大天狗様が連れていった
朝日だ。広大な景色に光が満ちあふれる。
そびえ立つ峰は青い天空と白い雲を従え、目を焼くほどあかく輝く。
佐助は峰に向かい、こうべを垂れ合掌している。
呼吸のたび、清浄な大気が肺に満たされ、留まり、細く長く出ていく。
祈りの言葉は峰の頂きまで運ばれていくのだ……。佐助はそう信じながら、夜明け前からここで静かな瞑目を続けている。
麓の集落に住む人びとはこの峰を「お山」と呼ぶ。
お山そのものが神さまであり、そのどこかに眷属の大天狗さまが住まわれている、と信じている。
集落の言伝えでは、太古の昔、初めに神さまが天から降り立ってお山をつくり、この地を鎮めた。
その後で大天狗さまが降りてきて、神さまの眷属となり、低い地の隙間を這う邪悪なものたちを祓った。
ずっと後になって、人の群れが海を越え大地を伝ってやってきた。
豊饒なこの地を見た人びとは歓喜した。彼らはこれほど穏やかで緑の深い土地にたどり着いたことはなかった。
そして、長く続いた移動をやめ、ここに定住することを決めた。
するとそこに大樹のように大きな姿になった大天狗さまがお山から現れた。
これを見上げた人びとは驚き叫び、逃げまどい、皆地面にひれ伏した。
恐れる必要はない
天上から降る声に、人びとは、初めは疑い、ようやく安堵し、そして手を合わせてこの地に住む許しを請うた。
大天狗さまが取り次いだ神さまはこれを許した。
それ以来、お山と大天狗さまは畏れ敬われ、人びとのこころの拠りどころとなっている。
この地域は急な斜面が多く、平らな土地は狭い。だから農作物の収穫は充分ではない。
その代わり、お山は暮らしの糧を充分に与えてくれている。それは木の実、山菜、茸であり、山鳥や獣、川魚だった。
集落はけっして他所より豊かではない。しかし誰も困窮することもない。
なぜなら皆欲をかかず、必要な分をお山から分けていただき、さらにそれを集落で分け合ったからだ。誰もが満足し、お山に感謝した。
この時期、人びとは冬を越すためにお山に入る。
山菜や茸を摘み、木の実を拾う。笠や籠の材料となる蔓を刈る。群生地からすべてを採らず、他の生き物の取り分と翌年の自分たちの分を残してお山を下る。
やがて、豊かな色彩を纏った秋が去りかけ、冬が忍び寄る。それは風のにおいと流れる雲が教えてくれた。
空に雪雲がぽつりぽつりとあらわれ、いっぱいに満ちた時、小雪がちらちらと舞いおりてくる。
そしてすぐにおおきな塊となり、間断なく降りはじめる。風景はみるみる色を失っていく。
来る日も来る日も休むことなく雪は降り続く。集落から下の里へ通じる道は埋もれ、閉ざされてしまう。
お山は集落の人びとに「眠れ」とお命じなされている。
微かに雪の降る音がきこえる夜、炉の小さな火が、二人で暮らす佐助と母の顔をようやく照らしている。
「なあ、母ちゃ。父ちゃがお山に行ったきりになって、何年経ったか? 父ちゃがいないのはオラだけじゃ。いてくれたら、猟の手ほどきを受けられたの」
縄をなう母ちゃに佐助は尋ねる。
何度も同じことを聞くな、と母ちゃはため息をつくとぼそりと呟いた。
「猟のことは男衆が面倒見てくれているじゃないか。今更なにを言っても始まらね」
「たしかに猟の面倒は男衆が見てくれる。だけど、男衆はみんな誰かの父ちゃじゃ。オラの父ちゃはいねえ」
母は縄をなう手を休め、佐助を見る。
「父ちゃがお山に行ったのは、与助が五つで亡くなってすぐじゃ。佐助は三つじゃった。あれから十五年過ぎた。大雪の日にお山に行った。小正月の日に行くな、と言ったのにのぅ……。帰って来なかった。大勢で探しに出た。最後の最後になって諦めた時、大天狗さまに連れていかれた、と皆の衆は言いなさった」
「……父ちゃは大天狗さまを怒らせたのか? だから連れて行かれたのか?」
「そんなことは知らぬわ。お前は同じ事を何度も聞く。いい加減にしてもう寝ろ。明日は猟じゃろう。半人前のお前が男衆に迷惑をかけてはならねえ」
渋々と藁布団に入った佐助だったが、不満と不信は消え去らない。何度聞いても納得できなかった。
大天狗さまに囚われた? では、なぜ……。罰を受ける父ちゃではないはずだ。
雪に呑まれたか?
沢に落ちたか?
山狗に喰われたか?
