「片思い」ファンタジー
第十三章 憩いの、時
賢者の住まう館は、谷間を抜けた先の山肌に緑のなくなる境界線のあたりに位置していた。豪華とは言えないががっちりとした、冬の寒さにも耐えられそうな造りであった(大量の書物などを所蔵し、また実験なども行うため頑丈に造る必要があったと後で説明された)。
分厚い木の扉をノックすると、賢者自ら出迎えてくれた。
「レオナルドゥス・ヴィニシウスと言う者じゃ。かつてはカイネブルクの街で学問を教えていたが、先代の後を継いで今はここで研究三昧の日々だ」
王家とも親しかったらしい。
「ハンスとグレーテから一応の報告は受けているが、やはり本人の口から詳しい話を聞きたい。話してくれるか」
「はい」
アスセーナは知っている限りのことを話した。ブレットも口添えし、カイネブルクであったこと、ここを目指す旅の中で起きたことをできるだけ詳しく説明した。
「街一つに住む人々を全員”氷”の柱に閉じこめる―それは、魔術師の中でも使える者はそうそういない大規模な秘術だな。さすがに、邪法の類とされているが」
「邪法、ですか」
「その術は”氷”に閉じこめた人から強制的に『思い』つまり思い出や感情を抽出し、結晶化する効果を持つからの。魔術の動力源である『思いの結晶』を一度に大量に手に入れられるのはいいが、『思い』を抜き取られた人々は解放されても一切の記憶と感情を失い、まるで赤ん坊のようになってしまうという。それは、邪法として禁止するしかなかろうて」
「そ、そんな!」
ブレットも驚いたが、アスセーナはもう真っ青になった。一日だけだが出会った人たち、特に恋焦がれるアレクサンデル殿下がもし、そうなったらと思うと居ても立ってもいられない。
「どう、どうすれば、どうすればいいんですか!?」
「落ちついてくれ。当然だが、この秘術は完成に時間がかかる。『半年』と言われたと言っていたが、それまでに対処すれば」
「『対処』って?じーちゃん」
「それも、これから説明する」
ブレットの遠慮会釈もない質問にも、老賢者は怒る様子もなく答えてくれた。
「で、それだけの大規模な術を行使できる魔術師となれば、儂が知っているのはただ一人。魔術師ゲンドリル、そう名乗っている者だけだな」
「その人が、あの」
カイネブルクで顔を合わせた、ローブ姿の人物なのか。
「最近カイネブルクの方角を遠見の術で見ようとしても像がぼやけてしまっていたのは、奴の妨害のせいか。危機を知らせる連絡がなかったのは、連絡のできる者全員が意識を一気に失ったからじゃな」
「あ、あの」
アスセーナも必死だった。
「賢者さまのお力で、その魔術師を何とか、できないんでしょうか」
「すごーい魔術で、ばーんとかって」
「それは無理じゃな」
あっさり否定された。
「まず、儂は学問の一つとして魔術の心得もあるが、奴は専業の魔術師。しかも大陸に一人いるかいないかの達人だ。しかも推測するに、地獄の悪魔―それもかなり高位の者と交渉、取引をしてその力を得ていると見た。実力で敵う相手ではない。直接対決しても、自分の身を守るので精一杯。攻撃魔術で周囲が破壊されていくだけじゃろうな」
「駄目…ですか」
「それに、儂はここを離れられん。ここに代々賢者が館を構えているのは、一つにはこの火槍山、この山に秘められた『炎の力』を鎮めるためでな。毎日鎮めの儀式をせぬと、『噴火』と言っても想像できぬか、とにかく『炎の力』が暴走してしまうんじゃ」
誰かが常駐している必要があってな、と語った。
「奴に対処できるとしたら、これから儂が教える『方法』と、そしてアスセーナ殿」
優しい目で少女を見て。
「『思いの結晶』の守りを受けた、そなただけだろうな」
「わたし!?」
彼女はびっくりした。無意識に胸元のペンダントを握りしめていた。
「そなたの母、ヤスミナ殿は『聖なる舞姫』として地上に奇跡を降ろす力を持ち、魔術師ではなかったが『思い』を結晶化することができた。その彼女が、娘を守りたいと思う心がそのペンダントにはこもっている。普通の『結晶』にもその効果はあるが、特に魔術に対する守護の力が強いのだろうな」
「母さんの、思いが」
「魔術での戦いでは、ゲンドリルに勝てる者はまずいないじゃろう。魔術を無効化できる者が立ち向かうしかない。…ただ」
一度言葉を切り、続けた。
「そのペンダントを他の者に託す選択肢は、ある。大切な、母の形見ではあろうが。そなた自身でなく、他の誰かにな。まあ、魔術ではなく武術の腕がある者が望ましいが。そなたが望むなら」
「いえ。わたしに、やらせてください」
アスセーナはきっぱりと言った。
「わたしが、少しでも殿下の、アレクサンデル殿下の助けになるなら、なりたいんです。やらせてください!」
「そうか。儂も、そなたに託したいとは思うが。おそらく、そなたが考えているよりも辛い思いをすることになるぞ」
「それでも、です。何もできないより、少しでも、力になりたいんです!」
「では、頼む。誰よりもアレクサンデル殿下を思っている、そなたに」
「殿下をご存じで?」
「先代から鎮めの儀式を受け継ぐ前、カイネブルクの街にいた頃にな。剣の修行から戻ってこられた後の殿下に、一年ほど学問を教えていた」
武人が本業の王子だったので基本教養ぐらいしか教えていないが、と続けた。
「どうか、アレクサンデル殿下を…辛いとは思うが、思い続けてほしい。そなたの一途な思いこそが、一番の力になるはずじゃ。全てを決めるのは、おそらくその思い」
何よりも、誰よりも、その思いが。
「あの方は、外見とは全く異なる気性ではあるが、本当にまっすぐで誠実な若者であられる。わかってやってくれ」
(…?)
賢者が何を言いたいのか、よくわからないが。
「この気持ちは、育つことはあっても、消えることはありません。だから」
ずっと思い続けられる、そう言い切れた。
「で、『方法』って何なのさ」
ブレットはやっぱり遠慮がない。
「うむ、『方法』というかの。その”氷”の魔術に対抗できる能力を持つ唯一の存在がある、と言うかいるのじゃ」
「どこに?」
「ここではなく、と言ってもすぐ近くに、その、しまいこんである」
「何でここじゃないのさ」
「その、な。魔術の心得がある者にとっては、なるべくそれを近くに置いておきたくない存在なのじゃよ」
ますます訳がわからないが。
「火槍山の、頂上にな」
「え?そこに?『炎の力』とか、大丈夫なの」
「そのための毎日の鎮めの儀式じゃからの。今日はゆっくり休んで、明日にでも行ってみるがよい」
自分では行くつもりがないらしい。本当に「近づきたくない」らしかった。
門番である夫婦の家を朝方に出発したので、まだお昼前だった。二人は香草茶を頂いたり、この辺りでは非常に珍しい温かいお湯を浴びられる部屋を使わせてもらったりして「ゆっくり」することができた。さすがに溜まっていた疲れを癒し、ほっとできる一時を過ごしていた。
ブレットは、アスセーナが湯を使っているのを尻目に館の隅から隅まで「探検」した(鍵や魔術で施錠してある部屋は入れなかったが)後外に出てみた。薬草や珍しい樹木が茂る庭園を見て回る。存分に好奇心を満たした後。
「兄ちゃん!鎧の兄ちゃん!いるんだろ?」
呼びかけ続けると、見慣れた全身鎧が木陰から現れた。
―や、やあ。
片手を挙げて挨拶した。
「せっかくだし、ゆっくり話そうよ」
―うん。
庭園の土は文字を書きやすかった。鎧武者は座りこんで、大きな身体を丸めた。
「まずさ、兄ちゃん」
ブレット、説教モード。
「姉ちゃんとの接し方、ちゃんと考えた方がいいよ」
―接し、方。
「姉ちゃんが嫌がってないからって、いっつもべたべたべたべたしてー」
「…」
固まってしまう。自覚はあるようだった。
―彼女が、嫌がっていないから、つい。
しばらく固まってから、おずおずとこう書きつけた。
―それに、彼女に触れると、とても…心地いい。
「…兄ちゃん」
自分が何口走っている(いや、書いている)のかわかってんのか?とつっこみたくなる発言だが、特に彼はおかしいとは思っていないようだった。
(まあ、兄ちゃんじゃ誰も教えないか、こういうこと)
空っぽの鎧では知らなくて当然か、と子どもなりに考えを巡らせたブレットはストレートに言うのも可哀想かと説明の方向を変えることにした。
「いい?姉ちゃんがべたべた触らせてるのって、兄ちゃんが『お兄さんみたい』って思われてるからだからね。つまり、まるっきり『対象外』。わかる?」
恋をする対象として見られていない、そうはっきり伝えた。
「姉ちゃんは、ほんとに好きな人には恥ずかしくて近くに寄れないんだからさ」
「殿下とキス」を想像しただけできゃーきゃー言っていた姿を思い出してそう続ける、と。
「兄ちゃん…?」
鎧武者は、身体を丸めるどころか、地面にへたりこんでいた。
―今。
文字を書きつけた。
―君が「対象外」だと言った時、何だろう、胸を刃物で突き刺されたような痛みを、感じた。
「ふーん。まあ、兄ちゃんだとやわな刃物は刺さらなくて折れちゃいそうだけど」
ブレットはそう返したが、鎧武者は子どもが望んだ反応―冗談と取ってまぜっかえすとかを、しなかった。
―知らなかった。
ただ、こう書いた。
―知らなかったよ。こんな…こんなに、痛いんだな。
「あれ?もしかして」
いや、そうなのだろうが。
「兄ちゃんは、姉ちゃんへの気持ちが『初恋』?」
―そうなんだ。
ややあって、答えた。
―こんな気持ちは、はじめてだ。こんな姿形で、恥ずかしいんだが。
「いいんだよ。そっか、『はじめて』じゃ訳わかんなくなるのも仕方ないね、兄ちゃん」
「はじめて」他の誰かに本気の恋をして、訳のわからない行動を取る姿は下町でよく目にしてきた。
「でも、それならなおさら、がんばらないと」
ブレットは、この不器用だが優しい「兄ちゃん」の恋を何とか応援してあげたかった。
「ちゃんと『段階』ってのを踏んで、距離を縮めて行かないと」
本人に経験がないので、街でいろいろ見てきた知識を理解できていない単語も交えて披露した。
「まずはまあ、アクセサリーとか、花束を贈るとかからはじめて」
―花束。
驚いたようにそう書いた。
「どうしたの」
―前に、そう言われたことがある。大切な…友人に。
「へー」
「友人」がどんなだったかは気になるが。
「その人の言う通りだよ。そうやって気を引いて、少しずつ、少しずつ近づいて行くのがいいんだよ。いきなりべたべた触るのはおかしいって。兄ちゃん見た目はごついけど、すごーく優しいし、何よりすっげー強いだろ。姉ちゃんにはそれが売りになるからさ、きっと」
自らも剣を振るう女性なのだから。
「まあ、確かにあの『殿下』って人も相当強いらしいし、その上すっごい美男子だけどさー」
この間まじまじと見た、「アレクサンデル殿下」のまぼろしを思い出した。
「でも、男は顔じゃないよな。なっ兄ちゃん」
「…」
鎧武者はそう言われて、しばらく考えこんでいたが。手を伸ばして、ブレットの頭をぐりぐりと撫でくり回した。
「んー」
無骨な手甲でも、撫でられれば心地いい。子どもは目を細めて、彼の言葉として出さない思いを感じ取っていた。
「とにかく少しずつ、自分のいいところをアピールしてさ、気を許してもらって。で、手を握って、肩を抱いて、それを嫌がらなくなったらそこで『好きだ』と告白して、受け入れてくれたらぎゅーっとして、キスして、それから」
後のことはよくわかっていない九歳児。
「そうした方がいいよ。ねっ」
―いや。
しかし、鎧武者はそう書きつけた。
―いや。それは、駄目だ。
「どうしてさ?」
―彼女に、余計な負担を、かけたくないんだ。
「まあ確かに、姉ちゃんは困るかもしれないけどさ」
自分が片思いしていて、今は伝えることもできない「好き」でいっぱいいっぱいなのに、そこで他の人に「君が好きだ」と言われても困るとは思うが、しかし。
「でも、伝えないまんまだったら、兄ちゃんの方がつらいじゃないか。好きになってはくれないかもしれないけど、伝えるだけならいいだろ」
―駄目だ。
兜は、横に振られた。
「何でだよ!見ててつらいよ、兄ちゃん!」
好きで好きでたまらないのに、伝えられずに苦しむ姿を横で見ているのは。
―私には、好きだと伝える資格が、ないんだ。
「資格!?資格って何だよ。好きになった、大好きになったって以外に資格なんてないだろ!」
必死で守り、助け、愛おしそうに抱きしめる以外の「資格」が、あるのか。
―駄目なんだ。
ブレットの言葉にも彼はかたくなに首を振り、光の粒子になって消えて行った。
「もー、都合が悪くなると消えちゃって。ずるいよなー」
口をとんがらせるブレットだったが。
「でも、何でだよ兄ちゃん。わかんないよ。えーと、何てったっけ、そうだ!『矛盾』してるよっ」
よく知らない単語を思い出してぶーたれるが。大好きな鎧の兄ちゃんの思いが理解できず、それ以来ブレットの小さな頭に大きな疑問が宿ったのだった。
夕食の席につき(食事は基本、あの農家の主婦であるグレーテが作って届けているらしかった)、その後寝室に行こうとして。
「あの、賢者さま」
扉の前で、アスセーナが振り向いた。
「わたしで、いいんでしょうか。本当に」
「やらせてください」とは言ったが、もちろん不安で。
「殿下を助ける力に、なりたいのは本当です。でも、わたしに任せてしまって、それでうまく行かなかったらと思うと、心配でしょうがないんです」
