと、陽が落ちて月の光が照らす中大声で呼びかけていた。
―や、やあ。
しばらく呼んでいると、巨体が現れやや恥ずかしそうに片手を挙げた。
「姉ちゃんが、今晩だけはあたりを見張ってほしいって」
どんどん話を進めるブレット。
―わかった。任せておけ、ちゃんと見張る。
胸甲をどんと叩いて見せた。
「ごめんね、あなただって眠るのに」
―一晩ぐらいどうと言うことはない。安心して眠ってくれ。
「ありがとう。…あと、さっきは本当にごめんなさい。いきなりで、つい」
突き飛ばしてしまったことを、謝った。
―いいんだ。
彼は手甲を伸ばし、金髪をそっと撫でた。
―いいんだよ。
「ありがとう…あれ、ほっとしたら、眠く…」
ちゃんと謝れて気が抜けたのか、アスセーナは目を閉じてしまった。
「…っ」
倒れかかる身体を受け止めて、鎧武者はブレットを見やった。
―寝袋に入れてやってくれないか。
「うん」
もうこっくりしているルイーゼと一緒に寝かせた。
「じゃ、おいらも寝るね兄ちゃん」
―おやすみブレット。心配しなくていいから。
子どもも丸くなって寝てしまい、鎧武者は一人月光の中で立ちつくしていた。
朝が来る。
目を覚ましたアスセーナは、身体に力が戻ったのを感じていた。
「しっかり眠れたのが良かったんだ。…あ」
枕元に置かれたものに、気づいた。
「おはよー姉ちゃん。あれ、それは?」
「薬草よ。薬草の束」
手に取って、少女は微笑んだ。
「聖ヨハネの草に、ノコギリソウ、カキドオシ。みんな傷を治したり、滋養をつけたりする効果のある薬草ばかり。『元気になってくれ』って、ことなんだね」
「ふーん」
そんな、どこか幸せそうなアスセーナを見て。
「じゃ、煎じるか何かして飲んで、早く良くなってね」
ブレットはそう言い置いて「兄ちゃん捜してくるね」と、立ち上がった。
「兄ちゃん」
朝日に照らされた、真紅のマントをなびかせる後ろ姿に子どもは声をかけた。
―あれは、薬草だ。
まだ何も言っていないのに、びくっとして振り向いた鎧武者はそう書いて示してきた。
―か、彼女の傷を早く治して、元気をつけてもらいたかったんだ。
それだけだ、と主張するのだが。
「だったらさー兄ちゃん」
ブレットはにやっと笑って言った。
「何で、わざわざ花のついてる茎ばっかり集めて束にしたのさ」
「!!」
「姉ちゃん、感心してたよ。『聖ヨハネの草の、花のついた株なんてよく見つけたね。初夏に咲く花だから、もうほとんど散っているはずなのに』って」
「…っ」
鎧武者は手を振り回し、どうしていいのかわからないでいるようだった。
「花束、贈れたんだね。ほんとの気持ち、隠してがんばったんだろうけど」
ブレットのにやにやは止まらない。
「でも、兄ちゃんの気持ちは、伝わるんだよ。おいらにわかったように」
多分、きっと。
「姉ちゃんにも、きっと、伝わってるよ」
微笑んでいた姿を、思い出して言った。
「それでいいんだよ。『好きだ』って、ちょっとだけでも伝えたって。ぎゅっとしたりしてさ。あんまり我慢してると、兄ちゃんの鎧の中に好きな気持ちがいっぱい溜まって、爆発しちゃうよ?」
巨大な全身鎧が、プルートスの魔術みたく「どっかああーん」とはじけ飛ぶ光景を想像してしまう子どもだった。
「ちょっとでも、出して行こうよ気持ちを。抱っこぐらいなら、許してやるからさー」
「好き」という気持ちを、と笑いかけた。
第二十三章 親と、子
「姉ちゃん、もうすぐねえ」
ブレットが賢者レオナルドゥスに貰った地図を広げ、「ここが今いる所だけど」と示した。
「教わった、カイネブルクに戻る道だよ。『知っていなければ見つけ出せないだろう』って言ってた。できればラウエンシュタインの人には知られたくないんだってさー」
秘密の抜け道らしい。賢者もその存在は知っているが、公表すると色々面倒、と言うのが本音らしかった。
―戻る、道か。
何だかんだで一緒に歩いている鎧武者も手でそう示した。
「そうよね、戻らないと」
カイネブルクに戻らなければ、街の人々もアレクサンデル殿下も助けることなどできない。早く戻りたいとアスセーナは気が急くが。
「でもその前に、ルイーゼちゃんを誰かに預かってもらわないとね」
自分に懐いてしまい、つい連れ歩いてしまったがこのままでは両親のもとに帰せない。どう考えても親はラウエンシュタインの住民だろうし。こちらの事情で麓に降りることは避けてきたが(ルーペルトの家に泊めてもらったのは、ルイーゼの発熱で仕方なくだった)、いよいよどこかの村に行って女の子を託さないと抜け道に入れなかった。
「おかあさん…っ」
名を呼ばれて、ルイーゼが少女の服の裾をきゅっと掴んで見上げるが。
「大丈夫。ちゃんと、本当のお母さんの所に、帰してあげるからね」
もう女の子の言う「おかあさん」がどっちのことなのかよくわからないが、アスセーナは栗色の巻き毛を撫でながらそう語りかけ、また歩き出した。