父ちゃは、一日でお山をひと回りしてきたそうだ。他の誰にも真似はできない。集落一番のマタギがそんな目に会うはずもない。
きっとどこかで生きている。戻れない理由があるのだ。
だから何年も、お山の神さまに祈っている。父ちゃを戻してくだされ、と。
お山の神さまに願いが届けば、父ちゃをさらった眷属の大天狗さまは逆らえないはずだ。
すべての猟場を知り尽くしたマタギとして、若い衆から慕われていたという父ちゃ。
何里駆けても疲れを知らなかったという父ちゃ。
獲物が遠く逃げていく先を的確に見定め、若い衆を先回りさせ、追わせて、必ず仕留めたという父ちゃ。
父ちゃは夭折した兄ちゃとオラを大層可愛がり、この童子等を立派なマタギに育てると周りに言っていたそうだ。その父ちゃに教えを請いたい。父ちゃに会いたい。
父ちゃが出立したのは小正月の朝だったと言う。祝いの日にお山に入ることなどしない。ましてや、 火縄銃を担いで行くなどとんでもないことだ。
それなのに出かけて行った。
小正月に大天狗さまは里に降り、ひとの暮らしを眺め、寿ぎ、翌日戻られると言われている。父ちゃは大天狗さまのもとを目指したのか……。
父ちゃは大天狗さまに囚われた、とかつて皆の衆は言った。小正月と大天狗さまが父ちゃの行方に関わっている。他に手掛かりは何もない。だからこれを信じるしかない。
探しに出かけるのは、小正月の朝じゃ。その日が大天狗さまにつながっている。
これを母ちゃに話せば止められる。だから打ち明けているのは同い歳で幼なじみの竹次のみ。
幼くして兄と父を失った佐助は、竹次やその妹のつねと野山を駆けて育った。竹次の家で飯を食うことも多かった。
この兄妹は、幼馴染を寂しがらせないように、泣かないようにいつも気配りした。彼らのふた親もそのように言い含めていた。
彼らの気配りとは、血を分けた本当の兄弟として佐助を扱うことだった。
分けへだてしない、同じ食べ物を同じ量盛り付ける、喧嘩をしても両成敗。そして、佐助の前では決して手前等の父親に甘えない。
子どもながら、考えに考えて気配りしたつもりだった。それでも、幼い佐助が物陰に隠れて泣いているのを、兄妹の誰かが見かけることがあった。
寂しそうに声を殺して泣いていた。
その時は声もかけられずにそっと案じ、見ている手前さえも涙をながした。
佐助は、竹次等兄妹のやさしい心根を知っていた。ありがたいと思い続けていたが、その分、寂しい気持ちは強くなるばかりだった。
集落の父ちゃがすべていなくなればいいのにの……、そうすればよその子もオラと同じになるのにの……。
こんなひどいことを考えていては、親切にしてくれる竹次等に申しわけないと思った。
それでもこの空想を飽くことなく抱き続けた。
この日、集落の端にある共同の道具小屋に佐助と竹次は忍び込んでいる。戸に錠などは付いていない。重い引き戸を開ければ容易に入り込める。
小屋に窓はなく、戸の隙間から細い光が射し込むだけだ。
小屋の内壁三方には厚い棚があり、狩った獣を運ぶための細丸太、綱、網や獣の皮を身から剥がす刃物類、革をなめすときに使う桶などが格納されている。
獣と革なめしに使う渋の臭いが籠もり、胡坐をかいて向かい合っている二人の鼻を刺している。
「佐助、やはり小正月に行くか?」
「行く」
「このことはオラしか知らぬな?」
「お前しか知らぬ」
「お前が父ちゃの二の舞になったらどうする? 冬のお山は怖い。吹雪いてしまえば雪に埋もれる。帰ってこないとき、オラはどうする? 探しに出るにも、皆の衆に何と言えばいいのじゃ?」
「心配無用じゃ。オラは戻ってくる」
「何故、そう言う?」
「オラが戻らなくては、今度こそ母ちゃは泣き死んでしまう。兄ちゃが死んで、父ちゃがお山から戻ってこなかったとき、母ちゃがどれほど泣いていたか……。オラはものごころついたばかりだったが、その姿を覚えておる。ひとは泣き続けると死ぬかもしれぬ、とその時思った。そんな親不孝はできん」
竹次は返す言葉に詰まり腕を組んだ。
父ちゃを連れ去ったのは大天狗さまじゃ、とずっと以前から竹次に言い張った。確かに集落ではそう言われていた。だが竹次は半信半疑だった。信じられなかった。
そもそも大天狗さまは本当におるのか。
大天狗さまを誰が見た?