「先程は『他の者にそのペンダントを渡しても』とは言ったが」
賢者は優しく答えた。
「儂はやはり、そなたこそが適任だと見ておる」
「そう…ですか」
「行動する者の生まれがどうとか、血筋がこうとかで事の成否が決まるのではないからの。強く、まっすぐな思いこそが一番の原動力となる」
「はい。…それに、わたし一人で何とかするのでもないですしね」
アスセーナの硬かった表情が、やっと和らいできた。
「ブレットも、いくら危険だと言ってもついて来て、すごく助けになっているし。グラツィエも、わたしが殿下を助けようとしているのをわかって、ついて来ているし。鎧武者さんも、来てくれて。どうやらカレルさんに頼まれたみたいですけど」
「そう、か」
老賢者のまなざしが、この部屋の外につけられたバルコニー、その手すりに止まっていたグラツィエに向いた。
「ありがとうございます。では、お休みなさい」
アスセーナは微笑み、挨拶をして出て行った。
「―軽率」
厳しい目でグラツィエを見つめながら、賢者レオナルドゥスは言い放った。
「軽率のそしりは、免れませんぞ」
グラツィエは首をすくめた。
「貴方があの娘御に差し出そうとしているものは、彼女が決して求めず、喜ばぬものですぞ。それが貴方にできる精一杯のことであっても。お忘れなきよう」
後ろを向いて視線から逃れようとし、さらに首を翼の下に突っこんでしまった大鷲をもう一度鋭く見つめ、一礼して老賢者は部屋を後にした。
第十四章 母と、願い
朝早く、アスセーナはその「対抗できる存在」がしまわれているという火槍山の頂上に向かって今までよりさらに険しい山道を登り出した。
「ブレット、館で待っててもいいんだよ?」
「やだよそんなの。こんな面白そうなこと、ないじゃん」
子どもは元気よくそう答えて、ここ数日で大分慣れた登り道を少女について歩いた。
「あ、鎧武者さんも来てくれたんだ」
「…」
いつの間にか、見慣れた巨体が側を歩いていた。さすがに道が狭すぎて並んでは歩けず、後になり先になりして同行していた。
館より上にはもう背の高い木は生えていなかったが、まだ地面に張りつくように背の低い木々が茂っていた。登るにつれてそれもなくなり、可憐な花が揺れるお花畑が広がり、やがてそれも消えてひたすら荒涼とした山肌に変わった。
「何か寒いねー」
「ほんとだね。だから木も草もなくなったのかな」
まだ標高差で植生が変わるなどは常識になっていない。登って、登って、山に慣れた少女の足でもお昼近くになってやっと山頂にたどり着いた。
「わあ…っ」
低い山のような、なだらかな山頂ではない。かと言って鋭く尖った頂でもなかった。
「水が溜まってるよ、ここ」
山頂がくぼんで、緑の水を湛えていた。「火口湖」と称される湖だったが、アスセーナもブレットもその名称は知らなかった。鎧武者は知っていたかもしれないが喋らないのでわかりようがない。一軒家ぐらいの広さはある水面が広がっていた。
「ここに、『火槍山の山頂』に、えーと『対抗できる存在』?をしまってあるって賢者のじーちゃん言ってたけど」
その山頂が、こんなに広いとは思っていなかった。
「とんがってるてっぺんを、ちょこちょこっと掘ればいいとか、思ってたんだけどなー」
そうそううまくは行かなかった。
「どうしよう」
アスセーナが不安になって思わず呟く、と。
「遅かったね?待ってたんだよ♬」
声と共に、ぽん!と一同の目の前に現れたのは。
「あ、あなた、あなた、一体」
「久しぶりだなあ、人間と直接話すの。賢者のじーさんは『あれ』ボクたちに押しつけてからぜーんぜん来ないもんねえ」
手のひらに乗るぐらいの背丈の、小さな人型の生き物だった。木の皮で作ったみたいな服を着て、ふわふわ浮いて喋っていた。
「え、えーと。妖精さん、ですか?」
「ご名答♬」
山妖精や水妖精とはまた違う、より自然の精霊に近いとされている「いわゆる妖精さん」な種族だ。と言ってもトロル以上に姿かたちにはいろいろ説があって、中には人間より背が高いなんて話もある。好き勝手に見せる姿を変えられるとも言われていて、とりあえず今目の前にいるのは小さい「妖精さん」だった。
「『預けたものを取りに行かせる』って連絡があって、待ってたんだよねえ」
楽しそうに話しかけてくる。顔立ちは愛らしく、小さすぎるのもあって性別もよくわからなかった。
「じゃあ、その『預かりもの』を、わたしたちに渡してくれるの?」
「うん♬取りに行こうよ。この湖の下にあるんだけどね」
さらりととんでもないことを言った。
「潜らなきゃいけないのー!?」
「ううん。ちゃんと濡れないで行ける道はあるんだけど」
妖精はもったいぶって続けた。
「ただ、その道を通れるのって、乙女だけなんだよねえ」
何かすごい響きの単語が出た。
「あ、そういう意味じゃなくて。ただ、女の人じゃないとダメってこと♬」
「そういう意味」は置いておくとして。
「つまり、姉ちゃんしか通れないってこと?」
「そういうこと♬」
一人だけで、この訳のわからない妖精の示す道を行かなければならないと言う。
「いいよ。わたし一人で行くから」
アスセーナはそう決めた。不安は不安だが、それしかないなら仕方ない。
「えー?でも、でもさ」
ブレットは何とかついて行こうとごねることにした。
「もし行って、なぞなぞとか解かないとーってなったらどうすんのさ。姉ちゃん苦手だろ」
かなりの屁理屈だった。
「ごめんねー。でもこればっかりはダメー」
妖精はにべもない。
「大丈夫だから。ね?」
「…うん」
にっこり笑いかけられ、子どもは引き下がった。
一方収まらないのは鎧武者だった。
―危険だ。
身振りでそう言い募った。
「心配ないよ。妖精さんだって、渡す気満々なんだし」
何か障害があるとは思えなかった。
―君が心配なんだ。何があるかわからない場所に、一人で行かせたくない。
それでも彼はじたばたした。しまいには妖精に向かって拝み倒すような姿勢を見せる。
「えーと、何々?『自分はどうせ空っぽの鎧だから、男も女もないんでついて行かせてくれ』って?兄ちゃん、おいらが『実はおねーさんだったりして』って言った時、首ぶんぶか振って『違う』って言ってたじゃんかー」
アスセーナの身を案じるあまり、何か大切なものを捨てようとする鎧武者であった。
「大丈夫だよ、わたしは」
心配してくれるのは嬉しいが、ここは一人で立てると見せたい。
「…っ」
「心配ないから。信じて待ってて、ここで」
両の手甲を取って言い切ると、やっと彼はうなずき少し下がった。
―わかった。君は、強い。わかっている。
「じゃ、こっちに来て」
妖精とともに火口湖の縁に立った。
「ボクにぴったりついて来てね」
そう言って妖精が手をかざすと。
「わあっ!」
水面が、割れた。底が見え、人一人が通れるほどの道ができた。
「ここを通れるのが、乙女だけでねえ」
「…妖精さんは?」
「エルフ」なら男性な気がするが(女性ならエルフェ)。
「ああ、ボクたちにはそういう縛りはないんだ。さ、こっち」
「う、うん」
信じるしかないと、アスセーナは恐る恐るふわふわ浮いている妖精について行った。さっきまで水底だった中を進んでいくと、いきなり割れていた水が元に戻り、頭上に緑の水が屋根のようにかぶさった。
「ええっ!?」
「心配ないって♬」
確かに、水は二人を吞みこんだりしなかった。トンネルのように続いている。
びくびくしながら歩いて行く、と。
「ここだよ、ここ」
湖の真ん中らしかった。平らだった底が一か所盛り上がっていて、そこに卵―ただし一抱えほどもある巨大な「卵」が鎮座していた。
「それが、お求めのものだよ。ここに昇って来る『炎の力』で封じこめてるんだって。面倒だよねえ」
「これ、が」
あの”氷”の魔術に対抗できる存在であり、賢者がその住んでいる館にすら置いておきたくない代物なのか。
「魔術に関わらない人には害がないから、取っても大丈夫だよ♬」
「うん」
手を伸ばし、抱え上げる。何の抵抗もなく「卵」は腕の中に納まった。
「これで、カイネブルクの街を、中にいるはずの殿下を、助けられるの…?」
これも信用するしかないことだった。
「あ、ちょっと待って」
早速戻ろうとするアスセーナを妖精が呼び止めた。
「もう一つ頼まれてたの、思い出したよ。『炎の力』が集まってるここなら、『何とか話せるんじゃないか』って言ってたっけ。ここに、そのペンダントを置いて試してみればいいってさ」
「ここ」とは、先程まで卵が鎮座していた場所のことだった。
「これを?」
まあその、守ってくれているはずのペンダントを外すのも怖い気がしたが。疑うのが苦手な少女は、ペンダントを首から外して盛り上がった場所に置いてみた。
はめこまれた「思いの結晶」が、強く輝いて。
「いやあ、ようやく話せるわ」
立ち昇る光の中に、人の姿が現れた。艶やかな金褐色の髪、藍色の瞳の女性だ。顔立ちは自分、アスセーナによく似ていた。
「母さん…!?」
まだ三つか四つの頃の記憶しかなかったが、間違いなかった。
「久しぶりねえ。見えてはいたけど、話す力はなかったから」
アスセーナの母・ヤスミナは、懐かし気に娘を見ていた。
「まあ、正確に言うとあたしは『本人』とは少し違ってね。この『思いの結晶』に残った心、思いの欠片なんだけど」
「???」
「説明してもわかんないだろうから止めとくわ」
娘の理解力は把握していた。
「ここでも、話せる時間はそんなにないから用件だけ言うわね。いろいろ聞いたみたいだけど、あたしはエルナン、あんたの父さんと駆け落ちして、緑山地に落ちついて。あんたも生まれて幸せだったんだけどさ。残念だったけどあんたが三つの頃病の兆候を感じてね。前職が前職だっただけに、わかる訳よ。これは何がどうあっても長くないな、って」
奇跡を降ろせても、治せないと。この時代、治せる病などたかが知れていた。
「で、多少寿命を延ばしてもしょうがないから、『思い』を注ぎこんでこのペンダントを作って。これから生きていくあんたの守りになればと思ってね。エルナンもわかってくれたし」
娘にできる、精一杯のことだと判断し、実行した。
「元々はあんたが大怪我したり、重い病にでもなったら砕けることで、傷や病を肩代わりするつもりだったんだ。でも、父さんに似たのか大きい病気一つしないで育ってくれて。あの人が結構厳しく鍛えてたけど、大怪我もしなかったしね」
「…うん」
おぼろげな記憶でも、こういうざっくばらんな喋り方の母親だった。
「で、カイネブルクの街に出て来て、あんなことになって。いや、好きになったら一直線なのは親譲りよね。あたしも似たようなことしてたと思うと、危険だからって止めらんないわ」
「それは、その、っ」
肉親に言われると何か気恥ずかしかった。
「いよいよ砕けて守ることになるかなと思ったけどさ。頭を使ってくれる男の子とか、身体張って守ってくれる人とかいろいろ現れてくれたわね。おかげでまだ肩代わりしなくて済んでるわ」
「ほんとに。お返しができないぐらい二人には助けてもらってるよ、母さん」
「でね。これからどうなるかはわかんないけど、一応言っとくわ。あんたの命を守るのが本来の目的だったけど、その必要がないなら。結晶がこの大きさを保ち続けるなら、砕く―砕いて力を一気に使うことであんたの願いごと、一つだけなら叶えられるかもしれない」
「願い…ごと?」
「うん。まあ予想だと、死にかけてる人を呼び戻すぐらいはできるかな、と。結局はあんたの願う力にかかってくるんだけどね」
はっきりしたことは、ヤスミナ本人にも予想がつかないらしかった。
「でも、一度きり、一つきりよ。やり直しはきかないからね。それは言っとく。ああ、そろそろ時間切れね。じゃあね、アスセーナ。会ったら父さんによろしく言っといて」
それだけ言って、母の姿は消えて行った。
「…母さん…っ」
まさに「言いたいことだけ言って」消えてしまったが。思いやっていること、案じていることは伝わって来た。
「わたし、がんばるから」
ペンダントをかけ直し、「思いの結晶」をぎゅっと握った。
「まあ、わたしの願うこと、となると、ね」
たった一人の人のことになってしまいそうな気もするが。とにかく母親が託してくれた思い、ゆだねてくれた選択は大事にしようと思った。
「さあ、戻ろう♬」
見ていた妖精が声をかけた。
火口湖の淵で、ブレットと鎧武者は二人の帰りをじりじりして待っていた。
「兄ちゃん、落ちつきなよ」
熊みたいにうろうろ歩き回っている鎧武者にブレットは声をかけた。
「心配するなよ。姉ちゃんは大丈夫だって」
―しかし、心配で。
「信じてやれよ。兄ちゃんがついてなくたって、姉ちゃんはがんばれるからさ」
―わかってはいるんだが。
「まー、『騎士道』っての?女の人を絶対守んないといけないってのはあるし、守られないといけないお姫さまがいるのは確かだけど。でも、姉ちゃんはそうじゃないだろ」
―そう、だな。
「姉ちゃんは兄ちゃんを信じてるけど、頼りっぱなしでいいとは思ってないから」
―うん。彼女は、違うな。
「別に、『あなたがいないと駄目なの~っ』っておねーさんがいてもいいけど、違うタイプだからさ姉ちゃんは。信じて待ってようよ」
―わかった。
そうしている間に、また水面が割れた。アスセーナと妖精が姿を現す。
「姉ちゃん!」
「…っ」
ブレットが飛びつき、鎧武者は少し遠巻きにして二人を見守っていた。
