祈りは無意味か
早朝の澄んだ空気の中、あいつを見かけた。
まだ街が静かな時間に外に出てどこかに向かう人影。
ふと目についてからずっと気になってしまった。
あいつの行き先は知っている。恐らく俺以外にもわかる人は大勢いるだろう。
そしてそれを気にかけるような人はいない。特に咎められることでも、後ろ指指されることでもない。
むしろ褒められるようなことである。街で聞いてみたところ、素晴らしくて、良い心がけで、気持ちの良い行いだそうだ。
これはつまり安全で信頼のあることの証明になる。あいつと、あいつの行き先に。
だからこんなに気にしなくても良いことで、いつもならそのうちに頭から離れることなのに。
どうしてか今日は気になって仕方ない。
あいつは普通に過ごしている。
何も疑問に思わずに。
疑うようなことも無いのだから当たり前だ。
あいつにとって、それはおかしくないこと。
みんなにとってもそこまでおかしくないこと。
別に自分はしないけれど、する人を否定するようなことでもない。
たとえ理解できなくても尊重できること。
けど、俺にとっては。
おかしいこと。
理解できなくて、尊重しきれない。
別に駄目なことではないとわかっているのに、変に引っかかってしまう。
俺はあいつにそんな風に過ごしてほしくない。
ただ、あいつに、
「ああ、そうか」
とうとう来たのだとわかった。
きっといつかあいつに我慢できなくなるだろうと、前から思っていた。
それが特に何でもない日の今日だったようだ。
深呼吸をして息を整えると俺は心を決めた。
あいつに会いに行こう。
朝の教会はいつも通りだった。
高い窓からは光が差し込み、綺麗に保たれた祭壇は変わらずそこにある。
靴音が響かないようにそっと中を進む。
嫌になるほどいつも通りの静かな空間は、自分の動作や呼吸音がうるさく感じるほどだった。
この空間にはいつになっても慣れることが無い。ここに来ると自分の存在のちっぽけさや惨めさを思い知る。
世界の異物だということを嫌ほど実感させられ、けどそんな自分を受け入れてくれる救いは確かにそこにあって、より嫌な気分になる。
昔は宗教なんて意識したこともなかったのに、今では意識せざるを得ない。
今でも神や超常的な力は信じていない。けれど、どうしても考えてしまう。
俺がここにいる意味やあいつが教会に通う意味を探しているからだろうか。
明確な理由なんて存在しないとわかっているのに。
あの頃のように曖昧に考えていたいが、もうそれはできなくなってしまった。
どの宗教も受け入れながら決して信じていなかったあの頃が懐かしい。良いところだけを取り入れて、他は学術的に知るだけ。騒ぐ名目にちょうどいいと笑っていた。
でも今はもうそんな風に言ってられない。
自分は神がいてほしいと思っている。
この世界には間違いなくいるのだと思いたい。
なのに、この世界でも神は想像上にしかいない。
信者に加護も救いも与えない。人々に試練も罰も与えない。相変わらず信じられない存在のまま。
いてほしいとどんなに考えても、あの頃のように神はいないとしか思えない。
人は自分の力で生きていくしかなくて、神に縋ったところで何もない。
この世界にはいてほしかった。声をかけて微笑んでくれるような神が。
呼ばれれば現れて、話をしてくれるような神が。
そうでないと苦しい。
やっぱり教会は嫌な気分になる。
前から三列目の長椅子にあいつは座っていた。教会で見かけるときは必ずこの位置にいる。
目を閉じて手を組み、少し頭を下げた姿勢で静かに祈っていた。
いつも通りの敬虔な信者を見て、さらに気分が悪くなった。
「祈って何になる? どうして祈るんだ。叶う訳もないのに」
祈りの邪魔するように声をかけた。この行いがかなり不躾で、あまり褒められたことではないことは知っている。
けどそんなことはどうでもよかった。
あいつは徐に目を開けた。祈りの体勢のまま、ぼんやりとした表情で瞬きを繰り返している。
早く現実に戻ってこればいいのに。
祈りを聞いてくれる神なんて存在しない現実に、俺たちは生きているのだから。
「……祈りは無意味だと?」
そっと立ち上がり、こちらを向く目は思ったより力があった。そのことに少し安堵する。
さっきまでのぼんやりとした目で見られたら、正直心が折れていただろう。
この辺りでよく見かける薄い茶髪に濃い緑の目。
慣れるまではこの目が少し怖かった。こんなにも濃くて真緑の目は見たことがなく、恐らく前の世界では稀なものだった。