見た者はおらんじゃないか。
おらぬ者がひとを連れ去るものか。そんなはずはない。
だが、大天狗さまはいない、とも言い切れない。言い切ってしまうのは怖い。
大天狗さまのバチに当たれば、命を失いそうだ。
存在を疑うこと自体、バチが当たるかもしれぬ。
竹次はじっと思案する。
佐助が言う。
大天狗さまは小正月の日に父ちゃをおびき出し連れ去ったのじゃ。今もお山のどこかに父ちゃは囚われているのじゃ、と。
「大天狗め!」低く吠え、天上の暗闇を睨みつける。
竹次は組んでいた腕をほどき、ひと膝詰め寄る。
「お前が帰ってこねば、つねはどうする? オラの大事な妹だ。お前と一緒に育ち、今ではお前の嫁になることを願っているんだ。奴の気持ちを知らぬはずはなかろう?」
佐助は顔をそむけて低い声で言う。
「オラだってつねが……。でもこれとは別の話だ。父ちゃを取り戻すのが先だ」
「オラはお前の友としてつねの兄ちゃとして、小正月に出ることを止めたい。この時期のお山の天気はすぐに変わる。なにかあったら、お前の母ちゃも、オラのふた親もつねも、みなが泣く。考え直してくれぬか?」
薄暗がりのなかで、佐助は首をかしげた。
「お山の天気だけが心配なのではなかろう? 竹次は大天狗さまなどおるものか、と言っている。それなのにオラがお山で大天狗さまに囚われるのでは、と一抹心配もしておる。やっぱり大天狗さまはおる、と思っているのか。どっちだ? オラもマタギの端くれだ。集落一番のマタギだった父ちゃの倅だ。大天狗さまに囚われるまねはしない。雪に巻かれることもない。心配するな。必ず帰ってくる」
心配するな、ともう一度言い、佐助は竹次に微笑む。だが、その白い歯が、竹次に不吉な予感を覚えさせた。
小屋を出て二人は別れた。
雪野原を少し歩く、と佐助は竹次に断った。竹次は黙ってうなづき家に帰った。
集落を出た佐助は小川に沿った道を歩きながらつねのことを考えた。
二歳下のつねを意識するようになったのはいつ頃からだったろうか。それほど時間は経っていないはずだ。
自分を見つめる彼女の瞳の輝きや、自分の言葉に染まるつねの頬に気づいた時、なにが起こったのか最初はわからなかった。
それから佐助の全身が熱く火照った。戸惑いのなかで佐助の意識も急激に変化していった。
ちいさな頃から子犬のようにじゃれ合って育った。竹次と三人で駆けずり回って遊んだ。この小川で小魚を網ですくったし、罠を仕掛けて鰻を捕まえた。
互いの気持ちに互いが気づき、ふたりの口数は減った。つねは少女から娘になっていった。
それでも竹次が仲立ちとなり、三人が一緒にいることはそれほど減らなかった。ぎこちない互いの素振りが、互いの想いを一層高揚させた。
双方の親もこのことを知っている。知っていて、知らぬふりをしている。時期がくるまでは騒ぎ立てないほうが良い。だれもがそう考えていた。
十八のオラと十六のつねが所帯を持つなど、まだずっと先の話だ。一人前のマタギになるのが先決だ。なによりも、はっきりと相手の気持ちを確かめたわけでもない。
それよりも、帰って来ない父ちゃを探しに行かなくてはならない。すべてはその後だ。佐助はそう考え続けている。
しかし、父ちゃを取り戻せる保証もない。だが、取り戻せないとは考えたくない。倅であるオラが取り戻しに出かけることが一番大切じゃ。
童子の頃から、父ちゃを探しに出ることを目標にしてきた。それを拠りどころにしてきた。
大天狗さまに出会えるのだろうか……。
見つけなければなにも起こらない。なにも解決しない。今まで長い間持ち続けた決意はどうなってしまうのじゃ。
無意味になってしまう……。
失敗したオラは黙って家に帰り、何ごともなかったように、猟に出たり、母ちゃと畑仕事したり、縄を編む生活を続けるのだろうか……。
「佐助さん」
背後から呼ぶ声に立ち止まる。誰が呼んだのかもうわかっている。
振り返るとつねが走り寄ってきた。息を切らせている。
「どうした、オラに用か?」
素っ気なく尋ねるが、佐助の言葉はやわらかい。
聞けば竹次に言われたそうだ。佐助と話をしてこい、まだ遠くには行っていない、と。
理由を訊いても応えず、ただ行ってこい、としか言われなかったという。
「でも、佐助さんが悩んでいることを知っているよ。いつか、ちゃんと話を聞こうと思っていた」