「その卵が、じーちゃんの言ってたやつなの?うまく行ったねー」
子どもは好奇心ばりばりで覗きこんでいた。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
―良かった。
鎧武者は、本当は抱きしめたいのを我慢しているようだった。
「にしても結構時間かかったね。大変なことしてたの?」
「え?うん、ちょっとね」
アスセーナは起こったことを説明しようとした、が。
(…ブレットに『母さん』のこと言うの、悪いかな)
親の顔も知らずに育って来た彼に。そのことに引け目を感じる子ではないが、やはり話すのはためらわれた。
「ちょっと手間がかかっちゃった。待たせてごめんね?」
そう言うだけに、しておいた。
もう、午後を大分回っていた。グレーテおばちゃんお手製のお菓子を頂いて休憩し、妖精さんに別れを告げて下山(鎧武者も消えて行った)。賢者の館に戻った頃には日が暮れかけていた。さっそく老賢者に「卵」を渡した。
「まさか、役に立つ日が来るとはな」
賢者レオナルドゥスは一言呟く。と、ぱりんと殻が割れて姿を現したのは。
「か、かわいいっ」
アスセーナが思わず洩らした。そう、出てきたのは細長い身体を真っ白なふわもこの毛皮で包んだ、鼬のような生き物だった。真っ黒な目できょろきょろ辺りを見回して「チイ」と一声鳴いたかと思うと、ぱっとアスセーナに飛びついてちょろちょろと駆け上がり、肩から肩へと跳ね回った。
「懐いたようじゃの。何よりじゃ」
そう言いながら賢者は動き回るその生き物をひょいと捕まえ、首に金色の首輪をぱちりとはめた。その途端にふわもこは彼の手を逃れ、今度はブレットに飛びついてチイチイ鳴きながら身体の上を駆け回りはじめた。
「じーちゃん、このふわもこは」
見たところ普通の鼬に見えるが、卵から普通鼬は出て来ない。
「うむ、一種の魔法生物じゃな。昔、酔狂な魔術師が生み出したのじゃが、魔術を使う者にとって厄介な特性を持っていての。魔術師の中でたらい回しにされ、ここに預けられることになったのだが。儂も魔術の実験をする為、館に置けなかった」
「厄介な特性?」
「『魔力返し』と呼ばれておっての。魔術、それも大規模で効果を発揮するのに時間のかかる儀式魔術を解きほぐして『返し』てしまい、無効化する―なかったことにするという能力を持っておる。大規模な儀式魔術を行っている場所にこいつが近づくと、嗅ぎつけて『返し』てしまうので、魔術師の間では厄介者だったのだが」
準備に手間もかかり、魔力も注ぎこむのに無効化されては元も子もないのである。
「あ!だからその”氷”の魔術に!」
「そういうことだ。ゲンドリルの魔術を解呪するのはおそらくどんな大魔術師にも無理だろうし、もし解呪できたとしても既に吸い出された『思い』は戻せない。だが、唯一この魔法生物なら、全てを元の状態に戻すことができる」
街の人々を元に戻すには、他に方法がないと言った。
「こんな、小さなふわもこが」
「カイネブルクの街に連れて行って、首輪を外せばこいつは大規模魔術を嗅ぎつけてその能力を使うじゃろう。ただ『魔力返し』の能力を使っている間こいつは逃げることもできぬ。その間に奴が気づいて攻撃したら、さすがに死んでしまうだろうな」
「その間、わたしが注意を引けばいいんですね」
「そういうことだ。その『思いの結晶』を持つそなたなら、何とか」
「わかりました。やらせてください」
「頼む」
深々と、頭を下げられた。
もう二晩館に泊めてもらい、それからの出発になった。アスセーナはまた湯を浴びたりして身体を休めていたが、ブレットは何故か賢者に気に入られていろいろ話を聞く、と言うかレクチャーを受けることになった。元々学問を教えていたので、九歳児ではあっても頭の回転が速い聞き手がいるのは嬉しかったらしい。
「一つ、気になることがあっての」
その話の一つがこれだった。
「奴、ゲンドリルが己の身から『命』を抜き出し、別の場所に隠しているのではないか、ということじゃ」
「そんなことできるの?」
「奴がどうやら、人の『魂』を身体から抜き出し、物品に宿す秘術を行ったらしい。それならば、その更なる上級の術であるという『命』を他の場所に隠す秘術を自らに施す可能性もある、と考えたのじゃが」
「ふーん。それやると、つまり」
「本人を目の前にしていくら攻撃しても、剣で斬っても火で焼いても『殺せない』のじゃな。奪うべき命が、そこにないのだから」
「便利だなー、それって。不死身じゃん」
「だが、奴がその術を使えても、自らに施しているかはわからん。あまりにも代償が大きすぎるからなあ」
老賢者はため息をついた。
「まず、もしその『命』の隠し場所が発見されて宿している物品を壊されたら何もできずに死んでしまうしの。何らかの防御手段は講じているだろうが、本人が直接守るほど強力な防御ができるのか。用心深いと聞く奴がそうするかどうか」
それだけではなく、と続けた。
「自らの生命が身体から抜き出されるのじゃからな。身体が味わえる喜びを、一切感じられなくなると聞く」
「え、つ、つまり」
「何を食べても味は感じない。何を飲んでも渇きは癒せない。酒に酔うこともできない。眠って夢を見、目覚めてすっきりすることもなく…誰かを心から愛することもなくなる。まあこれはお主にはちと早いかの」
「うーん。まあ、死にたくないとは思うけど」
ブレットは考えてみた。
「おいしいもの食べてもおいしくないのはやだなあ。寝ないのもつまんないか」
「そうじゃろうな」
その様子を見て、賢者は目を細めた。
「それに、身体が限界を迎え、朽ちて行っても『死なない』のだからな。そこまで行けば『死ねない』になってしまう。そこまでの代償を払ってまで行う術かと儂は思うよ」
ただ、とつけ加えた。
「儂はそう考えるが。奴が―どうやら高位の悪魔との取引もなしたらしい奴がどう考えるかは、わからぬ」
「あやふやな話だなあ、じーちゃん」
ブレットは文句を言うが、確証をもって言える事柄ではないのはわかっていた。その他にも「思いの結晶」についてや、大陸諸国の地理など様々なことをレクチャーされ子どもは心にしまいこんでいった。
明日は出発という夕飯の後。
「帰りの道は、どこを通るつもりかの」
「えーと、わたしが知っているのは、来た道だけなので」
そこをまた通らなくては、と考えていた。
「黒い森をわずかな人数で踏破し、たった二ヶ月でここまで来ることのできたそなたたちなら、また戻れるじゃろうが。時間はかかるし不測の事態となったら大幅に遅れてしまうこともあり得る」
老賢者は地図を広げた。
「儂が勧めるのは、カイネブルク王国の東国境である祭壇山脈を回りこむ道筋じゃ。まあ、国境を完全に越えてしまう訳じゃが」
「隣国のラウエンシュタイン王国に入ってしまうんですね」
この時代、国境越えだけでは罪にはならないので警備の者に見つかってとがめられることはあっても牢屋に入れられたりはそうそうないだろう。
「黒い森を再踏破するよりは早く戻れるはずじゃ。それにこの雷神山脈から祭壇山脈に行くのは通常の道では困難。しかし」
地図の一点を指し示した。
「この、二つの山脈が繋がるあたりに小人族の大鉱山地帯がある。閉鎖的で他種族はまず鉱山に入れない小人族だが、儂は以前少し協力したことがあってな。直筆の紹介状を渡せば、通してはくれるだろう。目隠しはされるだろうが」
「え!?あ、でも『普通通れない』なら」
「ゲンドリルの弟子だと言う魔術師たちにも盲点のはず。まあ儂の巡らせた『帯』を出れば感知魔法に引っかかってしまうかもしれぬが。少なくともかかる時間は短縮できる」
「わかりました。その道を行ってみることにします。ありがとうございます」
「いや、任せると決めた以上できる限りの助力はしたい。紹介状を書いておくから持って行くがいい」
「はい」
「後は―一時ラウエンシュタイン側に入り、その後カイネブルク王国に戻るのだが。その際、魔術師より厄介な魔物、吸血鬼の館の近くをわずかの間だが通らざるを得ない。休眠期に入っていればいいのだが、目覚めていて目をつけられると危険…これも確証がなくて申し訳ないの」
「いえ、その道を行ってみようと思います」
急げるものなら、急ぎたかった。
「そうか。その『思いの結晶』は吸血鬼にも効くはずじゃから、心配ないとは思うが」
何も決まってはいない。不安要素は多いが、結局は自ら道を切り開くしかないのだった。
次の朝、旅の支度を整えた二人を賢者と、門番の夫妻まで来て見送ってくれた。
「では。また会えるといいですね」
挨拶をしてアスセーナが歩き出した。ブレットがついて行こうとすると。
「のう、ブレットよ」
賢者レオナルドゥスに呼び止められた。
「今すぐの話ではないが。お主、賢者の修業をしてみる気はないか」
「へ?」
意外な話に子どもはびっくりした。
「賢者って普通、小さい頃からいっぱい勉強してる、家庭教師とかついてる奴がなるんじゃないの?」
「いや」
賢者は優しい目でブレットを見つめた。
「そうやっていくら知識を詰めこんでも、『賢さ』にはなかなか繋がるものでもなくてな」
「知識の豊富な者」にはなれても「真に賢い者」にはなれないと言うか。
「だがブレット、お主には『賢者』になり得る素質があると見た。どうじゃな」
「えーと、その」
子どもの視線が先を行く少女に向いた。
「うむ、今すぐにとは言わん。まだまだお主には家族が必要だからの。たくさん愛されて、優しさを注がれて、もう充分と感じたらここに戻って学ぶことを考えてくれ」
「うん!」
幼い顔がぱっと輝いた。
「じーちゃん、ありがと!考えとくね!」
「未来」を提示してくれた人に礼を言い、走って行った。
第十五章 霧と、不安
「賢者さまの巡らせている『帯』がどこにあるのかはわからないから」
アスセーナとブレットは、再び山道を歩きはじめた。
「いつ抜けるのかはわからないけど。それを越えて出たら、またあの嫌な魔術師がわたしたちを狙って来るのよね」
「あのぺらぺら野郎がねっ」
人の心を惑わす、嫌な嫌な奴という印象しかなかった。
「チイ」
アスセーナの肩に乗った白いふわもこが、鳴いた。
「あなたの力は、カイネブルクの街で使ってもらうからね。えーと…マナちゃん」
特に名前はついていないと聞いていたので、とりあえずそう呼ぶことにした。
「チイ」
どうやら自分のことを呼んでいるとわかったらしい。小さなふわもこは一声鳴いて、少女の頬に身体を擦りつけた。続けてぴょんと跳びブレットの頭に移ってと、二人の身体の上を駆け回っていた。
「やっぱり普通の動物じゃないんだなあ。頭いいよね、こいつ」
普通の鼬だったら、こんなにすぐ自分の名前だと理解しないだろう。
「『魔法生物』だってじーちゃん言ってたけど」
魔術師によって生み出されたが、厄介者扱いだったと。
「で、じーちゃんに預けられてからずーっと卵の中だったのかなあ」
だとしたら、その中でどんな気分だったのだろうかと思った。
「まあ、今幸せそうだよね」
マナと名づけられたふわもこは、今自分たちと一緒でとても嬉しそうだったのでこれでいいのかとブレットは考えることにした。
賢者レオナルドゥスが教えてくれた通り、今二人とマナは山脈の尾根道をたどっていた。今のところ険しくはなく、ただ砂利道がずっと続いているだけだ。殺風景だが歩くのは楽だった。
「こうしてずっと行けば、そのうちに小人族が『ここは儂らの縄張り』って言ってる領域に入る、ってじーちゃんの話だったね」
余所者を入れたがらない種族なので、巡回して警戒しているはずだとも。
「『とがめられたら紹介状を渡して、頼むように』って」
「うん」
うまく行くかどうか不安だったが、そうするしかない。アスセーナは懐の紹介状をぎゅっと押さえた。―と。
「チイ」
マナが今までになかったほど、高く鳴いた。
「な、何かまわりが」
周囲が白くかすんでいた。どんどん見通せなくなっていく。
「霧よ、山霧。高い山の上だし、今まで巻かれなかったのが不思議なのかも」
そう言っているうちにもどんどん霧は濃くなり、ミルクのような白さが今や二人を包んでいた。手を伸ばせば、指先が見えなくなりそうなほどに濃い霧だ。
「はぐれたら大変。ブレット、手をつなごう。で、晴れるまで動かないでいようね」
「うん」
手をつなぎ、寄り添って砂利道に座りこんだ。
「ああ、マナちゃんが隠れちゃった。この湿気が嫌なのかな」
さっきは高い鳴き声を上げていたが、マナはもう声も出さずにアスセーナの荷物の中に潜りこんでしまっていた。
「わかるわ。嫌だもの、このじとっとした感じ」
この地域は全体的に湿気が少ない気候で、アスセーナもさらっとした空気の方が好きだった。服に沁みこんで来るじっとりした湿気に、身を震わせた。
「ああ、髪もじとっと湿って…え?」
ポニーテールを確認しようとしたアスセーナの手が何か固いものにぶつかり、思わず声を上げてしまった。
「岩かな?でも、岩なんてあったっけ」
起伏のあまりない尾根道がずっと続いていたはずと、あわてて手で探ってみた。
「岩じゃない…金属?で、ごつごつしてて。あれ、何か、覚えが」
手触りに覚えがある。何度も触ったり、触られたりしているような。
「…もしかして、鎧武者さん?」
ぺたぺた触りながらそう言うと、その「固いもの」がびくっと振り向いた。
―君たちだったのか!?
