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ゼリービーンズをつむぐ  作者: Bunjin
第一章 武鎧 摩唯伽
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 何をするのも億劫になって無為に時間を過ごした。気が付けばいつの間にか日が暮れている。窓の外を見上げると、星々が瞬く夜空が広がっていました。もう従業員たちは退社していて、時折聞こえていた機械の騒音や振動はなくなっている。静まり返った建物の中で、ここに残っているのは私一人だけのように感じた。


 一階の製品製造室に行ってみた。出来上がったばかりのシリコーンオイルがタンクに充填されている。私の頭の中では、珪素が鉱物の珪石から還元されて、メタノールなどと化学反応を起こす工程が思い浮かぶ。シリコーンオイルやシリコーンゴムを大学の研究室で作った経験がありました。珪素と酸素の分子が結合したシリコーンは、炭素結合の工業油よりも化学的に安定している。耐熱耐寒性や絶縁性・撥水性などの優れた特徴を持っているのです。


 武鎧化学工業の製品は、高橋化学工業で製造していたものだけではなくなっている。すべて同じでないのは、倒産した会社を復活させる為なのだから仕方がありません。シリコンウェハの需要拡大も見込まれて、今はその生産を増大させようとしていました。


「あら?」


 ガラス張りの壁越しに、外を歩く人の影が見えた。


「おじさん!」


 急いで玄関を出て声を掛けました。影が立ち止まって、こちらの様子を窺っている。


「よう、久し振りだな。帰って来てたのかい?」

「はい、お墓参りに」

「その為にわざわざ帰って来るなんて感心だね。亡き社長夫婦もきっと安心されたに違いない」


 おじさんはうんうんと言って、何度も頷いて白髪交じりの頭を掻いている。いつも優しく声を掛けてくれるおじさんは、高橋化学工業の頃からのここの従業員でした。


「何処かに行くの?」

「いいや、晩御飯の買い物をして来た」

「ふーん、何を作るの?」


 このおじさんは私のお兄さん的な存在なのです。年の差を考えると、お父さんみたいなんだけれど、私はお兄さんみたいな気がしていたの。だから何でも相談できたし、就職先を選べたのもおじさんのアドバイスのお陰でした。


「うーん、お恥ずかしい。酒のつまみを買っただけ」

「駄目でしょう、おじさん。ちゃんと栄養を考えて食事しなきゃ」

「申し訳ない、きららちゃん」


 このおじさんだけが私を『きららちゃん』と呼んでくれている。『お嬢様』では感じられない親しみが籠められていました。


「晩御飯、久し振りに作ってあげようか」


 おじさんは口を丸くした。高校生の時に何度か部屋にお邪魔して料理を作ってあげたことがある。社宅の小さな台所は、いつも使われた形跡がない。彼女さえいない独身者の寂しい暮らしをしていました。


 大学の四年間は、東京に行っていた。だから私はこの部屋に上がるのに懐かしさを感じました。何も変わらない。家具が少なくて、部屋の隅にテレビが置いてあるだけ。私も真似をして、東京の下宿先も質素に暮らそうとしてけれど、どうしても物欲が出てしまいました。


「何を作ろうかな?」


 おじさんが注文することはないって分かっている。何を作っても嬉しそうに食べてくれたから。


「おー、パスタがあるわねぇ」


 冷蔵庫を見たら食材はベーコンとほうれん草しかない。私は苦笑しながらも、バターと一緒に取り出して流し台の上に並べた。これでは栄養を考えた食事とはいかないけれど、ほうれん草をたっぷりにすれば、お酒のつまみよりはましかもしれないよね。


 ほうれん草を軽く茹でてから、水気を切って食べ易い大きさに切る。鍋にお湯を沸騰させて、塩とパスタを入れれば、時間を計りながら火を止めて、お湯をしっかり切る。フライパンに油とチューブのニンニクを入れて熱してから、切ったベーコンを炒める。次に茹でたほうれん草を入れて炒めたら、お湯を切ったパスタも入れて、手早く炒めながら胡椒を振り、フライパンの周囲から醤油を回し入れた。