牧草地の藪を回りこむと。
「わあっ!?」
やや高い声が上がった。
「あ、あんたたち!」
立ちすくんでいたのは、杖を手にした牧童だった。
「ご、ごめんね驚かせちゃって」
―正直ラウエンシュタイン側の牧草地に出た当初、アスセーナとしては山羊などを追う牧童をなるべく避けようと考えていた。どこから来たのか詮索されると困ると思ったからだ。しかしプルートスが金で国中のチンピラたちを呼び集めてからというもの、牧童そのものが山地に登って来なくなった。金に目のくらんだ野郎どもがうろうろしていては、放牧したくてもできない。
「あ、え、その」
おどおどする十二、三の子どもの後ろには、やはりびくびくした様子の一群れの山羊が固まっていた。
「お、俺はただ、こいつらが草食いたくて鳴くから」
牧草地に行けず飢えた山羊たちを見かね、危険を冒して連れて来たのだと言った。
「えーと、別にわたしたちは、あなたたちをいじめる気はないから。ね?」
自分たちが望んでではないが、つけ狙われているのでここにいるだけで牧童たちには迷惑をかけてしまっている。申し訳なくは思っていた。…はっとしてあたりを見回すと、さっきまでいた全身鎧の姿はない。
(身を隠してくれたんだ。ありがとう)
彼がいつも気を使わなければならないことを思うと、心が痛んだが。
「し、しばらくこいつらに草食わせてくれればそれでいいから」
「安心して。わたしたちはもっと先に行くから」
おどおどが取れない牧童にアスセーナは笑いかけた。彼もようやく白い歯を見せる。
「俺は、フランツだ」
「わたしはアスセーナ。こっちはブレットで、この子がルイーゼよ」
「ふーん」
子どもの黒い瞳が落ち着かな気に動いたが、少しは気を許したようで山羊たちに杖を振る。皆、我先に草に食いついた。
「じゃあ、わたしたちは行くから。ルイーゼちゃん、こっち」
小さな女の子の手を引いて歩き出した。杖を手にした子どもは、その後ろ姿をじっと見ていた。
「何かあのガキんちょ、妙な目つきしてたなー」
明らかに自分より年上の子どもをガキんちょ呼ばわりするブレットだった。
「なーんか変だったよ。チンピラたちに告げ口するんじゃないのー?」
「告げ口って言ったって。わたしたちがここにいるのは知れ渡ってるし、あいつらに」
今更何を告げ口、と思うのだが。
「でもさぁ、変な感じだったよ。なっ兄ちゃん」
牧童フランツの視界から外れたと見るなり出現した鎧武者に、同意を求めた。
「…」
彼はいつも通り言葉は発さず、ただブレットをひょいと抱え上げて肩車し頭をなでなでした。
「あー!おっきいおにいちゃん、ルイーゼもやってー!」
「あーだめ、ルイーゼは次ねー」
「ぶー。ちっちゃいおにいちゃん、ずるいよぉ」
そんな口げんかも、仲良しである証だった。和やかな、でもそう長くは続かない、時だった。
『『金貨の』プルートス殿』
「!?」
自分のもとに舞い降りて来た夜鴉に、貧相なローブ姿はびくっとした。
『えらくぐずぐずしておられますなあ。無暗にチンピラたちを送りこんでいるそうで。ご自身はなかなか出て行かれないようですな』
「そ、その、それは」
『貴方のぐずぐずしている『理由』は、師も既に見当をつけておられますがね?』
その言葉に隠された刃の鋭さに、プルートスは怯えた。
『しかし師は、奥義を受け継ぐ者の条件として『あの娘を倒すこと』と言われたのですよ?確かに師は貴方に『富の神』の名を与えましたが、だからと言って金で釣ったチンピラたちに命じるだけで自分では手を出されないのではねえ。彼らも、あの娘たちの相手にはなっていないようで』
「…っ」
『そろそろ、その重い腰を上げられては如何です?ワタクシもお供いたしますから』
つまり、師の監視が張りつくと言うことだ。…プルートスは、のろのろと動き出した。
「…むう」
さんざんアピールして、やっとブレットに代わってもらい鎧武者に肩車されていた―つまり今一行の中で一番視野が広いルイーゼが、小さく呟き兜の前立てをきゅっと握った。
「…」
小さな身体が強張ったのを感じた鎧武者が女の子を抱き下ろし、アスセーナに預けた。
「どうしたの?」
しがみついて来るルイーゼに問いかけると。
「こわいおじちゃんが」
怯えつつ答えた。マナもその頭に飛び乗り「チイ」と鋭く鳴いた。
「そう」
やはり和やかな時は長くなかった、と一同は覚悟を決めて進んだ。
牧草地の起伏を一つ越えた先に、予想通りあの平凡な容姿の男性、しかし恐るべき魔術の使い手がゆらりと立っていた。
「あんたさー、自分じゃなかなか出て来ないで他の奴においらたちを襲わせるってどうよ」
無言でこちらを見ている魔術師に、しびれを切らせたブレットが声をかけた。
「こちらとしても、色々と都合がありましてな。色々と」
(―?)
