りっちゃん
彼らは、生まれる前から一緒にいた。
ずっと同じものを食べて、色違いの洋服を着ていて、同じ時間を共にしていた。
何もするにも一緒で、それはいつまでも続くと、少なくともりっちゃんは思っていた。
いつだっただろう、りっちゃんが彼に圧倒的な劣等感を感じるようになったのは。
いつだっただろう、双子という奇跡の信頼が壊れたのは。
いつだっただろう、彼らが心の底でお互いを蔑むようになったのは。
「あなたを児童相談所で一時保護します。」
その女の人の一声で、自分の人生が大きく変わるなんて当時13歳の彼女にわかるはずがなかった。僕にだって、もちろんわからなかった。
授業中に職員室に呼ばれ、不思議そうにこちらをちらちらと見る先生方一人一人に お仕事中ごめんなさい。お邪魔します、と丁寧に頭を下げる彼女に、僕も当時の担任の井上先生も顔を曇らせるしかなかった。呼ばれて先生についてきて、職員室の奥の応接間に行くだけでなぜそこまでするのか。まるで自分がここにいることが罪だとでも思っているのか。りっちゃんに 大丈夫だからおいで、と声をかけたが、この声は彼女は届かない。
応接間には女の人がふたり、座っていた。ふたりは彼女に気づくと立ち上がり、微笑んだ。りっちゃんの身体が少しこわばるのがわかった。
「凛月さんですね。どうぞ、おかけになってください。」
りっちゃんはかすかに頷くと、ふたりの目の前のソファの端っこに座った。別に他には誰も座らないから真ん中に座ればいいのに。女の人たちはその場にいた井上先生や校長先生には見向きもせずりっちゃんを30秒ほど見つめた。僕はなんだか嫌な感じがしたが、りっちゃんは黙ってふたりを見つめ返していた。校長先生が沈黙を気まずく思ったのか、小さく咳払いする。
「凛月さん、今の一番の悩みを教えてくれる?」
ふたりのうち、右側に座っていた少しふくよかな女性が彼女に笑いかけた。
「ありません。」
りっちゃんは表情を一切変えずに返事をする。この異様ともいえる環境で、りっちゃんの心が普段よりも自分たちを必死で守ろうとしているのが伝わってくる。僕はなにもできない。
女の人たちはどうにかしてりっちゃんから『アノ事』を聞き出したいのだろうな、と感じる。何を言っても口を開かないにりっちゃんに対し、少し苛立ちが見える。感情のない笑顔にりっちゃんも僕も恐怖を覚えた。見かねた井上先生がりっちゃんを廊下へ連れ出した。
「なんで、俺に話してくれたことを言わないの?」
井上先生はりっちゃんに優しく聞いた。
「あの人たちは、誰ですか。知らない人に簡単に話せない。」
りっちゃんは拳を握りしめ床をにらんでいる。先生はりっちゃんの肩に手を置いた。
「あの人たちは心理士さんっていう人だよ。凛月の今困ってることを解決しにきてくれたんだ。ママもあの人たちに相談したいと話していて、まずは凛月から話聞こうねってことになったんだよ。」
『ママ』という言葉が先生から出たとたん、りっちゃんは笑顔になった。
「わかった。行ってくるね。」
りっちゃんはさっきとは別人のように元気に応接間に戻っていった。僕は…怖いと思った。
「心理士さん、全部話しますからママが泣かないようにしてくれますか。」
りっちゃんは先ほどとは打って変わって笑顔で、はっきりとした口調で心理士の二人の目を見つめた。心理士さんは一瞬目を見開いたがすぐに笑顔になった。僕はその顔が無理やり作った笑顔に見えた。
「今、お兄ちゃんにちょっと変なことされちゃってるんだっけ?具体的にどういうことか言える?」
りっちゃんは一瞬顔をしかめたが、ぽつりぽつりと話し始めた。
「小学6年生の夏から、夜 羅威が私のベッドに入ってくるようになりました。小さいころは一緒に寝ていたし、羅威が極度のさみしがりやだと知っていたので特になんとも思いませんでした。3日くらいは特に何もされなくて、でもそれからはだんだん頭をなでられたり胸とか…触られるようになりました。私はなにをされているかわからなかったけど…」