やっと視界に入ったその姿は、間違いなく彼だった。
「全然、わからなかったよ」
―私もだ。良かった、見つけられて。
両腕を広げて驚きを示し―一瞬ブレットを見てためらったが、結局二人をぎゅっとして安堵の意を示した。
―参った。
腕を振り回して困惑を表現している。
―この霧の中では、視界が狭いのはもちろん音も、気配までが全く感じられない。
「そうよね、何か変。普通の霧じゃない気がする」
鎧武者もアスセーナも、気配を読む能力は人並み外れている。それを遮る「霧」は、明らかに世の常のものではなかった。
「もしかしたら」
ブレットも考えを巡らせていた。
「また、魔術の一種なのかも。思いっきり『惑わされてる』し、おいらたち」
「またあの人が」
思い出しただけで嫌な気分になるアスセーナだった。
―とにかく、離れ離れにならない方がいい。
二人を見やってそう言いたそう(あくまで推定)な鎧武者は、ひょいと両腕でアスセーナとブレットを抱え上げた、が。
「…」
これでは、いざという時両手とも使えないと気づいたらしい。しばらく考えて、
「…わあっ!」
「ひゃっ!?」
ブレットを持ち上げて兜の後ろに座らせ肩車、アスセーナは左腕で抱えることにしたらしかった。空いた右手は大剣の柄を握りしめた。
「あ、あの、ありがとう」
腰を抱えこまれてしまっている少女は赤面するが。
「確かに、これなら離れないでいられるよね。じっとしていよう。下手に動くと道を外れそうだし。あの嫌な魔術師がこの霧を作ったのなら、何か仕掛けて来そうだもの」
どんなに美男子ではあっても、からめ手と言うか卑怯としか思えない罠を仕掛けてくる魔術師。元々まっすぐな性質であるアスセーナとしては、どうにも好きになれない男性であるという評価を下していた。
「何か来るかもしれないから、気をつけてね兄ちゃん」
この霧は、視覚も聴覚も気配すら遮ってしまうらしい。半径五十センチぐらいまで近づかないと全く知覚できなかった。
「…」
(…鎧武者さん)
アスセーナには、彼の不安と緊張が密着している鎧を通して感じられた。
武術の達人となればなるほど、戦いの中で相手の殺気や闘気、放つ気配を読み取って次の動きを予測する。―しかし、この霧の中では一切の気配が感じ取れない。その中で「二人を守らねば」と考えている鎧武者が「読めない」状況にどれほど不安を覚えているのかは見当がついた。
(いつも、ありがとう)
そう思い―ふと、疑念を抱いた。
(もしかしてそれが、あの、魔術師の狙い?)
ブレットのように理詰めで考えての心配ではなく。狩人、武人としての経験から培われた感覚による疑念だった。
「!」
少女が触れている鎧に、緊張が走ったのがわかった。
目の前に、気配は感じないが視界に入るか入らないかぎりぎりのところで何かが動くのがちらっと見えたのだ。
「っ!」
大剣の柄を握る手に力がこもる。
―斬る!
「待って!」
鎧の中で殺気が膨れ上がるのを感じたアスセーナは、とっさに腕をつかんで叫んでいた。
「―っ!」
今にも抜刀するところだった鎧武者は寸前で手を止め、何故?と言うように少女を見た。
「何か、何か…問答無用で斬っちゃいけない気がするの。はっきり見えるまで待って」
お願い、と言うと彼はうなずき、警戒は解かなかったが剣は抜かずにいた―すると。
「全く、何なんじゃこの霧は」
霧の中からぶつくさ言いつつ姿を現したのは。
「あ、あなたは」
小柄な男性だった。それもアスセーナの胸あたり、ブレットとそう違わない背丈だ。がっちりと肩幅が広く、地面に届きそうな長いひげを生やし、ごわごわの眉毛の下で火のついた石炭のように目が輝いていた。
「えーと、小人族の方、ですか」
「そうじゃが…何だそのデカブツはー!」
人二人を抱え、剣の柄に手をかけて寄らば斬るぞの構えを取る巨大な鎧を見て、小人は腰を抜かしそうになった。彼の身長だとより脅威に感じられただろう。
「驚かせちゃってすみません。霧に巻かれて何もわからないから、警戒しちゃってて」
「いや、その気持ちはわからんでもないの。斬られては困るが」
怒り出すかと思いきや、理解してくれた。
「儂も何も見通せずに困っておったからの。こんなことは生まれてはじめてじゃ」
隠そうとしているらしいが、明らかに安堵していた。
「儂ら小人族は地下を住処とするからの。暗闇も見通せるし陽の光も問題ない。これほど『見えない』ことははじめてじゃ」
はっきり示すのはさすがに恥ずかしいが、かなりのパニック状態だったらしかった。同族ではないが話せる相手を見つけ、口数が増えていた。
「わたしたちも、どうしていいかわからなくて本当に」
「そうじゃろうな。儂も先手を打つ気はあった」
後ろ手に手斧を握りしめていた。
「―もしかして」
見下ろしていたブレットがぽつんと呟いた。
「この変な霧の目的って、おいらたちと小人族を仲違いさせること?」
「あっ!」
いかに紹介状を持っていても、出会い頭に斬り伏せていたら敵意は解かれないだろう。鉱山を通してもらうどころか、恨みを買って一族全員に執念深く追い回されることになりかねなかった。
「あのぺらぺら野郎!次から次へとずるいことして」
幻惑の技が得意なのはわかるが、こちらとしては「ずるい」としか思えない。
「自分では危ないことしないで、罠ばっか!くそー」
「でもほんと、この霧。どうすれば晴れるんだろう」
「どっかで作ってるのかもしれないけど、探せないよー」
「いや、やりようはある」
小人の黒い瞳に、まさに石炭の火花のような光が灯った。
「儂としたことが、大地を味方にできることを忘れておった」
落ち着いた途端に頭が回り出したらしい。彼は、短い脚で砂利を、地面をどんと踏み鳴らした。と。
「よし」
どん、どんと同じようなリズムでどこかから響きが伝わって来た。
「『反響』ってやつ?」
「いや、少しリズムが違うじゃろう。仲間たちが応えておる」
ブレットにはさっぱりわからないが、違うらしい。そうやってしばらく足を踏んでは耳を傾け、を繰り返し。
「こっちじゃ。ついて来い」
自信ありげに言い、歩き出した。
時々立ち止まってまた地面を踏み、また進む。どれだけ歩いただろう。アスセーナたちにはもう距離も時間も定かでなかったが、小人は自信たっぷりに歩いて行った。
と、白い霧の中から、また小人が。
「わっ!びっくりしたあっ」
鎧武者に肩車されたブレットが声を上げるが、小人二人は平然と挨拶を交わしていた。ただし、小人族独自の言葉が混じっていて意味が取りづらい。
「な、何か二人ともそっくりだね」
同じぐらいの体格、ひげ面でどっちがどっちか非常にわかりづらかった。
「そうかの?儂らには人間族の方が見分けづらいが。まあお主ら三人はさすがに見分けられるがの」
同族と合流できてさらにほっとしたのか、今まで一緒だった方の小人がひげ面をほころばせた。
「名乗っておらんかったの。あわてておったな。儂はブロックと申す。こっちはエイトリで兄弟じゃ」
「それで似てたんだ」
「そうでもないがの」
と言ってまた足を踏み鳴らすと、さらに小人が数人現れた。兄弟ではないようだが、人間の目には見分けづらいほど似ている。
「こっちじゃ」
さらに進んで。
「ここから霧が湧き出しておる、と伝えてきおった」
またしてもブロックそっくりの小人が現れ、手招きした。そこには。
「これ?」
膝丈ぐらいの岩があり、その上にはおよそこの高山にはそぐわない―巨大な二枚貝が鎮座していた。
「遠くの『海』ってのに、こういう貝が転がってるって聞いたけどー」
ブレットが鎧武者の身体から滑り降り、好奇心いっぱいで観察した。
「中の、宝石みたいな玉から」
二枚の貝殻、その隙間から拳ほどもある丸い珠が見え、その珠からもくもくと白い霧が湧き出してまわりに広がっていた。
「これを壊せば。―鎧武者さん」
アスセーナが鎧武者から少し離れて声をかけると、彼はうなずいて今度こそ大剣を抜き放った。
「っ!」
貝ごと珠を見事に一刀両断する。
「これで、晴れるかな」
待っていると、供給を断たれた霧は次第に消えてまわりが見えてきた。
「ふう」
「良かった。…ああ、髪がぺたーんってなってるー!」
ほっとした途端に気になり出し、少女が自分の金髪を触って声を上げた。髪質の関係で湿気を吸うとボリュームがまるでなくなってしまうのだ。
「姉ちゃん大丈夫、お日さまが出れば戻るって」
ブレットが気楽に声をかけるが、アスセーナは不満げに髪をいじっていた。
「…っ」
大剣を鞘に納めた鎧武者が彼女に近づく。ポニーテールをそっとすくい上げた。
「…」
どうやら、「今でも充分きれいだよ」とでも言いたいらしい。―そこに、湿気が消えつつあるのを感じたのか背の荷物からマナがひょこっと顔を出した。
「――っ!」
その途端、全身鎧がびくうっ!と跳ね上がり、ものすごい勢いで飛び退いた。さっきまで巨大な貝が鎮座していた岩陰に飛びこむ。
「え、え?」
「~」
そのままぶるぶる震えて、縮こまっていた。
「どうしたの?鎧武者さん」
「~っ」
アスセーナが問いかけても、ただふるふる首を振って縮こまるだけ。
「な、何じゃこのデカブツは」
小人たちも驚いていた。
「へ?も、もしかして兄ちゃん」
今の反応を考えてみて、ブレットは。
「マナ…が、怖いの?」
うんうん。
「ええっ?こんなに可愛いのに」
少女が荷物から出て来たマナを抱っこすると、小さなふわもこは嬉しそうに「チイ」と鳴いた。
「!」
その鳴き声だけでもうびくびくしている。
「あ、もしかしてこいつ『魔力返し』だから、兄ちゃん苦手なのかな」
「何らかの魔力的な力は働いている」とグレゴリウスのじーちゃん言ってたしな、とブレットは思い出すが。
「違うみたいだね」
魔力がどうとかではなく、ただただ単純に怖くて怖くて仕方ないようだった。
―私は。
岩陰から腕甲が出て、強引に砂利の上に文字を書いた。
―どうにも…小さくて、毛皮のもこもこした生き物が、駄目なんだ。
「そう言えば」
アスセーナは狩人なので日常的に罠をかけて野兎などを捕らえてシチューにしたりするが、そういう折に鎧武者は近くにいたためしがなかった。まあ戦っているのでもないので現れないのは当然だったし、飲み食いはしなさそうなので出て来られても困るのだが。
「でも兄ちゃん、狼とかとは平気で戦ってるのに」
―あれは大きい。
手だけで「大きさ」を表現していた。
―小さい、毛皮の生き物が、前から…どうにも、その。
「へー」
まあブレットも、街のチンピラで「俺は強いんだぞー」と力こぶを見せびらかしているのにどんなに小さくても蜘蛛を見ると気絶するあんちゃんとか、粋がっているのに蛙を見ただけでダッシュで逃げるあんちゃんとかは知っていたが(と言うか、むしろ積極的にいたずらを仕掛けていた)。