正面から見上げるようにして佐助の目をじっと見る。
核心を突かれた気がして佐助はうろたえた。
「驚くことはないわ。ちっちゃな頃から一緒にいるんじゃもの。知らぬはずもない。いつか探しに行くんじゃ、って言ってたじゃない。今、そのことを考えていたんでしょ?」
「わかっていたか……。その通りだよ。つねに隠し立てはしない。小正月の日に、父ちゃを探しに出かける」
「母ちゃに話してあるの?」
「いや、話せば止められる。出してもらえなくなる」
「冬の山が怖いのは、マタギは皆知っている。男衆に話せば皆反対する。それでも?」
「行く」
「なぜ?」
「はっきりさせたいんじゃ。父ちゃは、なぜ小正月の日に出かけて行ったのか。なぜ皆は、父ちゃは大天狗さまに連れて行かれた、と言ったのか。行かなければなにもわからない。行ってもわからないかも知れぬが。行けば、気が済むかもしれない。だから行く」
「帰って来れないかもしれない……」
「帰ってくる。母ちゃを泣かせるわけにはいかない」
「泣くのは佐助さんの母ちゃだけじゃない」
真剣なまなざしに佐助は驚く。
「お前のためにも帰ってくる」
この言葉と同時につねが胸に飛び込んできた。佐助もつねを強く抱く。ふたりは長い間、そうして抱き合っていた。
小正月まで三日となった晩、佐助は炉端で母ちゃと縄を編んでいた。炉の鉄釜には湯がたぎっている。二人は、時おり手を休めては柄杓で汲んだ湯を飲んだ。
佐助がぽつりとつぶやく。
「オラ、父ちゃの夢を見た。五つか六つの頃だった。吹雪の中を行く後姿を見た。どこに行くのじゃ、なぜ行くのじゃ。聞いたが、振り向いてくれなかった。父ちゃの行くずっと先には御堂のようなものがおぼろに小さく見えた。薄い灯かりが小さくともっていた」
「童子のころから何度も同じ事を言っている。もう聞き飽きた。帰って来ないのだから仕方ないじゃろ……」
母はため息をつく。
たしかに何度も何度も夢の話を母にした。
初めは目を輝かせて倅の話を聞いていたが、今では返事さえしないことのほうが多かった。
それでも佐助はめげることなく夢の話を母ちゃに繰り返した。
仕方もなく母ちゃは応える。
「その頃はまだ、爺ちゃも婆ちゃも達者じゃった。帰って来ぬ倅を年寄りは泣いた。孫を亡くしたばかりで涙も乾かないうちじゃった。たいそう気の毒なことじゃった」
「父ちゃが帰ってきたら嬉しいか?」
「当たり前じゃ。総領を亡くして、亭主まで帰って来ねえからそれは辛かった。佐助がいたから生きてこられた」
ちいさくなった母を見つめる。
他所の集落から嫁に来て、六年で総領息子を亡くし、すぐに後家になった。それから十五年。懸命に働いて残された次男を育てた。
父ちゃのいない佐助に寂しい思いをさせまい、と優しく育てた。そして、父ちゃがいない佐助が甘えた男にならぬように、と厳しく育てた。
働きづめの生活は、その指を男のように太くし、爪を厚くし、肩に肉をつけ、腰を曲げさせ真っすぐに伸ばせなくした。亭主のいない心細さを隠そうとする心は、涙を止めてしまった。
その母ちゃに育てられた佐助は男衆の一員として、狩りに出られる年齢に達した。
これから先は少しでも楽をさせてやりたい。そして、母ちゃとオラから奪われたものは取り返したい、と佐助は思う。
父ちゃが帰ってこなければ、母ちゃの人生は悲しいままだ。倅には言わない恨みをはらんだまま、残りの人生を送らなければならない。
母ちゃを見る 。
もうすっかり諦めているようだ。
誰に不平を言うのでもなく、誰に泣くわけでもない。可哀そうなこの母ちゃを喜ばせたいと思う。
「なあ、母ちゃ。随分苦労したな。辛かったかい?」
やさしい口調で問いかける。
母ちゃは両手を膝に置き、「ふっ」と微笑んだ。
「なにをまた突然に……。家族を送るのは辛いものじゃ。なによりも、親より早く死んでいく子は一番の親不孝じゃ。泣いて悲しんだ後、腹が立った。でも仕方あるまい。あの子のせいではないしのぅ」
「兄ちゃはどんな子だった。オラは兄ちゃのことをほとんど覚えておらん」
母ちゃはちいさく息をはき、目じりを下げた。