そう語るローブ姿に、アスセーナはかすかな違和感を覚えた。
(今までと、違う)
今まで見せていた余裕が無くなったと言うか。
(この人は、これを『最後』にするつもりなの?)
勝つにしろ、負けるにしろ自分たちに相対するのはこれで最後にする、そうした決意と言うか覚悟が感じられた。
「鎧武者さん」
肩の後ろに立つ巨体を振り仰ぐと、彼も重々しく頷き返した。
「この人の全力で、向かって来る気だ」
ならば、こちらもそれに対応しないと。まずは。
「ルイーゼちゃんを守らないと。ブレット、ルイーゼを抱っこしてなるべく下がって。でも後ろにも気をつけてないと駄目よ」
今の所一人きりのようだが、誰かが回りこんでいる可能性は充分にあった。
「うん、任せといて姉ちゃん」
「…あと」
「姉ちゃん!?」
アスセーナは少し考えて、「思いの結晶」がついたペンダントを自分の首から外した。ルイーゼにそっとかける。
「これで、どんな魔術を使われてもあなたたちは大丈夫」
くっついていればブレットも守られるだろう、と考えた。
「でも、姉ちゃんが!」
「わたしなら何とかなるから。ルイーゼちゃんだけは守らないと。ね?」
「う」
それはそうなので。
「大丈夫よ。鎧武者さんもいるし」
―その通りだ。
どんと胸甲を叩いて見せた。
―いざとなったら、私が身体を張る。
「うん。ごめんね、痛いだろうけどお願い」
―心配するな。そのために、私はここにいる。
二人はうなずき合い、それぞれの剣を抜いた。鎧武者はやや前に、大剣をかざすように構え、アスセーナはその陰に位置した。
「わたしたちは距離を詰めないと!行こう!」
息を合わせ、魔術師の懐に飛びこむべく突進する。―しかし、当然ながら相手はそれを阻もうとした。
「もはや、有り金を使い果たしても!」
肉迫しようとする二人を前に、プルートスは大振りの金貨を取り出した。
「貴重な花金貨ですがね!」
「くう…っ!」
投擲され、巻き起こった爆発は確かに今までのどれよりも威力が大きかった。大剣が一閃、薙ぎ払うが爆風だけで少女の細い身体は飛ばされかかる。
―大丈夫か?
「平気。それより、次来るよ!」
再び魔術師は革袋に手を突っこんでいた。
「これは、金に換えずに秘蔵していたかったが!」
舌打ちとともに真紅の宝石が投げつけられた。
「紅玉ってやつ?」
ブレットにしてみれば街の高級店にあると聞くだけ、近寄って見たこともないお宝だが。
「っ!」
戦う二人の眼前で、巨大な火球が膨れ上がった。
「鎧武者さん!」
「―っ!」
斬ったら後ろにも炎が流れてしまう、と判断した彼は火球の直撃をそのまま身体で受けた。真紅の炎に鎧が包みこまれる。
「ああ、っ!」
―大、丈夫、だ。
炎が消え、鎧は一応欠けた所がない姿で現れたが。鈍色のはずの表面は真っ黒に煤けている。マントも無残に焼け焦げていた。
―私なら、問題…ない。
手でそう示しているが、明らかに苦しそうだった。
「もう少し、近づきたいけど!」
直撃を受ければ、ペンダントの守りのない彼女の身体は粉々だろう。だが、剣が届かなければ攻撃できない以上、接近するしかなかった。
「冷やせば、どうです?」
今度の爆発では、氷弾がまき散らされた。大剣が翻り、多くを叩き落としたがいくつかが鎧を凹ませた。
しかし、鎧武者の突進は止まらなかった。
―隙を見て、刺突を!
「うん!」
戦いの中で培われた、連携だった。
「やむを得ん!」
迫る二人に、放たれたのは。―透明な輝きを放つ宝石だった。
「!」
「ああっ!」
鎧武者を直撃した「爆発」は、今までの全てを遥かに凌駕していた。
「―っ!」
「鎧武者…さん!」
巨体がまさに、吹き飛んだ。ぐわらんぐわらんと凄い音を立てながら岩の突き出す牧草地を転がっていく。ばらばらにならなかっただけまし、とすら言えた。
「貴重過ぎて実験もできませんでしたが」
プルートスは呟いた。
「やはり、金剛石が最も爆発の威力が高かったか」
「あ、ああっ!」
「予想を遥かに越えていたな。これほどとは」
「くうっ!」
今や、アスセーナは完全に無防備だった。盾となってくれた鎧武者も倒れた。「思いの結晶」の守りもない。
「でも!」
闘志を捨てず、少女は剣の柄をしっかりと握りしめた。
「まだ!まだ、わたしは!」
「仕方ありませんなあ」
非常に惜しそうに、プルートスは懐からもう一つ金剛石を取り出した。
「一個ぐらいは、残したかったのですが」
投擲の体勢に入った。
「兄ちゃん!姉ちゃん!」
ルイーゼを抱えたままブレットは叫ぶが、悔しいがアスセーナ以上に何もできなかった。
「このペンダント、戻したいけど!」
しかし、こちらに渡してくれた思いを考えるとそうもできない。ルイーゼが大切、は彼も同じだし。
「マナの首輪を!駄目か、それも」
大規模な儀式魔術を解除する能力だと言われていた。違う気がする。
「う、うう」
いくら考えても何も思いつかず、ブレットは女の子を抱っこしたまま目を凝らすことしかできなかった。
輝く宝石が、迫る。
(いやだ…!)