「兄ちゃんにも、怖いものがあったんだ。あんなに強いのに」
どんなチンピラだって足元にも及ばないほどの、本物の強さを身につけているのに。
「…」
さすがに恥ずかしいらしい。おずおずと岩陰から首を出すが、抱っこされたマナを見るなりまたびくっとして。恐怖に耐えかねたように光と化して散ってしまった。
「どーすんだよ兄ちゃん。これからずーっとマナと一緒なのに」
そう呟くブレットの頭にマナが飛び乗って「チイ」と鳴いた。
第十六章 まぼろしと、信頼
霧が完全に晴れると、一同のいる場所は尾根道をそう外れていない地点だとわかった。用心しながら歩いていたので、動いた距離もそう大きくない。その割に時間は過ぎており、久しぶりに見た気がする太陽はもう西に大分傾いていた。
「いや、世話になった」
改めてブロックがそう言った。
「いえ、わたしたちの方こそ助けてもらいまして」
こちらの方が事実だろう。
「礼はさせてくれ。儂ら小人族は、受けた恩は必ず返すのでな」
義理堅さも、頑固さの一つの顕れだった。
「あ、あの!わたしたちは、あなた方にお願いがあってここに来たんです!これ、賢者さまの紹介状です」
「鉱山地帯を通して、山脈を抜けさせて欲しい」と書いてあるはずの書状を、アスセーナはあわてて懐から出してブロックに渡した。
「ふむ」
封蝋を外し、羊皮紙を開いてブロックはひげをしごいた。
「カイネブルクの街が、のう。儂らもおかしいとは思っておったんじゃ。半年に一度王国から、採掘した金属や宝石を受け取りに使節団が訪れ、穀物などと引き換える手はずになっておるのに先触れも来ておらぬしの。特に儂らは穀物を食うより酒を醸すために必要としておるので参っておった」
蒸留した強い酒を好むともっぱらの噂である。
「街の人々を助けるために通行許可を求めている、と。もっともな話じゃな。だが、儂らにとって鉱山地帯は何よりの宝じゃ。目隠しもいとわんと言われても、そうそう他種族の者を入れる訳にもなあ。ここにいる者では決められぬ。一晩、待ってくれぬか。戻って仲間たちと評議し、明日返答する」
「お願いします」
そのぐらいは覚悟の上だった。
「ちぇ、ちゃーんとじーちゃんの紹介状渡したのになー」
ブレットは文句たらたらだが。
「では、この場で一晩待たせてもらいます。明日、お会いしましょう」
アスセーナは身をかがめて一礼した。
尾根道に戻って、そこで野営した。
「すっごく冷えこむと思うから、しっかり寝袋にくるまってね」
ブレットは寝相が悪く、時々起きると身体が半分寝袋から出ていたりするのだ。
「気をつけるよー」
「あと、マナちゃんを抱っこしていれば少しはあったかいかもね」
アスセーナはこの一晩を快適に過ごすため、支度に余念がなかった。
「火も絶やさないようにしとかないと。賢者さまがいい燃料分けてくれたから」
高山では焚き木が手に入らないだろうと、小さく押し固めた特殊な燃料を渡してくれていた。また、グレーテおばちゃん特製のパンを二人はかなりの量持たされている。食べて行けばじきになくなるだろうが、せめてもの心づかいであった。
「鉱山地帯を抜ける許可が、出るといいけど。できるだけ早く、カイネブルクに戻りたいものね」
そう話しながら、早々に寝ついた。
夜が、白々と明けていく。そんな時間にアスセーナは目を覚ました。
「ん…何で、わたし」
いくら何でも早過ぎる。―何か、気配を感じて呼び覚まされたような。
彼女は起き上がってあたりを見回した。火はちょろちょろと燃え続けており、横ではブレットがマナを抱っこして健康な寝息を立てている。危険要素はない、けれど。
「……」
「…え?」
野営地の向こうから、誰かが呼んでいる。そんな気がして。
「…誰…?」
妙に気になって、彼女は寝袋から出て起き上がり、身づくろいをして歩き出した。―それにブレットもマナも気づきはしなかったが、近くの岩に止まって眠っていたグラツィエだけが首を翼から出して見守っていた。
今いる雷神山脈と、東の祭壇山脈が繋がる地。そこに小人族の大鉱山があると聞くが、そこに大分近づいていた。
アスセーナが歩いて行くと、その祭壇山脈の上空が次第に色づいてくる―それを背景に、すらりとした青年が一人立ってこちらに微笑みかけていた。
「アレクサンデル、殿下…?」
「会いたかったよ」
カイネブルクの街で見たままの微笑みだった。ただし略式の騎士鎧ではなく、礼装とでも言うべき衣服に身を包んでいる(アスセーナには細かい定義はわからないが)。
「私のために、こんな遠くまで旅をしてくれたんだね。嬉しいよ」
「でも…でも」
驚きと困惑で言葉がうまく出て来ない。
「あなたは、カイネブルクの街であの”氷”の中に捕らえられているのでは?」
救い出すために、ここまで旅して来たのだが。
「そうだ」
青年は美貌に憂いをにじませてうなずいた。
「”氷”の中で…一度だけ会った君のことを、ずっと思い出していた。忘れられなくて、会いたいと、ずっと。何度も何度も、そう願い続けていたら…いつの間にか、ここに立っていた」
「で、でも、でも」
到底信じられる話ではないが。…しかし、一目で恋したその人に「私も君のことが忘れられずにいた」と言われると、つい嬉しくなってしまった。
それに、前に見せられたまぼろしは一言も喋らなかったが、今目の前にいるこの人は喋り表情を変える。憂いの色が消え、また優しく微笑んだ。
「君に会いたくて、会いたくて、仕方がなかった」
そう言いながら一歩、こちらに踏み出した。
「で…んか」
吾知らず、アスセーナもまた足を踏み出していた。
「やっと、やっと君と、こうして」
そう囁きながら、しなやかな腕が少女の背に回され、抱きしめようとしたその時。
「―っ!」
アスセーナは後ろに飛び退き、その腕から身をもぎ離していた。
「ちがう!」
悲鳴のように叫ぶ。
「あなたは―ちがう!」
「どうして?」
美しい顔に、こちらが申し訳なくなるような困惑と悲しみの色を見せて青年は首を傾げた。
「まだ、一度も私は君を抱きしめてはいないよね。どうして『違う』と思うの?」
「わからない。でも、違うの!」
腕が背に回った時、感じたのだ。「違う」と。
「違うの!あなたじゃない、あなたじゃ!」
拒絶するのが辛くてたまらず、悲しげに首を振る少女を前にして。
「…やれやれ。残念だなあ」
「アレクサンデル」の美しい顔に、ゆっくりと―残酷な笑みが、浮かんだ。
「あのままでいてくれたら」
少女の背に回していた右手に、暗殺針が朝の光を受けてぬらりと輝いた。
「大好きな人に、抱きしめられる歓喜の中で、苦痛もなく―死ねたのにね?」
おそらく、針には猛毒が。
「ねえ?仔猫ちゃん」
「やっぱり、あなたは…!」
「ほんとにねえ。このぼく、幻惑の技にかけては師をしのぐと評される札の弟子のぼくが、前線に出て直接手にかけることになるなんて。『棍棒の』奴じゃないんだからさ。魔術師のやることじゃないっての」
「…っ!」
「完璧な変化の術だと思ったのに。何でわかったの?師監修で、声までそっくりに変えたのにね?」
くすくす笑いながら、暗殺針を構えた。
「こうなったら仕方ないや。この針で死ぬか、追いこまれて崖から落ちるか、どっちがいい?」
「くっ!」
アスセーナも小剣を抜いたが。
「どうしたの?斬りかかって来ないのかな?」
「うう、う」
その顔。
恋い慕うその人ではない、わかっているのに。その美しい顔に、剣が向けられない。
「その姿、やめなさいよ!元の姿に戻って!」
「やだなあ。こんな楽しいこと、やめるわけないじゃないか?」
彼にとって、アスセーナの苦悩、悲しみが最高の愉悦であった。
「殿下の声で、語るな…!」
こちらは剣が向けられず。
毒が塗られた針―かすっただけで、おそらく命を奪われる。いかに直接戦闘には不向きの魔術師が相手とは言え、これではじりじりと後退していくしかなかった。しかも、ここは高山の尾根道。切り立った崖など、近くにいくらでもあった。その一つに、どうしようもなく追い詰められていった。
「あなたの、本当の名前は?まぼろしではない、本当のあなたは誰なの?」
噓、偽り、幻惑―そうしたもので己を塗り固めたこの魔術師に、問いかけた。
「もともとの名前なんて、忘れちゃったな」
彼のものではない「偽り」の美貌で、笑った。
「魔術師としての、師に貰った名前は『杯の』幻夢神、だけどね」
「く!」
革靴の下の地面が、もう半分ないのを感じた。
「もう逃げられないよ?崖から落ちちゃったら、その可愛い顔もぐちゃぐちゃに潰れるよ。残念だなあ?」
言葉とは裏腹に、楽しくて仕方ないと言う口調で暗殺針を振り上げる。完璧に整った顔が残忍な笑みで歪むのを、少女は泣きそうになって見上げていた。
「終わり、だね」
「…!」
アスセーナの目の前で。
その笑みが、その美貌が―断ち割られた。
「あ、ああ…!」
「アレクサンデル」の顔をした魔術師が、朱に染まって倒れ伏す。
その向こうには。
「…」
大剣についた血を払い、大丈夫か?とでも言うように振り向いた鎧武者に。
「ひどい、よ…」
「…」
「…ひどいよ!」
アスセーナは泣きながら、巨大な全身鎧に掴みかかった。
「ひどいよ!ひどい、ひどい!何てことするの!」
彼女の脳裏には、美貌を朱に染めて断末魔の表情を浮かべた「アレクサンデル殿下」の姿が、くっきりと刻みこまれていた。
…倒れたその姿は、もはや金髪の魔術師のそれに戻っていたけれど、それを確認する余裕など今のアスセーナにはない。
「ひどい!ひどい、あんまりだよ!」
パニック状態で泣き叫び、胸甲をどんどん叩いてこらえきれない怒りと悲しみを吐き出す少女を、鎧武者はただ支え続けた。肩を掴んでいないと崩れ落ちそうなその身体を支え、抗議の叫びを受け止め続けていた。
「ひどい、ひどい…あ、うう、うう」
ようやくパニックから抜け出し、アスセーナは鎧武者の腕の中で泣きじゃくりはじめた。そんな彼女の背と髪を、ごつい手甲がそっと撫でた。
「ご、ごめん、ね」
さすがに一時のパニック状態が収まれば、自分がいかに理不尽なことを言っていたかわかって来た。
「ごめん。わかってるんだ、ほんとは」
彼相手に抗議し、怒りをぶつけるのがいかにひどいことか。
「わかってるけど、あまりにもショックで、つらくて」
「…」
わかっている、と言いたげに髪を撫でた。
「わたしが今にも殺されそうだったから、とっさに斬って…守って、くれたんだよね?ありがとう。なのにわたし、『ひどい』なんて言ってしまって。ごめんなさい。本当に悲しかったから、つい」
どこにもぶつけようのない感情を、ぶつけてしまった。
―いいんだ。
彼は首を振り、一歩下がって彼女から距離を取った。
―もう、一人で立てるね?