「それはそれはかわいい子じゃった。聞き分けのよい子での。素直で物静かな子じゃった。弟おもいの子で、佐助の面倒をよくみていてくれた。小さな兄ちゃがもっと小さな弟をあやしていたよ。それが……、年の暮れになって、風邪をこじらせたと思ったらすぐに死んでしまいおった。寝ているのかと思ったよ。抱き上げようとしたらもう、こと切れていた。眠っているようなかわいい顔だった。そんなに悪いとは気が付かなくての。気の毒なことをした。かわいそうなことをした……」
十五年も経つのに、母ちゃは大粒の涙を流した。そして手ぬぐいで顔を押さえ童女のように嗚咽した。
佐助は、兄ちゃの与助の話を聞いた覚えがなかった。尋ねても今まで一切、母ちゃは兄ちゃのことを話すことはなかった。
だから、佐助は兄ちゃの記憶がなかった。
そうだったか、オラをかわいがってくれていたのか。忘れてしまっていて、悪かったのぅ、堪忍しておくれ、兄ちゃ。
母ちゃは与助の思い出語りを今になって少しだけしてくれた。話せない程辛かったのだろう。
歳月は母ちゃの心の緊張と痛みをほぐしてくれたのだろうか。
「そうだったか……。兄ちゃが生きていれば、二十一か。いっぱしのマタギになっていたのだろうな。頼りになったろうな。オラにも母ちゃにも」
「ちいさな与助を葬った後で、父ちゃの様子がおかしくなってな。一日中、数珠を手に経文を唱えておったよ。爺ちゃや婆ちゃがいさめてもやめなかった」
これも初めて聞く話だった。父ちゃの様子がおかしくなった、とはどういうことだろう。
「小正月に出て行ったことと関係があるのか?」
「知らん……。なにやら随分思いつめた表情をしていた。 与助を取り戻してくる 、そんなことを言うから、馬鹿を言うなと思わず叱ったよ。返事もせずにそれっきりだったよ。その後で雪野原に出て行ってしまった。それが小正月の朝だ」
死んだ兄ちゃを取り戻しに行く? 父ちゃは狂ってしまったのだろうか……。
狂うはずはない。一番のマタギが狂うはずはない。きっとなにかを知ったんだ。
そうだ、オラが幼い時に見た夢は、きっと意味がある。
夢に見たあの御堂はどこかにきっとある。
父ちゃはなにかを知り、それ故、そこを目指して雪の中を歩いたんじゃ。御堂にはなにがある?……。父ちゃが求めたものがそこにあるはずじゃ。
オラの夢は正夢じゃ。オラの魂が時間をさかのぼって飛んで、父ちゃの行く姿を見せてくれたんじゃ。
それが証拠に、見た夢の内容など普通はすぐに忘れてしまうものを、十年以上も一部始終を克明に覚えている 。
佐助は父が狂ったとは疑いたくもなかった。父ちゃの言動にはきっと確証があるはずだ、と躍起になって考え続けた。
かつて、夢の話を聞いた男衆は何日もかけ、何度も父を探してくれた。
手ぶらで帰ってくるたびに、男衆は母子に頭を下げ詫びた。
「すまないの。御堂は探しきれなかった。次こそ、探し出して見せるから許しておくれ」
ありがたいことだった。
童子の見た夢を信じてくれたのだから。そして幼い佐助にさえ頭をさげて詫びてくれたのだから。
父ちゃを探してくれた男衆のうち、幾人かは年寄りになり狩りをやめた。
しかし、まだ幾人かは男衆として、佐助に狩りを教えてくれている。この恩義を返すためにも父ちゃを探しに行く、と改めて誓った。
小正月の出立が、大天狗さまと御堂への道に通じている。そして、その道を見つけられるのは倅であるオラだけだ、と強く確信した。
その朝は風もなく青みを帯びた一面の雪景色を、深く蒼い空が覆っていた。お山に続く雪野原は眩しく光を反射させている。
集落は小正月の日をささやかに祝っている。
かんじきを履いた佐助は、干した猪肉、味噌の包みを入れた編み籠を背負い、笠と蓑を纏う。そして火縄銃を肩にかけた。
「山鳥撃ちに何日かお山に入る。途中、狩り小屋にいくつか泊まるつもりだ」
母ちゃの足元を見ながらぼそりと言う。
「小正月に猟をして殺生するのか……。やめたほうがいいのに。だけど行くのなら気をつけてな」
竹次とつねの兄妹が佐助に声をかける。
「山鳥が見当たらなかったらすぐに戻ってくるんじゃ。山鳥くらいいつでも撃てる」
「佐助さん、空模様が変わったら無理しないで、お願い」
佐助はこの二人の言葉に軽くうなずくだけだった。
母ちゃはこの出立の目的を、倅が言うままに信じている。
鹿や猪の猟ならば、集団で獲物を追うため、男衆で出かける。しかし、山鳥撃ちならばひとりでも行える。