 少し味見をしてみます。


「ちょっと薄いかな」


 首を傾げてみせて、私はこっそりと味の保証はしませんと主張しているのです。塩加減を調整して、もう一度味見をしてからバターを加えてよく和えて火を止めた。


 上出来だと、私は胸中で拳を握り締めている。誰かの為に料理をするのは楽しい。そして、喜んでもらえたなら尚更だと思います。


「おぉ、美味そうだ」


 盛り付けた皿を食卓に運ぶと、おじさんが言ってくれる。


「ほうれん草を多めにしてみましたからね」


 さぁ、早く召し上がれと私は目で訴えます。見ただけで美味しそうだではなくて、実際に食べてみて美味しいと褒めて欲しい。私は無性にそうして欲しくて堪らなくなっていました。一人でいるのが寂しかったからなのかな。


 心臓がドキドキする。こんなに緊張するのは初めて。おじさんには何度も私の料理を食べてもらっていたのに、どうしてなのでしょうか。


 じっと見詰める私に、おじさんは食べ難そうにしている。でも、ゆっくりとフォークを回してパスタを巻き取っていった。


 鼻先に持っていって香りを確かめるおじさんは良い表情をしました。いつも私に優しい笑顔を向けてくれる。幼い頃からこれに救われてきたのだと感謝しています。


「美味しいよ。きららちゃんは料理が上手だね」

「ありがとう、おじさん」

「もう、彼氏には作ってあげたのかな?」

「えーっ。まだそんな人いませんよぉ」

「それじゃあ、ゼリービーンズをあげる人もいないわけだ」

「たまに作って食べるけど、その人の為にって思って作ったことなんてありませんよぉ」

「でも、もうすぐだよ」

「えぇ、私の未来が分るんですか? それとも今作って欲しいとか」

「違うよ。僕にではない。そんな出会いがやってくる気がするんだよ」

「私は社内恋愛とかって、したくないなぁ。だって、基本的に同じ価値観しか持ってないじゃないですかぁ。おじさんはそういうのって、どう思うの?」

「それは僕よりも、きららちゃんがどう思ってしまうかだよ」

「その時になったらってことですよねぇ」


 ついつい甘えた声を出してしまう。私はおじさんの前でだけは素直な気持ちでいられるのです。あの時に捨て去った自分自身を蘇らせることが出来ました。大好きな人のことを思いながらゼリービーンズを作って、バレンタインデーにプレゼントをする。それはおじさんが小学生の私に教えてくれたことでした。


 でも、―――


 私は、武鎧の名になって弱さは捨てた。中学生で両親を喪って養女になった私には、それが生きる為の術でした。実家も工場も盗られて、武鎧家で一人生き抜くしかなかった。それは亡くなった武鎧麗香の身代わり。私は、高橋摩唯伽ではなくなっていたのです。


 菩提重工の研修の話をしながら食事をしました。久し振りののんびりした会話は、大学仲間たちとも出来なかったことでした。仲間と言うよりは、私は競争相手と考えていました。武鎧のお父様が私を進学させたのは世間体でしかない。だから一流大学を目指し主席卒業、上場企業への就職。それが私の大学いる理由でした。


「へぇ。誕生会をするなんて、まるで小学生みたいじゃないか」

「でも、会社が場所と費用を負担してくれるんで、新入社員同士の結束とモチベーションが高まるの」

「人事部の狙い通りの成果だ。マンネリ化すると逆にやる気を下げるから、きららちゃんが盛り上げてやれよ」

「私が?」

「そうさ。きららちゃんが笑顔でいれば、皆が楽しくなるよ」

「そうかしら?」

「そういうものさ」


 おじさんは間違ったことを言わない。私はそう信じています。


「私だけが製造部への女性の配属を、どう思いますか?」

「確かに不安になるよね。女性がいない部署だからね。しかし、だからこそ活躍のチャンスだと思わないかい。きららちゃんは期待されているんだよ」


 思いも掛けない言葉に、私は髪を触って誤魔化した。くるくると人差し指に絡めて、意識をそちらに向けた。そうでもしていないと、恥ずかしくて居た堪れない。顔が赤くなっているのが、自分でも分かるから仕方がない。


 期待に応えるには?


「きららちゃんの仕事で、誰かが喜んでくれれば、それは成功したというものなんだよ」

「うん」


 やっぱりおじさんは凄いと思う。私が何を感じているのか分かっているんだ。


「まずは、そうだなぁ。きららちゃんは新入社員だから、一緒に仕事をしてくれる先輩に喜んでもらえるように頑張れば良い」


 私はにっこりと笑った。そして、その笑みのままで言いました。


「了解しました!」

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