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凛月  作者: Nemuri
1/4

陽くん

今日も私は彼が迎えに来てくれるのを待っている。

いつの間にか梅雨が終わり、外にある少し色あせてきた紫陽花に強い日差しが当たっている。彼と出会って、仲良くなってからまだ、そんなに時間は経っていない。それにもかかわらず季節が変わってきていることに若干の焦りと苛立ちを覚える。


ぴこん と小さな通知音がスマホから鳴る。その瞬間私は何もかも忘れて胸が高鳴るのを感じた。

「彼からでありますように。」

心の声が漏れているのに気づかないまま、私はスマホの通知をタップした。

『今日も学校に行っていないのでしょうか?行っていないのなら洗濯物を取り込んで畳み、夜はハンバーグにするので仕込みをしておきなさい。それくらいできるでしょう。』

心の高鳴りは跡形もなく消え、心臓がどくどくと嫌な音を立てている。

連絡は母のふみからだった。相変わらず、人を精一杯見下しているような文章を送ってくる。

スマホを軽く投げて床に寝っ転がった。ドバっと黒い思考が頭や胸らへんから流れ出し、身体中に広がっていく。

私はこんな平日の昼間に家にいて、特に何もせず彼をただ待っている。いつの間にか私は大学2年生になっていて、本来であれば輝かしい将来に向けて日々精進するべきなのだろう。

大学2年生に上がったころからだろうか、あまり学校に行けなくなった。胸が痛くなり、息苦しくなるのだ。精神科から診断書が出ていて、休学も検討するべきだといわれている。どちらにしても前期はもう休学できないのではっきりとどうするべきか決めきれずにだらだらと大学に行ったりいかなかったりの生活をしている。

私は心も身体も、あまり強くないのだと思う。思い返せば、中学生のころからしっかりと、真面目に、学校に行って授業を受けるという至極当たり前の生活をできていない。母から見下されるのも当然なのだ。

「あーもう、考えても意味ないよ私。」

自分に言い聞かせてみても、ネガティブでなんの生産性もない考えがぐるぐると回る。心臓と頭が共鳴してどくどくと痛む。

ぴこん とまた小さな通知音が鳴った。どうせまた母だろう。スマホを遠くに投げたことを少し後悔しながら取りに行き、しぶしぶ見た私は飛び起きて家を出た。






外に出て、少し歩く。スマホもバックも持たずにいつもの待ち合わせ場所へ向かう。

強い日差しに少し眩暈を感じながら、久しぶりの外の空気を肺に入れた。

もう見慣れてしまった車が止まっているのが遠くに見える。車好きの彼は少し車をいじっているから、間違えようがない。自分の口角が上がってしまっているのを自覚しながらまた私は歩を進める。

目が悪いので車まで数メートルの場所まで来て初めて彼が車横で立って待っているのに気づいた。

彼はこちらにしっかり気づいていて、私が歩いてくる様子を見ていたようだ。恥ずかしい。かわいくない歩き方をしてなかっただろうか。鼻が悪く、いつも口呼吸をしてしまうのでぽかーんと口を開けて歩いていなかっただろうか。

「おまたせ、猫ちゃん。ふふ、顔真っ赤。」

彼…。はるくんは太陽よりもまぶしいのではないか、と思ってしまうくらい明るい笑顔で私を出迎えてくれた。

陽くんは慣れた様子で助手席のドアを開けてくれた。私はまだそれに慣れることができずに自分でもわかるぎこちない動きで助手席に座る。陽くんは助手席に私が座ったのを確認すると、ゆっくりドアを閉め、運転席に移動した。

「さて、出すよ。」

車が動き始めると、私はぎゅっと目をつぶって一度ネガティブな感情を消し去ろうとした。少しでもこの時間を楽しむために、無駄なことは考えたくない。それでも漠然と胸の奥に押し込まれたもやもやは痛みとなって私を邪魔してくる。

車は私の知っている道から知らない道へ走っていく。どこに向かっているのかわからない。それでもそれに対して不安になることはない。私は陽くんを信じている。






「今日は、どれくらい時間とれる?」

20分くらい経った頃だろうか。陽くんが初めて口を開いた。

「えっと…。」

スマホを取り出そうとポケットに手を入れるが、家に置いてきたことに気づく。恥ずかしくなりながら急いでカーナビの時計を見て、時間を確認した。

さくが帰ってくるのが15時半、ママが帰ってくるのが18時くらいだと思う。だから遅くても17時半にはうちについていたい。」

弟の咲夜さくやはまた気まぐれに散歩に出かけた、くらいに思ってくれるだろう。しかし母は無理だ。位置情報アプリの入ったスマホを置いて出かけたと知ればカンカンに怒って帰った後に責められるだろう。母の怒鳴り声を思い出すとそれだけで胸が痛くなる。

「了解。ふみさんが帰ってくる前に帰れれば大丈夫そうだね。」

陽くんは胸を押さえた私を優しくなでると、少しだけアクセルを強く踏んだ。陽くんは私のバイト先の先輩だ。更に母も同じ場所で働いているため、陽くんと母は顔見知りである。陽くんと私が特別な関係であることを母は知る由もないが。