佐助は若輩ゆえ、猟に出てもまだ火縄銃を撃たせてもらえない。大声を出して獲物を追い立てる勢子の役目だ。「撃ちたいのじゃ」と母ちゃは不憫に思ったようだ。
与えられている火縄銃も口径が小さく威力の弱いものだ。逃げて行く兎に玉は届かず、鹿に当てても倒れはしない。山鳥くらいしか撃てない。それならば、手ごろな猟の稽古になる。
男衆が猟に出れば、十日から二十日は山の中に幾つか建ててある狩り小屋に寝泊まりする。
狩り小屋には、鍋や椀、薪が備えてあり、食糧となる干し肉も油紙に包んで天井からぶら下げてある。水は鍋で雪を解かせばよく、数日の滞在には不足ない。
天候が変わっても小屋に入っていれば危ないことはない。心配することもあるまい。
言い出したらひとの意見を聞かない頑固な倅であるし、マタギの端くれじゃから……。母ちゃはそう考えた。だから佐助の出立を許した。
「なるべく早く戻るのじゃ」と母ちゃは言ってから、それでも少し渋い表情を見せた。
この家にとって、小正月は祝いの日ではない。主を失った忌の日である。しかし、それにこだわりたくはない。それを理由に佐助を留めたくはなかった。
余計なことは言うまい。母ちゃは口を閉じた。
三人に見送られ、佐助はお山に向かって歩き出した。しばらく歩いてから振り返ると、並んだ三人が大きく手を振った。またしばらく歩いてから振り返ると、少しも動かずに同じように遠くから手を振る。
心配しているのがよくわかった。「もう戻れ」と手で合図するとようやく三人はこちらに背を向けた。
佐助は安心して手を大きく振って歩き出す。大振りで爪先が反ったかんじきは蓑の上に背負っている。これがあればどんな深雪にも斜面にも入っていける。山に住む者にとっては魔法の足だった。
今日は日が陰るまで歩き、集落から最も遠い狩り小屋に泊まる目論見だ。狩りの男衆に連れられて泊まったことがある。
その時、狩り小屋の場所を覚えるのは大事なことだと教えられた。しっかりと頭に入れている。
そして翌日には国境を越えるつもりだ。そこは今まで誰も探していない。なぜならば国境越えの猟はマタギの掟破りだからだ。
火縄銃を持つ者は、決してこの掟を破らない。父ちゃもそうしただろう、と推測され、当時男衆は捜索しなかった。
だが、国境の向こう側に手掛かりはある。そう佐助は考えていた。大天狗さまに国境など無意味だからだ。
国境を越えた佐助が他国のマタギに見つかれば、火縄銃を持っている以上咎められるだろう。若輩者ゆえ道に迷った、と詫びて白を切るしかあるまい。この行程で山鳥を撃つつもりはない。獲物を下げていないから大ごとにはならないはずだ。
佐助は歩きに歩く。お山を目指して休むこともなく歩き続ける。不思議と疲れは覚えない。やはり、気が高ぶっているせいだろう、と考える。
昼過ぎから天候が急変し空が暗くなった。間もなく細かな雪が舞い始めた。
細かな雪は大振りの雪よりも怖い。上空の風が強い証拠だ。いずれ風は下に降りてくる。
そして吹雪となるだろう 。
そのように教えられてきた。だから急いだ。
目的の狩り小屋には目論見より少し早く着いた。覚えていた場所に小屋はあり、ほっとした。そこは木立の一群に守られ、雪が横殴りに吹雪こうとも影響を受けない立地だ。狩り小屋はそうした場所に建てられる。
小屋に入り、すぐに天井にぶら下がる干し肉を見上げる。
よかった、狐にも熊にも荒らされてはいない。これは男衆の命に係わる大切な食糧だ。今晩、自分がこれに手を付けることはしない。持ってきたものを食べる。
雪を払い、背の荷物を下ろす。備えてある薪を炉にくべ、藁束に火をつける。炎が上がったところで藁靴を脱ぐ。やっとひと息つく。
薪に火が移ったので雪を掴んで鍋に入れ、湯を沸かす。
しばらくすると薄い湯気が上がってきて、佐助のこころをほどいてゆく。
味噌と干した猪肉を籠から取り出す。包みを開き、味噌を鍋に入れ、竹べらでゆっくり溶かす。椀に汲み、そっと飲んだ。ああっ、旨い……。
猪肉を火で炙り、少し毟っては口に入れ咀嚼する。なんてありがたい肉だろう……。
味噌の塩気と肉が身体に滋養を与えてくれる。今日一日の疲れと不安を撫でさするように消していってくれる。
暖気と疲労が眠気を誘ってきている。
父ちゃに会いたい 。
瞼がゆるりと閉じた。静かな寝息が聞こえてきた。