自分は異なるところに来たと、真っ先に教えてくれたのはこの目だった。
会ったばかりの頃は目を合わせられず、それで困らせたのを覚えている。
今となっては見慣れた、ありふれた色合いを持つこいつは、俺がこの世界で最初に出会った人だ。
「そうだろ? 明確な効果はない。それは皆知ってる」
黙ったままこちらを見る目は、俺の発言を特に気にしていないようだった。
前もそうだったと思い出す。
『神なんて信じない』
一度こいつの前で口にしたときも、特に否定されなかった。
神はいるのだと教えを押し付けることも、信じない俺を憐れむこともなかった。
こいつはとても熱心な教徒だが、教えを否定されることを拒まない。教えを馬鹿にするような行いには怒りを見せるが、信じないという否定には寛容だ。
自分の信じている教えを信じられない人がいるということを、とても深く理解している。
自分には信じられないものがあるとわかっているからだと、ここに来て暫く経ってからわかった。
信じるものがあるのなら、信じられないものも存在する。
信じられない気持ちがわかるから、寛容になれる。
その姿勢は素直に尊敬する。
俺はそうはなれない。
信じられないから、信じる人に対して苛ついてしまう。
「では、祈りは悪ですか?」
「悪とまで言わないが、得では無いな。損だ」
否定を止められない。
そのことを多分こいつもわかっていて止めない。
二人とも突っ立ったまま、教会で祈りを否定する話を続けていた。
幸か不幸か、今ここにいるのはこいつと俺だけ。
話を遮るものは何も無かった。
「損、ですか」
「祈っている時間、姿勢、思考、全て無駄だ。別のことに使えばいいのに」
「別のこと。どのようなことでしょう」
話の続きを促すように相槌を入れて、否定する言葉を聞き出していく。
表情は変わらず、何を考えているかわからない。
俺の話を内心では怒っているのか。それとも感心しているのか。
そんなことを考えながらまた口は否定を吐き出す。
「自分で叶えられるように、時間を使えばいいんだ。祈りの、手を組んで俯くあの姿勢を取る前に動け。祈るより前に何かできることがないか、どうすればいいのか考えろ。神に祈って何になる? 状況は良くならない。何も起こらない。無意味なことをするよりも意味のある行動をすべきだ」
一通り言い切ったところでこいつの表情がちょっとだけ変わった。
不快になったとか怒ったとかではなく、ただこれからは自分が話す番だという顔。
聞き手の無表情から、語り手のちょっと緊張した表情になった。
こいつは相変わらず律儀だと思う。
ちゃんと話を聞いてから、自分も話す。
話を聞いたなら、何か自分も話す。
本来はあまり会話が得意なわけではないのに、こういう風に俺が何か話題を振ると付き合ってくれる。
こいつは良いやつだ。
だからこそ、祈りなんてやめてほしい。
ちゃんと話を理解してくれる。言いたいことをわかってくれる。
良いやつだが、それでもやっぱり自分とは異なる人だ。
どうしたってその思想は変わらない。
こいつは教えを信じている。
俺が信じようと信じまいと変わらない事実だ。
どんな言葉を投げかけようと意味はないのだろう。
真っ直ぐ俺を見る緑の目は、見慣れたとはいえやっぱり恐ろしい。
目も。その思想も。生まれた世界も。
こいつはどこまでも自分とは異なるものだ。
「祈りは無意味で損で、無駄だとして、それがあなたに何の関係があるのでしょうか」
これといった表情を出さないまま、こいつは反論を始めた。
「私が祈ってあなたに迷惑をかけたのでしょうか。これまで祈ったことにより私が損を受けて、不合理を味わったとして、それは私の話です」
「……そうだな」
「ですが、あなたが損を受けたのなら別です」
こいつは何を言うのだろうか。
現実逃避のように少し考える。
答えは割とわかりやすくて、だからこそわかりたくなかった。
祈りで俺が受けた損は無い。
気分が悪くなりはしたが、それは損害にはならない。なっていない。
そもそも俺は自分が損をしたとは思っていない。
損をしているのは間違いなく、目の前のこいつだ。
「私は祈らずにあなたを助けるべきでしたか」
真っ直ぐ俺を見つめる瞳が、ほんの少し揺れた。
やっぱり損している。
こいつは無力な存在だ。本当に何の助けにもならないくらいに弱い。
特別な力も、特異な権力も、豊富な資金も無い。
ごく普通の一般市民だ。信仰心に厚く、心優しい、無害な一般人。