あきらめる気はなかったが、どうしようもなかった。ただ目をそらさずにいるだけ。
金剛石が、目の前で砕け散った。
しかし。
「え…?」
爆発は、起こらなかった。
砕けた欠片が飛び散るだけで、何も起こらない。
「馬鹿な。発動、しないだと!?」
プルートスも呆然としていた。
「な、何で」
後ろのブレットも訳がわからずにいたが、その視界を。
「あれ、あのバカガラス?」
ふらふらと舞い上がる、大きな鴉がかすめた。倒れた鎧武者の向こうあたりで羽ばたいている。片方の翼が傷ついているのか、ひどく飛びにくそうだった。
「もしかして、さっきの金剛石の爆発に」
巻きこまれて怪我したのか?と考える間に、ふらつきながら巨大な鴉は飛び去って行った。
「わ、私の魔術は、完璧の、はずだ」
「くっ!」
プルートスが我に返るより、アスセーナが驚きから覚める方が早かった。
「今!」
少女の、幼い頃から命のやり取りをして育ち、戦いの技を身につけて来た身体は、ごく自然に今できる行動を取っていた。
小剣を振り抜き、投擲したのだ。
唯一の武器を投じるのだから、本来は禁じ手なのだが。駆け寄って斬りつけるより速い方法をとっさに実行したのだ。投擲用の剣ではないが、吸いこまれるように魔術師の喉元に切っ先は向かっていた。
「う、ぐ!」
断末魔の叫びが響いていた。一瞬でも遅れていたら、防御の術を使われていただろう。
「うまく…」
血とともに、声がこぼれる。
「うまく、行っていれば!」
末期の呻きが、途切れた。倒れた身体は、小さく縮み、砕けて。塵と化して行った。
「―『金貨の』は」
遠見の水晶でその光景を見ていた者たちが、会話をしていた。
「師の目を盗んで『復活の秘法』を我が身に施そうとしていたようですね」
「らしいな、『剣の』。永生にこだわっていたしな、彼は」
「自らの血に連なる者の命を消費することで、本人の命を地上に繋ぎ止める、自らの死をなかったことにする秘法。しかし、血に連なる者を手に入れられなかったようで」
もちろん邪法だが、彼らは気にも留めていなかった。
「興味がないか、お主は」
愉快そうに声が響いた。
「それで復活したとしても、その者自身がそのまま蘇ったとは言えませんから」
「さすが生死のことには詳しいの、『剣の』」
「生死の理を究めるのが、私の道ですので」
「ふむ。―札の四弟子で、残ったのはお主のみとなったが。課題を成し遂げなければ、奥義の伝授はせぬぞ」
「承知しております、我が師」
そう答え、最後の弟子は一礼した。
「鎧武者さん!」
プルートスが倒れ、もう立ち上がることはない。そう見て取ったアスセーナは、草地の中に転がったままの鎧武者のもとに駆け寄った。ぼろぼろの鎧にすがりついて叫んだ。
「何とかなったよ!ねえ!」
「…」
しばらく、反応がなかったが。声をかけ続けていると、やっと兜が少し動いた。
―無…事、なのか。
「うん。ごめんね、ありがとう。かばってくれて」
身体を張って守ってくれなかったら、とても生き延びられなかった。
―良かった。
彼は大儀そうだったが両腕を動かし、涙をこぼす少女を包みこむように抱きしめた。
「姉ちゃん!兄ちゃーん!」
「おかあさん!おっきい…おにいちゃん!」
子ども二人も駆けてきて、飛びついた。
「よ、よかった!心配したよぅ!」
「うわーん!」
ブレットはもう顔をぐちゃぐちゃにしているし、ルイーゼはアスセーナの服に顔をうずめてしまっている。
「みんなで、生き延びられた、ほんとに」
ほっとしたらしたで、しっかり愛用の剣を回収するアスセーナだった。
「おかあさん、はい」
ルイーゼもペンダントを返す。幼い子どもが、「あげる」をするのは大好きの証拠だった。
「うん、ありがと」
受け取って首にかけ直した、そんな時。
「な、何なんだ。大層な音がしていたが」
がやがやと人の声、物音が聞こえて。十人ほどの一行が牧草地(あちこち爆発でぐちゃぐちゃだが)に姿を現した。中心にいるのは、小太りの男性と馬に横座りした女性だった。
「あっ!」
アスセーナにしがみついていたルイーゼの顔がぱっと輝き、駆け出した。
「ルイーゼちゃん!?」
まっしぐらに、まさに転がるようにその一行に向かって走って行く。
「おかあさーん!」
あたりにその声を響かせながら。
「ルイーゼ!」
馬に乗っていた、栗色の髪と緑の瞳の美しい女性は鞍からできるだけ急いで滑り降り、その胸に女の子は飛びこんだ。
「おかあさん!おかあさん、あいたかったよおっ!」
「ルイーゼ…!良かった、元気そうね?心配したのよ、わたしもグスタフも」
「本当だよルイーゼ。さ、お父さんにも顔を見せてくれ」
小太りの、女性より大分年上らしい男性もルイーゼを覗きこんで頭を撫でていた。
「おとうさん!」
子どもは涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて笑っている。
「そっかー、あの二人がルイーゼの」