このあたりからは、僕でも聞いていたくないようなおぞましい話が、りっちゃんの口から生まれていた。先生たちの顔はどんどん曇り、最後は悲痛にゆがんだ。心理士の人たちは全く表情を変えず、最後までりっちゃんの話に口をはさむことはなかった。
りっちゃんが話し終えると、心理士の二人はお互い顔を合わせ、うなずいた。
そして、ふくよかな方の心理士が口を開いた。
「あなたを児童相談所で一時保護します。」
りっちゃんはきょとんと首を傾げた。
「児童相談所?どこでしょう。一時保護とはいつまでですか?明日、漢字検定を控えているのですが。」
心理士は少し目を見開いた。りっちゃんは気づかなかったらしい。
「児童相談所は、安全なところだよ。明日には、帰れると思うから。」
ふんわりと笑う心理士の言葉を、りっちゃんはいとも簡単に信じた。僕も、だまされていた。
心理士の二人はりっちゃんの左右を歩いている。学校は授業中で、人の気配はするものの静まり返っていて少し不気味だ。静かな雨の音だけが廊下に響く。
教室に戻ることも荷物を持つことも許されずに、僕たちは車に乗せられた。
2月の寒い雨が、静かに世界を濡らしている。
『ねぇ、凪ちゃん。もしかしたらこの景色、二度と見れないかもしれないね。』
僕は突然、本当に久しぶりに聞いた僕に向けたりっちゃんの声に押し黙ってしまった。ふと外を見ると、小さいころからりっちゃんと見てきた慣れた景色が見える。大丈夫、僕はずっとりっちゃんのそばにいるよ。そうりっちゃんに話しかけたが、もうりっちゃんは僕に答えてくれなかった。
車は、僕たちにだんだん見慣れぬ景色を見せ始め、最後には全く知らない場所に到着した。
気づけば僕たちは、鳥かごのなかにいた。
勝手に外に出ることはもちろん、自分の服さえ、所持できないような状態だ。もちろん、漢字検定までに外に出れることはなく、家族に会えることもなかった。
僕たちと同じような子たちと共同生活を送る。その子たちの事情は何も知らないし、僕たちの事情をその子たちは知らない。13歳の僕たちは鳥かごの中で一番年が上で、僕たちを監視する大人たちに混ざって乳飲み子や小学生たちのお世話をする。外の世界に出れるのは週に3回、いつも決まった道を歩く運動の時間。常に監視されているし、空や町は見てはいけないもののように感じた。りっちゃんが話しかけてくれることはなかったが、同じようなことを思っていたはずだ。
毎晩、りっちゃんは泣いている。声を 嗚咽を押し殺して。
僕はりっちゃんの隣にいるよ。ずっと一緒だよ。何でもお話し聞くよ。 毎晩何度も何度も、りっちゃんに話しかけても届かない。助けになってあげられない自分が悔しくて、悲しくて虚しい。両隣に眠る乳飲み子が夜泣きを始める。りっちゃんはもはや慣れた手つきで二人を両手で抱くと、涙をふいてミルクのある職員室へ向かう。苦しさと子守で眠れない夜が、永遠に続く。
こんな鳥かごの中で唯一人間だと感じさせられる場があるとすれば、週に3,4回ほどある心理士との面談だ。ここでは、りっちゃんは自分の心の内を話すことができ、『将来』という至極当然なはずなことを考える。現状は羅威にされていたことがどんなことであったかを知っていっているところだ。りっちゃんは羅威がいるあの家に帰ることはできない、自分は異常なことをされていたのだと気づいた。長くはこの鳥かごにいることもできず、新しい居場所も探さなければならないということも知った。心理士から提示された選択肢は三つ。里親に出されるか、施設で暮らすか、母方の祖父母のもとで暮らすか。
りっちゃんは里親に出されるか施設で暮らすか、このどちらかが良いと言った。この結論を出すまで1か月。心理士は満足げにうなずいた。
次に面談に呼ばれるとき、父と母が来るらしい。1か月振りの再開になる。このことを知った時、りっちゃんは鳥かごに来て初めて笑顔を見せた。初めて、うれしくて泣いた。
僕は、りっちゃんが笑顔になったうれしさと同時に、
とてつもない胸騒ぎを今、感じている…。