佐助はいつの間にか幼くなって、父ちゃに抱かれ、大きな手で頭を撫でまわされていた。
佐助が眠る小屋の外は、真っ暗闇で、吹雪が音をたてている。
まだ暗いうちに目を覚ました。寝床の中で、首、腕、太もも、すねを順にさする。疲れはまったくない、大丈夫だ、と感じる。
起き上がり、戸を開き、外を覗く。
雪は続いているが、幸いに風は少し収まっている。用心すれば小屋に籠るべきだろう。狩りに出た男衆ならば決して無理はしない。若輩の身なら尚更無理をしてはいけないはずだ。
しかし、佐助は躊躇できなかった。小正月の出立を叶えた今、ここに留まることは計画を台無しにすることにつながるからだ。今日、国境を目指さなければならない、と決意し拳を固く握った。
明るくなったら用意の大振りのかんじきを履こう。これがあればどんな深雪にも入っていける。怖がるな、安心しろ。佐助は自らに何度も声を掛けながら、火をおこし、外の雪をすくって鍋に入れた。
吹雪の中で、雪を口に含むことは余程のことがない限り厳禁だ、と教えられている。身体を冷やし、体力を奪ってしまう。雪の中を歩く前に充分に湯を飲んでおく。
そして、休憩する時に味噌を舐めて体力の消耗を防ぐ。マタギの教えを忠実に守ることがこの計画の成功につながるのだ。
昨日よりも今日は怖い。しかし恐れるな。佐助は自らを奮い立たせる。
日は上った。
薄明るい中、狩り小屋を後にした佐助は、それでも用心して少し歩きを遅くする。真正面を見据え、行ったことのない国境を目指して歩く。
お山に入り、雪を掻き分け登っていく。息が切れ、汗が湧くがすぐに外気に冷やされ消えてしまう。
ここはすでに神様の領域だ。
どこからか、神様が見ている。どこからか、大天狗様が見ている。オラを拒むか……、オラを追い返すか……。
オラは父ちゃを取り戻すまで戻らね。オラを許してくれろ。オラを追い払わないでいてくれろ。
数時間登った時、やがて風は強まる気配をひしひしと感じた。必ず風はやって来る。そして、雪は止むまい。怖い……。
恐怖心よ、オラのこころに湧いてくるな、湧いてくるな。念じるように唱える。口がカラカラに乾いて咄嗟に雪を掬って頬張った。冷たく溶けた水が胃に落ちた時、しまった、と思ったが遅かった。身体がぐんぐんと冷えてゆく。それでも焦る気持ちをようやく抑え一定の幅を意識しながら雪の中を進む。
目指す方向の先に馬ノ背と呼ばれる尾根があるように見えた。確かではないがその可能性はある。細心の注意を払いながら歩いてきたおかげで見落さなかった。
ここには、雪庇が有り得る。雪庇の下には地面がない。ここを踏めばそのまま雪に呑まれてしまう。経験を積んだマタギでも命を落とす危険な存在だ。
佐助は、大きく迂回してこれを避ける。それでも恐怖心が歯をカタカタと鳴らせた。
白い樹海をなおも歩き続ける。樹海は延々と続いている。
日が陰り始めた。予想通り、風が強まっている。横殴りの雪が礫のように全身を打ち続けている。
身体を守る場所を見つけなければならない、と焦った。しかしどこにもない。四方八方から襲ってくる風に身を守る術はない。
視界は閉ざされ、すぐ先も見えない。
恐怖が佐助を完全に包み込む。
オラ、マタギのくせにだらしねえ。
雪の中で死んだら父ちゃに会えるのかな。
いや、だめだ。母ちゃが泣く。竹次もつねも泣く。
そんなことを考えながら佐助はやっとのことで歩を進めた。
父ちゃ、父ちゃ。どこに行くのじゃ、なぜ行くのじゃ 。
なかば朦朧となった佐助の背後から幼い声が微かに、微かに聞こえてくる。
振り向くが吹雪で何も見えない。
空耳か……。
間をおいて、微かに、また聞こえた。
これは?……。
思案する。なおも思案すると答えが浮かび上がってきた。
幼い日の夢の中で、父ちゃの背中へ掛けたオラの声でないか。
なぜ、夢の中で父ちゃへかけた言葉を、今ここでオラが聞くのか……。
じっと考えようとする。
しかし、全身は氷のように冷たくなっていて、足の運びも覚束ない。
……もう、考えることが出来ない。
佐助の意識は次第に遠のいていく。恐怖心さえ彼方に消えてゆこうとする。
やがて目の前が真っ暗になった。意識が途切れた。
倒れた佐助の意識に、別の幼い声が響く。
父ちゃ、早く迎えに来てくれろ。お山の御堂におるよ。連れて帰ってくれろ 。
この声は誰だ?……。誰だ?