ブレットが感心すると、ルイーゼがこっちを指さして喋り出したのが聞き取れた。
「あのおねえちゃんたちがね、ルイーゼをね」
「やーれやれ、今の今まで姉ちゃんのことを『おかあさん』って呼んでたのに」
「仕方ないわよ、それは」
どうやら子どもをさらった犯人とか、いじめたとかとは思われていない。人々の表情からそう判断し、アスセーナはほっとした。―気づくと、倒れていた鎧武者の姿はもう消えていた。
(ありがとう、いつも。ごめんね)
自発的に姿を消してくれた彼に心で詫びつつ、彼女はブレットの手を引いて一行に歩み寄った。
「あなた方が、うちの娘を世話してくれていたそうですね。有難うございます」
ルイーゼを抱きしめたまま、女性がそう話しかけてきた。
「この子がいなくなってしまって、ずっと捜していたのですが。途方に暮れていましたら、彼が山の上で見かけたと教えてくれまして」
案内して来たらしいフランツが、一行に混じって手を振っていた。
「いや、助かりました」
小太りの男性が一礼した。
「私は、ラウエンシュタインで塩などを扱う商人のグスタフ・ワレンブルクと申します。こちらは妻のマリーエ。妻と娘を連れてこちらに来ておりましたら、妻が体調を崩してしまい。世話に大わらわだった間に娘が姿を消してしまいまして。人さらいだと思ったのですが、何の連絡もなく」
「それは、そう考えますよね」
こんな小さな子が一人で遠くに行くとは思えないし。
「でも、どうしてまた、こちらに来られていたんですか?」
見たところ、グスタフと名乗る彼は相当裕福そうな身なりだし、夫人のマリーエも上品な服装だった。こういう身なりの人はあまりこんな田舎には来ない気がする(偏見かもしれないが)。
「それは、わたしが夫に頼みまして」
マリーエが答えた。
「便りが来たんです。…ルイーゼの、本当の父親から」
「あ、う、その」
「ある」話ではあるが、こうして聞くとどう反応していいのか。
「彼は、ラウエンシュタインの大学に学ぶ、学生でした」
この時代、教会から離れた学問の場として「大学」が大きな都市にできつつあった。そこに入学し学業を修めるには相当の費用と、もちろん才能も必要である。卒業したと見なされれば成功は約束されるが、途轍もなく時間がかかるのが普通だった。
「わたしはそうした学生の一人と恋をし、いずれは夫婦となることを夢見ていました。しかし彼は結局行き詰まり、大学を出奔。ラウエンシュタインからも姿を消し、身ごもっていたわたしが残されて。途方に暮れていたわたしを、グスタフが全て承知の上で後添えに迎えてくださったんです」
「早くに亡くした先妻は、子どもを残してくれなかったのでね。子どもが欲しくて仕方なかったんだ。生まれてきたのが、こんなに可愛い娘で。いや、この齢で子どもが授かると可愛いもんですなあ」
グスタフ氏は目を細めてルイーゼの巻き毛をかき回し、子どもも「くすぐったいよお」とか言いながら嬉しそうだ。
(実の、血のつながった親子で、なくても)
真実の愛情を注いで可愛がっていれば、子どもは感じて懐くのだ。
(『おとうさんは、おしごとからかえると、いっつもおうまさんしてくれるもん♪』)
幸福な家庭なのだろうと、感じていた。
「幸せいっぱいでしたが、しばらく前に便りが。『子どもに会いたい』と。会ったこともないけれど、実の親であるのも確かなので。グスタフに相談したら、わかってくれて」
「『親』の思いを共有すると、ね」
会いたくなる気持ちもわかると、指定された地に連れて来た。
「でも、便りで指定された日は大分過ぎてしまっているのに連絡もないので。娘も戻って来ましたし、あきらめて帰ろうかと思っております」
「マリーエの体調が、落ち着いたらね」
「あ。もしかして、体調を崩されたのは」
「…はい」
頬が染まった。
「ルイーゼちゃんの。弟か、妹が」
新しい命が、宿ったのだ。
「おめでとうございます。どうか、お幸せに。わたしたちは、これで」
実の娘ではないルイーゼを可愛がり、妻が「実の父親に会わせたい」と相談しても話を聞いてくれる。グスタフ氏が、本当に家族を愛していなければできない行動だった。またマリーエ自身も隠し立てせずに相談できるのは、信頼関係を築いている証だ。そんな夫婦なら、ルイーゼも生まれてくる子どももきっと幸せに暮らしていけるだろう。
「ルイーゼちゃん」
アスセーナは屈んで、女の子と視線を合わせた。
「さよなら、ルイーゼちゃん。また会おうね」
「うん!おねえちゃん、またね!」
「さよなら」の意味はわかっていないのだろう。子どもは元気よく答えた。
「ルイーゼ、元気でな」
「うん、ちっちゃいおにいちゃん。え、えと」
「あ、おっきいおにいちゃんは今ちょっといないけど、さよならってルイーゼに伝えといてくれって」
きょろきょろしているのでブレットがフォローを入れた。
「それからね。今度はルイーゼちゃんが、お姉さんになるんだよ」
「ルイーゼがおねえちゃんになるの?」