「うん」
―それでいいんだ。どんなに泣いても、わめいてもいい。その後、ちゃんと自分の足で立てれば。
「大丈夫。がんばれるよ、わたし」
「…」
鎧武者は少女の前にひざまずき、大剣を両手に捧げ持った。
―君のために、この剣を振るおう。
剣を鞘に戻し、胸甲をどんと叩いた。
―君を守る盾として、この身を使おう。泣く時は、すがってくれ。怒りも悲しみもぶつけてくれればいい。私は、君を力の限り支えたい。
そして、一礼。
―でも、最後に決断し、行動して道を切り開くのは、君だ。一人で立って、一人で決めて、やり遂げてくれ。君ならできる。
甘やかすのでも、突き放すのでもなく。敬意と信頼の思いだった。
「ありがとう、信じてくれて。ずっと守ってくれるより、この方がわたしは、嬉しいよ」
自分一人では何もできない、誰かに頼らないといけない存在では、いたくなかった。そういう人間がいるのはわかるし否定はしないけど、自分はそうでありたくない。できることをして、道を切り開いて行きたかった。
「わたし、がんばるから」
―そうだ。君は、それでいい。
「うん」
そう認めてくれる男性が、どれだけいるだろうか。信頼される喜びを、アスセーナは嚙みしめていた。
と、マナが野営地からちょこちょこ駆けてきて、ぴょんと鎧武者に飛びついた。
「~~っ!」
巨大な全身鎧が飛び上がり、小さなふわもこを背中にぶら下げたままあたふたと逃げ回った。
「~っ!」
ようやくのことでしがみついていたマナを放り出し、手近な岩陰に逃げこんだ。
「…」
びくびくしながら首だけ出して様子をうかがうが、マナがちょろちょろアスセーナの身体を駆け上がり、肩に乗ったのを見て明らかにがっくりした。
「鎧武者さん。…さっきまであんなにかっこ良かったのに」
強く、優しく「君ならできる」と伝えてくれた姿を思い出して。アスセーナは今の彼、小さなふわもこにすくみ上がっている鎧武者を見てくすっと笑った。
「どうしたの姉ちゃん。あ、鎧の兄ちゃんも」
ブレットも起きて来て、この光景に目を丸くした。
「何をどたばたやっとるんじゃ、お主らはまた」
さらに、こともあろうにブロックも来てひげ面をほころばせていた。
「あ、いや、その」
この状況を見られるのは少々恥ずかしい。
「で、面倒な言い回しは苦手なんで結論から言おう。鉱山地帯を通ることは認める、と決議された。目隠しはやはり必要だが」
「ありがとうございます!」
「ただし条件がある。そのデカブツは入れんぞ」
まだ岩陰で震えている鎧武者を示して言った。
「えーっ!」
ブレットが声を上げ、アスセーナも驚いた。
「ど、どうしてですか」
「簡単じゃ。小人族専用の道だからの。デカ過ぎて入れぬ」
「あ、そっかあ」
「もちろん直接鉱物を採掘している坑道ではなく、通行用の道はすれ違える広さもあるし天井も高いからお主ら二人は問題なく通れるがの。そいつは到底無理じゃ」
「それは、そうですよね」
物理的に入れないのでは仕方がない。
「え、えと」
鎧武者の方を見ると。
―問題ない。
岩陰から手だけ出てそう書いた。
―地下は通れなくても、山脈の向こうに私は行くことができる。向こうで合流しよう。
どうやって彼が山脈越えをするのか、アスセーナにはわからなかったが。
「うん、わかった。向こう側で会おうね、鎧武者さん」
―約束だ。
「字面だけ見るとかっこいいんだけどな、兄ちゃん」
ふわもこを怖がって岩陰から出られず、手だけ出しているところは激烈にかっこ悪かった。
第十七章 小人族の、地下世界
「ここじゃ」
ブロックは二人を、尾根道から少し外れた崖下に案内した。ぽっかりと開いた大穴、その奥は文字通りの真の闇だった。エイトリがそこで待っていた。
「儂らは人の言う暗闇でも見通せるからの。基本、人間用の明かりを灯す習慣がない」
他種族を大鉱山地帯に入れることがないのだから必要がなかった。
「なのでお主らには端から見通せないのだが。約束通り目隠しはさせてもらうぞ」
「はい」
「…う」
もちろん真っ暗闇などごく当り前にある時代なのだが。にしてもブレットには、真っ暗でさらに目隠しは怖かった。夜も少しは家々から光が漏れる街の子だったし、基本的に暗くなったら寝る生活だったし(泥棒でもしていたら別だが、彼がやらされていたのはスリの手伝いだけだった)。
「大丈夫よ、ブレット」
一方アスセーナは狩りの途中で野営、月も星もなく火も焚けない状況で眠る経験はあったが。しかし地下に入って上下左右が壁だと言うのは想像するだけで怖かった。
(…でも!)
こちらから頼んだのだから、今更怖いのなんのと泣いても仕方がない。
(ここを通してもらって、ラウエンシュタイン側に抜けて。できるだけ急いで、一刻も早く戻らないと。アレクサンデル殿下を、助けないと!)
その思いを力にして、アスセーナは覚悟を決めた。
「姉ちゃん」
ブレットはブレットで、怖かろうが何だろうがついて行くと決めていた。そんな、かなり悲壮な顔になっている二人を小人は興味深げに見ていた。
「では、いいかの」
黒い布を取り出した。
「あ、あの」
「小人族」について聞いていた話を思い出し、アスセーナはふと不安を感じた。
「何もお礼ができませんが、いいんでしょうか」
小人族が何に対してもきっちり「お返し」を求めるのは有名な話であった(その分自分たちが恩を受けると義理堅くお返しをするのだが)。しかもお金とか、価値ある物品 を請求すると聞いていた。
「うむ、何かすれば代金を求めるのが儂らの流儀ではあるがの。しかしカイネブルクが元に戻らないとこちらも困るのじゃからまあ、これは『後払い』と言うことだな」
冗談めかしているが。これは小人族としては、他種族への破格の待遇だった。
「で、でも一応、かたちとして」
少女は革袋を差し出した。路銀を父が持たせてくれたのだが、結局一泊分の宿代を払ったきり使っていない。
「うむ、まあ、の」
革袋の中を覗きこんだブロックは苦笑した。…現金がないと困るだろうと蓄えを分けてくれたのだが、毛皮や干し肉を売ってこつこつ貯めてもたかが知れている。銀貨が数枚、後は銅貨という寂しい懐具合であった。もちろん虎の子の鉱山を通してもらう代金に足りるはずもない。
「では」
太くて短い指で、ひょいと銀貨を一枚つまみ上げた。
「手付の金としてもらっておくかの」
そう言って不器用に片目をつぶってみせた。
「ありがとう、ございます」
これはもう、純粋な好意だった。お金では返しようがない好意を示されている。感謝するしかなかった。
「では、いいかの」
「はい」
アスセーナは屈んで、目を黒い布で覆ってもらった。ブレットは屈む必要がなくエイトリに目隠しされていた。
「おい、おとなしくしろ。…無理か、こいつは」
マナにも目隠ししようと追い回していたらしいが、さすがにあきらめた声がして。
「入るぞ、二人とも」
ごつい手が、それぞれ二人の手を取った。引かれるままに、前に足を踏み出した。
怖くて仕方なかったが、それでも進んだ。何度も曲がり、下り、上る道もあった。もう、どこにいるのかさっぱりわからない。昨日の霧の中もそうだったが時間の感覚すらあいまいだった。しかも暗闇、光が見えない分今の方が怖い。その中で。
「あれ?」
何か、頬に触れる空気が妙に熱い気がしてブレットは声を上げた。
(それに、さっきから騒がしいって言うか、何か)
それまでは静かで逆に怖かったが、今は周囲に物音が満ちていた。足音も話し声も聞こえるし、他に何やら金属を叩く音、ごうっという深い響きも聞こえていた。
「―もう、良かろう」
ざわめきの中で、ブロックがそう言った。
「「え?」」
何が「良かろう」なのかわからない二人に。
「目隠しを外して良かろうと言うことじゃ」
「えーっ!?」
それが条件、そう聞いてがんばったのに。
「どうしてですか?」
「お主ら、入口から何度も曲がったり上り下りもあって、訳がわからなくなったじゃろ」
「それはもう」
地下迷宮に慣れている者なら頭の中で地図を描いたりできるのかもしれなかったが、二人ともそんな特殊技能はなかった。
「つまり、もしここに忍びこもうと企む不届き者がいたとしても、お主らに案内させることはできなかろう。ならばこの、小人族自慢の地下世界を垣間見させてやっても面白かろうとな」
「たまには他種族に、儂らの技を誇りたいしの」
ブロックとエイトリは軽く言っているものの。…実のところ、こちらの条件を全て吞み、恐怖をこらえて歩みを進める年若い二人に少々ほだされたと言うのが真相らしかった。必死になる理由が物欲ではなく、好きな人を助けたいという損得抜きの願いであることも琴線に触れたと言うか。
「その目で儂ら小人族が成し遂げたこと、成し遂げつつあることを見てくれ。おそらくここに人間族を入れることは、少なくとも向こう数百年はないと思うしの」
「は、はい」
その好意に感謝しつつ、二人は目隠しに手をかけた。結び目がわからずアスセーナがもたもたしていると、「屈め」と言ってほどいてくれた。
―二人が、見たのは。
「「わあ…っ」」
地下に、これほど広い空間があったとは。目の当たりにしても信じられないほどの広がりがあった。巨大な四角い空間が地中に切り開かれ、吹き抜けになっている。二人はその一辺の中ほどからその光景を見ていた。巨大な吹き抜けの壁には廊下と小部屋が切られ、向こう側の小部屋で小人たちが槌を振るって鍛冶仕事をし、あるいは何かを組み立てているのが小さく見える。もちろん二人がいる近くでも皆忙しく作業をしていた。
廊下の脇には溶けた金属が用水路のように流れ、その発する光と鍛冶仕事で使う火の明かりが巨大な空間を照らしているのだ。
「これが儂らの作り上げた、小人族の住まう地下都市じゃ」
ブロックが誇らしげに言った。
「この地下世界をその目で見た小人族以外の者は滅多に居らぬ。これからも、そうそう見せるつもりはないしの」
小人族の秘中の秘を、見せてくれたのだ。
「本当にありがとうございます」
「いやまあ、自慢したかっただけなんじゃがな」
と言いつつにやにやが止まらない小人二人。
「すごいなー、ほんと。どうやって掘ったのさ」
ブレットはもう好奇心いっぱいであたりを見回していた。
「うむ、鉱石や宝石を求めて掘り進んでいくうちに、坑道が入り組んでしまっての。このままでは崩落の危険があり、いっそのことぶち抜いて吹き抜けにした方が換気もできて良かろう、と」
さらに四方八方に行動が広がっていての、と楽しげに語るエイトリだった。
「何せこの辺りは有用な金属、特に良質な銀鉱脈に恵まれていて」
どんどん掘る範囲を広げていった結果、山妖精と揉めてしまい追い出すことになってしまったと語った。
「これほど豊かな銀鉱脈はそうそうなくてのう。うっかり『山妖精の銀』に変えられては困るのじゃよ」
山妖精にとっては大迷惑だった訳だが。
「じゃあ、もっともっと広がってくんだねっ」
もう面白くて仕方ないと言う様子の子どもだった。
「…わたしは、早く地上に戻りたい、かな」
狭い所や暗がりが苦手と言う訳ではないが。元々狩人のアスセーナとしては、お日さまの元緑の木々に囲まれて歩きたかった。
「それは人間族として当然じゃな」
地下を好み、採掘や鍛冶を得意とする者もいれば地上を好む者もいるだけの話であった。
「儂らは地下に、人間族は地上にと棲み分けられればそれでいい」
「だから、カイネブルクの人たちには普通に生活していて欲しいんじゃな。持ちつ持たれつの間柄だし」
だから、二人を手助けしてくれた。
「ここを通すぐらいしかできんがの」
「はい。助かります」
本当に。
「ここが山脈が繋がる中心点に当たる。ここから祭壇山脈の下をくぐり、ラウエンシュタインに抜けることになる」
「わかりました。案内をお願いします」
小人の兄弟に先導され、二人は地下空間を後に歩き出した。
「すごいなあ。ありがとね、見せてくれて」
人間族がそうそう見られない光景を、見せてくれて。
「うむ、心に焼きつけておけ。もう見ることはないだろうからの」
「うん」
振り返りつつ、ブレットはついて行った。
また狭い、人二人がやっと並んで歩けるぐらいの地下道に入ったが目隠しはされなかった。
「ありがとうございます、本当に」
さらに、たいまつまでブロックが持って歩いてくれた。
「今更目隠ししてもなあ」
「手を引いて歩くのも面倒だしの」
おかげで地下道の壁に金属の管が渡され、道に沿ってずっと続いているのもわかった。
「これ何なのさ、おっちゃんたち」
「伝声管と言うてな。これを使えば、かなり離れた場所との会話もできる」
色々面倒もあるがの、とつけ加えた。
「すごいじゃん!」
「儂ら小人族は細工に優れ、こうした便利なものを作り出すのが得意じゃからの」
もう自慢したくてたまらないブロックだった。
「もっと昔には、魔力をこめた道具すら作れたというんじゃがの。今の小人族には無理じゃ。その分精緻な細工で勝負しておる」
話しながら歩いて、一度道の脇の小部屋で食事と睡眠を取った。ずっと地下だが、二日目に入っているらしかった。
「もう少しじゃな。外に出られるぞ、お主ら」
言われて、二人の顔がぱっと輝いた。と、伝声管なる管がぶるっと震え、奇妙な響きを発した。
「何じゃろ」
あわててブロックが管に耳をつけた。
「どうしたんですか?」
「どうやら」
響きに耳を傾けていた小人が振り向いた。
「何者かが、この鉱山地帯に押し入ったらしい」
「えーっ!」
「わたしたちを追って、ですか?」
「いや、賊はまっすぐ精錬した金属や宝石を貯蔵した宝庫に押し入り。―畜生め、一番軽くて持ち運びやすい、しかも高価な宝石をごっそり盗み出したと。儂らの血と汗の結晶を!」
「畜生め」の後に、記載をはばかるような単語があったが省略。
「安心せえ、お主らに関わりはないぞ」
「そう、ですか」
迷惑をかけたとしたら申し訳なかった。
「じゃが、困ったぞ」
今度はエイトリが管に耳をつけて言った。
「賊はよりにもよって、こっちに逃げているようじゃ。しかも何かを『爆発』させて追っ手を寄せつけない、と」
「『爆発』?」
このあたりの人間族には馴染みのない単語であった。しかし。
「な、何かどかん、どかーんって音が」
そういう音が何度も遠くから響いて来て地下道を揺るがした。
「あれが『爆発』の音じゃ。逃げるぞ!『爆発』に巻きこまれたら、身体など粉々に吹っ飛ぶぞ」
「そ、そんな怖いの!?」
あわててみんなで駆け出すが。
「おっちゃんたち遅ーい!」
「無茶を言うな!」
そう、足の短い小人族は走るのがやたらと遅かった。それでも必死に走っていくが、どかん、どかんという音はどんどん大きくなり、近づいている気がすごくする。―ついに、地下道を突風が吹き抜けてアスセーナのポニーテールを揺らした。
「近いぞ!」
響きが来る方の奥で、何かが。
「!?」
かっ、とまばゆい輝きが見えた。
(あれが『爆発』!?)