陽くんと私は、恋人同士ではない。陽くんはこんな私を好きだと言ってくれて、私が彼女にしてほしいといえばすぐに恋人にしてくれるのかもしれない。しかし私は、陽くんのやさしさを利用しているのに過ぎないのだと感じている。

「まーた、難しいこと考えてるんでしょ。」

顔を上げると陽くんがこちらを向いていた。信号は赤だ。

「あ…ごめん。せっかく連れ出してくれてるのに。」

慌てて謝ると、陽くんはきゅっと顔をしかめた。

「謝ってほしいわけじゃない。俺は、せめて俺といるときは凛月りつがストレスためなきゃいいなって。癒しになれたらいいなって思ってるだけだよ。」

陽くんに名前を呼ばれた瞬間とくんと心臓がなった。陽くんは普段私を『猫ちゃん』と呼ぶ。そして陽くんを私は『ご主人様』とも呼ぶ。私たちは夜、そういった主従関係にあるのだ。

名前を呼ばれるときはなんとなく、身体関係なく私を認めてくれるようで言葉にできない幸福感が私を襲う。わかってはいる。身体など関係なく、陽くんは私を思っていてくれていると。わかってはいても名前で呼ばれるときは私が一番人間らしく、自分を大切にできる。


随分、外の様子が変わってきたことに気づく。思わず腰を浮かせてきょろきょろと辺りを見回してしまう。周りには田圃が広がっていて、遠くには森が見えた。高い建物が周りにないので田圃が地平線の彼方までひろがっているのではないかと思うほど続いていて空が青く広い。

広大な土地にちっぽけな私。遠くをずっと見ているととても安心する。私は世界にとって取るに足らない存在で、私がどうなろうとこの景色が失われることはない。そう思うといつも考えていることがひどくちっぽけに見えるのだ。

陽くんが連れ出してくれるこの時間は、特別だ。私の心が晴れる場所に連れて行ってくれる。知らない世界を見せてくれる。この時間だけは一瞬、煩わしい日常を忘れさせてくれる。

またしばらく走ると湖が見えてきた。陽くんは湖のほとりの小さな駐車場に車を停めると、大きく伸びをした。

「さて、ここで少し休憩して折り返しかな。」

気づけば1時間と少し、時間が経っていた。私も陽くんと同じように伸びをしてみる。

「ふふ、俺のかわいい猫ちゃん。おいで?」

陽くんの方を向くと手を広げて意地悪な笑みを浮かべていた。私が自分から甘えるの苦手だと知っているのだ。恥ずかしいと思いながらも陽くんが車を走らせている間触れてはいけないとこらえていたので自分から抱きつきに行ってしまった。

「あったかいね。うれしいね。」

陽くんは私の頭をゆっくりなでながら耳元でささやいた。思わず身体がはねてしまい、恥ずかしさで顔を陽くんに強くうずめてしまう。

「可愛いね。」

また陽くんにささやかれると、私は強い強い罪悪感を感じながらもうれしくなってしまう。


『駄目だよ、りっちゃん。』


頭の中にキーンと衝撃が走り、私は気づけば陽くんを突き放していた。

「どうしたの?凛月!大丈夫?」

陽くんが手を握ってくれる。ごめんなさい、ごめんなさい…と口が勝手に動いてしまう自分に動揺が隠せない。

「大丈夫だよ、俺がいる。大丈夫だよ…。」

陽くんは私が落ち着くまで私の手を握っていてくれた。

「びっくりしたね。」

私はうなずくことしかできなかった。何が起こったのかわからなかった。陽くんはもう一度、恐る恐る抱きしめてくれた。

「ごめんなさい、もう突き飛ばさないから…。」

腕を陽くんの背中にまわすと、陽くんはほっとした様子で私をなでてくれた。


口にやわらないものが当たった気がする。そう思って目を開けると、すぐ目の前に陽くんの顔があった。寝てしまっていたらしい。

「そろそろいこっか。」

陽くんはにこりと微笑むと、シートベルトをつけてくれた。

「キスした?」

私は平静を装って聞いたが、陽くんはさぁ?といたずらっぽく笑って車を発進させた。なぜかわからないが、息が一瞬苦しくなった。






車は残酷な速さで来た道を戻っていく。流れるボカロの曲を陽くんが口ずさみながら運転を続ける。私は黙って外を見ながら、陽くんとつなぐ手に力を込めた。

帰るのが嫌だ。どこかにこのまま連れ去ってほしい。そんな実現しない願いを胸の奥に押し込んで、陽くんの鼻歌に耳を傾け続けた。

愛しい時間はあっという間に終わってしまう。


「それじゃあまたね。大好きだよ、凛月。」

家から少しだけ離れた、いつもの待ち合わせ場所。

名残惜しそうに私の手を握ったあと、彼は私の頬にキスをして去ってしまった。

自分から香る彼の甘い香水の残り香が消えてしまわないように、私は自分の身体を強く抱きしめた。


日常に、帰らなければ。

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