きょとんとして答えるその頭を、なでなでした。
「赤ちゃんが生まれたら、仲良くしてあげてね?またね、ルイーゼ」
「うん、またね!」
うなずく女の子を置いて、アスセーナはブレットを連れて歩き出した。
「じゃ、ルイーゼ。お父さんが肩車してやるぞ、久しぶりに」
「うん!…おとうさん、おっきいおにいちゃんのかたぐるまはぁ、もっとたかかったよぉ」
「おっきいおにいちゃん…?」
そんなやり取りが、遠ざかって行った。
「良かった、本当に」
寂しくはあったが、アスセーナはほっとしていた。
「まー多分、ルイーゼは『またねって、あした?』ぐらいの感じなんだろうけどさ」
「そうよね、きっと」
「さよなら、またね」の意味がわかるのは、もっと先だろうけど。それでいいのかもしれなかった。
「わたしたちは行こう。戻らないと、カイネブルクに」
―行こう。
人々の視界から外れた、と見るや姿を現した鎧武者もうなずいた。
「きっと大丈夫だよ、あの家族は。ルイーゼちゃんがいつか、本当のことに気づいたとしても」
実の父親が、別にいると知ったとしても。
「つながりって、血のつながりだけじゃないもの」
手をつないでいるブレットと、隣を歩く鎧武者を交互に見やって。
「わたしたちも、血のつながりなんて関係なく、こんなに仲良しでいられるもの。ね?」
「うん!」
―あ、ああ。そうだな。
「だから、大丈夫。きっと」
微笑んで、アスセーナは歩みを進めた。
プルートスと名乗る魔術師の謎の行動。
彼の出現と相前後して現れた幼子ルイーゼ・ワレンブルク。
筆者は古の文献を調べる中で「復活の秘法」なる邪法の存在を知り、両者の関係性、及びプルートスの目論見について一つの仮説を立てるに至った。
おそらくはそれが真実であろう。しかし、筆者はその真実を誰にも告げるつもりはない。
ただ、備忘録としてここに書き留めておくことにする。
―B・ヒメネス記す。
第二十四章 竜の、伝説
「姉ちゃん。ここ、みたいだよ」
ブレットが地図とあたりの景色を見比べて言った。
「ここ、って?」
「うん、賢者のじーちゃんの話だと、この辺からカイネブルクに戻る道に入れるんだってさ」
「そうなの!?」
「!?」
アスセーナも、人目がないので同行していた鎧武者も驚いた。
「ここ、に?」
牧草地が続く斜面から少し登った、岩がちの山地だった。山越えの道があるようにはとても見えない。
「ほいほい越えられると困るんで、見つかりにくくしてるんだってさ。教えてもらってないとわかんないように。でも、『見つける』にはもう少し待つんだって。えーっと、あのお日さまが沈むまで」
「…?」
よくわからなかったが、アスセーナはブレットが手近な岩に腰を掛けるその隣に座った。鎧武者もその側で大きな身体を落ち着けている。
次第に、中天にあった太陽が山脈の向こう側に移動して行き、山肌に微妙な陰影が浮かび上がってきたその頃合いに。
「あそこ、見て!」
「え?あっ!」
ブレットが指差す先を見て、アスセーナは息を吞んだ。斜面の中に、人の手で刻まれたとおぼしき階段が一筋に浮かび上がっていたのだ。―他の刻限には、自然の岩肌に紛れて見分けられなかっただろう。
「関係ない人に、うっかり登ってほしくなかったんだってさ」
言いつつブレットは立ち上がってその「階段」に足を踏み入れ「うん、ちゃんと段々になってる」と確かめて登り出した。
「姉ちゃんたちも、早く」
「あ、うん」
アスセーナも後に続き、鎧武者もその後ろを登って行った。巧妙に隠されていた階段だが、一度見い出せばしっかりと革靴を受け止め、危険無く歩みを進められた。
「一体どうして、この階段は」
見たところずっと続いていて、辿って行けば山越えはできそうだが。なぜこんなルートが造られ、しかも隠されているのかわからない。
「うん、元々この階段は、竜に貢物を運んでいくための道だったんだってさ」
「ドラッヘ!?」
「うん。賢者のじーちゃんの話だとね」
ブレットは館にいた時に受けたレクチャーの一つを、思い出して説明しはじめた。
(『元々、その階段はの。かつて、今はカイネブルク王国である地に住まう竜のための祭壇に、貢物を運ぶものじゃった』)
(『竜がいたの!?すっごーい!』)
子どもの場合、怖いよりも強いものへの純粋なあこがれが先に来る。
(『そうじゃ。カイネブルクがまだまだ未開拓の地ばかりなのは、他の国に比べて人が住みはじめたのが遅いせいでな。この地は大陸諸国の中にある、人の住まぬ竜の地だった。人が踏みこめば、竜に焼き尽くされるか食い尽くされるかの憂き目に遭う』)
(『うわー』)
(『周辺諸国の王たちは、竜が出て来て自国を荒らしてはたまらんと境になっていた山脈の峠に祭壇を築き、捧げものをして竜のご機嫌を取っていたのだ。下手をして怒らせては元も子もないと、その事実は一般には秘密にされていた。もちろんその祭壇に向かう道のこともな。今となっては、由来も忘れられた『祭壇山脈』の名だけが残っておる。王たちも、竜のご機嫌を取っているなどと世間に広がっては向きが悪いしの』)