魔術の一種、特に錬金術などで起こすことがあるらしいが―なんて考える暇もなく「何か」が迫って来た。ブレットたちにはわからなかったが、爆発による衝撃波である。地下道を、爆風が一切減衰することなく吹き抜けて一同に襲い掛かって来る、はずだった。
「「っ!」」
「粉々に吹っ飛ぶ」と聞いていたアスセーナはとっさにブレットを抱えて目をつぶる。
しかし、衝撃は来なかった。
「…え?」
恐る恐る目を開けると。
「鎧武者さん!」
「…っ」
狭い地下道を、巨大な鎧がふさいでいた。と言うか栓でもしたようにぎちぎちにはまりこんでいる。
「一体、どうやってここに!?」
これでは進んで来ることも不可能だろうに。
―いいから逃げろ!
ぎちぎちに詰まった身体から腕だけを伸ばして意思を伝えてきた。
―私なら大丈夫だ。この身体で防いでいるうちに、逃げるんだ!
「わかった!がんばって、元気でまた会おうね!」
アスセーナは決断し、ブレットと小人たちを促して脱出を図った。
「絶対、無事で…合流しようね!」
駆け出すと、その先に陽光らしき光が見えてきた。それ目指して走る。
走って、走って―転げるように日の光の下に飛び出した。
「な、何とか、逃げ延びられ、た?」
久しぶりに見たお日さまのもとで、アスセーナとブレットはへたりこんだ。
「いや、参った」
ブロックとエイトリも腰を抜かしていた。
で、後ろに気配が。
「え!?」
びくっと振り向くと。
―無事、か…良かった。
巨大な全身鎧が、やはりへたりこんでいた。
「ど、どこから、どうして」
さっきまで欠片も気配を感じなかったのに、とアスセーナは驚くがそれよりも。
「!あなたが一番、無事じゃないじゃない!」
鈍色のはずの鎧の背中が、真っ黒に煤けていた。あちこち、べこべこに凹んでいるし。
―大…丈夫、だ。
そう地面に書きつけているのだが。
「どう見ても大丈夫じゃないよ…もう」
涙ぐんで鎧の肩に手をかけると、マナがとてとてとその腕を伝って鎧に。
「~~っ!」
また不意を衝かれ、鎧武者はパニックを起こしてそこらを駆け回った。
「こいつ!いいところだったのに、何だよー」
見かねたブレットが、逃げ回る鎧武者から強引にマナを引きはがした。
「~っ、~っ」
さらにぼろぼろになって崩れ落ちる全身鎧。
「もーマナ、姉ちゃんと兄ちゃんがせっかく『いい感じ』になってるのにー」
首根っこをつかんでしかりつけるが、マナは「チイ」と鳴くばかりで全然こたえてないようだ。
(兄ちゃん…っ)
「好きだ」と伝えることだけはしないと思い定めているようだが、側にいたい、できれば抱っこもしたいと言う気持ちは抑えきれずに何とかアスセーナに近づこうとしている。なのにマナはそれを察して、邪魔したくて仕方ないようだ。
「参ったな、もう」
困り果てるブレットの手の中で、ふわもこがまた「チイ」と鳴いた。
「とにかく、やっと出られた、お日さまのもとに」
ようやく落ち着いたアスセーナは、あたりを見回した。
「ほんとにラウエンシュタイン側に出たんだね、わたしたち」
カイネブルク王国とラウエンシュタイン王国を隔てる祭壇山脈の西斜面に、抜け出したのだった。
「カイネブルクの側は、もっとごつごつしてるよねー」
マナをつかんだままのブレット、へたりこんでいた鎧武者も立ち上がって一緒に見渡した。
そこは、一面緑の草が生い茂るゆるやかな傾斜地だった。ずっと下まで草地が広がり、ゆるやかに裳裾を引いて平野につながっていた。
「ここで、山羊や羊を放牧してるんだって父さんに聞いたわ」
カイネブルクと違い、ラウエンシュタインでは放牧が盛んでチーズなどが名産だと聞いたような。
「どうやら頼みは果たせたようじゃな」
ブロックが改めて息をついた。
「へー何か、こっち側の出入り口ってわかりにくいねえ」
ブレットが振り向き、さっき一同が転がり出て来た口を見て首を傾げた。
そう、小さな洞窟の口が生い茂る藪に隠れるように開いていて、よほど近くまで来ないと穴が開いているとは気づかれないようになっていた。まさか地下深くまで繋がっているとは誰も思わないだろう、そう感じられた。
「儂らは、ラウエンシュタインの民とはあまり親しくしておらんでな」
「そっか、取引はカイネブルクとしてるんだもんね」
「一応行き来はできるようにとここは開けているが、ほとんど使っておらん。こちらの住人は知らんはずだ。儂ら二人が戻ったらすぐ閉ざすことになっておる」
「だから、小人族にここを通してもらったなどと口走らんよう頼みたい。まあ、言っても誰も信じんとは思うが念の為」
「はい。約束します」
「おいらも」
心をこめて約束した。別に使う言葉が違ったりはしないので、「どこから来た」などと怪しまれることはないだろう。
「頼む。―お、一つ記念に貰ってほしい物があっての」
そう続けてブロックは、子どもに何かを放ってよこした。
「え、なに?」
それは、銀造りのブレスレットだった。
「お主だと二の腕にちょうどいいかの」
「え、え、でも」
覗きこんでアスセーナは目を見張った。ただ素材が銀と言うだけではない、人間の手では彫れないと思えるほど精緻な透かし彫り、浮き彫りが施されていた。途方もない逸品だと一目でわかった。
「いただけませんよ、こんな高価なもの!」
「え、すごいの?」
ブレット、最近人間社会から離れすぎて物欲が薄れてきている。
「まあ、いいではないか。儂らの仕事に感心してくれたんで、記念にな」
「ただ、あんまり見せびらかさん方がいいぞ。二の腕にはめて袖で隠せばいい」
忠告してくれる小人の兄弟だった。
「わかった。おっちゃんたちありがとねー」
大喜びでブレットは左腕にはめてみた。女の子ならいざ知らず、「きれいだろー」と見せびらかそうとは思わない。
「ほんとに、何から何までありがとうございます」
何もお返しするものを持っていないアスセーナは、ただ礼を言うしかなかった。
「いや、いいんじゃよ。早く戻って、その『好きな人』を助け出せると良いな」
「さ、そろそろ行ってくれ。儂らの姿を牧童にでも見られたら面倒じゃ」
「は、はい。じゃ、行こうブレット、鎧武者さん」
「うんっ」
「…」
ブレットはまだマナの首根っこをつかんだまま、空いた手で少女の手を取り歩き出した。その少し後ろを鎧武者が見守るように歩いて、三人で去って行った。その様子を、小人たちは微笑ましく見送っていた。
「話を聞くに、旅の中で出会った、つながりも何もなかった三人らしいが」
「家族のようだの、のう兄弟」
「じゃな」
小人の兄弟はひげ面をほころばせ、うなずき合って。痕跡を何も残さず、地下に消えて行った。
第十八章 小さな、女の子
(みんなといると、楽しいな)
「姉ちゃん」と手をつないで、「兄ちゃん」が見守ってくれているのを感じながら歩く中で、ブレットはふとそう思った。
(こんな風に、姉ちゃんと、兄ちゃんと、おいらとで、ずーっと一緒に)
ずっと一緒にいられたら…と、ぼんやり考えていた。
―と、つい手がゆるんだのかマナがもう一方の手からするっと抜け出してそのまま腕を駆け上がり、もじゃもじゃの頭に飛び乗って「チイ」と一声鳴いた。
「―っ!」
やっぱりそれを見て鎧武者は飛び上がり、あたふたと逃げ出す。緑の斜面を壮絶な速度で駆けて行って、あっという間に見えなくなった。
「もーマナぁ!楽しかったのにー」
子どもが文句を言ってもマナはどこ吹く風で「チイ」と鳴いていた。
「またなの?マナちゃん、鎧武者さん驚かせちゃ駄目でしょ」
アスセーナもしかるが、全くこたえていないようだ。
「まあ、マナも兄ちゃんが嫌いでやってるんじゃなくて、いちいちびくぅ!って飛び上がるのが面白いだけみたいだけどー」
しかし、鎧武者に取っては剣で斬られたり爆風を身体で受け止めるよりもダメージが大きいらしくて。
「参ったなあ、もう」
ブレットは残念だったし、アスセーナも多分残念だろうと子どもは思うが仕方がない。二人はまた緑の放牧地を歩き出した。
牧草地なので、山羊や羊が好まない灌木は食われずに藪となってところどころに生えている。その一つに。
「赤い、大きい花が咲いてる?」
遠目ではそう見えたが。近づくと、花ではないことがわかった。
「な、何…女の子?」
赤い花ではなく、女の子が赤紫の服を着て藪にはまりこんでいたのだった。服のひらひらが花のように見えていたのだ。
「ど、どうしたの」
「でられないのー」
大体五歳ぐらいか、女の子は小さく答えた。確かにぎっちりはまりこんでいる。推測するに、うっかり藪に突っこんでしまって抜け出そうともがいた結果、余計にはまりこんでしまったらしかった。
「だしてぇ!わーん、おかあさーん!」
「出してあげるから、ちょっと待っててね」
アスセーナは藪にはまった女の子を何とか引っ張り出そうとした。くるくるの髪に絡んだ枝、布地に引っかかった葉っぱなどを外してやりようやく全身を脱出させることができた。
「ほら、もう大丈夫。可愛くなったね?」
かぎ裂きのできた布地はどうしようもなかったが、あちこちにくっついていた枝葉を全部払い落とした女の子は確かに、見違えるように可愛らしくなった。よく見ると、赤紫の服も子ども用のドレスと言っていい豪華な造りで、生地も上質なものだとすぐわかった。
「どう見てもこの辺の牧童じゃない、よね」
こんな上物のドレスを着た牧童はいなかろうし、そもそもこの辺に慣れた子なら抜けなくなるほど藪にはまることはないだろう。
「ねえ、どこから来たの?えーと…名前は?」
「…ルイーゼ」
栗色の巻き毛をいじりながら女の子は答えた。
「ルイーゼね。わたしはアスセーナよ。ルイーゼちゃん、どこから来たかわかる?」
「…わかんない」
典型的な迷子であった。
「誰か、一緒にいた人は?お母さんとか、お父さんとか」
「おかあさん…っ」
その言葉だけで、緑の瞳にじわっと涙が盛り上がって来た。
「おかあさん、どっかいっちゃった…」
おそらく、「どこかに行った」のはこの子の方なのだろうが。
「わかった」
尋ねてもどうしようもないことはわかった。
「じゃあ、ルイーゼちゃん。これから一緒に、お母さんを探そうね?」
「う、うう…おかあさーん!」
にっこり笑いかけられて、ルイーゼはわんわん泣きながらアスセーナの胸に飛びこんで来た。
「じゃ、一緒に行こう」
ごく自然に手をつないで、歩き出した。
「って姉ちゃん!」
ここまでは脇で見ていたが、つっこまずにはいられないのがブレットだった。
「何で旅してるのか覚えてるよね?急ぐんじゃなかったっけ」
「う、うん」
カイネブルクの街を、アレクサンデル殿下を助けるための旅。できれば急ぎたい。
「でも、でも、こんな小さな子、ほっとけないよ」
「そりゃそうだけどさー」
ブレットも同類な気がするけれど。
「でも、この子のお母さん探ししてる場合なの?姉ちゃん」
別に意地悪をしたい訳ではないが、後で「ああしなければ良かった」とアスセーナが泣いたら、と思うとこう言わずにはいられなかったのだ。
「うーん…でも、でも」
しばらく考えて、アスセーナは決めた。
「誰か、預かってくれそうな人とか、見つかるまでは一緒に探そうよ。とりあえずは一緒に行って。ね?お願い」