……ああっ、ああっ、五つで死んだ懐かしい兄ちゃの声だ。オラ、この声を知っている。
兄ちゃが、父ちゃを呼んでいる。
わかっている、与助。病のお前を、助けてやれなかった。悪かったの、すまなかったなの。
あんなに呆気なく死ぬとは、思わなかったんじゃ。悪かったの。お前を連れて帰るから、待っていてくれろ 。
父ちゃの声が響く。兄ちゃに応えている。
佐助は知った。
これは、父ちゃの魂がオラに伝えようとしているのじゃ。
お山に行ったあの日の父ちゃが、何処へ行こうとしたのかを。
死んでしまった兄ちゃの魂の在り処を、父ちゃは知った。どうやって知ったのか、誰が教えたのかはわからない。
父ちゃは、兄ちゃの魂を取り戻しに、あの日ひとりで出かけて行ったに違いない……。
佐助の魂は身体から離れた。
そして、自分の身体を置き去りにして、父ちゃの魂の後について、音のない暗闇の雪の世界を進んで行く。
遠くに灯かりが見えてきた。
与助はあそこじゃ。あそこにいる。連れて帰って、佐助と二人、立派なマタギにするんじゃ 。
父ちゃのつぶやきを佐助の魂が聞く。
小さな御堂の前に、辿り着く。
父ちゃはゆっくりと扉を開く。
父ちゃに続いて佐助も堂内に入り、目を凝らす。
薄い灯かりの先、暗がりを背に、大層大きな男が胡坐をかいている。
男は山伏装束で、白い法衣の下から、太い腕と脛が見えている。
大きな八手の葉のような団扇を持ち、素足に一枚歯の下駄を履いている。
その面相を見て、息を呑む……。
赤い顔の太い鼻は異様に高く伸び、口を真一文字に結んでいる。
……お山の大天狗さまだ。
腕には死んだはずの兄ちゃが小さく抱かれている。
大天狗さまは、濃い眉毛をつり上げ、両眼をカッと剥いてこちらを見据える。
「倅を取り戻しにこんなところまで来たのか。ひとが来るところでない」
響き渡る声で、父を厳しく叱る。
「お前の倅はお山の神さまがお使いになる。だから、お前はすぐに帰るのだ」
その形相と声のもの恐ろしさに、父ちゃはたじろぐ。
しかし、丹力を振り絞るようにして応える。
「……与助を、返してくれろ」
大天狗さまはさらに睨む。
「どうしても、それは出来ぬ。倅はお山の神さまに仕える」
父ちゃは引き下がらない。
「ならば、どうして与助は死にましたか?」
「生れた時の定めだ。五歳で天に還る、と決められて生れてきた」
「それでは酷い……。誰が決めました?」
「ひとの寿命を司る神さまだ。誰もが定められていて、逆らうことはできぬ」
「お山の神さまですか?」
「違う 。天に還ろうとするお前の倅の魂をお山の神さまが見て、不憫ゆえ、この地に留めてやろうとお考えなされた。お前等のすぐそばに置いてやろうとお考えになった。儂は命じられて、天を昇っていく倅の魂を引っ掴んでここに降りてきた」
「……ならば、一緒に連れて行ってくれろ。与助を、ひとりでは行かせません」
大天狗さまが返す。
「お前は、女房と佐助を残して帰らぬと言うのか。お前のふた親の命も残り僅かだがよいのか? 残された者はどうするのだ。身勝手だとは思わぬのか」
「佐助には女房がいます。女房は佐助を立派に育てるでしょう。オラのふた親は寿命です。でも、与助はひとりぼっちです。たった五歳の童子をひとりでやるのは不憫です」
大天狗さまは、抱いている与助の顔を見やり、じっと思案する。
「それならば、お前も連れて行く……。お山の神さまにはお許しを請う。お許しを頂いた時、もう、帰ってくることはできぬ。だが、お前の本来の寿命はまだ先があるのだぞ。佐助が嫁をとり、孫が生まれるまであるのだぞ。それでも後悔せぬか?」
父ちゃは溢れだす涙を腕で拭って答えた。
「……与助と一緒なら、後悔しません」
大天狗さまは頷き、大団扇を扇ぐと突風が舞い起こり、全てのものが掻き消えた。
他国のマタギたちが佐助を救った。
吹雪の中、マタギ等は不思議と或る一点に引き寄せられるようにして、歩いていた筋から外れた。
なにかが導くその場所にたどり着き、雪に埋もれ半ば死んでいた佐助を手で掘った。
佐助は彼らの集落に担がれて行き、そこでしばらくの間養生した。
その後、自分の集落に送り届けてもらった。
迎えた母ちゃはなにも尋ねはせず、「もうどこにも行かないでくれろ」とだけ言い、佐助に床をとった。
雪解けの頃まで養生し、佐助はやっと回復した。そして静かに泣いた。
その後一切、あの日のことも、父ちゃのことも口にすることはなかった。ただ、朝夕に山に向かって手を合わせていた。
了