(『そうなんだ。…あれ?』)
館で、ブレットは少し考えてから聞いてみたのだ。
(『山の向こう側は?カイネブルクの側は、道ないんじゃないの?』)
人が住んでいないのでは道の作りようがない。今は通っていないみたいだし。
(『いや、通れるはずじゃ』)
(『はず…って、じーちゃん』)
妙な言い方に子どもは首を傾げた。
(『少なくとも、そこをかつて、かなりの重さの金属鎧を身につけた男性が登攀できたことは確かじゃからの。お主らが降りることはできると、儂は思うよ。彼が祭壇まで到達し、竜に対面しその後生還したことは歴史に残った事実なのだから』)
彼がいなければ、カイネブルク王国は存在しないのだから、と老賢者は続けた。
(『彼の名は、その時点ではフリードリヒ・カイネス。後のフリードリヒ・フォン・カイネブルク。建国王と称されるカイネブルク初代国王じゃ』)
「…なんだって…わあっ!」
登りながら話していたブレットが、気が散っていたのかちょっとよろけた。足を踏み外し、転げ落ちそうになる。
―大丈夫か。
さっと踏み出した鎧武者が、落ちかかる子どもを受け止めた。
「あ、ありがと兄ちゃん」
―うん。
巨大な兜をうなずかせた鎧武者は、アスセーナの方を向いて手で示した。
―これからは、暗くなっていく一方だ。階段は見出したのだから、今はここで止まった方がいい。
「うん。眠りづらそうだけど、ここで休もう」
アスセーナも賛同し、星明りのもとで一夜を過ごした。
次の日、さらに登って。
「これが、その、祭壇」
そびえ立つ山頂と山頂の間、わずかな平地に石造りの、直方体の壇が置かれていた。とは言え、いかに階段があってもこの大きさの石を運び上げるのは無理だ。ここの自然石を彫り刻んで祭壇としたのだろう。
―驚いた。
鎧武者が手甲を伸ばし、祭壇にそっと触れた。
―話には聞いていたが。本当に、存在したんだな。
「兄ちゃん、知ってたんだ」
―ま、まあな。
(ほとんど知ってる人はいないって聞いたけど)
とブレットは考えたが、彼はカイネブルクに仕えているのだからいいのか、と結論した。
「チイ」
ブレットの頭に乗っていたマナがぴょんと祭壇に飛び移り、ふんふんとあたりを嗅ぎ回ってからまた「チイ」と鳴いて頭に戻った。
「嫌な気配が、漂ってるのかな」
この壇にどのような「捧げもの」が載せられていたかは、あまり想像したくなかった。
「そう考えると、ここで一晩過ごすのも怖いけど。今から下ったら絶対途中で日が暮れるよね」
呟いてカイネブルク側の山肌を覗きこんだアスセーナはごくん、と唾を飲みこんだ。ラウエンシュタイン側も階段が切られていなかったら登攀は一苦労だったろうが、こちらはさらに険しく切り立っていた。道と呼べるものなどない。
「ここで野営して、朝一番で下ろう」
「うん」
―賛成だ。
うなずき合い、少し早いが泊まる支度に入った。ゆっくり休んで体力を戻しつつ、色々話をした。
「道も何も、ないけど。初代国王になった方は、ここを登り切ったのよね」
「うん。金属鎧を身につけてね」
下るのも並大抵のことではないが、登攀するのは途轍もなく困難であったろうと見当がついた。
「命がけよね。どうして、そんなことを」
「うん。じーちゃんに聞いたんだけどさ」
賢者の館で話を聞いた時、ブレットも老賢者を質問攻めにしたのだ。
「その時、やっぱり戦乱があって。逃げ出した人たちが、とにかく人間が戦っていない竜の地に逃げこんだんだって。でも、いつ竜が襲い掛かって来るかわかんなくて」
難民だろうと何だろうと、この地に入りこむ人間は許さないのが当時の竜のやり方だった。
「その人は思い切って、自分から竜を探しに行った」
(『どうやら戦乱前に仕えていた国で、捧げものを祭壇に運ぶ一行に加わっていたことがあるらしくてな。竜が来る祭壇があるはずの峠に、反対側からたどり着こうと試みたのだ』)
住人はいない、竜は翼で飛来する―道など全くない険しい山脈を登り切って、来るはずの竜を待ち受けた。
「で、会って。どうしたの?まさか、退治…したとか?」
竜退治、竜殺し。真の英雄か聖人しか為せない偉業だとアスセーナも聞いたことがある。本当におとぎ話としか思っていなかったが。
「ううん、そうじゃなくて」
ブレットは首を振った。
「話し合いに、行ったんだって」
「話すの?竜と!?」
「うん。退治も大変だけど、話し合うのもすごーく大変なんだって」
(『話し合うー!?』)
そう聞いた時、ブレットもびっくりして問い返したのだ。
(『何を話すのさ、竜相手に』)
(『この地に住まわせてほしい、襲わないでほしいと、頼みこんだのじゃな。竜の地とされている地域のごく一部でいいから分けてくれないものかと』)
(『はー』)