真剣に頭を下げて頼んでいた。
「いや、おいらに頭下げられてもー」
筋違いもいいところだが、「姉ちゃん」のこういう優しいところがブレットは大好きなのでそれこそ「ほっとけない」。
「それなら、いいんじゃない?しばらくの間なら、さ」
そう答えることにした。
「じゃ、行こうねルイーゼちゃん」
ちっちゃな手を取って、アスセーナがごく自然に歩き出したのは、北の方角だった。老賢者が地図で示した、再びカイネブルク王国に入るルートだ。もちろんこっちにルイーゼのお母さんがいる保証など何もないが、それならどっちに行っても同じことなのでとりあえず北へ。
(あんな小さな子疑いたくなんてないけどさー)
ついて行きながら、ブレットは一人考えを巡らせていた。
疑いたくはないが、あんな上物の服を着た小さな女の子がこんな山の上で一人、と言うのはどう考えてもおかしいので。何かあると考えずにはいられなかった。―「何」なのかはさっぱりわからなかったが。
一方、アスセーナは。
「どう?どこか、見覚えない?」
少しは移動したし、景色も変わって何か手掛かりは、とと考えていた。
「…わかんない」
答えは同じだった。
「姉ちゃん、どう見てもこの子街中で育ってるよ。野山は馴染みがないって」
「そっか。わたしは山中で方角とか目印とかを覚えるように育って来たから」
「そんなの狩人だけだって」
慣れていない場所だと、細かい違いなど見分けられずどこも似たり寄ったりに見えてしまうものである。
「山を下って、村の人に聞いた方が。で、でも」
「どこから来たか」を自分たちが聞かれると面倒なことになりそうだった。などと思って歩いていると、マナが「チイ」と鋭く鳴いた。で、視線の先に。
「魔法陣!?」
結構久しぶりに、緑の草地に光で描かれた文様が出現した。
「あのぺらぺら野郎のと、模様が違うような」
「一人一人違うってこと?」
ざっと緊張する一同の前に現れたのは。
「あなた…も、魔術師なの?」
「然り」
中肉中背、口ひげを生やした中年男としか表現しようがなかった。正直ローブを脱いだら街中にあっさり紛れてしまうだろうと思えるほどに平凡な容姿だったが。
「札の四弟子の一人、『金貨の』富の神だ」
彼は口ひげをひねりつつそう名乗った。
「『棍棒の』に続き、『杯の』奴まで倒れたと告げられ、私の出番となったのだが。師の奥義を伝承されたいのはやまやまであるから、何の恨みもないがお主らには死んでもらうしかないな」
物騒な台詞を淡々と口にした。
「へっ、そいつらみーんなやっつけちゃったんですけどー」
ブレットはまるで自分が倒したみたいな口をきいているが、しっかりアスセーナの後ろに入っていた。
「姉ちゃんには直接は魔法が効かないしー!」
「そう聞きましたな。―まずは、ご挨拶代わりに」
ローブ姿の中年男はうなずき、指で何かを弾いてよこした。
「銅貨…?」
一番価値の低い硬貨を弾き飛ばした、だけに見えた。
「だ、大道芸のおひねりじゃない…って!?」
飛来する硬貨がいきなり、吹っ飛んだ。粉々に砕け散り、破片と突風が生じた。
「わあっ!?」
「ひゃん!」
風で、ブレットとルイーゼが転がされた。アスセーナも思わずよろめいていた。
「魔術そのものは貴女に効かなくとも。この『爆破』で生じる衝撃や破片は防げないでしょうな」
平凡極まりない容貌に、知性を湛えた双眸が輝いていた。
「それに、連れ歩く子どもは一人と聞いておりましたが、もう一人増えたようですなあ?こちらとしては好都合ですが。その子たちをどこまで守り切れますかなあ」
「ひど…!」
「この『爆破』って、もしかして!」
起き上がりながらブレットが気づいた。
「小人族の地下道でどっかんどっかんやってたの、あんたか!」
「何せ元手がかかりますのでね。補給の必要がありまして」
平然と肯定した。
「元々私は、錬金術を極めたかったのですよ。黄金を錬成し、永生も得たかったのです。それがどういう訳か、こうした魔術を開発してしまった。『富の神』の名を師より賜ったと言うのに元手がなく、ああいうことに」
勝手極まりない理屈を並べ立てて、今度は数枚の銅貨を掴んだ。
「尚更、奥義を伝授されたくなるもので。ご了承を」
何枚かの銅貨を放ってよこした。
「くっ!」
ばらばらと飛んでくる硬貨を前に、アスセーナは唇を嚙むが。
「―っ!」
「鎧武者さん!」
そこに巨大な鎧が、大剣を手に割りこんだ。
「っ!」
大剣が一閃、銅貨を何枚か斬り落とし、残りは剣の平で弾き飛ばした。刀身が触れた途端に爆発が起こるが、巨体は爆風を浴びても小揺るぎもしない。
「―」
効かんぞ?とでも言いたげに剣を構え直した。
「ふ、ご挨拶は済ませましたな。ではまた後日改めて」
倒せないと感じたのか、何か考えがあるのか。とにかくプルートスと名乗った男性は魔法陣を展開し、消えて行った。
「ありがとう。助けに来てくれて」
先程マナに脅かされ、逃げ出したのに。
「…」
鎧武者は真紅のマントを翻し、無事か?と言うように振り向いた。それは、今までならごく当り前の、いつもの行動だったが。
「わぁーん!」
ルイーゼが火のついたように泣き出した。
「こわいー!おっきいのこわいー!」
アスセーナにしがみついて服に顔をうずめ、泣き叫んでいる。
「ルイーゼちゃん!?」
「かばってもらったのに何だよー」
「やだー!こわいー!」
たしなめようとしても、子どもはいやいやをするばかりだった。
―これが、普通の…反応だ。
「鎧武者さん…っ」
がちがちの身体で器用に肩をすくめて両手を開いて見せる姿に、アスセーナの胸は痛んだ。
二人にとってはもういて当り前の存在だし(ブレットは最初怖がったが)、会った人々―ギュンターやハンスとグレーテ夫妻、老賢者などは割と普通に彼のことを受け入れていた覚えがある。腰を抜かしたのはグレゴリウス師だとか、小人のブロックとかか。でも、考えてみればその方が普通の反応なのだった。
(鎧武者さんは、やっぱり…普通の人には、異形なんだ。こんなに優しい、いい人なのに)
彼の心の裡を思いやると、辛かった。
「やだよー!おっきいのあっちいってー!」
「…」
あきらめてはいたが。鎧武者はそれでも、ルイーゼにも受け入れてほしいようだった。おずおずと子どもの方に手甲を伸ばすが、その巻き毛の頭にマナがぴょんと飛び乗った。
「!」
哀れ鎧武者は飛び退き、もう近づけない。
「チイ」
「~!」
ずざざざと後ずさりし、すごすごと去って行った。
それから。
「…兄ちゃん」
「鎧武者さん…」
彼は何度か姿を現し、一行に近づこうとしていたのだ。
しかし、ルイーゼはあっさりと学習した。
「マナちゃんをだっこしていれば、あの『こわいおっきいの』はちかづいてこない」と。
かくして、懲りずに鎧武者が牧草地に姿を見せる度に、小さなふわもこを抱っこした小さな女の子が涙目で睨むので、情けなくも彼は逃げて行く。数度、それが繰り返された。
「ルイーゼちゃん。鎧武者さんは、あなたと仲良しになりたくて、何度も」
見かねたアスセーナが言うが、ルイーゼはぷるぷると首を振るばかりだった。
「やだ。おっきいのやだー」
(姉ちゃん、わかってやれよー)
ブレットの見たところ、「鎧の兄ちゃん」が仲良しでいたいのはルイーゼより「姉ちゃん」の方なのだが、アスセーナにはその辺がよくわかっていなかった。
(ああ、兄ちゃん。可哀想に)
しかしブレットはルイーゼにもマナにも「あっちに行け」とは言えないし。
(何とかしないと)
そう決めて、ルイーゼの足が疲れて一休みとなった折に、自分から彼に近づいて行った。
「兄ちゃん」
―参った。
木陰に座りこんでいた鎧武者は、ブレットの言葉に顔(兜)を上げ、根元の地面にそう書きつけた。ちなみに、さっきまで歩いていた牧草地には岩が突き出したりちょっとした崖になっている場所も多かったが、ここら辺は木立ちが多くなっている。
―参った。何とか仲良くなりたいんだが、ルイーゼは私を怖がるし。…私は。
「マナが怖くて、どっちにしろ姉ちゃんに近づけない、と」
―うん。
大分わたわたしていたが、やっとそう書いて見せた。
「大変だね兄ちゃん」
がっくり落とした肩(甲)に哀愁が漂っていた。
「でも、ルイーゼに兄ちゃんを怖がるなって言ってもどうしようもないと思うよ。だから」
一呼吸おいて、ブレットは言い切った。
「兄ちゃんの方を、何とかしようよ」
―何とか。
「そ。ふわもこを怖がらないように、特訓するんだよ」
「!」
「ふわもこ」の一言でびくうっ!と飛び上がり、あたふたし出す鎧武者に子どもは内心あきれるが。
「ここはがんばらないと。でないと、いつまで経ってもこのまんまだよ?」
ルイーゼはどうなるかわからないが、少なくともマナはカイネブルクまで連れて行くのだから。
―しかし、その。
「あーもう!おいらちょっと行って来るから、待っててね!」
「~!」
止めようとしているらしいが、どうせ聞こえない。子どもは駆け出した。
ものの数分で、ブレットは戻って来た。
「今、パチンコで捕まえたんだよ。気絶してる」
その腕の中には、野兎が。
「~っ!」
「兄ちゃん!これで怖がってどうすんのさ!地面にかかとで溝掘っちゃってるし」
ずざざざざと後ずさりした結果、くっきりと二本の溝が刻まれていた。
「何でそんなにふわもこが怖いのさ。こんなちっこいの、兄ちゃん一太刀でずんばらりんだろうに」
ブレットがいくらそう言っても、鎧武者はぶるぶる震えて縮こまっていた。
「何でそんななんだろ。ちっちゃい頃、ふわもこにいじめられたりしたの?…うぷ」
三頭身ぐらいの小さな「鎧の兄ちゃん」がふわもこの生き物にいじめられてべそをかいている光景を想像し、ブレットは思わず噴き出した。
「戦ってる時はかっこいいのにー」
こうまでびくびくされると。
「大丈夫だから。今はおいらが押さえてるんだし。こんなんじゃ、いつまでも姉ちゃんと離れたまんまだよ。いいの?」
「…っ」
激しく葛藤している。しかし、そろそろと手甲を毛皮に伸ばしはじめた。
「そうそう。もう少しだよ」
「~っ」
ついに、指先がふわふわの毛皮に触れた。
「なでなでして」
「~~」
太い金属の指がふわもこをゆっくり撫でた。ちょっとだけ毛の間に突っこんで感触を確かめる。
「ね、何にも怖くないだろ。大丈夫だろ?」
うんうん。
「じゃ、次は抱っこしてみて」
「…」
ブレットから野兎を恐る恐る受け取り、両の手甲で包みこんだ。
「そうそう、その調子」
励まされて―きゅっと、抱く手に力をこめた。
「!」
そのはずみで野兎は目を覚ましたみたいだった。猛然と手の中で暴れ、抜け出してまっしぐらに駆け去って行った。
「あーあ。でも、抱っこできたじゃん兄ちゃん。すごいよ!」
笑いかける子どもを、
「わあっ!」
いきなり、ごつい手甲が抱え上げた。差し上げてくるくる回り、ぎゅうっと抱きしめる。
「何だよー。赤ん坊じゃないんだから、高い高いなんてするなよー」
口ではそう言っているが、「ありがとう」と言う思いがあまりにまっすぐに伝わって来て、ブレットはついつい顔がにやけてしまっていた。