それをこいつは知っている。
俺も元の世界では同じだった。信仰には厚くはなく心優しくもなかったが、無力で無害な点は同じだった。
特別強くも無く、だからといってその日暮らしの生活でもない。
声を上げれば何か起こるような、そういう立場にもいなかった。
数集まらないと力のない奴ら。誰かの声に集まるだけの奴ら。
それが俺だった。
でも、この世界では違った。
世界が変わったと思ったら俺も変わっていた。
同じなのは神がいないことだけ。
「行かなくていいと、あなたに言うべきでしたか。それともついて行けばよかったですか。あなたと同じ苦しみを味合えばよかったですか」
こいつはあの時も苦しんでいた。戦力外の通告を受けた横で俺だけが引っ立てられて行く時も、全て終わって俺がぼろぼろになって帰ってきた時も。
感情を表に出すのが下手だから、目に感情を込めて。
今のように。
真っ直ぐ俺を見て。
「私は祈らずに、どうすればよかったのですか」
緑の目から視線を逸らした。
もう無理だった。
こいつは俺より圧倒的に弱いはずなのに、なんでこんなにも負けを感じるのだろうか。
斜め下を見下ろす姿は恐らく不貞腐れたように見えているだろう。
それでももうあの目を見れなかった。
「 」
だからその後の言葉はうまく聞き取れなかった。
正確には聞こえていたが、頭で何を言ったか理解するのをやめた。
水を浴びせられた気分だった。
「……悪い。おかしいことを言った。俺が間違ってた」
「いえ、わかっています。私も失礼なことを言いました。申し訳ありません」
「じゃあ、もう行く」
「はい、お気をつけて」
「……またな」
「……ええ、また」
最後まで視線を合わせずに教会から立ち去った。
来た時は勇んでいたのに、帰りはこんな惨めな気分になると思っていなかった。
心がぽっきりと折れているのがわかる。
何がしたかったのだろう。
俺はただ、あいつに自分のために生きてほしかった。
自分のことを考えてほしかった。あいつ自身を優先してほしかった。
救いを与えてくれる神はいない。
過去を変えられるような力はどこにもない。
この先を保証するものは何もない。
そんな世界だから、祈りよりも確かなものをしてほしかった。
けど、それで何が変わるのか。
何も無い中で、祈りがあいつにできることで唯一の救いだったのなら。
全てわかった上で祈っていたのなら。
俺の言葉はただ身勝手なものだった。
あいつが俺にできることが無いように、俺があいつにできることも無い。
「本当に、これこそ無意味だな」
言葉にしてみると駄目だった。
胸の中でぐるぐると行き場のない思いが溢れかえる。
全部もう投げ出したい。
どうしてこんなにも苦しいのだろう。
どうしてこんな目に遭わないといけない。
俺が一体何をしたというのだろう。
俺はただ逃げたかっただけなのに。
何もかも嫌だった。気に食わなかった。
あいつの祈りも俺の存在も、前の世界もこの世界も何もかも。
一体何故俺がこんな思いをしないといけないのか。
もう終わりにしたかったのにできなかった。
本当に何もかもどうしようもない。無意味だった。
教会を離れて暫くするとすれ違う人が増えてきた。
俺が俯いているうちに街の一日が始まっていたらしい。
騒がしくなり出した街をぼんやりと眺める。
あいつと同じ色がどこを見ても目に入る。
薄い茶色と濃い緑。俺とは異なる色で溢れた街。
いつも通りの街に漸く力が抜けた。
固く握った拳をほどき、丸まった背中を伸ばして息を吐き出した。
無意識に食いしばっていたのか、顎が痛い。
鈍く頭も痛い。どこもかしこも痛かった。
「ああ、本当に……」
本当に、この世界には神がいてほしかった。
もう一度息を全て吐き出して、どうしようもない思いを無理矢理押し込んだ。
読んでいただきありがとうございます。
この話について少し。
異世界転移ものでは何かしら世界の意思のようなものが登場することが多いです。
もし転移した先の世界にそういうものが存在せず、神の存在を感じられなかったら、とぼんやり妄想したことからこの話はできました。
あまり上手くまとめられませんでしたが、書きたいことは書けたので満足しています。
主人公はもやもやしながらこれからも生きていきます。『あいつ』も色々思いながらこれからも毎日祈ります。
そういうことはどこでも同じだろうなと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。