(『彼は、後にこそ王となったが当時は一介の戦士、重い鎧は身につけていたが騎士叙任も受けていないただの重戦士だったのだが。難民となった一団が疲れ果てて動けなくなっている中で、一人抜け出し竜相手に直談判した』)
何とか、生き延びる道を見い出そうとした。
(『竜は驚いた、と聞いている。フリードリヒ自身は知らなかったらしいが、普通人間は竜に近づくだけで本能的な恐怖に捕らわれ、闇雲に逃げ出そうとするか硬直してしまうか、いずれにしてもまともに話をするどころではなくなる。捧げものを持って来ていた者たちも、竜が飛来する前に皆逃げ帰っていたしな』)
しかし、彼は竜を相手にしっかりと話をした。
『人間よ、よく我を前にして逃げぬな』
『いや、もうへとへとで。一歩も歩けないだけだ』
竜が吐くと聞く炎除けになるかと鎧を着て登ったら疲れ果ててな、と彼は苦笑した。
『この地に住まいたい、と?』
『みんな、行き場がないんだ。ろくに食うものもなく、さ迷い歩いて。ふもとで今、へたりこんでいる。中に、俺の妻もいるんだが。今身ごもっていてな」
動かせない。少なくとも、しばらくの間は。
『もう、あんたに頼むしかないんだ。頼む、ほんの少しでいいから土地を分けてくれ。わずかでいいから』
『―もし』
割れた竜の瞳が、男性を見据えた。
『その代償として人間よ、汝の命を求めると我が言ったら、どうする?』
『仕方ねえ、かな。どうせ今動けねえし』
『我らに比すれば束の間の命でも、惜しかろうに』
『もちろんさ』
彼は兜を外し、笑って見せた。
『だが、惜しくてたまらない命でも、一生に一度ぐらいは賭けないといけない時が来るんじゃないかと思ってな。ほいほい投げ出していいとは思わんが、それでもやりたいことがあれば』
大切だと知っていても、いや大切だからこそ使いどころがある、と言った。
(『その言葉に竜は心を打たれた―と、聞いた。一部どころか今カイネブルク王国になっている地を明け渡し、自らは永い休眠に入ったのだと。永き時を生きる竜には、時折必要な眠りではあるらしいが』)
休眠期に入ることを、選んだ。一人の人間の心意気に感銘を受けて。
(『それが三百年ほど前のことだ。その時からこの地に人が住み出した。故にまだ未開拓の地が多く、また他の地から移民や難民が住み着くことを国として奨励しているのだ。小人族など、他種族も他の国に比べて多いしの。様々な言語に由来する名前が多いのもそのためでな。ブレットよ、お主の名ももっと西方の国由来のものじゃ。親か、名づけた人がそちらの出だったのだろう』)
(『ふーん』)
全く覚えがないが。
(『アスセーナ殿の名前も、さらに南西の国由来のものだからの』)
「そうなんだ。それが、この国のはじまりなんだね」
アスセーナは、嚙みしめるようにそう呟いていた。
(姉、ちゃん)
その様子を見るだけで、ブレットには彼女が何を…いや、「誰」のことを思っているのか、大体わかった。
祭壇の脇で焚いた炎が、アスセーナの鳶色の瞳に映って揺れている。―その背後、少し離れた暗がりの中で、鎧武者が大きな身体を丸めていた。
(兄ちゃん)
ブレットは胸の中でそう呟くが、何も言えなかった。
アスセーナも、夢見るようなまなざしで炎を見つめ、何も言わない。そんな彼女を見つめているらしい鎧武者は、いつも通り無言のままだ。
それぞれに抱く思いは、伝えることなく。夜は、更けて行った。
やがて一同は眠りにつき、日が昇るのを待って下山を開始した。
「気をつけて、ブレット」
「うんっ」
はじめはそんな会話もあったが、あまりの険しさに後はろくな話もできずにひたすら下った。両手両足で岩を捉え、落ちないように必死で確保する。マナなどは、人間に頼っては危険と判断したのか自分で岩肌をちょろちょろ駆け下りていた。
そんな、冷や汗が吹き出るようなルートをたどり。ようやく少し斜面が緩やかになって来た。
「こ、ここを」
ブレットもようやく喋る余裕が出て来た。
「その初代国王になった人は、登ったんだね。鎧着たまんまで。大変だったろうなあ。兄ちゃんも鎧だけど、下るだけだもんね今は」
―そう、だな。
二人の少し下、もしものことがあったら受け止められるような位置を保って下っている鎧武者がうなずいた。
「?」
何かその「返事」がぎこちない気がして、ブレットは首をひねった。そう言えば、祭壇を前にした時も態度が変だったし。しかし、尋ねても答えてくれないのはわかっていたので何も言わずにいた。
―もう少しだ。気を抜かずにいよう。
「うん」
「そうよね、もう少し。がんばろう」
そう声をかけつつ、アスセーナはふっと山脈を振り仰いだ。
(初代国王になられた方。アレクサンデル殿下の、ご先祖さま…殿下の)
その名を心の中で呟くだけで、切ないあこがれで胸が締めつけられた。
「…」
鎧武者はそんな彼女の、思いを馳せる姿を見守っていた。
―行こう。
アスセーナが向き直るのを待って、手で下を示した。
―後、もう少しだ。
「…兄ちゃん」
―行こう。
手でそう示し、歩みを進めた。